氏神様は太刀八幡宮

1200年の歴史を紐ときます

太刀八幡宮の宮司 内藤主税さん

今回は、太刀八幡宮宮司さんを紹介します。

 

プロフィール

内藤 主税(ないとう ちから)

昭和28年4月29日生 69歳

同志社大学法律学部卒

國學院大學神道講習にて免許取得

美奈宜(みなぎ)神社(林田)、高木神社(黒川)、日吉神社(石成)宮司

元福岡県神社庁理事、元朝倉市教育委員、元保護司、元朝倉高校PTA会長、元朝倉市消防団第12分団長

昭和59年(38年前)宮司に就任し現在に至っています。

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令和4年9月17日 太刀八幡宮 幣殿内で撮影

 

先日(9月4日)、内藤宮司さんに時間をいただいて、色々お話をお伺いしました。

 

内藤宮司本務社宮司が常駐している神社)は、美奈宜神社(林田)です。

 

美奈宜神社

美奈宜神社は、分かりやすいホームページを作成されていますので、その中から一部抜粋して、紹介します。

美奈宜神社は、神社史最古の範典の延喜式に記載され格式の高い式内社にも選ばれています。

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この地図は、「邪馬台国大研究ホームページ 甘木・朝倉と秋月」から転載したものです。

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格式の高い式内社に、下座(げざ)郡からは美奈宜神社、上座(じょうざ)郡からは麻氐良布神社、夜須郡からは大己貴神社が記載されているということは、この朝倉郡という地域は大きな勢力があったのでしょうか。

 

この格式ある美奈宜神社の内藤家25代宮司が、内藤主税宮司になります。

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美奈宜神社ホームページより転載

簡単に25代といいますが、これってすごいことです。自分一代の中でも、色々なことがある中で、激動の歴史の中で家系を守り続けるというのは、想像を絶するものがあったのではないでしょうか?

 

同志社大学で得たものとは

私は、大学受験を考えたこともなかったので、大学の概要はほとんど知りません。内藤宮司にも、「同志社大学法学部から宮司になる道があるのですか?」と聞いたくらいです。それどころか、同志社大学キリスト教プロテスタント)の学校でした。

色々世間の勉強のために、法律を学び、そして馬術部に入って馬の世話にあけくれていたそうです。その若き内藤青年が、同じ馬術部にいた今の奥様と運命的に出会うことになりました。同志社大学を設立した新島譲の奥様八重さんは、「妻・八重 〜新島襄とともに同志社を支え、育てた女性」として、大学のホームページに紹介されています。内藤宮司の奥様も、宮司を支え、美奈宜神社を育ててこられたのでしょう。

実は、5月に美奈宜神社を参拝した時に、奥様と少し話をしたのですが、奥様は愛知県名古屋の出身だと伺い、「熱田神宮の巫女さんをしていて、宮司と出会ったのかな?」と勝手な妄想をしていました。失礼しました。

 

29歳の転機

内藤青年は、大学を卒業して福岡のロイヤルに勤めます。

そして29歳の時、お父様が急にお亡くなりになったとのことです。

それから宮司を引き継ぐために、國學院大學に入学し、神職の資格を取り、宮司への道をひたすら走ってこられたということです。

 

宮司が少ない朝倉

以前朝倉には、24名程宮司がいたのですが、現在は8名になっているとのことです。宮司が足りない問題は、全国的な問題になっています。観光客が大勢来る大きな神社ならともかく、多くの神社は経済的な問題で宮司を続けることが出来ずにいるようですし、兼業で別の仕事をしながら神社を守っておられるところも多いようです。ましてコロナ禍で神社の祭事も自粛・神社参拝者の減少となると、ますます経営が難しくなります。

 

兼務社

太刀八幡宮のように普段宮司が在中しておらず祭事のときだけ訪れるのが兼務社です。内藤宮司が兼務している神社は、最初に述べた高木神社(黒川)、日吉神社(石成)以外にもたくさんあります。令和3年12月31日現在の市町村別・系統別宗教法人一覧表の中の代表氏名 内藤主税の神社を抜粋したものが次の表になります。

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その数38社です。これだけの数の神社を兼務することの大変さは、想像に難しくありません。

中には、九州北部豪雨で大きな被害を受けた高木神社もあり、宮司として色々心の負担も大きいのではないでしょうか。

そして、この表以外の宗教法人を取得していない所もいくつか担当しているとのことでした。

 

