氏神様は太刀八幡宮

1200年の歴史を紐ときます

太刀八幡宮の境内神社 ②稲荷神社

② 稲荷神社

祭神 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)

 

正面写真

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左側面写真
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碑文を解読します。

大嘗祭記念改築

大正 四 乙卯 年 十一月 〇旦?

「1915年 乙卯(きのとう)」

 

大嘗祭とは、新天皇の即位の年に行われる新嘗祭のことです。大正天皇即位の礼は、大正4年11月10日に行われており、大嘗祭は11月14日・15日に行われています。

歳旦?と読めるのですが、歳旦は元旦の事みたいなので、はっきりしません。建立したという意味だと思われます。

 

背面写真

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碑文を解読します。

 

信徒総代〇〇順

丸山 久吉

佐藤 利平

平田 ?米吉

徳永 藤四郎

鶴川 光次郎

調 喜策

辛川 喜平

 

寄進された方々のお名前だと思われます。

 

先日、朝倉町史を読んでいた時に、昭和11年新嘗祭献穀斎田として、大福村三寺の鶴川光次郎さんの名前が記載されていました。この碑文の一人ですね。

 

 

太刀八幡宮の名前も出てきますので、当時の様子を朝倉町史から一部引用して紹介します。

 

献穀斎田決定の経過

昭和11年新嘗祭献穀斎田が大福村に選定され、奉耕大田主(おおたぬし)として、県側が示す適格条件に合致する祭主の選考が、村執行部、村議会、農会技師等を含め慎重に行われた。

⑴自営農業者であること。

⑵当該村内での各方面からの信頼の篤い有識者であること。

⑶相当の資産を有する者であること。

⑷相当の経費を要するため、経済的に負担可能の者。

これらの条件を満たし、かつ斎田地に清浄な水利の便があり、斎田管理のための交通条件や、神事等の行事が支障なく執り行える土地を有していることなどを総合的に勘案し、大福村三寺、鶴川光次郎に決定された。

本斎田地(大字大庭字徳次2451の1 田3反6畝11歩)は、区画整然とした美田が、北方遥か荷原川堤防まで広がり、北北西の方角には、大庭村の総鎮守の太刀八幡宮の森がこんもりとした、たたずまいを見せている。

 

奉賛会

斎田の設置が決定されるやいなや、大福村の在住の有志は、斎田の奉仕を賛する目的をもって直ちに奉賛会を結成した。

会長は村長、会員は村議会議員を中心に区長、産業組合理事、消防組、青年団、主婦会、処女会、学校教員、在郷軍人会等村内各種団体を含む村あげての体制を作り、奉仕作業に万全を期した。

 

奉耕(助耕者)者の選考

村挙げての奉仕作業の中で最も光栄ある助耕者の選考は特に慎重に行われた。村内の青年男女のなかから、奉賛会において選考基準を設け、男女各10名、計20名の青年男女が選任された。

 

奉告祭

献穀斎田の設置が決まり、大福村内各地からの助耕者も選任され、奉仕の態勢はととのえられた。

斎田の豊穣並びに奉耕関係者の安全を祈願するため、古木生い茂る産土神太刀八幡宮の境内において、小学校生徒も参列し、奉賛会役職員、農会技手、男女助耕者による神前奉告祭が執り行われた。早朝の森厳なる冷気の下に、献穀田の豊穣と、奉耕の大任を完遂するよう、お互いの心に誓い合ったのある。

 

御田植祭・お田植舞

御田植祭りは斎田行事の中で最も華やかな大祭であった。お田植舞奉納者は高等科2年生女子40名及び唱歌隊の女子生徒であって、お田植舞の歌もそのために作られた。

 

献穀米奉送

昭和11年10月半ば、大田主に奉持された献上米は、学校から大福郵便局の辻までの300mの沿道に、村民有志をはじめ小学校全生徒が整列奉送する中を、特別仕立ての乗用自動車に随員と共に分乗し、発送されたのであった。

半年間に及び村をあげての大行事であった主基斎田の諸行事もここに漸く終結をみたのである。

 

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朝倉町史より転載

 

大福村あげて奉仕された姿が、目に浮かんできます。読んでいるだけで目頭が熱くなるのはなぜでしょうか?当然予期しえない事も沢山あったことだろうと思います。そこを、神に祈りながら、皆さんで智恵を出し合い、行動して乗り越えてこられたんだと感じます。

その姿を見て、宇迦之御魂神を始め、太刀八幡宮の神々、応神天皇神功皇后宗像三女神は、優しく見つめ、多大なる応援をしていたのではないでしょうか?

 

 

右側面写真

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お宮を作成した石師ですね。

富村大角

人造石師

鶴田 伊助

鶴田 磯次

 

 

この稲荷神社も遷座

 

この稲荷神社の碑文は、後日紹介する④白峯神社と同じ内容です。

 

白峯神社は、太刀八幡宮の遷座の歴史で紹介しましたが、神社庁への提出資料の中では、「大字大庭字角虫に祭祀ありしを大正15年12月11日許可を得て移転合併す」となっています。

 

もしかしたら、稲荷神社もその時一緒に遷座しているのかもしれません。

仮ににそうだとしたら、

古くから角虫にあった稲荷神社が、大嘗祭大正4年)の年に記念改築し、大正15年に太刀八幡宮遷座されたことになりますね。

それでは、何故神社庁への提出書類に記載がないのでしょうね? 

 

 

稲荷神社は、朝倉には少ない?

