氏神様は太刀八幡宮

1200年の歴史を紐ときます

太刀八幡宮の随神と獅子と天狗の面

太刀八幡宮の幣殿には、お神様を守る随神と獅子と天狗の面が一対置かれています。

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幣殿は、拝殿と神殿の間になります。

 

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(内藤宮司の了解を得て、謹んで公開します)

 

この奥の神殿に、三つの赤い内神殿が安置されています。その内神殿に鎮座しておられる主祭神3柱をお守りしています。

 

幣殿は普段、中扉が閉められていますので、随神を見ることは出来ません。例大祭の時、この御扉が開かれますので、その時に拝見することが出来ます。

 

 

随神(ずいじん)

東京神社庁のホームページに神社Q&Aとして随神の解説があります。一部引用します。

「随神」は、ご社殿や神社社地などを守る神さまをさします。その神さまは、随神門などに安置されていて、矢大神(やだいしん)・左大神(さだいしん)という俗称で呼ばれることもあります。
 左右二神共、弓と矢を携(たずさ)え剣を帯びていますが、これはその昔、武装して貴人の護衛にあたった近衛府(このえふ)の舎人(とねり)の姿で、彼らは「随身(ずいしん)」と呼ばれていました。その随身が転じて、主神に従い守護するという意味で随神となったのでしょう。

 

正中線

内藤宮司さんから教えて頂いたのですが、お神様の真ん中の線を正中線といって、お神様から見て左側の随神が位が高く、色は赤の方が格が上だそうです。以前紹介した「太刀八幡宮の社殿は美しい」の神殿にも、左側は赤鬼が,右側には緑の鬼が飾られていましたね。幣殿内の隋神たちと同じ色彩です。みんな神殿内のお神様を守っています。

『「林 修の今でしょ!講座」日本人なら知っておきたい2大講座SPお寺と神社マル秘作法』を見て、その内容をまとめてくれているホームページがありましたので、正中線の解説図を転載します。

問11.神社の参道のどこを歩くのが正しい?

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お神様から見たら左の随神の位が高いというのは、左方上位という考え方で、左大臣・右大臣、左京区右京区というのも、その思想の表れです。神様の話からそれますが、河川も山側(上流側)を背にして右側を右岸、左側を左岸と言います。左岸が格上ではないと思いますが・・・。

この左方上位について、やさしく解説している吉徳大光さんのおひな様の飾り方を引用します。

日本には古くから「左方上位(左側の方が位が高い)」という考え方がありました。ですから左大臣と右大臣では、左大臣の方が格上になります。神社で手水を使うときに左手から清めるのも同じ理由です。雛人形は平安貴族の姿をしていますが、平安時代の帝は、妃の左側(向かって右)へ座っていました。京都と関西の一部では、そのしきたりに従って、内裏雛を並べているのです。

一方現在の皇室では、天皇は必ず皇后の右側(向かって左側)に立たれます。座られる場合も右側です。この位置の取り方は、西洋式のルールにのっとっています。明治時代の終わり頃から日本でも西洋に準じて、このルールが取り入れられました。

 

ホームページには、関東と関西では、おひな様の並べ方が逆だとも書かれています

 

上皇上皇后両陛下の写真を、宮内庁ホームページから転載させていただきます。

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解説のとおり上皇様が右にいます。

 

上皇上皇后様の思い出

かれこれ30年前頃の話になりますが、当時東京都八王子市で仕事をしていました。八王子は、武蔵野墓地があり、大正天皇、皇后そして昭和天皇、皇后の御陵が有ります。そういうことから、当時天皇皇后両陛下も八王子に足を運ぶ機会がたびたびあったのだと思います。

