② 稲荷神社
祭神 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)
正面写真
左側面写真
碑文を解読します。
大嘗祭記念改築
大正 四 乙卯 年 十一月 〇旦?
「1915年 乙卯(きのとう)」
大嘗祭とは、新天皇の即位の年に行われる新嘗祭のことです。大正天皇の即位の礼は、大正4年11月10日に行われており、大嘗祭は11月14日・15日に行われています。
歳旦?と読めるのですが、歳旦は元旦の事みたいなので、はっきりしません。建立したという意味だと思われます。
背面写真
碑文を解読します。
信徒総代〇〇順
丸山 久吉
佐藤 利平
平田 ?米吉
徳永 藤四郎
鶴川 光次郎
調 喜策
辛川 喜平
寄進された方々のお名前だと思われます。
先日、朝倉町史を読んでいた時に、昭和11年新嘗祭献穀斎田として、大福村三寺の鶴川光次郎さんの名前が記載されていました。この碑文の一人ですね。
太刀八幡宮の名前も出てきますので、当時の様子を朝倉町史から一部引用して紹介します。
献穀斎田決定の経過
昭和11年度新嘗祭献穀斎田が大福村に選定され、奉耕大田主(おおたぬし)として、県側が示す適格条件に合致する祭主の選考が、村執行部、村議会、農会技師等を含め慎重に行われた。
⑴自営農業者であること。
⑵当該村内での各方面からの信頼の篤い有識者であること。
⑶相当の資産を有する者であること。
⑷相当の経費を要するため、経済的に負担可能の者。
これらの条件を満たし、かつ斎田地に清浄な水利の便があり、斎田管理のための交通条件や、神事等の行事が支障なく執り行える土地を有していることなどを総合的に勘案し、大福村三寺、鶴川光次郎に決定された。
本斎田地(大字大庭字徳次2451の1 田3反6畝11歩)は、区画整然とした美田が、北方遥か荷原川堤防まで広がり、北北西の方角には、大庭村の総鎮守の太刀八幡宮の森がこんもりとした、たたずまいを見せている。
奉賛会
斎田の設置が決定されるやいなや、大福村の在住の有志は、斎田の奉仕を賛する目的をもって直ちに奉賛会を結成した。
会長は村長、会員は村議会議員を中心に区長、産業組合理事、消防組、青年団、主婦会、処女会、学校教員、在郷軍人会等村内各種団体を含む村あげての体制を作り、奉仕作業に万全を期した。
奉耕(助耕者)者の選考
村挙げての奉仕作業の中で最も光栄ある助耕者の選考は特に慎重に行われた。村内の青年男女のなかから、奉賛会において選考基準を設け、男女各10名、計20名の青年男女が選任された。
奉告祭
献穀斎田の設置が決まり、大福村内各地からの助耕者も選任され、奉仕の態勢はととのえられた。
斎田の豊穣並びに奉耕関係者の安全を祈願するため、古木生い茂る産土神太刀八幡宮の境内において、小学校生徒も参列し、奉賛会役職員、農会技手、男女助耕者による神前奉告祭が執り行われた。早朝の森厳なる冷気の下に、献穀田の豊穣と、奉耕の大任を完遂するよう、お互いの心に誓い合ったのある。
御田植祭・お田植舞
御田植祭りは斎田行事の中で最も華やかな大祭であった。お田植舞奉納者は高等科2年生女子40名及び唱歌隊の女子生徒であって、お田植舞の歌もそのために作られた。
献穀米奉送
昭和11年10月半ば、大田主に奉持された献上米は、学校から大福郵便局の辻までの300mの沿道に、村民有志をはじめ小学校全生徒が整列奉送する中を、特別仕立ての乗用自動車に随員と共に分乗し、発送されたのであった。
半年間に及び村をあげての大行事であった主基斎田の諸行事もここに漸く終結をみたのである。
朝倉町史より転載
大福村あげて奉仕された姿が、目に浮かんできます。読んでいるだけで目頭が熱くなるのはなぜでしょうか?当然予期しえない事も沢山あったことだろうと思います。そこを、神に祈りながら、皆さんで智恵を出し合い、行動して乗り越えてこられたんだと感じます。
その姿を見て、宇迦之御魂神を始め、太刀八幡宮の神々、応神天皇・神功皇后・宗像三女神は、優しく見つめ、多大なる応援をしていたのではないでしょうか?
右側面写真
お宮を作成した石師ですね。
富村大角
人造石師
鶴田 伊助
鶴田 磯次
この稲荷神社も遷座?
この稲荷神社の碑文は、後日紹介する④白峯神社と同じ内容です。
白峯神社は、太刀八幡宮の遷座の歴史で紹介しましたが、神社庁への提出資料の中では、「大字大庭字角虫に祭祀ありしを大正15年12月11日許可を得て移転合併す」となっています。
もしかしたら、稲荷神社もその時一緒に遷座しているのかもしれません。
仮ににそうだとしたら、
古くから角虫にあった稲荷神社が、大嘗祭(大正4年)の年に記念改築し、大正15年に太刀八幡宮に遷座されたことになりますね。
それでは、何故神社庁への提出書類に記載がないのでしょうね?
稲荷神社は、朝倉には少ない?