 

境内社の調査で、内藤宮司さんに写真を持って相談しに行った時に、「(写真を見て)稲荷と読めそうだが、朝倉には稲荷神社はほとんどないのだが?」とおっしゃいました。この神社が稲荷神社と最終的に判断出来たのは、朝倉町史・朝倉の神々に記載があったからでした。

ちなみに大福地区53の神社の内、稲荷神社は2社となっていました。

 

何故、農業の町のこの地に、穀物の神様である稲荷神社が少ないのかは定かではありませんが、菅原神を祀る天満宮が多く(53社中13社)、朝倉町史の中でも天満宮は、農耕の守護神」として祀られたとなっていました。このことから農家の方々の信仰の対象としては、稲荷神社より天満宮に傾いていたのかもしれません。

 

祭神 宇迦之御魂神とは?

稲荷神社といえば、伏見稲荷

全国3万社あるといわれている稲荷神社の総本山です。

宮司さんの挨拶から一部引用します。平成23年(2011)に御鎮座1300年を迎えています。

御鎮座以来、この長い歳月は単なる時間の経過ではなく、時代時代の人々の篤い信仰心によって「衣食住ノ太祖ニシテ萬民豊楽ノ神霊ナリ」と崇められ、五穀豊穣、商売繁昌、家内安全、諸願成就の神として、全国津々浦々に至るまで広く信仰されてまいりました。

稲荷神社の御神徳は、五穀豊穣、商売繁盛、家内安全、諸願成就と幅広いですね。

 

宇迦之御魂神でインターネット検索すれば、これまたたくさんの情報を見ることが出来ます。

 

ウイキペディアを参照して一部引用します。

ウカノミタマは、日本神話に登場する女神。『古事記』では宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、『日本書紀』では倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と表記する。名前の「宇迦」は穀物・食物の意味で、穀物の神である。また「宇迦」は「ウケ」(食物)の古形で、特に稲霊を表し、「御」は「神秘・神聖」、「魂」は「霊」で、名義は「稲に宿る神秘な霊」と考えられる

 

次の図は、ウイキペディアに記載されているスサノウの系図ですが、ここに宗像三女神が記載されてて、宇迦之御魂神と同列に並んでいいるのでちょっと楽しくなりました。

太刀八幡宮の神様の一部そろい踏みです。

 

ウイキペディアから転載

スサノオ系図(『古事記』による)。青は男神、赤は女神。『古事記』ではウカノミタマの性別について言及していないが、延喜式祝詞の記述などから女神と考えられる

 

 

次に紹介するのは、いい葬儀さんのホームページ

「いろんな願いを叶えてくれる、身近な神様。稲荷神社の由来とご利益」

と題して、分かりやすく説明していますので、一部引用します。

庶民に広まったのは江戸時代

お稲荷様の信仰が大きく広まったのは、江戸時代です。それまでは穀物の豊作を願って祀る神様でしたが、幕府の改革などで名高い田沼意次が自分の屋敷にお社を祀ったことで運が開けたという評判が広まったといわれています。そこから、ほかの武士たちもそれを真似て祀りはじめました。さらに、庶民である商人たちもそれにならい、商売繁盛や家内安全の神様として信仰の対象としたのです。木造建築が密集した江戸では火事も多かったため、家屋やお店を、そうした災害から守ってくれる神様としても祀られました。

これらの様子が参勤交代で江戸に来ていた各地の大名の目に留まり、稲荷信仰は全国に広がっていったのです。そのうえ、伏見稲荷大社稲荷大明神は、以前から朝廷より神階のひとつである正一位の位を受けていました。その神霊を勧請する各地の稲荷神社もまた、同じ格式を得られることが普及の後押しになったと考えられています。

穀物の神様が商売繁盛の神・家内安全の神様になっていった理由が、これで納得しました。全国3万社といいますが、屋敷内や企業の屋上などにある稲荷社を含めると4万社とも5万社ともいわれているそうです。これも江戸時代の流れから生じているのですね。

稲荷神は狐の姿ではない

お稲荷様には狐の像がつきものですが、祭神は狐の姿をしていません。狐は稲荷神の御遣いとなる神使なのです。

狐には昔から人の寿命や作物の収穫量などの未来が分かり、人の精気を奪う、あるいは人を化かすなど、神秘的な動物として扱われてきました。たれ下がった稲穂が尻尾に似ていることや、米を食べるネズミを退治すること、また、稲荷神社の祭神である宇迦之御魂大神の別名が御饌津神(みけつかみ)と言い、これが漢字で「三狐神」と書けることなど、お稲荷様の御遣いが狐となった理由には、諸説あります。

また、狐は春になると山から人里に降りてきますが、秋になるとまた山に戻ります。同様にお稲荷様も田植えの時期に現れて、秋の収穫が終わると山に戻って行くと言われ、その類似性から、お稲荷様と狐を結びつけられました。

いずれにしても、狐は昔から人間の暮らしや稲作と関わりが深く、信仰の対象でもあったため、お稲荷様の御遣いに選ばれたのでしょう。

狐といえば、今年(令和4年)冬(1月か2月頃)に、この街に引っ越して来て、始めてキツネ🦊を見ました一度は、太刀八幡宮へ向かう途中の雪の積もった田んぼの中を、テレビで見た北キツネのように、ピョンピョン飛びながら移動していました。

そしてもう一回は、子持ち鳥居に向かっていると、目の前に現れ、私たち(妻と犬2匹)が鳥居の前に来ると、階段の一番上に移っていって、そこから私たちを一分程見下ろして、その後本殿の方に走り去って行きいました。

その時の状況です

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まるで太刀八幡宮の神様の使いが現れたかのようで、私たちは感動して喜んでいました。

 

もしかしてあれは、お稲荷さんの御遣いだったのかも。

 