天皇皇后両陛下がいらっしゃるという情報が入ると、職場のおばちゃんが「挨拶するよ」と事務所の2階の窓ぎわにつれていかれ、パトカーに護衛された両陛下の車に向かって、天皇陛下〜」と叫びながら両手を振るのです。私は恐縮しながら、右手をはにかむ様に振っていました。そうすると車の窓がスッと開いて、両陛下が手を振って応えて下さったのです。おばちゃんは、「いつも、ああして手を振ってくれるのよ。」と説明してくれましたが、当時の私にとっては大事件で、天皇陛下のお車に2階から見下ろしながら手を振っていることに、お咎(とが)めがくるのではないかと思ったものでした。しかし、お咎めは無く、その後も天皇皇后両陛下が八王子に訪れる度に、私たちは手をふり、両陛下は毎回窓を下げて応えて下さいました。その気さくなお姿に、感動していました。

両陛下のこの気さくな姿勢を思い出した時、太刀八幡宮のお神様も(日本中のお神様も)きっと気さくな神様だと感じるんですね。かしこまってお参りすることは大切だと思うんですが、それよりも、たびたび顔を見せて「おはようございます、今日も良い天気ですね。」と気楽に神社に足を運んでくれると、お神様は喜ぶんじゃないかなと思うのです。毎日参拝している私の実感です。

 

正中線で検索するとびっくり

ちなみに正中線で検索すると妊婦さんのお腹の記事がたくさん出てきます。いやほとんどです。人間の体の名前も不思議ですよね。妊婦さんの話のついででなんですが、子宮で胎児が育ち、産道を通って出産しますよね。まるで神社です。子供のお宮があって、産道(参道)を通ってこの世に誕生するなんて、人間は神様ですか?

 

今回も、随神の一枚の写真から、色々なことを学ぶことが出来ました。ありがとうございます。😊

 

 

 

 

 

 

 

太刀八幡宮の絵馬 その3 那須与一 扇の的の図

那須与一 扇の的の図

天保四年(1833)癸巳 三月

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189年前の絵馬です。

今回紹介する絵馬シリーズの中では、一番古い絵馬になります。

 

海の中に入った馬上の武士が那須与一(なすのよいち)。弓を放ち、矢は的の扇を見事射抜いた状況です。船には美しい女性が乗っていますね。

 

那須与一はどういう人?」と聞かれても、「名前は聞いたことはあるけど詳しくは分かりません」と答えてしまいます。

しかしインターネット社会では、「那須与一 扇の的」と検索すれば、たくさんの情報を得ることができます。あっという間に博学の人に変じてしまいます。

 

今回、引用させていただくのは、東洋経済オンラインに掲載されている『「教科書で習う那須与一「扇の的」何とも以外な事実』著者:濱田浩一郎  歴史学者、作家、評論家です。

この記事の初めに、「このシーンは中学国語の教科書にも登場します」とありましたので、子供の教科書を調べてみると、国語便覧 浜島書店に登場していました。転載します。

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さすが教科書ですね。弓矢も詳細に解説しています。那須与一が的を射った時に使用したのは、鏑矢という矢で「穴があいていてヒューヒューという音がでる 開戦の合図に用いた」と書かれています。

そして、2ページにわたって解説しているのは、驚きです。

 

それでは、少し長くなりますが、東洋経済オンライン 教科書で習う那須与一「扇の的」何とも意外な事実 著者:濱田浩一郎 から一部引用させていただきます。

 

日暮れが近付き、戦はまた明日かというときになって、平家がいる沖のほうから、小舟が一艘現れ、汀(みぎわ、水際)に向けて漕ぎ寄せてくる。舟上では、18歳ばかりの優美な女房が紅の袴を着て、扇(紅の地に金色の日を描いたもの)を船棚に挟み、手招きしている。その様を『平家物語』は次のように描く。

「さて、阿波・讃岐国において、平家に叛き、源氏の軍勢がやって来るのを待っていた者たちが、あそこの山やここの洞より、14、15騎、20騎と共に現れたので、源義経の軍勢は300余騎となった。『今日はもう日暮れ。勝負を決することはできない』といって引き揚げようとしたところに、沖のほうから、立派に飾った小舟が一艘、汀に向けて漕ぎ寄せてきた」(『平家物語』を筆者が現代語訳)。

(この扇を射てみよ)ということを悟った源氏方は、下野国の住人・那須与一宗高を選抜し、その役に当てる。与一は20歳の若武者。萌黄威の鎧を着用し、足金を銀で作った太刀をさし、滋籐の弓を脇に挟んでいる。

