氏神様は太刀八幡宮

1200年の歴史を紐ときます

感動の「歴史と文化のまちづくり シンポジウム」

昨日 令和4年12月3日 朝倉地域生涯学習センターホールで歴史と文化のまちづくりシンポジウムが開催されました。

f:id:goodlightsato:20221204111216j:image

■内容

1. 筑紫舞「古代からの朝倉伝統の舞」筑紫舞伝承会

2. 基調講演「歴史を感じるまちづくり」RKB毎日放送アナウンサー 田畑 竜介氏

3. パネルディスカッション「歴史を感じるまちづくり」

  コーディネーター 上野誠氏(國學院大學文学部教授)

  パネリスト     相川七瀬氏(歌手・國學院大學神道文化学部在学中)

             後藤いずみ氏(福岡かるた会会長)

             林裕二氏(朝倉市長)

             田畑竜介氏(RKB毎日放送アナウンサー)

内容は朝倉市ホームページより転載

 

 

ちょっと私が感動した内容がありました。👏

 

 

 

コーディネーターの上野さんが、後藤いずみ福岡かるた会長に質問した時のことです。その前段として、歌手の相川七瀬さんが、「歌詞の内容を理解して、言葉を紡いで歌っている。」という話をしていました。

 

上野 「競技かるたの時に、百人一首の歌の内容を噛みしめることはありますか?」

後藤 「競技の時は、一瞬の反応なので歌の内容を噛みしめるということはないが、皆さんそれぞれ好きな歌というのは有ります。たとえば瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふという恋の歌は、人気があります。

 

えー 崇徳天皇さんの歌だ。

goodlightsato.com

太刀八幡宮境内社 白峯神社で調べたばかりたったので、ビックリ‼️しました。

そして、祭神の崇徳天皇さんもさぞお喜びしているだろうなぁと、一人感動していました。

🙌

 

 

 

それと歌手の相川七瀬さんですが、名前は聞いたことがあるような気がするのですが、家に帰ってからプロフィールに書いてあったユーチューブを見てみました。デビュー曲の「夢見る少女じゃいられない」は、ほとんど聞いたことのない歌で、世代のギャップを感じましたが、「なないろ旅」を見た時に、感動してしまいました。

神社の神殿の前で、歌を奉納する姿は、まるで女神です。また神社を紹介するナレーションもとても優しく見ていて心が安らぎます。


www.youtube.com

 

鹿島神宮の奥の宮の檜皮葺屋根の葺き替え工事の解説は、現在太刀八幡宮の改修工事をしていることもあり、非常に興味深く見ました。伝統文化、伝統工法の重要性を感じます。


www.youtube.com

 

それと古代米の赤米大使として活躍する相川さんですが、赤米フェスタ2021の内容も感動もので、朝倉の三連水車近くで栽培している赤米とも今後関わり合いがでるのでしょうね。


www.youtube.com

 

 

コーディネーターの上野誠さんは、甘木出身で、とても軽快な口調で皆さんのコメントを引き出していました。家に帰ったら、高校一年生の息子が、「上野さんて、万葉の先生❓」とパンフレットを見ていうので、「そう、なんで知ってるの」と聞くと、「比良松中学校で講演会があった。百人一首の大会の時だったかな?」とのことでした。万葉学者として、多岐に渡って活動しているようです。

 

RKB毎日放送アナウンサーの田畑竜介さんは、朝倉が大好きで、その魅力を活かしたまちづくりを提案して、多くの観光客に来ていただけるのではないかと、問いかけていました。水害の時も取材で何度も訪れただけでなく、個人的にボランティアとして何度も朝倉に足を運ばれたそうです。

 

林裕二市長は、役所言葉たけでなく、人間味あふれた自分の言葉で発言し、とても親しみを持つことができました。

 

本当に、良いシンポジウムに参加出来て良かったと思いました。お導きありがとうございました。

 

太刀八幡宮の境内社 ④白峯神社

④ 白峯神社

祭神 崇徳天皇

 

正面写真

f:id:goodlightsato:20221118101839j:image

 

 

左側面
f:id:goodlightsato:20221118101845j:image

碑文を解読します。

大嘗祭記念改築

大正 四 乙卯 年 十一月 〇旦?

「1915年 乙卯(きのとう)」

 

大嘗祭とは、新天皇の即位の年に行われる新嘗祭のことです。大正天皇即位の礼は、大正4年11月10日に行われており、大嘗祭は11月14日・15日に行われています。

歳旦?と読めるのですが、歳旦は元旦の事みたいなので、はっきりしません。建立したという意味だと思われます。

 

背面

f:id:goodlightsato:20221119081809j:image

 

碑文を解読します。

 

信徒総代〇〇順

丸山 久吉

佐藤 利平

平田 ?米吉

徳永 藤四郎

鶴川 光次郎

調 喜策

辛川 喜平

 

寄進された方々のお名前だと思われます。

この碑文は、②稲荷神社と同じ内容が彫られています。

碑文の中の鶴川光次郎さんの昭和11年新嘗祭献穀斎田のことについては、ブログ②稲荷神社で記載しています。

 

 

右側面
f:id:goodlightsato:20221118101842j:image

お宮を作成した石師ですね。

富村大角

人造石師

鶴田 伊助

鶴田 磯次

 

 

 

神社庁への提出書類

太刀八幡宮の境内社 遷座の歴史で紹介しましたが、神社庁への提出書類には次のように記載されています。

 

「白峯神社 崇徳天皇

   大字大庭字角虫に祭祀ありしを大正15年12月11日許可を得て移轉合併す」

 

古くから角虫にあった白峯神社が、大嘗祭大正4年)の年に記念改築し、大正15年に太刀八幡宮遷座されたことになります。

 

現在の大庭地区の住所は、朝倉市大庭○○番地となってしまい、角虫や太刀八幡宮のある乙王丸という小字が表記されなくなりました。

慣例として、地元の方々は旧小字名で呼び合っていますが、角虫は三寺の一部になったようです。

この地図は、農業集落境界データから入手したものですが、角虫が記載されていました。

f:id:goodlightsato:20221119093013j:image

 

 

日本最大の怨霊となった崇徳天皇による悪縁切りのご利益

 

白峯神社といえば、内藤宮司さんの本務社である美奈宜神社が有名です。

minagijinjya.com

 

色々、インターネットで調べたのですが、この美奈宜神社のホームページがもっとも簡潔にまとめあげられていると思います。

一部引用します。

日本最大の怨霊となった崇徳天皇による悪縁切りのご利益

 

ご祭神の崇徳天皇は、讃岐の地で一切の欲を断ち切っておこもりされたことから、白峯神社は断ち物のご利益があると信仰されてきました。
 また、戦によって心ならずも寵妃阿波内侍とお別れにならざるを得なかった崇徳天皇は、人々が御自身のような悲しい境遇にあわぬよう、幸せな男女のえにしを妨げる全ての悪縁を絶切って下さいます。

 

男女の縁をはじめ、病気、酒、煙草、賭事など、全ての悪縁を切るご利益がございます。

 

 

ウキペディア 崇徳天皇を見ると非常に長文で解説されています。

ウキペディアより転載

 