そうした中、太刀八幡宮は来年1200年祭を迎えるに当り、神社の改修工事もあり、色々ご配慮していただけることは、本当にありがたいことだと思います。兼務社宮司としての気をお使いのこともあるのではないかと思いますが、氏子総代会長を始めとして氏子一丸となって太刀八幡宮を盛り上げていければと思います。

 

内藤宮司さん、これからもよろしくお願いします。

🙇‍♂️

 

 

 

 

太刀八幡宮の絵馬 その4 川中島の一騎打ち

川中島の一騎打ち

文久四(1864年)甲子 秋

奉納 小塚 矢野角平 同 嘉作 星野才作 同 平吉

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158年前の絵馬です。

馬上の武士は、上杉謙信。振り下ろした太刀を軍配で受けるのは、武田信玄。信玄の左手には数珠が握られています。太刀を軍配で受けるのは、無理があるように思いますが・・。

右の武士は、馬上の謙信を槍で突こうとしいます。色あせてはいますが、緊迫した状況を感じます。黒馬の表情も、動きも見事です。

 

川中島の戦いを解説しているホームページもたくさんありますが、学研キッズネットのホームページから引用させていただきます。

かわなかじまのたたかい【川中島の戦い

 

戦国せんごく時代末期まっき武田信玄たけだしんげん上杉謙信うえすぎけんしん信濃しなの国(長野ながの県)の領有りょうゆうをめぐって川中島かわなかじま衝突しょうとつしたたたかい。川中島かわなかじま長野盆地ながのぼんちのほぼ中央部で,さい川と千曲ちくま川の合流点にあたる。信玄しんげん謙信けんしんはここを中心に,1553年から1564年まで前後5回たたかった。しかし,両者とも決定的けっていてき勝利しょうりをおさめることができず,全国統一とういつのぞみをはたせなかった。

コーチ

1561年,第4回のたたかいが有名で,信玄しんげん謙信けんしん一騎討いっきうちしたという。
この一騎打ちの場面が、絵馬になっています。
江戸浮世絵に見る川中島合戦というホームページがあります。
たくさんの浮世絵があるのですが、一枚転載させていただきます。
 
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一騎打ちの状況を分かりやすく解説していますので、引用します。
上杉方の猛攻撃にひととき乱れた鶴翼の陣形、その隙を突いて武田本陣に単騎突入した上杉謙信は、床机に座す武田信玄めがけて、馬上から三太刀斬りつけた。これに対して、信玄は鉄製の軍配で太刀を防いだが、後で調べると七太刀の刀痕があったという。これが「三太刀七太刀伝説」といわれるもので、両雄が直接対決するほどの激戦であったことから生じた説話と思われる
鉄の軍配があったとは、まいりました。
 
川中島の合戦の詳細は、ウィキペディアや他の文章のホームぺージでが理解するのは、経緯が長くとても難しいです。
 
そこで今回は、Ýoutube高校(丸山夷)さんの【戦国時代】川中島の戦いが分かり安かったので、紹介します。長野県の善光寺も、戦に大きく関与しているのも、興味深いものがありました。
 
 

ユーチューブでは、他に色々な観点から川中島を説明している動画があります。本当に今のインターネット社会は、勉強が楽しくなる材料にあふれていますね。

 

ウィキペディアには、第4回の戦いの前に、「上杉謙信長尾景虎)は相模国鎌倉鶴岡八幡宮で、上杉家家督相続と関東管領職就任の儀式を行い、名を上杉政虎と改めて越後国へ引き揚げた。」とありますので武運の神 太刀八幡宮の絵馬として奉納されたのでしょうね。

太刀八幡宮の随神と獅子と天狗の面

太刀八幡宮の幣殿には、お神様を守る随神と獅子と天狗の面が一対置かれています。

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幣殿は、拝殿と神殿の間になります。

 

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(内藤宮司の了解を得て、謹んで公開します)

 

この奥の神殿に、三つの赤い内神殿が安置されています。その内神殿に鎮座しておられる主祭神3柱をお守りしています。

 

幣殿は普段、中扉が閉められていますので、随神を見ることは出来ません。例大祭の時、この御扉が開かれますので、その時に拝見することが出来ます。

 

 

随神(ずいじん)

東京神社庁のホームページに神社Q&Aとして随神の解説があります。一部引用します。

「随神」は、ご社殿や神社社地などを守る神さまをさします。その神さまは、随神門などに安置されていて、矢大神(やだいしん)・左大神(さだいしん)という俗称で呼ばれることもあります。
 左右二神共、弓と矢を携(たずさ)え剣を帯びていますが、これはその昔、武装して貴人の護衛にあたった近衛府(このえふ)の舎人(とねり)の姿で、彼らは「随身(ずいしん)」と呼ばれていました。その随身が転じて、主神に従い守護するという意味で随神となったのでしょう。