命令を一度は拒んだ那須与一

義経の御前に参上した与一は「射損なえば、味方の恥となりましょう。確実に射落とせる者にお命じください」と命令を拒むが「私の命令に背いてはならぬ。異論を唱えるなら、ここから去れ」との義経の厳命により、渋々、大役を引き受ける。

海に馬を乗り入れる与一。扇と与一との距離は約75メートル。しかも日暮れどきであり、北風で波も高い。沖では平家方が舟を並べて見物している。陸でも、源氏方が馬のくつわを並べて見つめる。

緊張のなか、与一は目を閉じ「南無八幡大菩薩、どうかあの扇の真ん中を射させてください。もし射損なうことあれば、弓を切り折って自害する覚悟。どうかこの矢を外させなさらないでください」と祈念すると、再び目を開く。風は少し弱まっていた。

与一は鏑矢をとり、弓につがえ引き絞り「ひょうと」射放つ。

矢は見事、扇の要ぎわ1寸ばかりのところに命中。扇は空に舞い上がり、暫く空中にひらめいた後、海に落ちた。源平の将兵双方が、与一の腕に感嘆し、称賛する。『平家物語』の中でも有名な扇の的の場面である。

 

『南無八幡大菩薩と祈ったと読んで、太刀八幡宮の祭神の八幡神応神天皇)が出てきて驚いてしまいました。この絵馬が奉納された理由はこういうことだったのかと感動した次第です。

 

教科書に再び目をやれば、源氏の白旗には、「八幡大菩薩と書かれており、解説には「弓矢の神として武家の信仰を集め、源氏の氏神となる。」とあります。

 

あー この絵馬を見ながら、武運の神様である八幡神のご威徳の高さを、おしゃべりしている氏子の方々の姿が想像できます。

この頃は、拝殿で絵馬を見ながらお酒を酌み交わしていたのかもしれません。

氏子さんの中には、講談師のようにこの絵馬の物語を語り、それを聞いてうなずいている氏子さんや子供たちがたくさんいたと思います。

まさに、拝殿は社交場としての機能を、充分果たしていたのでしょう。その姿を、太刀八幡宮の神様は微笑ましく見ていたのではないでしょうか?

 

再び、絵馬に目をやれば、189年前の絵馬とは思えないぐらい、鮮明に状況が浮かびあがってきます。

 

ちなみに「ユーチューブ」で「那須与一」を検索すると、3年目に公開された画像ですが、『タッキー大河ドラマ義経 那須与一、扇の的を射る』というのも楽しめます。

 

感謝😊

 

 

 

初体験 裏後光✨

今日は、令和4年9月3日(土)

いつものように毎朝の日課として、太刀八幡宮にかみさんと柴犬2匹でお散歩に出かけました。神社の参道に入る出前で西の空を見ると、光が放射しているではありませんか。

 

何あれ?

西に太陽が無いのに、何で光が放射されているの?

時刻は6時8分。

日の出前の西の空です。

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きれいだね。

美しいねー。

不思議だねー。

と感動しながら、参拝に向かいました。

 

そして、拝殿で参拝すると、今度はとても柔らかな朝日🌅が私たちを包み込んでいました。

なんか、とても気持ち良くて、清々しくて、思わす「ありがとうございます」と手を合わせてしまいます。

 

神社の鳥居を出ると。今度はの空に朝日とともに虹🌈が少しだけかかっていました。

何か、神々しくて嬉しくなる朝の散歩でした。

 

インターネットで検索するとウイキペディアに「反薄明光線(はんはくめいこうせん)」として概要がありましたので引用します。

 

空(天空上)での位置関係を考えてみる。地平線のすぐ上にある太陽が光の起点となり、ここから対日点(太陽と正反対の地点)に向かって光は伸びる。太陽側では光芒は広がりながら伸びるが、観測者の真上の空を境に、対日点側では光芒が収束しながら伸びる。この収束する光芒が反薄明光線である。