それ以降お目にかかれてはいません。

 

今年の冬、お会い出来ることを楽しみしています。👏

 

 

 

 

 

 

 

 

太刀八幡宮の境内神社 ①太刀神社

 

 

①太刀神社

祭神 息長帯姫命おきながたらしひめのみこと)=神功皇后じんぐうこうごう

太刀塚は、境内社だったんですね。(神社庁提出資料の境内社 一番に記載)

 

太刀塚については、以前ブログで少し紹介しています。

 

太刀八幡宮の祭神は、宗像三女神(田心姫命市杵島姫命湍津姫命)   応神天皇 神功皇后であり、本殿に祀られています。

 

その本殿に祀られている神功皇后が、境内社である太刀神社の祭神として祀られているのも不思議な感じがしますが、太刀八幡宮にとってこの太刀神社がルーツになる重要な場所なので、境内社として扱われているのでしょう。

 

神社名の起こりとなった太刀塚

以前ブログで紹介した小冊子「太刀八幡宮」に、太刀塚の記載がありますので一部引用します。

二、太刀八幡宮の発祥

神功皇后は気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)とも大帯姫尊(おおたらしひめのみこと)とも云い、人皇十四代仲哀天皇ちゅうあいてんのう)の妃(きさき)であり、応神天皇おうじんてんのう)の母である。

仲哀天皇の御代、日向国ひゅうがのくに)の熊襲くまそ)を討つために、天皇とともに九州に来たが、天皇は志半ばにして筑紫の香椎(かしい)の宮で崩(ほう)ぜられた。

天皇の意志を受けた神功皇后は、直ちに熊襲を討ち、秋月古処山(こしょさん)の麓(ふもと)の地方で騒いでいた羽白熊鷲(はじろくまわし)という賊(ぞく)を平らげ、つづいて山門(やまと)土蜘蛛田油津姫(つちぐもたぶらつひめ)という強敵を滅ぼした。その途次(とじ)皇后は、大庭村上野原の廣野にて軍兵を練り、兵器をとがしめ、みづから帯びていた太刀を奉納して、天神地祇(てんじんちぎ)に国敵降伏の戦勝を祈願し、ここに大石を畳(たた)み、この太刀を納め塚(つか)を築き、太刀塚として祭った。

 

三、神社名の起こりとなった太刀塚

 

このほか或る書によれば

天皇御太刀と申すは、神代より伝えさせ給うものにして、凡人の手にふれる事は恐れある故に、亀井ヶ原という所に、口八尺四方、深さ五丈掘らせ給い、内に金(かね)の棹(さお)を渡し、金(かね)のくさりにてつなぎ給い、上に三丈の石をたたみて封じ給う」とも書かれている。

 

この記述をもとに、どのように埋設されているのか想像図を描いてみました。

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今、地上にある太刀塚の囲いの土台部が、2.4m四方です。この広さで、地下15mまで掘り下げて、神功皇后の御太刀を奉納したんですね。

 

 

神功皇后が納めた御太刀とは?

 

インターネットで、古い太刀を検索していると、平戸城に展示している重要文化財が目にとまりました。

 

長崎県のホームページに説明文と写真が載っていますので、引用します。

 

長崎県の文化財

重要文化財(国指定) 鐶頭大刀無銘拵付一口附大刀図一通

かんとうのたちむめいこしらえつきひとくちつけたりたちのずいっつう

柄頭を環状にまるめた鉄製の直刀。長さ93㎝。水牛の角製の鍔をつけ、竹を馬革で包んだ鞘(さや)を持つ。刀身は杢(もく)目(め)肌(はだ)が美しい。刃紋は小乱れで錵(にえ)がよく出来ている。亀岡神社の社伝によると、神功皇后朝鮮半島出兵に従軍した七郎氏広の佩刀と伝えられ、同類が平戸島志々伎神社小値賀町の神島(こうじま)神社に伝わっていたが、現存するのは本資料のみである。

鐶頭大刀無銘拵付一口附大刀図一通

長崎県文化財から転載

 

神功皇后朝鮮出兵に従事した七郎氏広の佩刀と伝えられ、」

とありますので、同じ時代の太刀でしょう。

 

そして、神功皇后の太刀は、「神代より伝えさせ給うものにして」と書かれていますので、美しく荘厳な太刀だったと想像します。

 

 

春日大社国宝「金地螺鈿毛抜形太刀」

2017年のブログですが、エンタメ特化型情報メディア スパイスの記事で、

春日大社御創建1250年記念展『伝説の名刀たち』開催中

と題して国宝級の名刀の紹介があります。一部引用します。

国宝「金地螺鈿毛抜形太刀(きんじらでんけぬきがたたち)」平安時代

 

エンタメ特化型情報メディア スパイスより転載

金無垢の金具、超絶技巧の装飾、奇抜なデザイン。猫好きで知られる藤原頼長の太刀と想定される。拵(こしらえ)の柄に大きな透かしが空いており、それが古代の毛抜きに似ていることから「毛抜形太刀」といわれる。

 

この太刀は金具の部分が金メッキではなく、純度の高い純金で作られているとのことです。

 

奈良テレビのニュース番組でこの太刀のことを取り上げていて、とても参考になります。NHKでは、現代の名匠たちが、この太刀の復元品を作成する状況をビデオで販売しています。

www.bing.com

 

こうして想像するに、太刀塚に奉納された神功皇后の太刀は、純金で黄金に光っていたのでしょうか?