 

正中線

内藤宮司さんから教えて頂いたのですが、お神様の真ん中の線を正中線といって、お神様から見て左側の随神が位が高く、色は赤の方が格が上だそうです。以前紹介した「太刀八幡宮の社殿は美しい」の神殿にも、左側は赤鬼が,右側には緑の鬼が飾られていましたね。幣殿内の隋神たちと同じ色彩です。みんな神殿内のお神様を守っています。

『「林 修の今でしょ!講座」日本人なら知っておきたい2大講座SPお寺と神社マル秘作法』を見て、その内容をまとめてくれているホームページがありましたので、正中線の解説図を転載します。

問11.神社の参道のどこを歩くのが正しい?

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お神様から見たら左の随神の位が高いというのは、左方上位という考え方で、左大臣・右大臣、左京区右京区というのも、その思想の表れです。神様の話からそれますが、河川も山側(上流側)を背にして右側を右岸、左側を左岸と言います。左岸が格上ではないと思いますが・・・。

この左方上位について、やさしく解説している吉徳大光さんのおひな様の飾り方を引用します。

日本には古くから「左方上位(左側の方が位が高い)」という考え方がありました。ですから左大臣と右大臣では、左大臣の方が格上になります。神社で手水を使うときに左手から清めるのも同じ理由です。雛人形は平安貴族の姿をしていますが、平安時代の帝は、妃の左側(向かって右)へ座っていました。京都と関西の一部では、そのしきたりに従って、内裏雛を並べているのです。

一方現在の皇室では、天皇は必ず皇后の右側(向かって左側)に立たれます。座られる場合も右側です。この位置の取り方は、西洋式のルールにのっとっています。明治時代の終わり頃から日本でも西洋に準じて、このルールが取り入れられました。

 

ホームページには、関東と関西では、おひな様の並べ方が逆だとも書かれています

 

上皇上皇后両陛下の写真を、宮内庁ホームページから転載させていただきます。

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解説のとおり上皇様が右にいます。

 

上皇上皇后様の思い出

かれこれ30年前頃の話になりますが、当時東京都八王子市で仕事をしていました。八王子は、武蔵野墓地があり、大正天皇、皇后そして昭和天皇、皇后の御陵が有ります。そういうことから、当時天皇皇后両陛下も八王子に足を運ぶ機会がたびたびあったのだと思います。

天皇皇后両陛下がいらっしゃるという情報が入ると、職場のおばちゃんが「挨拶するよ」と事務所の2階の窓ぎわにつれていかれ、パトカーに護衛された両陛下の車に向かって、天皇陛下〜」と叫びながら両手を振るのです。私は恐縮しながら、右手をはにかむ様に振っていました。そうすると車の窓がスッと開いて、両陛下が手を振って応えて下さったのです。おばちゃんは、「いつも、ああして手を振ってくれるのよ。」と説明してくれましたが、当時の私にとっては大事件で、天皇陛下のお車に2階から見下ろしながら手を振っていることに、お咎(とが)めがくるのではないかと思ったものでした。しかし、お咎めは無く、その後も天皇皇后両陛下が八王子に訪れる度に、私たちは手をふり、両陛下は毎回窓を下げて応えて下さいました。その気さくなお姿に、感動していました。

両陛下のこの気さくな姿勢を思い出した時、太刀八幡宮のお神様も(日本中のお神様も)きっと気さくな神様だと感じるんですね。かしこまってお参りすることは大切だと思うんですが、それよりも、たびたび顔を見せて「おはようございます、今日も良い天気ですね。」と気楽に神社に足を運んでくれると、お神様は喜ぶんじゃないかなと思うのです。毎日参拝している私の実感です。

 

正中線で検索するとびっくり

ちなみに正中線で検索すると妊婦さんのお腹の記事がたくさん出てきます。いやほとんどです。人間の体の名前も不思議ですよね。妊婦さんの話のついででなんですが、子宮で胎児が育ち、産道を通って出産しますよね。まるで神社です。子供のお宮があって、産道(参道)を通ってこの世に誕生するなんて、人間は神様ですか?