何故、崇徳天皇が日本最大の怨霊と言われるようになったのかを一口で簡単には述べられないことが分かります。

出生の噂、父との確執、弟との争い(保元の乱)、五部大乗経(『法華経』『華厳経』『涅槃経』『大集経』『大品般若経』)の写本に対する対応など怨霊伝説を作り上げる題材がたくさんあるという感じです。

 

特に、「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん(皇室の地位をおとしめ、民がそれにとって代わる)」と呪いをかけ、その後天皇の時代から、武家政権の時代が長きに渡って存続したのは、崇徳天皇の呪いのためと言われているとのことです。

 

その呪いが解け和解したのが、幕末孝明天皇が讃岐の崇徳天皇の御魂を京都に移すため白峯神宮を作ろうとして、その途上で天然痘(呪いの病と言われていたとのこと)で亡くなり、その意志を引き継いだ明治天皇白峯神宮を完成させ、御魂を移し、その後即位したことによると言われていますす。

 

ウキペディアでは、次のように記載されています。

明治天皇は慶応4年(1868年)8月18日に自らの即位の礼を執り行うに際して勅使を讃岐に遣わし、崇徳天皇の御霊を京都へ帰還させて白峯神宮を創建した。

昭和天皇崇徳天皇八百年祭に当たる昭和39年(1964年)に、香川県坂出市崇徳天皇陵に勅使を遣わして式年祭を執り行わせている。

昭和39年といえば、東京オリンピックの年です。その成功を祈って、昭和天皇式年祭を執り行われたと言われています。

 

NHKBSプレミアム『英雄たちの選択』

2018年3月に放映された英雄たちの選択という番組は、「崇徳院」をテーマに作られました。その番組の内容を「憂きまど」さんが、前編、中編、後編と非常に詳しく、ブログで紹介しています。

konamijin.hatenablog.com

ブログを読んでいるだけで、番組を見ているような臨場感があって、非常に参考になる内容ですし、番組そのものも非常に良い番組だったことが伺えます。

番組をユーチューブで検索しましたが、見つかりませんでした。

 

そのなかで、朝倉のことが出てきましたので、その部分を引用します。

番組は崇徳の流された地・香川県へ。郷土史家の方が、崇徳は「綾川」を京都になぞらえて「鴨川」と呼んだと教えてくれる。近くの駅名も「鴨川」である。また、山も京都の「東山」と呼んだという。これは知らなかった。郷土史家「ここへ来て京都のことばかり思っておったんでしょうかね」。

 続けて、崇徳が住居にした木丸殿。「粗末なつくりの小さな小屋でした」というナレーション。崇徳の住居が粗末な作りだったことは、同じく『保元物語』にも書かれている。都でかつて院に召し使われていた淡路守是成(法師となり、蓮如と名乗っていた)が讃岐へ赴き、院の御所を訪れた際に対面しようと差し上げた歌はこうだ。

 「アサクラヤ木ノマロ殿ニ入ナガラ君ニ知レデ帰ルカナシサ」

蓮如の歌の「アサクラヤ木ノマロ殿ニ」という部分について、日下氏は次のように指摘している。

 

 「百済救援に向かった斉明天皇が亡くなった筑前国朝倉の地(福岡県朝倉市。木の丸殿は、その地に造った丸木のままの粗末な宮殿をいい、ここは新院の居所をそれにたとえた」

 

 

和歌を愛した崇徳天皇

 

ウキペディアの中の歌という項目の中に、崇徳天皇が関わった歌集などが記載されています。

一部引用します。

小倉百人一首』から。

瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ崇徳院
意:滝から流れる川の水の流れ(瀬)は速いので、川の水が岩にぶつかたら二つにわかれるがまた合わさって一つの流れになるように、離れ離れになった私たちも、いつかまた逢いたいと思う。

 

 

 

やまとうた さんのホームページには、崇徳天皇の歌が30首納められています。

 

上記の百人一首の歌は、恋の歌として紹介していますが、次のような補足を記載しています。

【補記】第三句「滝川の」までは「われて」を導く序詞であるが、情念のこもった暗喩ともなっている。障害に打ち当たって破局に至る、といった悲恋の経過を読みとることが可能だが、恋歌と呼ぶにはいささか詞が激しすぎはしないか。若くして宮廷の内紛に翻弄され、政争の犧牲として譲位せざるを得なかった院の無念と、なお将来に賭ける執念をこの歌に読み取るのは、決して牽強付会とは言えまい。

牽強付会(けんきょうふかい)とは、道理に合わないことを自分の都合の良いように無理にこじつけること。(コトバンクより)

 

真偽のほどは定かではありませんが和歌をこよなく愛する天皇であったことは、間違いないと思います。

 

もう一首、恋の歌を紹介します。

恋ひ死なば鳥ともなりて君がすむ宿の梢にねぐらさだめむ(久安百首)

【通釈】恋い焦がれた果てに死んでしまったら、鳥にでもなって、あなたが住む家の梢にねぐらを定めよう。

【語釈】◇鳥ともなりて 下記「長恨歌」を踏まえた句。

【本説】白居易長恨歌」(→資料編
在天願作比翼鳥 在地願為連理枝(天に在りては 願はくは比翼ひよくの鳥とり 地に在りては 願はくは連理れんりの枝とらん)

この歌の本説で書かれている長恨歌(天に在りては 願はくは比翼ひよくの鳥とり 地に在りては 願はくは連理れんりの枝とらん)という歌は、学生時代に授業で学んだ歌で、友人の結婚式のスピーチで披露したことがあります。いつまでも仲むつまじい夫婦でありますようにと祝福したものでした。なつかしい思い出が蘇りました。

 

 

落語の演題「崇徳院

 

崇徳院でインターネット検索をしていると、落語家の方々の「崇徳院」という演題のユーチューブが見つかりました。日本最大の怨霊というテーマのユーチューブが多い中で、落語はどういう話なのかと見てみると、百人一首の歌「瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ」を題材に、男女の恋を面白く扱った内容でした。

崇徳天皇も、自分の作った歌が、落語として親しまれているのを見て、さぞお喜びと思います。

笑福亭 松喬 (しょうふくてい しょきょう)」さんの落語を転載します。


www.youtube.com

 

人智で縁を切るなかれ

 

一般社団法人いのちを守る親の会という素晴らしい活動をしている組織があります。

inochi-mamoru.org

日本救命センターとして人工妊娠中絶により失われている赤ちゃんのいのちを守ることを目的とし出産に悩む妊婦へのサポートを通じて赤ちゃんのいのちを守る活動を続けています

理事長は大熊良樹さんという方で、禅僧であり、京都光明地蔵院(京都地蔵文化研究所)の主管でもあり、神社にも10年程修行した経験を持っておられます。

ユーチューブに、喜びが湧く心理学、生き方に関する講話としていのちが喜ぶ話を公開していますが、その中に第66話「人智で縁を切るなかれ」という講話があります。


www.youtube.com

 

