氏神様は太刀八幡宮

1200年の歴史を紐ときます

太刀八幡宮の絵馬 その7 明智左馬之助(秀満) 湖水渡り

太刀八幡宮の絵馬 その7 明智左馬之助(秀満) 湖水渡り

 

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明治30年 奉納

参宮同行

 

寄進された方々の名前が記載されていますが、読み取ることが出来ません。どの地区の方々の参宮同行だったのでしょうか?

 

水の中を雄たけびを上げて駆け抜ける馬と馬上の武士。後手には、追手の武士の姿が描かれています。

 

「馬 浮世絵 川渡り」でインターネット検索して、よく似た題材から、標題の「明智左馬之助 湖水渡り」にたどり着きました。

 

 

 

うたがわくにひさ さく「たけちさまのすけおうみこすいわたり」歌川国久(二代) 作「武智左馬之介近江湖水渡」

 

刀剣ワールドさんのホームページの合戦浮世絵の中に、次の浮世絵があります。

 

武智左馬之介近江湖水渡

ホームページより転載

 

馬と武士の一体感、追手の武士や松の木が描かれている状況が、非常に大絵馬と似ています。

 

ホームページの解説を一部引用させていただきます。

 

本合戦浮世絵に描かれているのは、「明智光秀」(あけちみつひで)の重臣明智秀満」(あけちひでみつ:「明智光春」[あけちみつはる]、「明智左馬之介」[あけちさまのすけ]とも)。1582年(天正10年)6月の「山崎の戦い」で「豊臣秀吉」に主君が敗れた知らせを受け取ると、残った兵達と合流するために、守備に付いていた安土城を離れて、本拠地である坂本城へと向かおうとしました。

明智秀満の背後には、豊臣軍の追っ手が迫ります。配下の将は散り散りとなり、周囲を見渡しても味方の姿は見当たりません。頼れるのは、愛馬「大鹿毛」(おおかげ)のみ。敵軍の包囲により、陸路での逃走は困難です。

明智秀満は、愛馬に全幅の信頼を置き、自身の命運を託しました。大海のように広がる近江湖(現在の琵琶湖)に愛馬にまたがったまま飛び込み、波立つ湖面をかき分けて進みます。目を血走らせながら馬を進め、坂本城を目指しました。湖を渡り切り坂本城へとたどり着いたものの、すでに勝敗は決し、豊臣軍が城を取り囲むなか、明智秀満は妻子らと共に自決します。

なお、描かれている明智秀満明智左馬之介)の名前が、史実と異なり「武智左馬之介」となっている点については、江戸幕府が、徳川家天正年間(1573~1592年)以降の大名家を題材にした浮世絵の制作を禁じたためです。

 

このホームページは、「浮世絵を教科書のように学べる浮世絵の専門サイトです。」とあるように、非常に分かりやすく浮世絵の解説をしています。

 

絵馬師の方々は、浮世絵の題材をもとに絵馬を書いていることがよく分かります。今後もお世話になるホームページです。感謝します。

 

明智秀満(左馬之助)とは?

 

本能寺の変を起こした明智光秀重臣であった明智秀満とは、どういう人物であったのでしょうか。

 

福知山光秀ミュージアム

 

福知山光秀ミュージアムは、2020年1月11日から2021年2月7日まで開館したもので今はありませんが、ホームページは今も見ることが出来ます。館内案内を引用します。

福知山光秀ミュージアムでは、「麒麟がくる大河ドラマ展をはじめ、最新の調査研究に基づいた新たな視点で、ドラマでも時代考証を担当する小和田哲男さんが監修した「明智光秀の生涯と丹波・福知山」に関する展示で、福知山ならではの明知光秀像を発信します。

 

福知山光秀ミュージアムのホームページの中に、「光秀に忠誠を尽くした猛将」として、明智秀満が紹介されています。

 

一部引用します。というか、たくさん引用させていただきます。

 

明智秀光肖像画

秀満は坂本城落城に際し、天下の財宝をここで失くしてはいけないと、敵将に引き渡しています。その目録を確認している様子が描かれています。

 