 

今回も、随神の一枚の写真から、色々なことを学ぶことが出来ました。ありがとうございます。😊

 

 

 

 

 

 

 

太刀八幡宮の絵馬 その3 那須与一 扇の的の図

那須与一 扇の的の図

天保四年(1833)癸巳 三月

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189年前の絵馬です。

今回紹介する絵馬シリーズの中では、一番古い絵馬になります。

 

海の中に入った馬上の武士が那須与一(なすのよいち)。弓を放ち、矢は的の扇を見事射抜いた状況です。船には美しい女性が乗っていますね。

 

那須与一はどういう人?」と聞かれても、「名前は聞いたことはあるけど詳しくは分かりません」と答えてしまいます。

しかしインターネット社会では、「那須与一 扇の的」と検索すれば、たくさんの情報を得ることができます。あっという間に博学の人に変じてしまいます。

 

今回、引用させていただくのは、東洋経済オンラインに掲載されている『「教科書で習う那須与一「扇の的」何とも以外な事実』著者:濱田浩一郎  歴史学者、作家、評論家です。

この記事の初めに、「このシーンは中学国語の教科書にも登場します」とありましたので、子供の教科書を調べてみると、国語便覧 浜島書店に登場していました。転載します。

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さすが教科書ですね。弓矢も詳細に解説しています。那須与一が的を射った時に使用したのは、鏑矢という矢で「穴があいていてヒューヒューという音がでる 開戦の合図に用いた」と書かれています。

そして、2ページにわたって解説しているのは、驚きです。

 

それでは、少し長くなりますが、東洋経済オンライン 教科書で習う那須与一「扇の的」何とも意外な事実 著者:濱田浩一郎 から一部引用させていただきます。

 

日暮れが近付き、戦はまた明日かというときになって、平家がいる沖のほうから、小舟が一艘現れ、汀(みぎわ、水際)に向けて漕ぎ寄せてくる。舟上では、18歳ばかりの優美な女房が紅の袴を着て、扇(紅の地に金色の日を描いたもの)を船棚に挟み、手招きしている。その様を『平家物語』は次のように描く。

「さて、阿波・讃岐国において、平家に叛き、源氏の軍勢がやって来るのを待っていた者たちが、あそこの山やここの洞より、14、15騎、20騎と共に現れたので、源義経の軍勢は300余騎となった。『今日はもう日暮れ。勝負を決することはできない』といって引き揚げようとしたところに、沖のほうから、立派に飾った小舟が一艘、汀に向けて漕ぎ寄せてきた」(『平家物語』を筆者が現代語訳)。

(この扇を射てみよ)ということを悟った源氏方は、下野国の住人・那須与一宗高を選抜し、その役に当てる。与一は20歳の若武者。萌黄威の鎧を着用し、足金を銀で作った太刀をさし、滋籐の弓を脇に挟んでいる。

命令を一度は拒んだ那須与一

義経の御前に参上した与一は「射損なえば、味方の恥となりましょう。確実に射落とせる者にお命じください」と命令を拒むが「私の命令に背いてはならぬ。異論を唱えるなら、ここから去れ」との義経の厳命により、渋々、大役を引き受ける。

海に馬を乗り入れる与一。扇と与一との距離は約75メートル。しかも日暮れどきであり、北風で波も高い。沖では平家方が舟を並べて見物している。陸でも、源氏方が馬のくつわを並べて見つめる。

緊張のなか、与一は目を閉じ「南無八幡大菩薩、どうかあの扇の真ん中を射させてください。もし射損なうことあれば、弓を切り折って自害する覚悟。どうかこの矢を外させなさらないでください」と祈念すると、再び目を開く。風は少し弱まっていた。

与一は鏑矢をとり、弓につがえ引き絞り「ひょうと」射放つ。

矢は見事、扇の要ぎわ1寸ばかりのところに命中。扇は空に舞い上がり、暫く空中にひらめいた後、海に落ちた。源平の将兵双方が、与一の腕に感嘆し、称賛する。『平家物語』の中でも有名な扇の的の場面である。

 

『南無八幡大菩薩と祈ったと読んで、太刀八幡宮の祭神の八幡神応神天皇)が出てきて驚いてしまいました。この絵馬が奉納された理由はこういうことだったのかと感動した次第です。

 

教科書に再び目をやれば、源氏の白旗には、「八幡大菩薩と書かれており、解説には「弓矢の神として武家の信仰を集め、源氏の氏神となる。」とあります。

 

あー この絵馬を見ながら、武運の神様である八幡神のご威徳の高さを、おしゃべりしている氏子の方々の姿が想像できます。

この頃は、拝殿で絵馬を見ながらお酒を酌み交わしていたのかもしれません。

氏子さんの中には、講談師のようにこの絵馬の物語を語り、それを聞いてうなずいている氏子さんや子供たちがたくさんいたと思います。

まさに、拝殿は社交場としての機能を、充分果たしていたのでしょう。その姿を、太刀八幡宮の神様は微笑ましく見ていたのではないでしょうか?