 

 

太刀と刀の違い

 

刀剣ワールドというホームページに、太刀と刀の違いが詳しく書かれています。

一部引用します。

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最も簡単に太刀と打刀を見分ける方法は、その携帯の仕方です。

太刀は刃側を下にして腰の左に吊るし、これを「佩く」(はく)または「佩刀」(はいとう)と言います。

 

少しずつ太刀のイメージが膨らんできます。

goodlightsato.com

絵馬の神功皇后が手にしている太刀は、美しい鳥の羽根?を飾った鞘に納まっているように見えます。

 

神功皇后は、何故太刀を奉納したのか?

 

先に述べた小冊子に、「天神地祇(てんじんちぎ)に国敵降伏の戦勝を祈願し、」とあります。天神地祇とは、天の神、地の神すべての神のことです。

また、「とりわけ、神功皇后宗像三女神を深く斎き祭られた」という記述もあります。

 

先日、境内社の件で内藤宮司さんに色々教えていただいた時に、「この本を読むと良いよ」と、綾杉るなさんの「神功皇后伝承を歩く」を紹介して頂きました。この本を持って、美奈宜神社に参拝される方も多いとのことです。

彩杉るなさんは、下関を含んだ福岡県の神功皇后ゆかりの神社を自らの足で100社まわり、美奈宜神社では内藤宮司さんとも対談をしています。もちろん太刀八幡宮にも参拝していますし、朝倉市では11の神社を巡って本の中で紹介しています。

 

本の「はじめに」を紹介します。

福岡県の神社を参拝すると、神功皇后の伝承が大変多い事に気づかされます。その存在は千八百年もの間、語り継がれ祈られて、戦いを勝利に導く女神となり、出産する女性を守護する女神となっていました。

 

 

その太刀八幡宮の記述の中で、何故神功皇后がこの土地に太刀を奉納したのかについて、次のような文章がありますので、引用します。

 

三女神は宇佐宮から勧請したとなっているが、当宮はもともと三女神を祀っていたのではないか。何故なら三女神は太刀から生まれた神々だからだ。その縁で皇后は太刀を奉納したのではないだろうか。

 

三女神の誕生について、宗像神社のホームページの由緒には

天照大神素盞鳴尊の剣を噛み砕き、息を吹きかけると三柱の女神が生まれます。
これが宗像三女神の誕生となります。

と書かれています。

 

彩杉るなさんのこの記述も、100の神社を巡り神功皇后伝承をまとめ上げた方の意見として、とても興味深いものがあります。

 

また、本のなかでも紹介していますが、

ブログ「ひもろぎ逍遙」では、各神社の訪問日記を綴っていますので合わせてご覧ください。本とブログがリンクした新しい形の神社ガイドブックとなればと思います。

としして太刀八幡の紹介もしています。

太刀八幡宮・神功皇后は太刀を磨かせて奉納した

神功皇后の刀剣の銘を残す太刀八幡宮

 

 

 

タイムマシンが開発される時を待って

 

1800年前、この場所で神功皇后が太刀を奉納する姿が,目に浮かんできます。

実際どのような太刀を、どのように奉納したのかは、将来の新技術の開発を待つことにします。映画のように見ることが出来る日が来るかもしれません。その時が楽しみです。

 

 

太刀八幡宮の境内社 遷座の歴史

やっと完成しました。

 

太刀八幡宮には、境内社と呼ばれる小さなお社が9社あります。それぞれどういうお神様が祀られているのかをまとめようと調査を開始したのですが、はっきり名前が読み取れるお社はわずかで、そもそも◯◯神社と彫られていないお社が多いのです。

 

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読めますか?


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そこで内藤宮司さんの協力を仰ぎながら、福岡県神社史、朝倉町史などを参考にして、ようやくまとめることが出来ました。

 

今回は、全体の配置図・写真そして、境内社が太刀八幡宮遷座された経緯などを紹介していきます。

 

境内社の配置図

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お正月に境内社にお参りしたあの人は?

令和4年のお正月、私は総代として深夜の当番をしていました。元旦0時には、初詣の参拝の方は多いのですが、しばらくすれば参拝者の数も減り、焚火の番をしながら、朝を待つことになります。その時に、本殿をお参りした後で、境内社の一つにお参りした男性の方がおられました。こういう方もおられるのだなぁとその時はあまり深く考えもせず、その姿を見ていました。

 

今回、境内社のことを調べて行くうちに、境内社が受けた社会の変化・流れを理解することが出来、境内社にお参りされたあの方の気持ちも、少し理解することが出来たように思います。

 

宗像大社境内社

太刀八幡宮主祭神である宗像三女神をお祀りしている宗像大社のホームページを見ると、「本殿の周辺には大小のお社が24社あり、121の神様が祀られています。」と記載されています。何故こんなに多いのか色々調べていると、 世界遺産「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群 のホームページに

殿・拝殿の周りには、辺津宮末社(本社に付属する小さい神社)が並んでいます。これらは延宝3年(1675)に第3代福岡藩黒田光之によって、宗像郡内の末社が集められ、合わせて祀られたものです。現在もこの時に造営された末社の社殿が残っています。

と記載されています。

 

お殿様が地域の末社を集めた目的は何だったのでしょうか?

 

そして、太刀八幡宮境内社もお殿様(誰になるのかなー、秋月藩のお殿様?)が集めるよう指令を出したのでしょうか?

 

 

福岡県神社誌(昭和63年出版、昭和19年刊の合本)

 

福岡県神社誌には、太刀八幡宮の境内神社として、次の3社が記載されています。

 

志賀神社(少童神)

白峯神社(崇徳天皇

御太刀塚神社(息長帯姫命

 

しかし実際には9社有りますので代表的なお社だけを記載したのでしょうか?