地上から見た太陽の角度が低くなる早朝や夕方、日の出日没直前にしか見られない。日本では頃に雲や湿度などの条件が整いやすいとされる。

太陽光線をさえぎるくらいの厚みがあり、かつ、切れ間のある雲の発生が必要である。さらに、雲を構成する水滴雲粒)よりも小さく、目に見えない水滴が多数浮遊した状態が、長い光の経路全体に分布していなければならない。

このように、条件が限られているため、反薄明光線を見つけるのは難しいとされるが熱帯、高い山、飛行中の航空機など、見晴らしの良い条件下では比較的観測され易い現象である。

 

台風が近づいている影響もあるのかもしれませんが、人生で初めて天体ショーを見ることが出来ました。

 

ありがとうございます😊

 

 

小冊子 太刀八幡宮 昭和63年12月 太刀八幡宮氏子総代会

先日、ブログを書き始めたことから、太刀八幡宮総代会長から色々資料を見せて頂く機会を得ました。これからその内容も整理して、ブログに公開して行きたいと思います。

 

今回は、昭和63年に刊行された「太刀八幡宮」としてまとめられた小冊子を紹介します。全文をスマホで撮影した写真で公開しますが、鮮明ではないところがありますが、非常に簡潔にそしてよくまとまっている良い資料です。

 

まえがきを引用します。

古来より大庭の氏子が等しく崇敬する太刀八幡宮は、今を遡(さかのぼ)る1200年の昔から大庭の産土神(うぶすながみ)として鎮座されている由緒あるお社であります。

この度、内神殿の新調、社殿の修復、社務所の新築を記念して太刀八幡宮の由来を刊行しました。

この記録が郷土文化の発展、並に神社と氏子との結(むすび)つきに多少なりとも寄与することが出来れば誠に幸いであります。

亦(また)本書を刊行するに当り縁起の解読から原稿の執筆まで多大の尽力を戴いた鶴田多々穂氏に深く謝意を表します。

この資料を執筆したのは、「太刀八幡宮の絵馬の紹介」で絵馬を調査した功労者として紹介した鶴田多々穂さんです。

まえがきにある「縁起の解読」というのは太刀八幡宮の縁起書のことで、筑前上座郡大庭村 太刀八幡宮縁起 上下2巻」のことです。この資料のことも、いずれブログで公開していきますが、下の写真(上巻の最初の部分)のように巻物になっています。

上巻は約9m、下巻は約6m、合わせて15mの非常に長い巻物です。

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この資料を解読されたということは、大変な努力が必要だったと思います。今の私には読むことすら出来ません。その鶴田多々穂さんの成果をこうしてブログで紹介出来ることは、絵馬の時と同様に本当に光栄であり、感謝申し上げます。

 

また、まえがきに記載されている「社務所の新築」ですが、現在の社務所の前に社務所再建記念の碑」が建っています。石碑に刻まれた内容を引用します。

昭和六二年八月三十一日夜半 台風十二号の襲来により境内の樹齢数百年の巨木二十九本が倒伏し その内の一本周囲二米半の櫟(いちい)の大木は 昭和二年に建設した二十四坪の社務所を直撃全壊の大損害を与えた 敬神の念篤き祖先の意を継ぎ四七二戸の氏子の創意に基き 一戸当り一万六千円の浄財により再建された

宮司 内藤 主税

 

台風により全壊した社務所の新築等を記念して、この小冊子が刊行されたのですね。

この小冊子は、当時氏子の皆様に配布されたのでしょうか?

 

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太刀八幡宮の絵馬 その2 神功皇后・武内宿禰図 応神天皇を抱く

神功皇后 武内宿禰図・応神天皇を抱く

明治二十三年(1890年) 寅 八月

善光寺區中 願成就

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132年前の絵馬です。

神功皇后が、皇子(後の応神天皇)を抱く武内宿禰を微笑んで見ています。皇子は菊紋の服に包まれていますね。そして皇后の後の幕には巴紋を見ることが出来ます。神紋に思わず目が行ってしまいます。👀

太刀と弓を持つ神功皇后の勇ましい姿は美しく荘厳です。太刀塚に納められた太刀は、この様に美しい鞘に納められた太刀だったのでしょうか?