私は、この講和を聞いて、縁というものの奥深さを考えさせられました。

よく、「袖振り合うも多生の縁」といいますね。故事ことわざ辞典では、次のように記載されています。

知らない人とたまたま道で袖が触れ合うようなちょっとしたことも、前世からの深い因縁であるということ。 解説 「多生」とは、六道を輪廻して何度も生まれ変わるという意味で、「多生の縁」は、前世で結ばれた因縁のこと。 人との縁はすべて単なる偶然ではなく、深い因縁によって起こるものだから、どんな出会いも大切にしなければならないという仏教的な教えに由来する。

その縁を、安易に「あいつとは、もう二度と会いたくない。」とかいって、怒りで縁を切るのではなく、その縁に感謝をして、悪縁であれば神様仏様に縁切りをお願いすることが大切なのですね。

 

四国全体の守り神「崇徳さん」

ウキペディアの怨霊の後半に次のように記載されています。

その一方で後世には、四国全体の守り神であるという伝説も現われるようになる。承久の乱土佐国に流された土御門上皇後白河院の曾孫)が途中で崇徳天皇の御陵の近くを通った際にその霊を慰めるために琵琶を弾いたところ、夢に崇徳天皇が現われて上皇と都に残してきた家族の守護を約束した。その後、上皇の遺児であった後嵯峨天皇鎌倉幕府の推挙により皇位に就いたとされている。また、室町幕府管領であった細川頼之が四国の守護となった際に崇徳天皇の菩提を弔ってから四国平定に乗り出して成功して以後、細川氏代々の守護神として崇敬されたと言われている

 

香川県坂出市のホームページには、文化財・史蹟の紹介で、「崇徳上皇」が取り上げられています。「讃岐での生活」や「ゆかりの地」を歌をまじえながら紹介しています。

以前は観光協会崇徳院ツアーを開催していたこともあり、そのツアーに参加した人が、「ツアーで坂出に訪れた時、坂出の方たちは、「崇徳さん」と、親しみを込めて崇徳院のことを呼んでいました。昔から地元の方たちは崇徳院のことをこう呼んでいるそうです。」とブログで書かれていました。

 

そして、先に紹介したNHKBSプレミアムの番組の中でも、

「(配所だった場所の)町の皆さんは今も崇徳さんと呼ぶ。おいたわしい、かわいそうという気持ちで霊を慰めるという気持ちが強いということを感じた。」

と紹介されていたそうですし、番組に参加していた郷土史家の方も、「崇徳さん」とおっしゃっていたそうです。

 

都で怨霊と恐れられていた崇徳天皇は、四国では守り神として崇敬され、崇徳さんとして地元では慕われているのですね。

 

親しみを込めて、参拝します

崇徳天皇を調べ始めたときは、「日本最大の怨霊」という内容が多かったのですが、調べが進むうちに、和歌を愛し、地域の人を愛したやさしいお人柄が偲ばれるようになりました。

 

「悪縁切りの神様、おはようございます。」👏

 

親しみを込めて、毎朝ご挨拶しています。

太刀八幡宮の境内社 ③志賀神社

③志賀神社

 

祭神 少童神(わたつみのかみ)

 

正面写真

f:id:goodlightsato:20221109123058j:image

 

左側面写真

f:id:goodlightsato:20221109123228j:image

明治十年 丁丑(ひのとうし) 五月吉日 

(1877年)

 

背面写真

f:id:goodlightsato:20221109123255j:image

 

右側面写真

f:id:goodlightsato:20221109123323j:image

 

碑文には寄進者の名前が彫られていますので、まとめて記載します。読み取りにくい字がありますので、間違っていたらごめんなさい。🙇

 

左側面

安部 藤五郎

荻  利吉

鬼塚 吉三

浦  惣七

諸岡 源七

 

背面

同  定作  (諸岡さんだと思われます)

同  吉平

平田 平九郎

矢野 嘉作

 

右側面

平田 喜六

田中 再平

調  円吾

矢野 角平

調  円九

丸山 惣三

 

太刀八幡宮の境内社 遷座の歴史で記載しましたが、志賀神社は、福岡県神社史には記載がありますが、神社庁への提出書類には、記載がありません。何か意図があるのかな?

 

 

祭神 少童神(わたつみのかみ)

 

ウイキペディア ワタツミから引用します。

 

概要

古事記』は綿津見神(わたつみのかみ)、綿津見神(おおわたつみのかみ)、『日本書紀』は少童命(わたつみのみこと)、海神(わたつみ、わたのかみ)、海神豊玉彦(わたつみとよたまひこ)などの表記で書かれる。

「ワタ」は海の古語、「」は「の」を表す上代語の格助詞、「ミ」は神霊の意であるので、「ワタツミ」は「海の神霊」という意味になる[1]

 

一柱の神様に、色々な字があてられていることが分かります。

福岡県神社史での記述が、少童神なので、標題はそうしています。

 

海の心霊という言霊のとおり、海の神様です。その海の神様が、この内陸の朝倉の地に祀られているのは、何故でしょうか?

 

伊邪那岐命黄泉から帰ってをした時に、ソコツワタツミ底津綿津見神、底津少童命)、ナカツワタツミ中津綿津見神、中津少童命)、ウワツワタツミ上津綿津見神、表津少童命)の三神が生まれ、この三神を総称して綿津見三神と呼んでいる。

 

ウキペディアより転載

 

この系統図を見ると、伊邪那岐命の禊ぎでたくさんの神々が生れたことが分かります。

綿津見三神住吉三神は、兄弟関係なのでしょうか?

それと綿津見三神は、男神でも女神でもないのですね。

 

志賀海神社(しかうみじんじゃ)

 

先日、志賀海神社に参拝してきました。志賀海神社は、全国の綿津見神社海神社の総本社ということです。

f:id:goodlightsato:20221113094343j:image

 

御祭神

左殿 仲津綿津見神(相殿 神功皇后

中殿 底津綿津見神(相殿 玉依姫命

右殿 表津綿津見神(相殿 応神天皇

 

太刀八幡宮の祭神である神功皇后応神天皇が祀られていました。非常に強いつながりのあることが分かります。

 

頂いたパンフレットの由緒から一部引用します。

神代より「海神の総本社」「龍の都」と称えられ、玄界灘に臨む海上交通の要衝である博多湾の総鎮守として志賀島に鎮座し、厚く信仰されている志賀海神社は、伊邪那岐命の禊祓によって御出生された綿津見三神を奉祭している。

御祭神「綿津見三神」は海の底、中、表を守り給う海の主宰神として、海上交通の安全をはじめ塩・魚介類といった海産物の御恵をもたらす神と篤く信仰され、禊祓の神として不浄や災厄を祓い清め、さらに水と塩(潮)を支配し、潮の満干によって人の生死をも司るとされることから人の命や生活の吉凶をも左右するとされている。

 

創建は明らかではないが、往古より勝馬に表津宮・仲津宮・沖津宮の三社で奉祭されており、凡そ1800年前、神功皇后三韓出兵に際し舟師を率い御船を導き守り給うた安曇磯良丸をして表津宮を当地の勝山の麓に遷座したと伝えられている。

 

 

神功皇后三韓出兵の安曇磯良というと、以前のブログ「太刀八幡宮の絵馬紹介 神功皇后三韓征伐図」の中でも紹介しました。

再度、その部分を紹介します。

 