 

太刀八幡宮神社庁への提出書類

内藤宮司さんに、現地の写真を持って境内社のことを教えてもらおうと相談にお伺いすると、昭和27年4月1日に神社庁に申告した書類を見ることが出来ました。そこには、9社の神社の名前と神様、そして遷座した年月も書かれていました。

内藤宮司から、「政府の意向で小さな神社を地域の大きい神社に取りまとめることが進められた。しかし、移した後どうしてもお社を戻して欲しいと懇願があり、元の場所に戻ったところもある。」ということでした。

 

境内社の記述は次の通りです。便宜上番号を付けています。

 

1.太刀神社 息長帯姫命

 

2.佐塞神社 久那斗神

     本村字佐屋に鎮座せるを明治15年9月境内社に移轉す

 

3.徳満宮  保食神 罔象女命

     大字大庭字乙王丸に祭祀ありしを大正15年12月11日許可を得て移轉合併す

 

4.秋葉宮  軻遇突智命

     大字大庭字乙王丸に祭祀ありしを大正15年12月11日許可を得て移轉合併す

 

5.天満神社 菅原神

     大字大庭字後園に祭祀ありしを大正15年12月11日許可を得て移轉合併す

 

6.蛭子社  事代主命

     大字大庭字後園天満神社境内社に祭祀ありしを大正15年12月11日許可を得て移轉合併す

 

7.天満神社 菅原神

     大字大庭字平田に祭祀ありしを大正15年12月11日許可を得て移轉合併す

 

8.白峯神社 崇徳天皇

     大字大庭字角虫に祭祀ありしを大正15年12月11日許可を得て移轉合併す

 

9.厳島神社 市杵島姫命

     大字大庭字平田に祭祀ありしを大正15年12月11日許可を得て移轉合併す 

 

境内社の数は9社と合致しましたが、福岡県神社誌に記載のある志賀神社がありません。

 

また内藤宮司さんから、後園の5.天満神社は、現地に戻っているとお聞きしました。ということは、6.蛭子社は天満神社境内社だったので一緒に戻っているのでしょう。

 

ちなみに書類に記載の見慣れない字名は、後園は中央、平田は徳次、角虫は三寺と内藤宮司さんに教えて頂きました。

 

 

朝倉の神々

 

以前総代会長が引き継いだ資料を見せてもらった時の資料を見直していると、有りました。太刀八幡宮境内社が、記載されていました。

誰がまとめた資料か分かりませんが、太刀八幡宮を含めた朝倉の神社の分類、そしてそれぞれの神社の祭神や境内社などが記載されています。

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神社庁への提出書類と見比べてみます。

 

提出書類       朝倉の神々

 

1.太刀神社      息長〆帯姫

2.佐塞神社      塞ノ神

3.徳満宮       徳満宮

4.秋葉宮       秋葉宮

5.天満神社      

6.蛭子社

7.天満神社      天満宮

8.白峯神社      白峯大明神

9.厳島神社      弁財天

 ○         稲荷社

 〇         志賀大明神

 

提出書類の5.天満神社については、「犬丸に鎮座せしを文政年間後薗に遷祀し、大正13年太刀八幡に遷座、昭和26年現在地に奉祀する」朝倉町史第9編に記載がありました。多少年数の差はありますが、天満神社と蛭子社は再び後薗に戻っていかれました。

 

これで、9社が判明いたしました。

 

朝倉町史、朝倉の神々という資料が無ければ、最終的にまとめることが出来ませんでした。作成された方々に感謝します。それにしても良くまとめていると思います。大変な努力と足を運んだことでしょう🙏

 

神社合祀

 

内藤宮司さんから教えて頂いた神社をまとめた話は、神社合祀として調べることが出来ました。ウイキペディアを引用します。

神社合祀(じんじゃごうし)とは、神社の合併政策のことである。神社整理ともいう。複数の神社の祭神を一つの神社に合祀(いわゆる稲八金天神社)させるか、もしくは一つの神社の摂末社にまとめて遷座させ、その他の神社を廃することによって、神社の数を減らすというもの。主に明治時代末期に行われたものをさす。

 

神社合祀の目的は、神社の数を減らし残った神社に経費を集中させることで一定基準以上の設備・財産を備えさせ、神社の威厳を保たせて、神社の継続的経営を確立させることにあった。

 

神社合祀政策は1906年明治39年)の第1次西園寺内閣において、内務大臣・原敬によって出された勅令によって進められ、当初は地域の実情に合わせかなりの幅を持たせたものであった。だが、第2次桂内閣の内務大臣平田東助がこの訓令を強固に推し進めることを厳命したため、全国で1914年大正3年)までに約20万社あった神社の7万社が取り壊された。

 

太刀八幡宮には大正15年に7社遷座していますので、7万社からさらに多くの神社が取り壊されたことになります。

 

合祀反対運動

氏子・崇敬者の側としては、反対集会を開くこともあったが、主として大きな運動もできず、合祀によって廃された神社の祭神が祟りを起こしたなどと語る形でしか不満を示すことはできなかった。

とはいうものの、この合祀政策は、博物学者・民俗学者で粘菌の研究で知られる南方熊楠ら知識人が言論によって強い反対を示した。南方は、合祀によって①敬神思想を弱める、②民の和融を妨げる、③地方を衰微する、④民の慰安を奪い、人情を薄くし、風俗を害する、⑤愛国心を損なう、⑥土地の治安と利益に大害がある、⑦史跡と古伝を滅却する、⑧天然風景と天然記念物を亡滅すると批判した[1]こうした反対運動によって次第に収束して、帝国議会での答弁などを通して、1910年明治43年)以降には急激な合祀は一応収まった。しかし、時既に遅く、この合祀政策が残した爪跡は大きく、多数の祭礼習俗が消えてしまい、宗教的信仰心に損傷を与える結果となった