何度見ても、微笑ましい絵馬です。

 

特別展「絵馬」神に捧げる祈りの美 福岡県立美術館 の出品目録 P79を引用します。写真は、神功皇后武内宿禰図 北九州市若松区白山神社 引用 p43 

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本図は現存する例が少ない、伊万里様式の色絵磁器の絵馬である。

神功皇后伝説に基づくもので、新羅遠征の帰途、筑紫において皇后が出産した皇子(後の応神天皇)を、老臣の武内宿禰が抱く場面である。古来好まれた画題で、絵馬だけでなく多くの作例が残されている。筑紫における皇子出産という理由のためか、この画題は福岡県内の絵馬で、最も作例の多い一つであり人気の高さが伺える。

 

武内宿禰(たけのうちの すくね)とは

ウイキペディアから抜粋して引用します。

武内宿禰は、記紀に伝わる古代日本の人物。景行・政務・仲哀(神功皇后の夫)・応神天皇神功皇后の皇子)・仁徳の5代の各天皇に仕えたという伝説上の忠臣である。

「日本書記」「古事記」の記す武内宿禰の伝承には、歴代の大王に仕えた忠臣像長寿の人物像300歳まで生きたと「日本書記」にある 大絵馬ものがたりより)、神託を行う人物像等が特徴として指摘される。

高良大社では、祭神の「高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)」が中世以降に八幡神第一の伴神とされたことから応神天皇八幡神と同一視される)に仕えた武内宿禰がこれに比定されている。その結果、石清水八幡宮を始めとする全国の八幡宮・八幡社において、境内社のうちに「高良社」として武内宿禰が祀られている例が広く見られる。

また武内宿禰は忠臣とされることから、日本銀行券の肖像としても5種類(一圓券、五圓券)に採用されている。

 

www.kourataisya.or.jp

の「ご祭神」を見ると

高良の神さまの御神号は、「高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)」と申し上げます。

として、武内宿禰像 博多人形 小島与一作 が紹介されています。

太刀八幡宮境内社に「高良社」があるのか、今時点では把握していませんが、今後紐解きが楽しくなります。

 

こうして新たに絵馬を見ると、神功皇后三韓征伐を終えて、皇子(後の応神天皇)を出産した後の、幸せなひと時の姿を絵馬師達は腕をふるって表したのでしょう。

インターネットで「神功皇后武内宿禰図」と検索すればたくさんの画像を楽しめます。

 

またこの絵馬からは、親子の愛、忠臣の大切さを感じ取ることが出来ます。

 

ところで、奉納者は善光寺區(区)中 願成就とありますが、善光寺の皆様はこの時代何の願いが叶ったのでしょうね。詳しい願いは、裏にでも書かれているのでしょうか?

太刀八幡宮の絵馬の紹介 その1 神功皇后三韓征伐図

拝殿正面からの写真です。

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入口のガラス越しに絵馬が奉納されているのが分かります。

この拝殿は、野ざらしではないので、参拝者の方々はガラス越しに覗かないと見えませんが、絵馬の保存ということに関していえば、功を奏しています。

これから数回に分けて、絵馬の紹介をしていきます。

 

絵馬を調査した功労者

先日、甘木歴史資料館に次の資料を閲覧してきました。

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                            甘木歴史資料館 所蔵

昭和48年冬にまとめられた報告書です。朝倉町内30か所の神社に足を運び、451枚の絵馬を調べ、その内年代の判明したものが306枚あったと書かれています。

この資料を作成した鶴田多々穂(たたほ)さんは、朝倉町役場の収入役を務められた方です。(平成4年3月24日没 享年67歳)