安曇野磯良については、『大絵馬ものがたり 全5巻 須藤功著 ㈳農山漁村文化協会発行』で解説していますので、引用します。

神功皇后三韓出兵に際し、天地の神々に七日七夜にわたり戦勝を祈り、壇之浦の海神に海路の平安を願いました。満願の日に住吉明神のお告げで安曇野磯良という海士を召され、海神より干珠満珠(かんじゅまんじゅ)を借りることができました。干珠は潮を思いのままに干し、満珠は思いのままに潮を満たすことが出来る宝珠です。

大絵馬ものがたり 第5巻 p51

大絵馬ものがたりでは、住吉明神となっていますね。

 

ウキペディア 志賀海神社では、

古代の九州北部では、海人を司る阿曇氏(安曇氏)が海上を支配したとされる志賀島海上交通の要衝であり、その志賀島海の中道を含めた一帯が阿曇氏の本拠地であったとされており志賀海神社は阿曇氏の中心地であったと考えられている

とあります。

綿津見三神は、安曇氏の祖神または奉斎神とされていることからも、神功皇后との関わりが深いのでしょう。

 

御神徳

パンフレットには、次のように記載されています。

海上守護・交通安全はもとより諸厄を祓い清め、再生回帰の神として災厄祓除、病気平癒、健康長寿、家内安全、又、その昔松浦より連れ去られた子供たちを助けられたことから子供守護のご神徳があるとされ厚く信仰されている。

 

 

志賀島に残る数々の神功皇后伝説

 

志賀海神社のホームページには、神功皇后伝説が記載されていますので、引用します。

 

神功皇后三韓出兵に際して、志賀島阿曇磯良を召されました。そして龍神より干珠満珠を授かり、無事に三韓を平定して帰還されました。
志賀海神社にはその様子を描いた神功皇后出兵絵巻が残されています。志賀島には神功皇后伝説にちなんだ地名が多く残っています。
阿曇磯良を海国から召し出そうと77晩神楽を奏したところが舞能ヶ浜、志賀島にお着きになり願いがかなったと仰せられたところが叶ヶ浜、皇后が馬から下りられたところが下馬ヶ浜、志賀大明神に奉賽した際に馬が喜びいなないたので勝馬となったといわれています。 また志賀海神社裏手の山を勝山と称され、そこに櫂を奉られました。

 

ホームページには、神功皇后出兵絵巻だと思いますが、スクロールで見ることが出来ます。

 

このように、志賀海神社そして、志賀島は、神功皇后と深いつながりがあることが分かりました。

 

明治時代になって太刀八幡宮の氏子の方々もこのことを知り、是非太刀八幡宮境内社奉祀しようと話し合って、寄進されたのでしょうか。

 

 

国歌「君が代」になった山誉祭 神楽歌

 

ウイキペディア 志賀海神社を読んでいて興味深いのは、山誉祭で歌われる神楽の歌が紹介されていますので、引用します。

 

神楽歌として次の歌が歌われる[15]

 

君が代<だい>は 千代に八千代に さざれいしの いわおとなりてこけのむすまで
あれはや あれこそは 我君のみふねかや うつろうがせ身骸<みがい>に命<いのち> 千歳<せんざい>という
花こそ 咲いたる 沖の御津<おんづ>の汐早にはえたらむ釣尾<つるお>にくわざらむ 鯛は沖のむれんだいほや

志賀の浜 長きを見れば 幾世経らなむ 香椎路に向いたるあの吹上の浜 千代に八千代まで
今宵夜半につき給う 御船こそ たが御船ありけるよ あれはや あれこそは 阿曇の君のめし給う 御船になりけるよ
いるかよ いるか 汐早のいるか 磯良<いそら>が崎に 鯛釣るおきな

 

国歌である君が代に酷似しているが、先々代の香椎宮宮司 木下祝夫の父である木下美重によれば、この山誉祭神楽歌が旅芸人によって広められ、古今和歌集に収められ、のちに薩摩琵琶の『蓬莱山』にある「君が代」になり国歌になったことが香椎宮に所蔵されていた筑紫の神楽記録から判明しているという。

 

国歌「君が代」の始まりが、この志賀海神社の神楽からだったのかもしれないというのは、初耳でした。

 

ユーチューブを検索すると、神楽の映像がありました。福岡黄金ロードさんのユーチューブを引用します。

志賀海神社 山誉祭

安曇磯良や住吉三神を祀った今宮神社、そして神功皇后がこの祭りに関わっていたことも紹介されていて、非常に参考になる内容でした。

 


www.youtube.com

 

 

境内社 志賀神社のことを知るために、妻とちょっとした小旅行を楽しみました。

そして、「水と塩(潮)」を支配している神様の海岸で、塩を作る海水を頂いてきました。

f:id:goodlightsato:20221113203848j:image

 

少童神 海の神様、塩の神様 ありがとうございます

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

太刀八幡宮の境内神社 ②稲荷神社

② 稲荷神社

祭神 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)

 

正面写真

f:id:goodlightsato:20221103083715j:image

 

左側面写真
f:id:goodlightsato:20221103083708j:image

碑文を解読します。

大嘗祭記念改築

大正 四 乙卯 年 十一月 〇旦?

「1915年 乙卯(きのとう)」

 

大嘗祭とは、新天皇の即位の年に行われる新嘗祭のことです。大正天皇即位の礼は、大正4年11月10日に行われており、大嘗祭は11月14日・15日に行われています。

歳旦?と読めるのですが、歳旦は元旦の事みたいなので、はっきりしません。建立したという意味だと思われます。

 

背面写真

f:id:goodlightsato:20221104122419j:image

碑文を解読します。

 

信徒総代〇〇順

丸山 久吉

佐藤 利平

平田 ?米吉

徳永 藤四郎

鶴川 光次郎

調 喜策

辛川 喜平

 

寄進された方々のお名前だと思われます。

 

先日、朝倉町史を読んでいた時に、昭和11年新嘗祭献穀斎田として、大福村三寺の鶴川光次郎さんの名前が記載されていました。この碑文の一人ですね。

 

 

太刀八幡宮の名前も出てきますので、当時の様子を朝倉町史から一部引用して紹介します。

 

献穀斎田決定の経過

昭和11年新嘗祭献穀斎田が大福村に選定され、奉耕大田主(おおたぬし)として、県側が示す適格条件に合致する祭主の選考が、村執行部、村議会、農会技師等を含め慎重に行われた。

⑴自営農業者であること。

⑵当該村内での各方面からの信頼の篤い有識者であること。

⑶相当の資産を有する者であること。

⑷相当の経費を要するため、経済的に負担可能の者。

これらの条件を満たし、かつ斎田地に清浄な水利の便があり、斎田管理のための交通条件や、神事等の行事が支障なく執り行える土地を有していることなどを総合的に勘案し、大福村三寺、鶴川光次郎に決定された。

本斎田地(大字大庭字徳次2451の1 田3反6畝11歩)は、区画整然とした美田が、北方遥か荷原川堤防まで広がり、北北西の方角には、大庭村の総鎮守の太刀八幡宮の森がこんもりとした、たたずまいを見せている。