 

合祀された神社の復祀

戦後になると、戦前の神社非宗教体制は解体され、すべてが宗教法人となった[1]。一度合祀されたものの、のちに復祀された神社も少なくなかった。

 

後園の天満神社昭和26年復祀の道を辿ったのですね。

 

こうした政治の波にのまれて、太刀八幡宮境内社が、今にあります。

それぞれのお社の氏子の方々の気持ちは複雑だったことでしょう。

 

境内社にお詣りを

私は、今まで境内社に手を合わすことはなかったのですが、この歴史を知り、それぞれのお神様のことを知ることで、今では毎朝『おはよう御座います😃』とご挨拶をすることになりました。お神様も少し喜んでくれているような気がしています。

 

次回からは、それぞれの境内社の事を紹介していきます。

 

 

太刀八幡宮 神殿玉垣修復工事 始まったよ

太刀八幡宮 御鎮座千二百年奉祝㊗️ 神殿玉垣修復工事が始まりました

 

工事を請け負って頂いたのは、梓工建(株)さんです。

工期は、令和4年9月5日から令和5年3月31日です。

 

9月17日に工事👷‍♂️安全祈願祭が執り行われました。

 

工事の概要

本殿・幣殿は、雨漏りを修復したのち、現在の鉄板からガルバリウム鋼板に葺き替えられます。玉垣も修復されます。

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工事進捗状況 9月末現在



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屋根の板金が解体され、下地の老朽化状況が分かりますね。

なかなか見る事の出来ない風景です。

宮大工のお仕事を見れるのも楽しいですね。

写真提供 丸山 奉賛会会長

 

 

 

 

 

太刀八幡宮の絵馬 その5 於馬関春帆楼講和談判図

於馬関春帆楼講和談判図

明治28年(1895年)6月12日

願成就 征清軍人

鬼塚甚平 国武〇〇

半田〇助 ○○○○

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127年前の絵馬です。少し色あせた感じがします。

江戸時代の絵馬が終わり、これから明治時代の絵馬になります。年代順に紹介していきたいと思います。

 

日本と清国の講話状況の緊迫感が感じ取れます。

馬関というのは、現在の下関の古称で、明治35年下関市と改称しています。

絵馬の中の字は、春風楼となっていますが、正しくは春帆楼(しゅんぱんろう)です。

現在はふぐ料理の有名な割烹旅館として営業しています。

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春帆楼ホームページより転載

 

ウキペディアには、

1895年、日清講和談判場とし、時の全権・伊藤博文等が、清国使節李鴻章等と会見し、日清戦争講和条約である下関条約を締結した所である。

と書かれています。

 

下関条約を簡潔に説明しているキッズネットを引用します。

 

しものせきじょうやく【下関条約

 

1895(明治めいじ28)年,下関しものせき山口やまぐち県)で調印ちょういんされた日清戦争にっしんせんそう講和条約こうわじょうやく

日本側全権がわぜんけん伊藤博文いとうひろぶみ陸奥宗光むつむねみつしん側全権がわぜんけん李鴻章リホンチャンとの間で調印ちょういんされた。内容ないようは,

(1)朝鮮ちょうせん独立どくりつをみとめ,

(2)しん国は日本に,台湾たいわん遼東リヤオトン半島・澎湖ポンフー諸島の割譲かつじょうを,

(3)また,賠償金ばいしょうきん2億両おくテールやく3おく1000万円)を支払しはらう,などであった。

コーチ

遼東リヤオトン半島はこのあと,ロシアなどの三国干渉さんごくかんしょう返還へんかんすることになる

下関条約が調印された日時は、1895年明治28年)4月17日ですので、この絵馬は調印後わずか2か月で奉納されことにあります。

 

「願成就 征清軍人」の征清(せいしん)とは、日清戦争のことをいいますので、日清戦争に従軍した人達の願いが成就しましたということで奉納されたのでしょうか。奉納者の名前が左側に4名書かれているのですが、色あせて読み取りにくい状態です。

 

この絵馬を理解するには、日清戦争のことを知る必要があると思い、いくつかのホームページ、ユーチューブの情報を見たのですが、今回は朝倉町日清戦争の項目を引用します。

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朝倉町史は昭和61年3月31日に朝倉町教育委員会から発行されています。図書館からお借りして読んでいるのですが、非常に内容が多岐にわたり、朝倉の古代から現代を知るには非常に参考になる良い資料です。

 

第6編近代 第三節 戦争と朝倉地方 日清戦争(p420)を引用します。

明治維新後、急速に発展してきた日本は、軍事上・通商上の視点から、朝鮮支配を考え、いろいろな工作を続けて来た。

1840年アヘン戦争で、イギリスに屈伏した清国は、欧米諸国に治外法権を許した結果、香港・九龍半島・威海衛・広州湾・旅順・大連・膠州湾・天津・上海・広東・漢口・厦門・九江などの重要な港湾が、諸外国の租界とされてしまった。こうした中で、1884年に、朝鮮で東学党の乱が起きた。これに手を焼いた朝鮮政府は、鎮圧のため清国に対し出兵を要請した。日本政府も、居留民保護のために軍隊を出動させた。しかし、朝鮮の清国依存は強く、このため、清国の勢力を朝鮮から追い出さなければ、日本の朝鮮支配は難しく、かえって防衛上にも危険があり、政府は清国追い出しの機会を待っていた。