山田井堰堀川三百年史 1967年(昭和42年)2月 山田堰土地改良区出版

日本の水車 朝倉の水車の位置づけ 1990年(平成2年)8月 朝倉町(福岡県):朝倉町教育委員会出版

等の著作があります。

この「筑後川流域の絵馬」のはしがきに、絵馬調査をはじめた動機が書かれていますので引用します。

過去堀川三百年史を出版し、その他朝倉町の耕地整理の歴史・朝倉町の史蹟めぐり・朝倉町の方言俗語・郷土の行事・子供の遊びなどを書き続けるたびに各地の取材に廻った。特に朝倉の史蹟めぐりの編集にあたっては、神社仏閣をしばしば訪れたものであった。たまたま神社の調査のとき、拝殿にかかげられた古い絵馬が目についた。同史蹟めぐりの編集が終わり、いつの日にかは消滅してしまうであろう絵馬の面影を残して置く必要を感じ、調査の計画を立て手をつけた次第である。

太刀八幡宮の記述箇所です。

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絵馬の掲げられている位置、画題名、年代、摘要として奉納者などが記載されています。

昭和48年6月13日(1973年)調査となっていますので、49年前の資料です。

次ページ以降には太刀八幡宮の概要、そして3枚の絵馬の写真と解説そして4枚の絵馬の写真が紹介されています。

この太刀八幡宮の資料は、私が神社総代を務めた最初の年度(平成元年度)のお正月明けに、内藤宮司さんと総代さんの懇親会(今はコロナ禍で中止になっています)がありまして、その時に鶴田多々穂の息子さんの鶴田卓(すぐる)さんが、「父がまとめた資料ですが参考にご覧下さい」と数部カラーコピーを配っていただいたものでした。その資料を見ながら懇親会が盛り上がったのを思い出します。その後神社の例大祭で拝殿に上がる度に、私はこの絵馬達に見とれていたのでした。

 

今回、太刀八幡宮への感謝のブログを書き始めた中で、この絵馬達を紹介できることは、とても光栄なことであり、自分の学びもさらに深めて行きたいと思います。

今では判読出来ない年代や奉納者の名前等はこの資料を参考に、15枚の絵馬を紹介していきます。また、画題名なども、鶴田多々穂さんが調査した時代と違い、現代は図書館に絵馬の本も充実しており、またインターネットを通じて様々な情報を得る事が出来ますので、そういう情報を加えながら解説していきます。

 

神功皇后三韓征伐図

嘉永(かえい)5年(1852)壬子(みずのえね)冬12月吉祥日 

大庄屋 星野茂三郎義澄 奉献

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拝殿の正面中央に掲げられています。170年前の絵馬です。少し色あせていますが、神功皇后軍が新羅軍を攻撃し、今まさに新羅軍の軍船が沈没しようとしているようです。祭神の一柱 神功皇后を讃えています。

 

福岡県立美術館が平成11年秋に『「特別展」神に捧げた祈りの美 絵馬』を開催しています。その時の出版本の目録に「神功皇后伝絵」という題名で解説していますので、引用させていただきます。直方市近津神社。

神功皇后伝絵」は福岡県内各地に多数伝わる絵馬であり、しかも絵馬の中でも特に大きく作られ、また拝殿の正面に掲げられる場合も多い。神がかった神功皇后が、新羅への遠征を命じる神託を告げるが、仲哀天皇はそれを信用しなかったため、神の怒りに触れ即座に没する。皇后は神の意志に従い、新羅へ渡海して勝利を収める,という記紀の伝説に基づいている。「神功皇后伝絵」絵馬においては、下部に新羅軍との海戦の様子が描かれる。右側の龍頭鷁鳥首の軍船が日本軍であり、指揮をとる白髪の武内宿禰の姿も見える。一方、上部は降伏した新羅王らが、皇后の面前にひれ伏す場面である。

なお、新羅遠征時に皇后が身籠もっていた応神天皇が、のちに八幡神として崇敬されることから「八幡縁起図」と称する場合もある。

 

この解説から見ても、太刀八幡宮の絵馬もこの原則に則って描かれているようです。雲の上は判読しにくいですが、新羅王が神功皇后にひれ伏しているのでしょうか。

 

福津市収蔵「八幡縁起絵馬」粉本 というものがあります。粉本とは、中国では絵の下書きを胡粉(牡蠣・蛤・ほたてなどの貝がらから作られた日本画の白色絵具)で描いたことから生まれた言葉で、元絵や種本のことです。