 

奉賛会

斎田の設置が決定されるやいなや、大福村の在住の有志は、斎田の奉仕を賛する目的をもって直ちに奉賛会を結成した。

会長は村長、会員は村議会議員を中心に区長、産業組合理事、消防組、青年団、主婦会、処女会、学校教員、在郷軍人会等村内各種団体を含む村あげての体制を作り、奉仕作業に万全を期した。

 

奉耕(助耕者)者の選考

村挙げての奉仕作業の中で最も光栄ある助耕者の選考は特に慎重に行われた。村内の青年男女のなかから、奉賛会において選考基準を設け、男女各10名、計20名の青年男女が選任された。

 

奉告祭

献穀斎田の設置が決まり、大福村内各地からの助耕者も選任され、奉仕の態勢はととのえられた。

斎田の豊穣並びに奉耕関係者の安全を祈願するため、古木生い茂る産土神太刀八幡宮の境内において、小学校生徒も参列し、奉賛会役職員、農会技手、男女助耕者による神前奉告祭が執り行われた。早朝の森厳なる冷気の下に、献穀田の豊穣と、奉耕の大任を完遂するよう、お互いの心に誓い合ったのある。

 

御田植祭・お田植舞

御田植祭りは斎田行事の中で最も華やかな大祭であった。お田植舞奉納者は高等科2年生女子40名及び唱歌隊の女子生徒であって、お田植舞の歌もそのために作られた。

 

献穀米奉送

昭和11年10月半ば、大田主に奉持された献上米は、学校から大福郵便局の辻までの300mの沿道に、村民有志をはじめ小学校全生徒が整列奉送する中を、特別仕立ての乗用自動車に随員と共に分乗し、発送されたのであった。

半年間に及び村をあげての大行事であった主基斎田の諸行事もここに漸く終結をみたのである。

 

f:id:goodlightsato:20221105184647j:image

朝倉町史より転載

 

大福村あげて奉仕された姿が、目に浮かんできます。読んでいるだけで目頭が熱くなるのはなぜでしょうか?当然予期しえない事も沢山あったことだろうと思います。そこを、神に祈りながら、皆さんで智恵を出し合い、行動して乗り越えてこられたんだと感じます。

その姿を見て、宇迦之御魂神を始め、太刀八幡宮の神々、応神天皇神功皇后宗像三女神は、優しく見つめ、多大なる応援をしていたのではないでしょうか?

 

 

右側面写真

f:id:goodlightsato:20221103083705j:image

お宮を作成した石師ですね。

富村大角

人造石師

鶴田 伊助

鶴田 磯次

 

 

この稲荷神社も遷座

 

この稲荷神社の碑文は、後日紹介する④白峯神社と同じ内容です。

 

白峯神社は、太刀八幡宮の遷座の歴史で紹介しましたが、神社庁への提出資料の中では、「大字大庭字角虫に祭祀ありしを大正15年12月11日許可を得て移転合併す」となっています。

 

もしかしたら、稲荷神社もその時一緒に遷座しているのかもしれません。

仮ににそうだとしたら、

古くから角虫にあった稲荷神社が、大嘗祭大正4年)の年に記念改築し、大正15年に太刀八幡宮遷座されたことになりますね。

それでは、何故神社庁への提出書類に記載がないのでしょうね? 

 

 

稲荷神社は、朝倉には少ない?

 

境内社の調査で、内藤宮司さんに写真を持って相談しに行った時に、「(写真を見て)稲荷と読めそうだが、朝倉には稲荷神社はほとんどないのだが?」とおっしゃいました。この神社が稲荷神社と最終的に判断出来たのは、朝倉町史・朝倉の神々に記載があったからでした。

ちなみに大福地区53の神社の内、稲荷神社は2社となっていました。

 

何故、農業の町のこの地に、穀物の神様である稲荷神社が少ないのかは定かではありませんが、菅原神を祀る天満宮が多く(53社中13社)、朝倉町史の中でも天満宮は、農耕の守護神」として祀られたとなっていました。このことから農家の方々の信仰の対象としては、稲荷神社より天満宮に傾いていたのかもしれません。

 

祭神 宇迦之御魂神とは?

稲荷神社といえば、伏見稲荷

全国3万社あるといわれている稲荷神社の総本山です。

宮司さんの挨拶から一部引用します。平成23年(2011)に御鎮座1300年を迎えています。

御鎮座以来、この長い歳月は単なる時間の経過ではなく、時代時代の人々の篤い信仰心によって「衣食住ノ太祖ニシテ萬民豊楽ノ神霊ナリ」と崇められ、五穀豊穣、商売繁昌、家内安全、諸願成就の神として、全国津々浦々に至るまで広く信仰されてまいりました。

稲荷神社の御神徳は、五穀豊穣、商売繁盛、家内安全、諸願成就と幅広いですね。

 

宇迦之御魂神でインターネット検索すれば、これまたたくさんの情報を見ることが出来ます。

 

ウイキペディアを参照して一部引用します。

ウカノミタマは、日本神話に登場する女神。『古事記』では宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、『日本書紀』では倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と表記する。名前の「宇迦」は穀物・食物の意味で、穀物の神である。また「宇迦」は「ウケ」(食物)の古形で、特に稲霊を表し、「御」は「神秘・神聖」、「魂」は「霊」で、名義は「稲に宿る神秘な霊」と考えられる

 

次の図は、ウイキペディアに記載されているスサノウの系図ですが、ここに宗像三女神が記載されてて、宇迦之御魂神と同列に並んでいいるのでちょっと楽しくなりました。

太刀八幡宮の神様の一部そろい踏みです。

 

ウイキペディアから転載

スサノオ系図(『古事記』による)。青は男神、赤は女神。『古事記』ではウカノミタマの性別について言及していないが、延喜式祝詞の記述などから女神と考えられる

 

 

次に紹介するのは、いい葬儀さんのホームページ

「いろんな願いを叶えてくれる、身近な神様。稲荷神社の由来とご利益」

と題して、分かりやすく説明していますので、一部引用します。

庶民に広まったのは江戸時代

お稲荷様の信仰が大きく広まったのは、江戸時代です。それまでは穀物の豊作を願って祀る神様でしたが、幕府の改革などで名高い田沼意次が自分の屋敷にお社を祀ったことで運が開けたという評判が広まったといわれています。そこから、ほかの武士たちもそれを真似て祀りはじめました。さらに、庶民である商人たちもそれにならい、商売繁盛や家内安全の神様として信仰の対象としたのです。木造建築が密集した江戸では火事も多かったため、家屋やお店を、そうした災害から守ってくれる神様としても祀られました。

これらの様子が参勤交代で江戸に来ていた各地の大名の目に留まり、稲荷信仰は全国に広がっていったのです。そのうえ、伏見稲荷大社稲荷大明神は、以前から朝廷より神階のひとつである正一位の位を受けていました。その神霊を勧請する各地の稲荷神社もまた、同じ格式を得られることが普及の後押しになったと考えられています。