 

再び、絵馬に目をやれば、189年前の絵馬とは思えないぐらい、鮮明に状況が浮かびあがってきます。

 

ちなみに「ユーチューブ」で「那須与一」を検索すると、3年目に公開された画像ですが、『タッキー大河ドラマ義経 那須与一、扇の的を射る』というのも楽しめます。

 

感謝😊

 

 

 

初体験 裏後光✨

今日は、令和4年9月3日(土)

いつものように毎朝の日課として、太刀八幡宮にかみさんと柴犬2匹でお散歩に出かけました。神社の参道に入る出前で西の空を見ると、光が放射しているではありませんか。

 

何あれ?

西に太陽が無いのに、何で光が放射されているの?

時刻は6時8分。

日の出前の西の空です。

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きれいだね。

美しいねー。

不思議だねー。

と感動しながら、参拝に向かいました。

 

そして、拝殿で参拝すると、今度はとても柔らかな朝日🌅が私たちを包み込んでいました。

なんか、とても気持ち良くて、清々しくて、思わす「ありがとうございます」と手を合わせてしまいます。

 

神社の鳥居を出ると。今度はの空に朝日とともに虹🌈が少しだけかかっていました。

何か、神々しくて嬉しくなる朝の散歩でした。

 

インターネットで検索するとウイキペディアに「反薄明光線(はんはくめいこうせん)」として概要がありましたので引用します。

 

空(天空上)での位置関係を考えてみる。地平線のすぐ上にある太陽が光の起点となり、ここから対日点(太陽と正反対の地点)に向かって光は伸びる。太陽側では光芒は広がりながら伸びるが、観測者の真上の空を境に、対日点側では光芒が収束しながら伸びる。この収束する光芒が反薄明光線である。

地上から見た太陽の角度が低くなる早朝や夕方、日の出日没直前にしか見られない。日本では頃に雲や湿度などの条件が整いやすいとされる。

太陽光線をさえぎるくらいの厚みがあり、かつ、切れ間のある雲の発生が必要である。さらに、雲を構成する水滴雲粒)よりも小さく、目に見えない水滴が多数浮遊した状態が、長い光の経路全体に分布していなければならない。

このように、条件が限られているため、反薄明光線を見つけるのは難しいとされるが熱帯、高い山、飛行中の航空機など、見晴らしの良い条件下では比較的観測され易い現象である。

 

台風が近づいている影響もあるのかもしれませんが、人生で初めて天体ショーを見ることが出来ました。

 

ありがとうございます😊

 

 

小冊子 太刀八幡宮 昭和63年12月 太刀八幡宮氏子総代会

先日、ブログを書き始めたことから、太刀八幡宮総代会長から色々資料を見せて頂く機会を得ました。これからその内容も整理して、ブログに公開して行きたいと思います。

 

今回は、昭和63年に刊行された「太刀八幡宮」としてまとめられた小冊子を紹介します。全文をスマホで撮影した写真で公開しますが、鮮明ではないところがありますが、非常に簡潔にそしてよくまとまっている良い資料です。

 

まえがきを引用します。

古来より大庭の氏子が等しく崇敬する太刀八幡宮は、今を遡(さかのぼ)る1200年の昔から大庭の産土神(うぶすながみ)として鎮座されている由緒あるお社であります。

この度、内神殿の新調、社殿の修復、社務所の新築を記念して太刀八幡宮の由来を刊行しました。

この記録が郷土文化の発展、並に神社と氏子との結(むすび)つきに多少なりとも寄与することが出来れば誠に幸いであります。

亦(また)本書を刊行するに当り縁起の解読から原稿の執筆まで多大の尽力を戴いた鶴田多々穂氏に深く謝意を表します。

この資料を執筆したのは、「太刀八幡宮の絵馬の紹介」で絵馬を調査した功労者として紹介した鶴田多々穂さんです。

まえがきにある「縁起の解読」というのは太刀八幡宮の縁起書のことで、筑前上座郡大庭村 太刀八幡宮縁起 上下2巻」のことです。この資料のことも、いずれブログで公開していきますが、下の写真(上巻の最初の部分)のように巻物になっています。

