氏神様は太刀八幡宮

1200年の歴史を紐ときます

太刀八幡宮の社殿は美しい✨

拝殿正面の写真です。

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本殿を左手から撮った写真です。f:id:goodlightsato:20220808122753j:image

神社の建築様式

神社の建築様式には、入り口の位置によって神明式と大社式があります。

太刀八幡宮、神明式の中の流れ造りという様式になります。

神社人さんのホームページに神社の建築様式として、分かりやすく説明しています。

流れ造りの特徴として、流造(ながれづくり)は、京都の上賀茂神社下鴨神社を代表とする建築様式で、入口側の庇(ひさし)が、大きく曲線を描きながら延びた屋根を持つのが特徴となっています。この様式は全国で最も多いとされています。

 

装飾彫刻

拝殿の柱の木鼻(きばな)には、獏鼻が彫刻されています。コトバンクによれば

中国の想像上の動物。鼻は象、目は犀、尾は牛、足は虎で、体形は熊に似るというもの。人の悪夢を食うといい、また、その皮を敷いて寝れば疫病を避け、その形を描けば邪気を払うという。

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よく見ると右側は口を開いています。左側は口を閉じています。阿吽ですね。

コトバンクを参照します。

サンスクリット語のア・フームの音写。密教では、「阿」は口を開いて発音する最初の音声で、すべての字音は阿を本源とし、「吽」は口を閉じて発音する音声で、字音の終末とする。また、阿は呼気、吽は吸気であるとともに、それらは万有の始源と究極とを象徴する。さらに阿字には不生(ふしょう)、吽字には摧破(さいは)の意があるなどとする。この2字の密教的な解釈については、空海の『吽字義(うんじぎ)』と『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』に詳しい。寺院の山門に安置する仁王(におう)や向拝(ごはい)の左右の柱頭にある獅子(しし)、神社の狛犬(こまいぬ)(高麗犬の意)などで、向かって右が口を開き、左が口を閉じているのは、阿吽を表す。相撲の仕切りなどで、呼吸があうのを「阿吽の呼吸」という。

サンスクリット語も日本語も、「あ」から始まり「ん」で終わる不思議。そして普段も息の合った状況を阿吽の呼吸と使ったりしていますが、本来は宇宙的な深い意味があるのでしょうね。狛犬たちもみんな神様を守っているのでしょう。

 

拝殿の屋根に目を移せば、かわいい獅子瓦が見守っています。そしてこれもまた阿吽の姿をしています。

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本殿の上部には、社紋の右巴紋が見られます。

左側の装飾は、中央にの角の生えた鬼?。波の中には赤い鯛と黒い魚(黒鯛?それとも鯉)が泳いでいます。右下は獅子(ライオンかな?)。左下は、何か霊獣がいるようなそれとも風景なのか。

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次は本殿右側です。今度は中央に鬼?さんがいます。波の中には魚がいません。下の装飾は一緒に見えます。そして桐紋が見られます。

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次は本殿後ろ側の装飾です。

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中央には、菊の文様が重なっています。以前社紋のブログを書きましたが、宇佐八幡宮の神紋を見て、大八幡大神応神天皇)は菊紋、比売大神は巴紋、神功皇后は桐紋と紹介しましたが、やっと菊紋を見つけることが出来ました。それも二重に重なっています。

 

神社の装飾彫刻

図書館から、「寺社の装飾彫刻  宮彫りー壮麗なる超絶技巧を訪ねて 撮影・構成 若林純 」を借りて拝読させていただきました。とても美しい本です。600寺社以上の撮影した中から111寺社の彫刻を取り上げたもので、とても勉強になりました。若林さんがあとがきで書かれていましたが、「世界に対して『木の文化の国 日本』の奥深さを更に誇ることができると思う。」というように、素晴らしい文化だと再認識します。

少し内容を紹介します。

安土桃山時代の流れを受けて江戸時代初期に、日本建築の装飾手法をすべて駆使した日光東照宮が造営され、これを契機として、全国各地の寺社建築にも装飾彫刻がほどこされるようになった。(カバー裏より)

日本の木彫 ふたつの流れ 仏像彫刻と建築装飾 彫刻家 薮内佐斗司

建築装飾は、仏師ではなく建築職人出身の専業の彫り師が担当しました。その発展期は信長から秀吉の安土桃山時代で、その流れは江戸時代も続き、寛永から元禄期に彩色彫刻の建造物がピークを迎えます。その後は、幕府の質素倹約政策のために、彩色を施さない素木のしかし緻密な建築装飾が一般的となり・・・

 