朝鮮における内政改革の主導権をめぐり、日本と清国の間に意見の対立をきたし、仲々その交渉のはかどらないまま、明治27年(1894)7月25日、豊島沖で日本、清国海軍の衝突があり、日本政府は8月1日、清国に対し宣戦布告をした。日本としては初めての対外戦争である。宣戦とともに日本海軍は、黄海に清国海軍を撃破、一方陸軍部隊は、9月に平壌を占領し、10月には朝鮮全土から清国を追い出してしまった。11月にはさらに旅順・大連を陥落させ、翌年2月には威海衛、3月には澎湖島を占領した。「眠れる獅子」と、その底力を諸外国から恐れられていた清国であったが、日本軍は予想以上の戦果をあげ勝利を得た。

ここで清国は、列国の勧めで講話を申し出た。明治28年(1895)4月17日、下関の春帆楼において講話会議が開かれた。その結果は、遼東半島並びに、台湾・澎湖島を日本に譲渡し、賠償金として、約3億円を支払うことで講話条約が調印され、ここに日清戦争は終わった。この戦闘で2647人の尊い人命が失われ、戦前の国家予算の2倍を超える膨大な軍事費が使われた。このため戦後の国民の生活は圧迫されたが、清国に勝ったことで国民精神は高揚していた。

その後ドイツ・フランス・ロシアの三国干渉により、遼東半島を手放すことになったが、かえって国民の結束を強め、軍備拡張を支持する結果となった。そのため諸国に反日、抗日の感情が生れた。のちに満州をめぐるロシアとの対立の原因となった。

 

その後、日露戦争大東亜戦争へと時代は進んで行きます。

 

この絵馬は、日清戦争に従軍した兵隊さんの思いが詰まった一枚なのでしょうね。「清国に勝ったことで国民精神は高揚していた」と書かれているように、この朝倉地方も大変な騒ぎだったのかもしれません。講話条約締結後、わずか2か月で奉納されたのは、その高揚した気持ちの表れなのでしょう。

 

太刀八幡宮では、出征軍人の見送りも行われています。無事に帰還したことの感謝の気持ちも絵馬には込められているのでしょう。また朝倉町史年表の中に、「郡出征者 246名、戦病死者 28名」とありますので、亡くなられた方の冥福を祈る気持ちも含まれているのででしょう。

 

太刀八幡宮の絵馬の中では近代の戦争の絵馬は、この一枚になります。

朝倉町史には、日露・大東亜戦争のことも詳しく記載されていますので少し紹介します。

その中では、「屈強な若者達が皆軍隊にとられて、働き手がなく、労働不足に悩む家も多数あった」ことが書かれています。「日露戦争では朝倉地方より2607名が従軍し、その内109名が戦死、戦病死している」とも書かれています。大東亜戦争になるとその数は膨大に膨れていっているのでしょう。

戦争の項目の最後に「ここに、お国のためと信じ亡くなられた方々のお名前を掲げ、つつしんでご冥福をお祈りする次第である。」として、対外戦没者名が西南の役より記載されています。(P544)

 

ここでは、人数の紹介をさせていただきます。

西南の役 1名

日清戦争 2名

日露戦争 19名

大東亜戦争 622名 (各地区ごとに名前が記載されています。)

 

この尊い命の上に、今の朝倉があるのだなとあらためて感じます。合掌

 

太刀八幡宮の宮司 内藤主税さん

今回は、太刀八幡宮宮司さんを紹介します。

 

プロフィール

内藤 主税(ないとう ちから)

昭和28年4月29日生 69歳

同志社大学法律学部卒

國學院大學神道講習にて免許取得

美奈宜(みなぎ)神社(林田)、高木神社(黒川)、日吉神社(石成)宮司

元福岡県神社庁理事、元朝倉市教育委員、元保護司、元朝倉高校PTA会長、元朝倉市消防団第12分団長

昭和59年(38年前)宮司に就任し現在に至っています。

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令和4年9月17日 太刀八幡宮 幣殿内で撮影

 

先日(9月4日)、内藤宮司さんに時間をいただいて、色々お話をお伺いしました。

 

内藤宮司本務社宮司が常駐している神社)は、美奈宜神社(林田)です。

 

美奈宜神社

美奈宜神社は、分かりやすいホームページを作成されていますので、その中から一部抜粋して、紹介します。

美奈宜神社は、神社史最古の範典の延喜式に記載され格式の高い式内社にも選ばれています。

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この地図は、「邪馬台国大研究ホームページ 甘木・朝倉と秋月」から転載したものです。

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格式の高い式内社に、下座(げざ)郡からは美奈宜神社、上座(じょうざ)郡からは麻氐良布神社、夜須郡からは大己貴神社が記載されているということは、この朝倉郡という地域は大きな勢力があったのでしょうか。

 

この格式ある美奈宜神社の内藤家25代宮司が、内藤主税宮司になります。

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美奈宜神社ホームページより転載

簡単に25代といいますが、これってすごいことです。自分一代の中でも、色々なことがある中で、激動の歴史の中で家系を守り続けるというのは、想像を絶するものがあったのではないでしょうか?