穀物の神様が商売繁盛の神・家内安全の神様になっていった理由が、これで納得しました。全国3万社といいますが、屋敷内や企業の屋上などにある稲荷社を含めると4万社とも5万社ともいわれているそうです。これも江戸時代の流れから生じているのですね。

稲荷神は狐の姿ではない

お稲荷様には狐の像がつきものですが、祭神は狐の姿をしていません。狐は稲荷神の御遣いとなる神使なのです。

狐には昔から人の寿命や作物の収穫量などの未来が分かり、人の精気を奪う、あるいは人を化かすなど、神秘的な動物として扱われてきました。たれ下がった稲穂が尻尾に似ていることや、米を食べるネズミを退治すること、また、稲荷神社の祭神である宇迦之御魂大神の別名が御饌津神(みけつかみ)と言い、これが漢字で「三狐神」と書けることなど、お稲荷様の御遣いが狐となった理由には、諸説あります。

また、狐は春になると山から人里に降りてきますが、秋になるとまた山に戻ります。同様にお稲荷様も田植えの時期に現れて、秋の収穫が終わると山に戻って行くと言われ、その類似性から、お稲荷様と狐を結びつけられました。

いずれにしても、狐は昔から人間の暮らしや稲作と関わりが深く、信仰の対象でもあったため、お稲荷様の御遣いに選ばれたのでしょう。

狐といえば、今年(令和4年)冬(1月か2月頃)に、この街に引っ越して来て、始めてキツネ🦊を見ました一度は、太刀八幡宮へ向かう途中の雪の積もった田んぼの中を、テレビで見た北キツネのように、ピョンピョン飛びながら移動していました。

そしてもう一回は、子持ち鳥居に向かっていると、目の前に現れ、私たち(妻と犬2匹)が鳥居の前に来ると、階段の一番上に移っていって、そこから私たちを一分程見下ろして、その後本殿の方に走り去って行きいました。

その時の状況です

f:id:goodlightsato:20221103182224j:image

 

まるで太刀八幡宮の神様の使いが現れたかのようで、私たちは感動して喜んでいました。

 

もしかしてあれは、お稲荷さんの御遣いだったのかも。

 

それ以降お目にかかれてはいません。

 

今年の冬、お会い出来ることを楽しみしています。👏

 

 

 

 

 

 

 

 

太刀八幡宮の境内神社 ①太刀神社

 

 

①太刀神社

祭神 息長帯姫命おきながたらしひめのみこと)=神功皇后じんぐうこうごう

太刀塚は、境内社だったんですね。(神社庁提出資料の境内社 一番に記載)

 

太刀塚については、以前ブログで少し紹介しています。

 

太刀八幡宮の祭神は、宗像三女神(田心姫命市杵島姫命湍津姫命)   応神天皇 神功皇后であり、本殿に祀られています。

 

その本殿に祀られている神功皇后が、境内社である太刀神社の祭神として祀られているのも不思議な感じがしますが、太刀八幡宮にとってこの太刀神社がルーツになる重要な場所なので、境内社として扱われているのでしょう。

 

神社名の起こりとなった太刀塚

以前ブログで紹介した小冊子「太刀八幡宮」に、太刀塚の記載がありますので一部引用します。

二、太刀八幡宮の発祥

神功皇后は気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)とも大帯姫尊(おおたらしひめのみこと)とも云い、人皇十四代仲哀天皇ちゅうあいてんのう)の妃(きさき)であり、応神天皇おうじんてんのう)の母である。

仲哀天皇の御代、日向国ひゅうがのくに)の熊襲くまそ)を討つために、天皇とともに九州に来たが、天皇は志半ばにして筑紫の香椎(かしい)の宮で崩(ほう)ぜられた。

天皇の意志を受けた神功皇后は、直ちに熊襲を討ち、秋月古処山(こしょさん)の麓(ふもと)の地方で騒いでいた羽白熊鷲(はじろくまわし)という賊(ぞく)を平らげ、つづいて山門(やまと)土蜘蛛田油津姫(つちぐもたぶらつひめ)という強敵を滅ぼした。その途次(とじ)皇后は、大庭村上野原の廣野にて軍兵を練り、兵器をとがしめ、みづから帯びていた太刀を奉納して、天神地祇(てんじんちぎ)に国敵降伏の戦勝を祈願し、ここに大石を畳(たた)み、この太刀を納め塚(つか)を築き、太刀塚として祭った。

 

三、神社名の起こりとなった太刀塚

 

このほか或る書によれば

天皇御太刀と申すは、神代より伝えさせ給うものにして、凡人の手にふれる事は恐れある故に、亀井ヶ原という所に、口八尺四方、深さ五丈掘らせ給い、内に金(かね)の棹(さお)を渡し、金(かね)のくさりにてつなぎ給い、上に三丈の石をたたみて封じ給う」とも書かれている。

 

この記述をもとに、どのように埋設されているのか想像図を描いてみました。

f:id:goodlightsato:20221026070133j:image

今、地上にある太刀塚の囲いの土台部が、2.4m四方です。この広さで、地下15mまで掘り下げて、神功皇后の御太刀を奉納したんですね。

 

 

神功皇后が納めた御太刀とは?

 

インターネットで、古い太刀を検索していると、平戸城に展示している重要文化財が目にとまりました。

 

長崎県のホームページに説明文と写真が載っていますので、引用します。

 

長崎県の文化財

重要文化財(国指定) 鐶頭大刀無銘拵付一口附大刀図一通

かんとうのたちむめいこしらえつきひとくちつけたりたちのずいっつう

柄頭を環状にまるめた鉄製の直刀。長さ93㎝。水牛の角製の鍔をつけ、竹を馬革で包んだ鞘(さや)を持つ。刀身は杢(もく)目(め)肌(はだ)が美しい。刃紋は小乱れで錵(にえ)がよく出来ている。亀岡神社の社伝によると、神功皇后朝鮮半島出兵に従軍した七郎氏広の佩刀と伝えられ、同類が平戸島志々伎神社小値賀町の神島(こうじま)神社に伝わっていたが、現存するのは本資料のみである。

鐶頭大刀無銘拵付一口附大刀図一通

長崎県文化財から転載

 

神功皇后朝鮮出兵に従事した七郎氏広の佩刀と伝えられ、」

とありますので、同じ時代の太刀でしょう。

 

そして、神功皇后の太刀は、「神代より伝えさせ給うものにして」と書かれていますので、美しく荘厳な太刀だったと想像します。

 

 

春日大社国宝「金地螺鈿毛抜形太刀」

2017年のブログですが、エンタメ特化型情報メディア スパイスの記事で、

春日大社御創建1250年記念展『伝説の名刀たち』開催中

と題して国宝級の名刀の紹介があります。一部引用します。

国宝「金地螺鈿毛抜形太刀(きんじらでんけぬきがたたち)」平安時代

 

エンタメ特化型情報メディア スパイスより転載

金無垢の金具、超絶技巧の装飾、奇抜なデザイン。猫好きで知られる藤原頼長の太刀と想定される。拵(こしらえ)の柄に大きな透かしが空いており、それが古代の毛抜きに似ていることから「毛抜形太刀」といわれる。

 

この太刀は金具の部分が金メッキではなく、純度の高い純金で作られているとのことです。

 

奈良テレビのニュース番組でこの太刀のことを取り上げていて、とても参考になります。NHKでは、現代の名匠たちが、この太刀の復元品を作成する状況をビデオで販売しています。

www.bing.com

 

こうして想像するに、太刀塚に奉納された神功皇后の太刀は、純金で黄金に光っていたのでしょうか?