上巻は約9m、下巻は約6m、合わせて15mの非常に長い巻物です。

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この資料を解読されたということは、大変な努力が必要だったと思います。今の私には読むことすら出来ません。その鶴田多々穂さんの成果をこうしてブログで紹介出来ることは、絵馬の時と同様に本当に光栄であり、感謝申し上げます。

 

また、まえがきに記載されている「社務所の新築」ですが、現在の社務所の前に社務所再建記念の碑」が建っています。石碑に刻まれた内容を引用します。

昭和六二年八月三十一日夜半 台風十二号の襲来により境内の樹齢数百年の巨木二十九本が倒伏し その内の一本周囲二米半の櫟(いちい)の大木は 昭和二年に建設した二十四坪の社務所を直撃全壊の大損害を与えた 敬神の念篤き祖先の意を継ぎ四七二戸の氏子の創意に基き 一戸当り一万六千円の浄財により再建された

宮司 内藤 主税

 

台風により全壊した社務所の新築等を記念して、この小冊子が刊行されたのですね。

この小冊子は、当時氏子の皆様に配布されたのでしょうか?

 

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太刀八幡宮の絵馬 その2 神功皇后・武内宿禰図 応神天皇を抱く

神功皇后 武内宿禰図・応神天皇を抱く

明治二十三年(1890年) 寅 八月

善光寺區中 願成就

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132年前の絵馬です。

神功皇后が、皇子(後の応神天皇)を抱く武内宿禰を微笑んで見ています。皇子は菊紋の服に包まれていますね。そして皇后の後の幕には巴紋を見ることが出来ます。神紋に思わず目が行ってしまいます。👀

太刀と弓を持つ神功皇后の勇ましい姿は美しく荘厳です。太刀塚に納められた太刀は、この様に美しい鞘に納められた太刀だったのでしょうか?

何度見ても、微笑ましい絵馬です。

 

特別展「絵馬」神に捧げる祈りの美 福岡県立美術館 の出品目録 P79を引用します。写真は、神功皇后武内宿禰図 北九州市若松区白山神社 引用 p43 

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本図は現存する例が少ない、伊万里様式の色絵磁器の絵馬である。

神功皇后伝説に基づくもので、新羅遠征の帰途、筑紫において皇后が出産した皇子(後の応神天皇)を、老臣の武内宿禰が抱く場面である。古来好まれた画題で、絵馬だけでなく多くの作例が残されている。筑紫における皇子出産という理由のためか、この画題は福岡県内の絵馬で、最も作例の多い一つであり人気の高さが伺える。

 

武内宿禰(たけのうちの すくね)とは

ウイキペディアから抜粋して引用します。

武内宿禰は、記紀に伝わる古代日本の人物。景行・政務・仲哀(神功皇后の夫)・応神天皇神功皇后の皇子)・仁徳の5代の各天皇に仕えたという伝説上の忠臣である。

「日本書記」「古事記」の記す武内宿禰の伝承には、歴代の大王に仕えた忠臣像長寿の人物像300歳まで生きたと「日本書記」にある 大絵馬ものがたりより)、神託を行う人物像等が特徴として指摘される。

高良大社では、祭神の「高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)」が中世以降に八幡神第一の伴神とされたことから応神天皇八幡神と同一視される)に仕えた武内宿禰がこれに比定されている。その結果、石清水八幡宮を始めとする全国の八幡宮・八幡社において、境内社のうちに「高良社」として武内宿禰が祀られている例が広く見られる。

また武内宿禰は忠臣とされることから、日本銀行券の肖像としても5種類(一圓券、五圓券)に採用されている。

 

www.kourataisya.or.jp

の「ご祭神」を見ると

高良の神さまの御神号は、「高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)」と申し上げます。

として、武内宿禰像 博多人形 小島与一作 が紹介されています。

太刀八幡宮境内社に「高良社」があるのか、今時点では把握していませんが、今後紐解きが楽しくなります。

 

こうして新たに絵馬を見ると、神功皇后三韓征伐を終えて、皇子(後の応神天皇)を出産した後の、幸せなひと時の姿を絵馬師達は腕をふるって表したのでしょう。

インターネットで「神功皇后武内宿禰図」と検索すればたくさんの画像を楽しめます。

 

またこの絵馬からは、親子の愛、忠臣の大切さを感じ取ることが出来ます。

 

ところで、奉納者は善光寺區(区)中 願成就とありますが、善光寺の皆様はこの時代何の願いが叶ったのでしょうね。詳しい願いは、裏にでも書かれているのでしょうか?