太刀八幡宮の社殿の変遷

太刀八幡宮は、弘仁12年(823年)に社殿が造営された後、天正15年(1587年)に豊臣秀吉の九州平定の戦乱に巻き込まれ焼失炎上しました。その7年後の文禄3年(1594年)氏子一同の手により再建されています。

その後文政11年(1828年)8月9日の台風で倒壊。文政13年(1830年)再び建立し現在に至っています。

現在の社殿は、彩色彫刻のピークを過ぎた、徳川幕府の質素倹約政策以降に建てられていることがわかります。

 

宮大工に感謝

今の社殿を建てられた宮大工の方々が、質素倹約の流れの中、腕を振るって装飾彫刻を施し、約200年経った現在、私の目を十分楽しまさせてくれています。私が理解しているのは、宮大工の思いのほんのわずかな部分でしょうが、神紋を見つけたり出来たことは、まるで謎ときをしているような楽しさがあります。これからさらに探求を深めていきますのでよろしくお願いします。

 

太刀八幡宮の紋章は右?三つ巴紋

太刀八幡宮の案内看板です

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そして、氏子総代さんの法被です

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社紋は、三つ巴紋です。

実は、私が総代をしていたときに、地区の人から「 その法被の模様はなんね?」と聞かれて返事に困ったことがありました。

神社本庁の神社の紋章についてを参照します。

神紋には、さまざまな文様があることがわかります。

日本の家紋というホームページの神紋のページを開くと、さまざまな文様が紹介されており、宇佐神宮(大分)三つ巴と書かれています。

さらに、家紋のいろはというホームページの、左三つ巴を参照すると、巴紋は、縄文遺跡にもみられる非常に古い文様。雷神が背負う太鼓にも描かれるように雷鳴を表している。※渦や蛇、雲、胎児、鞆絵(ともえ)に由来する説あり。歴史上最初に登場する家紋で、公家、武家の家紋の他に神社の神紋など非常に多く使用されている。右三つ巴紋もほぼ同じ内容です。

太刀八幡宮は、宇佐八幡宮に分霊して頂いた神社ですから、宇佐八幡宮の社紋である左三つ巴紋を頂いていてもいいのでしょうが何故か右になっています。八幡宮は非常に多い(全国80,000社の内、約44,000社)神社なので、全国の八幡宮の社紋は三つ巴が多いようです。

 

宇佐八幡宮の社紋

宇佐八幡宮の公式ホームページをみても、社紋についての解説を見つけることは出来ませんでした。しかしトップページをはじめ、各ページに三つの文様を見ることが出来ます。

八幡大神 十六(弁)八重菊紋

比売大神 尾長三つ巴紋

神功皇后 五七桐紋

 

 

社紋と神紋

神紋と社紋の違いについてまとめている記事があります。

神紋は神さまがそれぞれにお持ちになっている紋章のこと。一方、社紋は神社の紋章のことです。

つまり宇佐八幡宮には、三柱の神様が鎮座されており、それぞれの神様が紋を持っています。それとは別に神社としては、左三つ巴紋を社紋として使用しています。ということでしょうか。

神社の社紋は、主祭神の文様が多いということから、宇佐八幡宮主祭神は、比売大神なのでしょうか?今度、宮司さんに聞いてみたいと思います。

 

まとめ

「その法被の模様はなんね?」と聞かれたことから始まった勉強ですが、インターネット上には、紹介したホームページ以外にもたくさんの情報があります。どれも素晴らしい内容のものばかりです。本当に皆様に感謝申し上げます。おかげで、ますます太刀八幡宮の社紋である右三つ巴紋が好きになりました。カッコイイですよね。

太鼓の文様にも、三つ巴紋がたくさん使用されています。神の御心が鳴り響くのでしょう。

拝殿の瓦にも社紋を見つけました。今までも見てはいたのでしょうが、まったく新鮮な気持で見ることが出来ました。

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この写真を見てびっくりしたのですが、瓦は三つ巴紋ですが、その下にある木の彫り物は三つ巴ではないでしょうか。

それと、本殿の写真です。

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拡大してみると分かるのですが、桐の紋章が飾られています。宇佐神宮の例を思えば,巴は比売大神、桐は神功皇后、だとしたら八幡様の菊の紋章もどこかにあるのかな。

 

色々謎が出てくるので楽しいですよね。

 

 

 