 

同志社大学で得たものとは

私は、大学受験を考えたこともなかったので、大学の概要はほとんど知りません。内藤宮司にも、「同志社大学法学部から宮司になる道があるのですか?」と聞いたくらいです。それどころか、同志社大学キリスト教プロテスタント)の学校でした。

色々世間の勉強のために、法律を学び、そして馬術部に入って馬の世話にあけくれていたそうです。その若き内藤青年が、同じ馬術部にいた今の奥様と運命的に出会うことになりました。同志社大学を設立した新島譲の奥様八重さんは、「妻・八重 〜新島襄とともに同志社を支え、育てた女性」として、大学のホームページに紹介されています。内藤宮司の奥様も、宮司を支え、美奈宜神社を育ててこられたのでしょう。

実は、5月に美奈宜神社を参拝した時に、奥様と少し話をしたのですが、奥様は愛知県名古屋の出身だと伺い、「熱田神宮の巫女さんをしていて、宮司と出会ったのかな?」と勝手な妄想をしていました。失礼しました。

 

29歳の転機

内藤青年は、大学を卒業して福岡のロイヤルに勤めます。

そして29歳の時、お父様が急にお亡くなりになったとのことです。

それから宮司を引き継ぐために、國學院大學に入学し、神職の資格を取り、宮司への道をひたすら走ってこられたということです。

 

宮司が少ない朝倉

以前朝倉には、24名程宮司がいたのですが、現在は8名になっているとのことです。宮司が足りない問題は、全国的な問題になっています。観光客が大勢来る大きな神社ならともかく、多くの神社は経済的な問題で宮司を続けることが出来ずにいるようですし、兼業で別の仕事をしながら神社を守っておられるところも多いようです。ましてコロナ禍で神社の祭事も自粛・神社参拝者の減少となると、ますます経営が難しくなります。

 

兼務社

太刀八幡宮のように普段宮司が在中しておらず祭事のときだけ訪れるのが兼務社です。内藤宮司が兼務している神社は、最初に述べた高木神社(黒川)、日吉神社(石成)以外にもたくさんあります。令和3年12月31日現在の市町村別・系統別宗教法人一覧表の中の代表氏名 内藤主税の神社を抜粋したものが次の表になります。

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その数38社です。これだけの数の神社を兼務することの大変さは、想像に難しくありません。

中には、九州北部豪雨で大きな被害を受けた高木神社もあり、宮司として色々心の負担も大きいのではないでしょうか。

そして、この表以外の宗教法人を取得していない所もいくつか担当しているとのことでした。

 

そうした中、太刀八幡宮は来年1200年祭を迎えるに当り、神社の改修工事もあり、色々ご配慮していただけることは、本当にありがたいことだと思います。兼務社宮司としての気をお使いのこともあるのではないかと思いますが、氏子総代会長を始めとして氏子一丸となって太刀八幡宮を盛り上げていければと思います。

 

内藤宮司さん、これからもよろしくお願いします。

🙇‍♂️

 

 

 

 

太刀八幡宮の絵馬 その4 川中島の一騎打ち

川中島の一騎打ち

文久四(1864年)甲子 秋

奉納 小塚 矢野角平 同 嘉作 星野才作 同 平吉

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158年前の絵馬です。

馬上の武士は、上杉謙信。振り下ろした太刀を軍配で受けるのは、武田信玄。信玄の左手には数珠が握られています。太刀を軍配で受けるのは、無理があるように思いますが・・。

右の武士は、馬上の謙信を槍で突こうとしいます。色あせてはいますが、緊迫した状況を感じます。黒馬の表情も、動きも見事です。

 

川中島の戦いを解説しているホームページもたくさんありますが、学研キッズネットのホームページから引用させていただきます。

かわなかじまのたたかい【川中島の戦い

 

戦国せんごく時代末期まっき武田信玄たけだしんげん上杉謙信うえすぎけんしん信濃しなの国(長野ながの県)の領有りょうゆうをめぐって川中島かわなかじま衝突しょうとつしたたたかい。川中島かわなかじま長野盆地ながのぼんちのほぼ中央部で,さい川と千曲ちくま川の合流点にあたる。信玄しんげん謙信けんしんはここを中心に,1553年から1564年まで前後5回たたかった。しかし,両者とも決定的けっていてき勝利しょうりをおさめることができず,全国統一とういつのぞみをはたせなかった。

コーチ

1561年,第4回のたたかいが有名で,信玄しんげん謙信けんしん一騎討いっきうちしたという。
この一騎打ちの場面が、絵馬になっています。
江戸浮世絵に見る川中島合戦というホームページがあります。
たくさんの浮世絵があるのですが、一枚転載させていただきます。
 
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一騎打ちの状況を分かりやすく解説していますので、引用します。
上杉方の猛攻撃にひととき乱れた鶴翼の陣形、その隙を突いて武田本陣に単騎突入した上杉謙信は、床机に座す武田信玄めがけて、馬上から三太刀斬りつけた。これに対して、信玄は鉄製の軍配で太刀を防いだが、後で調べると七太刀の刀痕があったという。これが「三太刀七太刀伝説」といわれるもので、両雄が直接対決するほどの激戦であったことから生じた説話と思われる
鉄の軍配があったとは、まいりました。
 
川中島の合戦の詳細は、ウィキペディアや他の文章のホームぺージでが理解するのは、経緯が長くとても難しいです。
 
そこで今回は、Ýoutube高校(丸山夷)さんの【戦国時代】川中島の戦いが分かり安かったので、紹介します。長野県の善光寺も、戦に大きく関与しているのも、興味深いものがありました。
 
 

ユーチューブでは、他に色々な観点から川中島を説明している動画があります。本当に今のインターネット社会は、勉強が楽しくなる材料にあふれていますね。

 

ウィキペディアには、第4回の戦いの前に、「上杉謙信長尾景虎)は相模国鎌倉鶴岡八幡宮で、上杉家家督相続と関東管領職就任の儀式を行い、名を上杉政虎と改めて越後国へ引き揚げた。」とありますので武運の神 太刀八幡宮の絵馬として奉納されたのでしょうね。