福津の絵馬 津屋崎市郷土史会編集発行 平成20年3月』 から写真を転載させていただきます。

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そしてこの粉本をもとにして描かれた実際の絵馬が、恵蘇八幡宮に奉納されていると紹介しています。元絵といっても大きなもので、160㎝×194㎝もあります。

この粉本は、風雨にさらされていないので、内容が鮮明です。日本軍の船には、巴紋・菊紋・桐紋が掲げてあります。太刀八幡宮の社紋・神紋で紹介したこの三つの神紋が描かれているのは、非常に興味深いです。

また、この絵馬(粉本)には、皇后軍の軍船上の安曇磯良(あずみのいそら)が描かれています。

安曇野磯良については、『大絵馬ものがたり 全5巻 須藤功著 ㈳農山漁村文化協会発行』で解説していますので、引用します。

神功皇后三韓出兵に際し、天地の神々に七日七夜にわたり戦勝を祈り、壇之浦の海神に海路の平安を願いました。満願の日に住吉明神のお告げで安曇野磯良という海士を召され、海神より干珠満珠(かんじゅまんじゅ)を借りることができました。干珠は潮を思いのままに干し、満珠は思いのままに潮を満たすことが出来る宝珠です。

大絵馬ものがたり 第5巻 p51

そして同じ大絵馬ものがたりに、うきは市諏訪神社神功皇后伝図の解説が記載されていますので、引用します。

神の加護

筑紫を出た神功皇后の軍船は順風に乗って進み、対馬を過ぎて朝鮮半島が見え始めたころ、新羅の軍船が連なって向かってきました。

そこで皇后が干珠を振ると、たちまち潮が引いて新羅の軍船は進むことができなくなりました。兵士たちが軍船をおりて向かってくると、今度は満珠を振りました。すると潮が一気に満ちて兵士たちは波に呑まれてしまいました。それだけではありません。『古事記』には、満珠の起こした波は新羅におよび、国の半分を吞み込んだとあります。結果、新羅はもとより、百済高句麗も戦うことなく降伏しました。

大絵馬ものがたり 第5巻 p73

こうして改めて、太刀八幡宮の絵馬を見れば、満珠のおこした波によって新羅軍の軍船が呑み込まれようとしているのでしょうか。

 

絵馬の役割

今こうして一枚の絵馬を紹介・解説していると、奉献された当時、今のようにテレビやインターネット等の娯楽もない時代、この絵馬は氏子の皆さんの注目の的であり、毎日たくさんの氏子さんが訪れ、中には子供や孫に神功皇后の物語を説明しているおじいさんもいたのではないでしょうか。町の美術館・文化交流館のような働きも兼ねていたように感じます。

 

 

 

太刀八幡宮の社殿は美しい✨

拝殿正面の写真です。

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本殿を左手から撮った写真です。f:id:goodlightsato:20220808122753j:image

神社の建築様式

神社の建築様式には、入り口の位置によって神明式と大社式があります。

太刀八幡宮、神明式の中の流れ造りという様式になります。

神社人さんのホームページに神社の建築様式として、分かりやすく説明しています。

流れ造りの特徴として、流造(ながれづくり)は、京都の上賀茂神社下鴨神社を代表とする建築様式で、入口側の庇(ひさし)が、大きく曲線を描きながら延びた屋根を持つのが特徴となっています。この様式は全国で最も多いとされています。

 

装飾彫刻

拝殿の柱の木鼻(きばな)には、獏鼻が彫刻されています。コトバンクによれば

中国の想像上の動物。鼻は象、目は犀、尾は牛、足は虎で、体形は熊に似るというもの。人の悪夢を食うといい、また、その皮を敷いて寝れば疫病を避け、その形を描けば邪気を払うという。

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よく見ると右側は口を開いています。左側は口を閉じています。阿吽ですね。