掛け札の紹介 

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拝殿の右側に、この掛け札が掛かっています。

神は人の敬を以て威を増し 人は神の徳に依って運に添う

神様は、人の尊敬する気持ちにより、力を増して行きます。そして人は、神様の徳をいただいて、神様と一緒に運命をひらいて行きます。

この言葉は、御成敗式目(西暦1232年)の第1条の一節です。

御成敗式目は、鎌倉時代3代執権北条泰時がまとめたもので、律令を参考に51条からなり、その後長い間武家法の基本とされました。

子供の中学の教科書「見て読んで考えよう!ビジュアル歴史 東京法令出版」に北条泰時消息文として、御成敗式目を作った経緯を紹介しています。

「この式目は、ものの道理を書いたものである。真実よりもその人の勢力の強さによって判決したりすることもあるので、あらかじめ裁判の基準を決めて、公平に裁判できるように、こまかく書いておいたのである。律令に比べれば、多くの人にわかりやすいようにかいてある。」

つまり御成敗とは裁判の基準であり、ものの道理を書いたものなんですね。

教科書には、内容の紹介として第3条と第5条の条文が記載されています。

御成敗式目については、ネット検索をすればたくさん情報がありますが、分かりやすかった「まほろば社会科研究室 中学歴史」から紹介させていただきます。

第1条&第2条 神社や寺院を敬おう

教科書や学習参考書にこの条文はあんまり紹介されないのですが、とても面白い内容なので紹介したいと思います。

一、神社を修理し、祭祀を専らにすべき事
右、神は人の敬ひによつて威を増し、人は神の徳によつて運を添ふ。然れば則ち恒例の祭祀は陵夷りょういを致さず、如在にょざい礼奠れいてんは怠慢せしむるなかれ。これによつて関東御分の国々ならびに庄園に於ては、地頭神主らおのおのその趣を存し、精誠を致すべきなり。兼てまた有封うふの社に至つては、代々の符に任せ、小破の時はかつがつ修理を加へ、もし大破に及び子細を言上せば、その左右さうに随てその沙汰さたあるべし。

御成敗式目貞永式目)第1条

上の条文は第1条ですが、「神社を修理してお祭りを大切にしよう」という内容です。冒頭は「神様は人が尊敬の気持ちを持っているとそのパワーは増します。人は神の徳をいただいて運を開くことができる」という内容です。だから、「神社のお祭りをサボらず、神々へのお供えも怠らずやろう」と書いてあります。さらに、「神社を修理する場合、小さな修理は自分たちで行い、手に負えない大きな修理は幕府に報告をしなさい。幕府が内容を調べた上で判断をします」と述べています。幕府は神社や神事をとても大切にしたのです。

武士のための裁判の基準として制定した御成敗式目の第一条にこういう内容が書かれているのは素晴らしいことですね。幕府は、とても神仏を大切にしていたことが良くわかります。お祭り・お供えも大事だよ。小さな修理は自分たちでやってね。大きい修理は幕府が判断するよ。

この御成敗式目は武士のみならず広く一般の方々にも広まったということからも、神社・仏閣は、武士も一般の方々も、お祭りを行い、供物をし、小さな修理は自ら喜んで参加して行っていったのでしょう。

その心が、この太刀八幡宮にも息づいています。先人達が幾多の困難な出来事があっても、お宮を守り、この土地を守ってきた結果が、今の姿をあらわしています。

 

先人達に感謝します。

そして、私も微力ながら、常に神々を敬い、神様の徳をいただきながら、太刀八幡宮に貢献していきます。

 

 

子持鳥居

案内看板では.『正面の「子持鳥居」は、他に例のない珍しい鳥居である。』と書かれています。

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さくら町の歴史ものがたりが、朝倉町教育委員会から平成元年十月一日に発行されています。そこには、『神社の南側、石段を下ったところに、堀川の恩人と仰(あお)がれた古賀百工が、穀物のみのりを祈願して寄進(神社や寺に財産・おかね・品物などを寄付する)した、たいへん珍しい「子持鳥居」がたっています。』と書かれています。

私は、地元の人間ではないので、百工さんのことはまったく知りませんでしたが、子供が小学校の発表会で百工さんの劇をして、この地域の水田に水があるのは、百工さんの尽力無くしてはあり得ないことなのだと知りました。

百工さんのことは、朝倉市のホームページに詳しく紹介されています。

柱の日付けは、明和ニ乙酉年三月吉祥日 西暦1765年です。

左の柱の下の方には、

上座部大庭村 古賀藤四郎 産子中

そして右の柱の下には、良く読み取れないのですが次のように彫られています。

上座部大庭村 古賀十作義重 

       田中喜兵次

       星野源次郎

       同 武右○  

       同 武助 

       同 助次郎 

       田中弥右安兵衛 産子中」と彫られいます。

百工さんの名前は、古賀十作義重です。朝倉町の歴史ものがたりには、「上座部大庭村(現在の朝倉町上野原の徳次)の庄屋の家に生まれ、父のあとをついで庄屋になりました。」とあります。この徳次という地名についても、「徳次は(磨剣 とくつるぎ)であって剣などを磨(と)がれたところで」あり、神功皇后がこの地にこられたときにできたといわれています。