 

 

太刀と刀の違い

 

刀剣ワールドというホームページに、太刀と刀の違いが詳しく書かれています。

一部引用します。

f:id:goodlightsato:20221026204540j:image

最も簡単に太刀と打刀を見分ける方法は、その携帯の仕方です。

太刀は刃側を下にして腰の左に吊るし、これを「佩く」(はく)または「佩刀」(はいとう)と言います。

 

少しずつ太刀のイメージが膨らんできます。

goodlightsato.com

絵馬の神功皇后が手にしている太刀は、美しい鳥の羽根?を飾った鞘に納まっているように見えます。

 

神功皇后は、何故太刀を奉納したのか?

 

先に述べた小冊子に、「天神地祇(てんじんちぎ)に国敵降伏の戦勝を祈願し、」とあります。天神地祇とは、天の神、地の神すべての神のことです。

また、「とりわけ、神功皇后宗像三女神を深く斎き祭られた」という記述もあります。

 

先日、境内社の件で内藤宮司さんに色々教えていただいた時に、「この本を読むと良いよ」と、綾杉るなさんの「神功皇后伝承を歩く」を紹介して頂きました。この本を持って、美奈宜神社に参拝される方も多いとのことです。

彩杉るなさんは、下関を含んだ福岡県の神功皇后ゆかりの神社を自らの足で100社まわり、美奈宜神社では内藤宮司さんとも対談をしています。もちろん太刀八幡宮にも参拝していますし、朝倉市では11の神社を巡って本の中で紹介しています。

 

本の「はじめに」を紹介します。

福岡県の神社を参拝すると、神功皇后の伝承が大変多い事に気づかされます。その存在は千八百年もの間、語り継がれ祈られて、戦いを勝利に導く女神となり、出産する女性を守護する女神となっていました。

 

 

その太刀八幡宮の記述の中で、何故神功皇后がこの土地に太刀を奉納したのかについて、次のような文章がありますので、引用します。

 

三女神は宇佐宮から勧請したとなっているが、当宮はもともと三女神を祀っていたのではないか。何故なら三女神は太刀から生まれた神々だからだ。その縁で皇后は太刀を奉納したのではないだろうか。

 

三女神の誕生について、宗像神社のホームページの由緒には

天照大神素盞鳴尊の剣を噛み砕き、息を吹きかけると三柱の女神が生まれます。
これが宗像三女神の誕生となります。

と書かれています。

 

彩杉るなさんのこの記述も、100の神社を巡り神功皇后伝承をまとめ上げた方の意見として、とても興味深いものがあります。

 

また、本のなかでも紹介していますが、

ブログ「ひもろぎ逍遙」では、各神社の訪問日記を綴っていますので合わせてご覧ください。本とブログがリンクした新しい形の神社ガイドブックとなればと思います。

としして太刀八幡の紹介もしています。

太刀八幡宮・神功皇后は太刀を磨かせて奉納した

神功皇后の刀剣の銘を残す太刀八幡宮

 

 

 

タイムマシンが開発される時を待って

 

1800年前、この場所で神功皇后が太刀を奉納する姿が,目に浮かんできます。

実際どのような太刀を、どのように奉納したのかは、将来の新技術の開発を待つことにします。映画のように見ることが出来る日が来るかもしれません。その時が楽しみです。

 

 

太刀八幡宮の境内社 遷座の歴史

やっと完成しました。

 

太刀八幡宮には、境内社と呼ばれる小さなお社が9社あります。それぞれどういうお神様が祀られているのかをまとめようと調査を開始したのですが、はっきり名前が読み取れるお社はわずかで、そもそも◯◯神社と彫られていないお社が多いのです。

 

f:id:goodlightsato:20221019210220j:image

読めますか?


f:id:goodlightsato:20221017120400j:image

 

そこで内藤宮司さんの協力を仰ぎながら、福岡県神社史、朝倉町史などを参考にして、ようやくまとめることが出来ました。

 

今回は、全体の配置図・写真そして、境内社が太刀八幡宮遷座された経緯などを紹介していきます。

 

境内社の配置図

f:id:goodlightsato:20221016184415j:image

 

f:id:goodlightsato:20221009210755j:image

f:id:goodlightsato:20221016184547j:image
f:id:goodlightsato:20221009210759j:image

f:id:goodlightsato:20221009210845j:image

 

お正月に境内社にお参りしたあの人は?

令和4年のお正月、私は総代として深夜の当番をしていました。元旦0時には、初詣の参拝の方は多いのですが、しばらくすれば参拝者の数も減り、焚火の番をしながら、朝を待つことになります。その時に、本殿をお参りした後で、境内社の一つにお参りした男性の方がおられました。こういう方もおられるのだなぁとその時はあまり深く考えもせず、その姿を見ていました。

 

今回、境内社のことを調べて行くうちに、境内社が受けた社会の変化・流れを理解することが出来、境内社にお参りされたあの方の気持ちも、少し理解することが出来たように思います。

 

宗像大社境内社

太刀八幡宮主祭神である宗像三女神をお祀りしている宗像大社のホームページを見ると、「本殿の周辺には大小のお社が24社あり、121の神様が祀られています。」と記載されています。何故こんなに多いのか色々調べていると、 世界遺産「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群 のホームページに

殿・拝殿の周りには、辺津宮末社(本社に付属する小さい神社)が並んでいます。これらは延宝3年(1675)に第3代福岡藩黒田光之によって、宗像郡内の末社が集められ、合わせて祀られたものです。現在もこの時に造営された末社の社殿が残っています。

と記載されています。

 

お殿様が地域の末社を集めた目的は何だったのでしょうか?

 

そして、太刀八幡宮境内社もお殿様(誰になるのかなー、秋月藩のお殿様?)が集めるよう指令を出したのでしょうか?

 

 

福岡県神社誌(昭和63年出版、昭和19年刊の合本)

 

福岡県神社誌には、太刀八幡宮の境内神社として、次の3社が記載されています。

 

志賀神社(少童神)

白峯神社(崇徳天皇

御太刀塚神社(息長帯姫命

 

しかし実際には9社有りますので代表的なお社だけを記載したのでしょうか?