境内社の調査で、内藤宮司さんに写真を持って相談しに行った時に、「(写真を見て)稲荷と読めそうだが、朝倉には稲荷神社はほとんどないのだが?」とおっしゃいました。この神社が稲荷神社と最終的に判断出来たのは、朝倉町史・朝倉の神々に記載があったからでした。
ちなみに大福地区53の神社の内、稲荷神社は2社となっていました。
何故、農業の町のこの地に、穀物の神様である稲荷神社が少ないのかは定かではありませんが、菅原神を祀る天満宮が多く(53社中13社)、朝倉町史の中でも「天満宮は、農耕の守護神」として祀られたとなっていました。このことから農家の方々の信仰の対象としては、稲荷神社より天満宮に傾いていたのかもしれません。
祭神 宇迦之御魂神とは?
稲荷神社といえば、伏見稲荷。
全国3万社あるといわれている稲荷神社の総本山です。
宮司さんの挨拶から一部引用します。平成23年(2011)に御鎮座1300年を迎えています。
御鎮座以来、この長い歳月は単なる時間の経過ではなく、時代時代の人々の篤い信仰心によって「衣食住ノ太祖ニシテ萬民豊楽ノ神霊ナリ」と崇められ、五穀豊穣、商売繁昌、家内安全、諸願成就の神として、全国津々浦々に至るまで広く信仰されてまいりました。
稲荷神社の御神徳は、五穀豊穣、商売繁盛、家内安全、諸願成就と幅広いですね。
宇迦之御魂神でインターネット検索すれば、これまたたくさんの情報を見ることが出来ます。
ウイキペディアを参照して一部引用します。
ウカノミタマは、日本神話に登場する女神。『古事記』では宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、『日本書紀』では倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と表記する。名前の「宇迦」は穀物・食物の意味で、穀物の神である。また「宇迦」は「ウケ」(食物)の古形で、特に稲霊を表し、「御」は「神秘・神聖」、「魂」は「霊」で、名義は「稲に宿る神秘な霊」と考えられる。
次の図は、ウイキペディアに記載されているスサノウの系図ですが、ここに宗像三女神が記載されてて、宇迦之御魂神と同列に並んでいいるのでちょっと楽しくなりました。
太刀八幡宮の神様の一部そろい踏みです。
スサノオの系図(『古事記』による)。青は男神、赤は女神。『古事記』ではウカノミタマの性別について言及していないが、延喜式祝詞の記述などから女神と考えられる
次に紹介するのは、いい葬儀さんのホームページで
「いろんな願いを叶えてくれる、身近な神様。稲荷神社の由来とご利益」
と題して、分かりやすく説明していますので、一部引用します。
庶民に広まったのは江戸時代
お稲荷様の信仰が大きく広まったのは、江戸時代です。それまでは穀物の豊作を願って祀る神様でしたが、幕府の改革などで名高い田沼意次が自分の屋敷にお社を祀ったことで運が開けたという評判が広まったといわれています。そこから、ほかの武士たちもそれを真似て祀りはじめました。さらに、庶民である商人たちもそれにならい、商売繁盛や家内安全の神様として信仰の対象としたのです。木造建築が密集した江戸では火事も多かったため、家屋やお店を、そうした災害から守ってくれる神様としても祀られました。
これらの様子が参勤交代で江戸に来ていた各地の大名の目に留まり、稲荷信仰は全国に広がっていったのです。そのうえ、伏見稲荷大社の稲荷大明神は、以前から朝廷より神階のひとつである正一位の位を受けていました。その神霊を勧請する各地の稲荷神社もまた、同じ格式を得られることが普及の後押しになったと考えられています。
穀物の神様が商売繁盛の神・家内安全の神様になっていった理由が、これで納得しました。全国3万社といいますが、屋敷内や企業の屋上などにある稲荷社を含めると4万社とも5万社ともいわれているそうです。これも江戸時代の流れから生じているのですね。
稲荷神は狐の姿ではない
お稲荷様には狐の像がつきものですが、祭神は狐の姿をしていません。狐は稲荷神の御遣いとなる神使なのです。
狐には昔から人の寿命や作物の収穫量などの未来が分かり、人の精気を奪う、あるいは人を化かすなど、神秘的な動物として扱われてきました。たれ下がった稲穂が尻尾に似ていることや、米を食べるネズミを退治すること、また、稲荷神社の祭神である宇迦之御魂大神の別名が御饌津神(みけつかみ)と言い、これが漢字で「三狐神」と書けることなど、お稲荷様の御遣いが狐となった理由には、諸説あります。
また、狐は春になると山から人里に降りてきますが、秋になるとまた山に戻ります。同様にお稲荷様も田植えの時期に現れて、秋の収穫が終わると山に戻って行くと言われ、その類似性から、お稲荷様と狐を結びつけられました。
いずれにしても、狐は昔から人間の暮らしや稲作と関わりが深く、信仰の対象でもあったため、お稲荷様の御遣いに選ばれたのでしょう。
狐といえば、今年(令和4年)冬(1月か2月頃)に、この街に引っ越して来て、始めてキツネ🦊を見ました。一度は、太刀八幡宮へ向かう途中の雪の積もった田んぼの中を、テレビで見た北キツネのように、ピョンピョン飛びながら移動していました。
そしてもう一回は、子持ち鳥居に向かっていると、目の前に現れ、私たち(妻と犬2匹)が鳥居の前に来ると、階段の一番上に移っていって、そこから私たちを一分程見下ろして、その後本殿の方に走り去って行きいました。
その時の状況です
まるで太刀八幡宮の神様の使いが現れたかのようで、私たちは感動して喜んでいました。
もしかしてあれは、お稲荷さんの御遣いだったのかも。
それ以降お目にかかれてはいません。
今年の冬、お会い出来ることを楽しみしています。👏