ホームページで検索していると古賀氏庄屋一覧という家系図をみることができ、古賀藤四郎という方は、上大庭の庄屋さんで、百工さんは下大庭の庄屋になります。

産子中とは、同じ産土神(うぶすなかみ)をまつる人。

田中さん、星野さんについては、今のところ情報がないのですが、きっと今後の紐解きのなかで知ることができると期待しています。

とにかくこの子持ち鳥居は、百工さんを始めとした庄屋さん達が寄進しているということでしょう。

 

子持鳥居が寄進された年とは

この写真は、山田堰にある百工さんの偉業説明している年表です。

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左の特記に古賀百工(義重・十作・百助) ・堀川改修・新堀川新設・山田堰大改修とあり、年表と組み合わせてみると

堀川改修・新堀川新設 西暦1764年 明和1年 完成

山田堰大改修     西暦1790年 寛政2年 完成

子持鳥居が寄進されたのは、百工さんの偉業のひとつ新堀川が新設された年の翌年になります。

 

百工さんは、生まれた土地も神功皇后ゆかりの地であったことから、太刀八幡宮への信仰心も非常に深かったのだと思います。そして新堀川の完成という大偉業を成しえたのは、神々の応援なくして出来ることではないと考えていたとおもいます。それで、他の庄屋の方々と一緒になって、この子持鳥居を寄進されたのでしょうね。きっと毎朝太刀八幡宮にお詣りしてから工事に向かっていったと思います。

 

百工さーん 今年も田んぼに水が入りましたよー ありがとうございます。

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2022年6月29日 撮影

太刀八幡宮の神様紹介👏

福岡県神社誌には、

『土民等は小祠を造り太刀塚を祀りたりしに、嵯峨天皇弘仁の世に至り村人等集り計りて八幡神を齋き奉らんと豊前國宇佐宮に御分霊を謹請し、弘仁十四年葵卯年宮殿を建て、応神天皇 神功皇后 三女神三座を齋き奉りたり。』

と記載されています。

わたしなりに解釈するには、『村人たちは、小さな社を造って太刀塚をお祭りしていましたが、嵯峨天皇弘仁の時代、地元の人たちは集まって相談し、八幡神を丁寧にお祭りしたいので、豊前の国の宇佐八幡宮に御霊を分けていただきたいとお願いし、弘仁十四年(823年)社殿を建て、応神天皇 神功皇后 三女神の三柱を丁寧にお祭りさせていただきました。』という感じです。

神様を勉強する為に、マンガでわかる日本の神様 東條英利監修 誠文堂新光社発行を購入しました。表紙に、神様が変われば、ご利益も変わる! 起源や個性を知って、もっとご利益を!と書かれています。学問の神様・縁結びの神様・安産の神様など、色々なご利益の名前があります。人間に例えるのは失礼かもしれませんが、私に料理のことを教えてと言われも、残念ながらお断りせざるをえません。

ということで、太刀八幡宮の神様のことを学んで行きます。

分霊させていただいた宇佐八幡宮のホームページのご祭神のページをみてみます。

ご利益の言葉を抜粋してみます。

八幡大神

全国の武士には武運の神様、一般の人々にも鎮守の神、仏教の世界でも八幡大菩薩として崇められ、「護国霊験威力神通自在王菩薩」の名の通り自在なる御働きをお顕しになります。

比売大神

学問・芸術の上達から財運や交通安全(航海の安全)など幅広くご守護をされています。

神功皇后

母神として神人交歓、安産、教育などの守護をされており、そのご威徳が高くあらわれています。

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私は普段、太刀八幡宮の神様方と声かけして、ご挨拶をしていますが、こうしてそれぞれの神様のことを知ると、さらに親しみが湧きます。例えれば、『〇〇家にはいつもお世話になっています。ご主人には、仕事のことで色々ご指導を頂いています。奥様には、日頃から何かと気にかけて頂き、野菜を頂いたり、子供にもお菓子をもらったりしています。』という感じで、家から個人それぞれに感謝がさらに具体的に深まる感じです。

日頃は、いつもお守り頂いてありがとうございますと感謝の言葉をお祈りしていますが、これから具体的なお願い事が出来た場合は、ご利益のある神様の名前を呼んで、祈願してみます。