 

太刀八幡宮神社庁への提出書類

内藤宮司さんに、現地の写真を持って境内社のことを教えてもらおうと相談にお伺いすると、昭和27年4月1日に神社庁に申告した書類を見ることが出来ました。そこには、9社の神社の名前と神様、そして遷座した年月も書かれていました。

内藤宮司から、「政府の意向で小さな神社を地域の大きい神社に取りまとめることが進められた。しかし、移した後どうしてもお社を戻して欲しいと懇願があり、元の場所に戻ったところもある。」ということでした。

 

境内社の記述は次の通りです。便宜上番号を付けています。

 

1.太刀神社 息長帯姫命

 

2.佐塞神社 久那斗神

     本村字佐屋に鎮座せるを明治15年9月境内社に移轉す

 

3.徳満宮  保食神 罔象女命

     大字大庭字乙王丸に祭祀ありしを大正15年12月11日許可を得て移轉合併す

 

4.秋葉宮  軻遇突智命

     大字大庭字乙王丸に祭祀ありしを大正15年12月11日許可を得て移轉合併す

 

5.天満神社 菅原神

     大字大庭字後園に祭祀ありしを大正15年12月11日許可を得て移轉合併す

 

6.蛭子社  事代主命

     大字大庭字後園天満神社境内社に祭祀ありしを大正15年12月11日許可を得て移轉合併す

 

7.天満神社 菅原神

     大字大庭字平田に祭祀ありしを大正15年12月11日許可を得て移轉合併す

 

8.白峯神社 崇徳天皇

     大字大庭字角虫に祭祀ありしを大正15年12月11日許可を得て移轉合併す

 

9.厳島神社 市杵島姫命

     大字大庭字平田に祭祀ありしを大正15年12月11日許可を得て移轉合併す 

 

境内社の数は9社と合致しましたが、福岡県神社誌に記載のある志賀神社がありません。

 

また内藤宮司さんから、後園の5.天満神社は、現地に戻っているとお聞きしました。ということは、6.蛭子社は天満神社境内社だったので一緒に戻っているのでしょう。

 

ちなみに書類に記載の見慣れない字名は、後園は中央、平田は徳次、角虫は三寺と内藤宮司さんに教えて頂きました。

 

 

朝倉の神々

 

以前総代会長が引き継いだ資料を見せてもらった時の資料を見直していると、有りました。太刀八幡宮境内社が、記載されていました。

誰がまとめた資料か分かりませんが、太刀八幡宮を含めた朝倉の神社の分類、そしてそれぞれの神社の祭神や境内社などが記載されています。

f:id:goodlightsato:20221019122235j:image

 

神社庁への提出書類と見比べてみます。

 

提出書類       朝倉の神々

 

1.太刀神社      息長〆帯姫

2.佐塞神社      塞ノ神

3.徳満宮       徳満宮

4.秋葉宮       秋葉宮

5.天満神社      

6.蛭子社

7.天満神社      天満宮

8.白峯神社      白峯大明神

9.厳島神社      弁財天

 ○         稲荷社

 〇         志賀大明神

 

提出書類の5.天満神社については、「犬丸に鎮座せしを文政年間後薗に遷祀し、大正13年太刀八幡に遷座、昭和26年現在地に奉祀する」朝倉町史第9編に記載がありました。多少年数の差はありますが、天満神社と蛭子社は再び後薗に戻っていかれました。

 

これで、9社が判明いたしました。

 

朝倉町史、朝倉の神々という資料が無ければ、最終的にまとめることが出来ませんでした。作成された方々に感謝します。それにしても良くまとめていると思います。大変な努力と足を運んだことでしょう🙏

 

神社合祀

 

内藤宮司さんから教えて頂いた神社をまとめた話は、神社合祀として調べることが出来ました。ウイキペディアを引用します。

神社合祀(じんじゃごうし)とは、神社の合併政策のことである。神社整理ともいう。複数の神社の祭神を一つの神社に合祀(いわゆる稲八金天神社)させるか、もしくは一つの神社の摂末社にまとめて遷座させ、その他の神社を廃することによって、神社の数を減らすというもの。主に明治時代末期に行われたものをさす。

 

神社合祀の目的は、神社の数を減らし残った神社に経費を集中させることで一定基準以上の設備・財産を備えさせ、神社の威厳を保たせて、神社の継続的経営を確立させることにあった。

 

神社合祀政策は1906年明治39年)の第1次西園寺内閣において、内務大臣・原敬によって出された勅令によって進められ、当初は地域の実情に合わせかなりの幅を持たせたものであった。だが、第2次桂内閣の内務大臣平田東助がこの訓令を強固に推し進めることを厳命したため、全国で1914年大正3年)までに約20万社あった神社の7万社が取り壊された。

 

太刀八幡宮には大正15年に7社遷座していますので、7万社からさらに多くの神社が取り壊されたことになります。

 

合祀反対運動

氏子・崇敬者の側としては、反対集会を開くこともあったが、主として大きな運動もできず、合祀によって廃された神社の祭神が祟りを起こしたなどと語る形でしか不満を示すことはできなかった。

とはいうものの、この合祀政策は、博物学者・民俗学者で粘菌の研究で知られる南方熊楠ら知識人が言論によって強い反対を示した。南方は、合祀によって①敬神思想を弱める、②民の和融を妨げる、③地方を衰微する、④民の慰安を奪い、人情を薄くし、風俗を害する、⑤愛国心を損なう、⑥土地の治安と利益に大害がある、⑦史跡と古伝を滅却する、⑧天然風景と天然記念物を亡滅すると批判した[1]こうした反対運動によって次第に収束して、帝国議会での答弁などを通して、1910年明治43年)以降には急激な合祀は一応収まった。しかし、時既に遅く、この合祀政策が残した爪跡は大きく、多数の祭礼習俗が消えてしまい、宗教的信仰心に損傷を与える結果となった

 

合祀された神社の復祀

戦後になると、戦前の神社非宗教体制は解体され、すべてが宗教法人となった[1]。一度合祀されたものの、のちに復祀された神社も少なくなかった。

 

後園の天満神社昭和26年復祀の道を辿ったのですね。

 

こうした政治の波にのまれて、太刀八幡宮境内社が、今にあります。

それぞれのお社の氏子の方々の気持ちは複雑だったことでしょう。

 

境内社にお詣りを

私は、今まで境内社に手を合わすことはなかったのですが、この歴史を知り、それぞれのお神様のことを知ることで、今では毎朝『おはよう御座います😃』とご挨拶をすることになりました。お神様も少し喜んでくれているような気がしています。

 

次回からは、それぞれの境内社の事を紹介していきます。

 

 

太刀八幡宮 神殿玉垣修復工事 始まったよ

太刀八幡宮 御鎮座千二百年奉祝㊗️ 神殿玉垣修復工事が始まりました

 

工事を請け負って頂いたのは、梓工建(株)さんです。

工期は、令和4年9月5日から令和5年3月31日です。

 

9月17日に工事👷‍♂️安全祈願祭が執り行われました。

 

工事の概要

本殿・幣殿は、雨漏りを修復したのち、現在の鉄板からガルバリウム鋼板に葺き替えられます。玉垣も修復されます。

f:id:goodlightsato:20221011204851j:image
f:id:goodlightsato:20221011204857j:image
f:id:goodlightsato:20221011204854j:image

 

工事進捗状況 9月末現在



f:id:goodlightsato:20221011211257j:imagef:id:goodlightsato:20221011211310j:imagef:id:goodlightsato:20221011211323j:image

屋根の板金が解体され、下地の老朽化状況が分かりますね。

なかなか見る事の出来ない風景です。

宮大工のお仕事を見れるのも楽しいですね。

写真提供 丸山 奉賛会会長