コトバンクを参照します。

サンスクリット語のア・フームの音写。密教では、「阿」は口を開いて発音する最初の音声で、すべての字音は阿を本源とし、「吽」は口を閉じて発音する音声で、字音の終末とする。また、阿は呼気、吽は吸気であるとともに、それらは万有の始源と究極とを象徴する。さらに阿字には不生(ふしょう)、吽字には摧破(さいは)の意があるなどとする。この2字の密教的な解釈については、空海の『吽字義(うんじぎ)』と『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』に詳しい。寺院の山門に安置する仁王(におう)や向拝(ごはい)の左右の柱頭にある獅子(しし)、神社の狛犬(こまいぬ)(高麗犬の意)などで、向かって右が口を開き、左が口を閉じているのは、阿吽を表す。相撲の仕切りなどで、呼吸があうのを「阿吽の呼吸」という。

サンスクリット語も日本語も、「あ」から始まり「ん」で終わる不思議。そして普段も息の合った状況を阿吽の呼吸と使ったりしていますが、本来は宇宙的な深い意味があるのでしょうね。狛犬たちもみんな神様を守っているのでしょう。

 

拝殿の屋根に目を移せば、かわいい獅子瓦が見守っています。そしてこれもまた阿吽の姿をしています。

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本殿の上部には、社紋の右巴紋が見られます。

左側の装飾は、中央にの角の生えた鬼?。波の中には赤い鯛と黒い魚(黒鯛?それとも鯉)が泳いでいます。右下は獅子(ライオンかな?)。左下は、何か霊獣がいるようなそれとも風景なのか。

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次は本殿右側です。今度は中央に鬼?さんがいます。波の中には魚がいません。下の装飾は一緒に見えます。そして桐紋が見られます。

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次は本殿後ろ側の装飾です。

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中央には、菊の文様が重なっています。以前社紋のブログを書きましたが、宇佐八幡宮の神紋を見て、大八幡大神応神天皇)は菊紋、比売大神は巴紋、神功皇后は桐紋と紹介しましたが、やっと菊紋を見つけることが出来ました。それも二重に重なっています。

 

神社の装飾彫刻

図書館から、「寺社の装飾彫刻  宮彫りー壮麗なる超絶技巧を訪ねて 撮影・構成 若林純 」を借りて拝読させていただきました。とても美しい本です。600寺社以上の撮影した中から111寺社の彫刻を取り上げたもので、とても勉強になりました。若林さんがあとがきで書かれていましたが、「世界に対して『木の文化の国 日本』の奥深さを更に誇ることができると思う。」というように、素晴らしい文化だと再認識します。

少し内容を紹介します。

安土桃山時代の流れを受けて江戸時代初期に、日本建築の装飾手法をすべて駆使した日光東照宮が造営され、これを契機として、全国各地の寺社建築にも装飾彫刻がほどこされるようになった。(カバー裏より)

日本の木彫 ふたつの流れ 仏像彫刻と建築装飾 彫刻家 薮内佐斗司

建築装飾は、仏師ではなく建築職人出身の専業の彫り師が担当しました。その発展期は信長から秀吉の安土桃山時代で、その流れは江戸時代も続き、寛永から元禄期に彩色彫刻の建造物がピークを迎えます。その後は、幕府の質素倹約政策のために、彩色を施さない素木のしかし緻密な建築装飾が一般的となり・・・

 

太刀八幡宮の社殿の変遷

太刀八幡宮は、弘仁12年(823年)に社殿が造営された後、天正15年(1587年)に豊臣秀吉の九州平定の戦乱に巻き込まれ焼失炎上しました。その7年後の文禄3年(1594年)氏子一同の手により再建されています。

その後文政11年(1828年)8月9日の台風で倒壊。文政13年(1830年)再び建立し現在に至っています。

現在の社殿は、彩色彫刻のピークを過ぎた、徳川幕府の質素倹約政策以降に建てられていることがわかります。

 

宮大工に感謝

今の社殿を建てられた宮大工の方々が、質素倹約の流れの中、腕を振るって装飾彫刻を施し、約200年経った現在、私の目を十分楽しまさせてくれています。私が理解しているのは、宮大工の思いのほんのわずかな部分でしょうが、神紋を見つけたり出来たことは、まるで謎ときをしているような楽しさがあります。これからさらに探求を深めていきますのでよろしくお願いします。