神功皇后の三之御殿と太刀八幡宮が建てられた年が同じ

ここで、宇佐八幡宮の由緒を見ると、それぞれの神様の御殿が造立された年が記載されています。

一之御殿 八幡大神 725年(神亀2年)

二之御殿 比売大神 733年(天平5年

三之御殿 神功皇后 823年(弘仁14年)

つまり、宇佐八幡宮の三之御殿が建てられた年は、太刀八幡宮が建てられた年と同じ年になります。

この時の地元の村人達の会話を勝手に想像するに、

村人A 今度宇佐八幡宮神功皇后のお社を建てるらしいよ。

村人B それじゃ、太刀塚のお社も立派に建てて、八幡様と比売大神様も一緒にお祭りさせてもらったらどうだろう。

村人C他 そうなったらすごいことだね。

ということが話し合われて、代表者が宇佐八幡宮にお願いにまいったのでしょうか。

今と違って交通手段も通信手段も格段と違う時代に、宇佐八幡宮に行って交渉することも大変な労力だったことでしょうね。神様方の応援がなければ実現できないことだと感じます。

 

 

太刀塚の囲い

太刀塚を守るようにある石の囲いが設置されています。

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正徳元辛卯九月吉日。 西暦1711年なので、太刀を納めてから、1500年後になります。その間何も無かったわけではないでしょう。色々な歴史を経て、この時復興されたものが、現在まで残っているのでしょう。

一番手前の石碑には、延享四子卯天 九月吉日と彫られています。西暦1747年です。裏には、寄進された個人の名前が彫られいます。

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そして、『皇漠雄深 天業剣成』の石碑は、皇紀二千年祭の時のもので、太刀塚修理とあります。昭和15年(西暦1940年)。皇謨(こうぼ)は、天皇が国家を統治する計画。雄深は、大きく深いという意味。天業は、天のわざ・天子の事業。

神功皇后が剣を納めたことに、深い計画を感じます。

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とにかくこの太刀塚は、氏子のみならず足利義満の先陣畠山義深などの武将にも信仰厚く、大切に守られて今日に至っているのでしょう。

 

 

 

神功皇后が太刀🗡を納め祈りました🙏

神社内にある教育委員会が設置した案内板には、次のように記載されています。

 

所在地 福岡県朝倉町大字大庭字乙王丸1504

 

祭神 宗像三女神(田心姫命市杵島姫命湍津姫命)   応神天皇 神功皇后

 

太刀八幡宮は、大字大庭の氏神であり、毎年10月25日に祭礼が行われる。

神功皇后は、日向国(宮崎)の熊襲、秋月の羽白熊鷲、筑後の土蜘蛛田油津姫などの強敵を討ち亡ぼし、三韓への遠征のために大庭村の上野原に軍勢を集め、国敵降伏を祈り自らの太刀を奉納して「太刀社」を祀られたのが始まりといわれている。

弘仁14年(823)、豊前国宇佐八幡宮の霊を移し、社殿を建て「太刀八幡宮」とした。

応安7年(1374)、将軍足利義満の先陣畠山義深が、宮方の菊池武政を討つために当地に至り、故事にならって社に弓矢・太刀を奉納して戦陣に向かったといわれている。

境内には、太刀を納めた太刀塚があり、「御太刀塚」の碑が建っている。また、正面の「子持鳥居」は、他に例のない珍しい鳥居である。

 

ということで来年は2023年なので、1200年祭が行われるのですが、神功皇后が太刀社を祀られたのは、さらに年月をさかのぼることになります。

太刀塚の全景です。

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囲いの中に大石があります

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石碑には、次のように記されています。

 

摂政元辛巳年

祭鎮大帯姫尊御太刀塚

三月二十五日

 

石碑からは読み取りにくい年号は、福岡県神社誌に記載されていました。西暦201年になります。太刀八幡宮が出来る622年前には、太刀社があったことになり、今から約1820年前のことになります。

大帯姫尊は、神功皇后のこと。古事記では、大帯比売命や息長帯比売命と書かれているようです。祭鎮は、コトバンクに鎮祭として「諸神をまつりその土地をしずめ固めるための祭儀。」とあります。

そして、福岡県神社誌には、「御奉納の太刀の銘乙王丸との古老の口碑により此地を乙王丸村と為したり。」とあります。

1820年前の出来事が、神社の住所でも分かるように、現在に伝わっているなんてびっくりします。

この悠久の歴史の地に立ち、その歴史を紐解くことが出来ることに、とても喜びを感じています。