もとは三宅弥平次といい、光秀同様その前半生は謎ですが、光秀に仕えると活躍を認められ、天正6年(1578)、明智姓を与えられました。
謀反の計画を光秀から最初に相談されていたとされる人物で、最初は諫めたものの、光秀が他の重臣にも相談してしまうと、「他言した以上、いつかは知られてしまう」と進言し、実行を後押ししたとも言われています。本能寺の変では、先鋒として信長を襲撃しています。

 

湖水渡りの伝説

山崎の合戦時には、光秀の天下に備えて安土城の守備についていた秀満ですが、光秀敗北の報せを受けると坂本城へ急行。味方の救援に向かいましたが、道中、秀吉方の軍勢と戦闘になりました。
次第に追い詰められた秀満は乗馬したまま琵琶湖に飛び込み、湖を渡って坂本へ向かったといいます。その華麗な脱出劇は「湖水渡り」という伝説となって語り継がれています。馬で湖と浜辺の間の陸地を走り抜けたというのが事実のようですが、伝説になるほど見事な脱出だったのかもしれません

 

潔く明智一族の幕を引く

秀満はかろうじて坂本城へたどり着きましたが、城は完全に包囲されました。一族の命運を悟った秀満は、光秀の妻子を刺し、坂本城に火を点けた後自刃しました。これによって明智一族は滅亡しました。

 

演劇や小説では、明智光秀は悪逆非道の信長を倒したヒーローとして描かれることが多くあり、秀満の湖水渡りなどの華麗な武勇も歌舞伎や浮世絵に多く描かれました。主君思いの信義に厚い人物として様々な逸話が語られています。

 

主君・光秀に忠誠を尽くし切った秀満。今の時代でこいういう忠誠というのは、あるのでしょうか。

私の人生を振り返って、こういう忠誠という尽くし方をしたことがなかったです。

 

 

「歴史じっくり紀行」さんの動画

 

この動画を見て、刀剣ワールドさんの絵馬の解説や、福知山光秀ミュージアムさんの解説の理解が進みました。

 


www.youtube.com

 

動画の中で紹介されていましたが、愛馬「大鹿毛」(おおかげ)は「秀満に湖水渡らせし馬也」と札を付けて寺に預けられ、後に秀吉に接収され、曙号と名付けられて大切にされたとありました。神馬として活躍したのですね。よかった。

 

 

再び絵馬を見ると

 

昔、生きた馬を神様に奉納したことが、絵馬として馬の絵を奉納することに変化していったことを思うと、この絵馬は、神様に奉納するにふさわしい題材ではないでしょうか。

そして、主君に忠誠を尽くした秀満の物語は、この絵馬を見た方々に感動を与えたことでしょう。

 

今回も良い学びをすることが出来ました。ありがとうございます。

太刀八幡宮の絵馬 その6 源 頼光 鬼退治(酒吞童子)

源 頼光(みなもとの よりみつ) 鬼退治(酒呑童子

明治29年(1896年)3月吉日

奉納 善光寺同行 14名

 

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退治した鬼の首が、源頼光の兜に食らいついています。非常に迫力のある絵馬です。

部下である武士が、見守っています。

 

鬼退治の英雄 源頼光

 

源頼光を色々検索していると、京都府福知山市にある「日本の鬼の交流博物館」にたどり着きました。

 

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このポスターの絵画の中で、中段の絵画には、絵馬と同様に鬼の首が頼光の兜に食らいついている状況が描かれています。

 

日本の鬼の交流博物館のホームページから、酒呑童子伝説を一部引用します。

www.city.fukuchiyama.lg.jp

時は平安朝、一条天皇の頃。西暦1000年前後、京の都は栄えていましたが、それはほんの一握りの摂関貴族たちの繁栄であり、世の中は乱れに乱れ民衆は社会不安におののいていました。そんな世の中で、酒呑童子は王権に叛き、京の都から姫君たちを次々にさらっていたのです。


 姫君たちを奪い返し酒呑童子を退治するため大江山へ差し向けられたのが、源頼光(みなものとのよりみつ)を頭に藤原保昌(ふじわらのやすまさ)並びに四天王の面々、坂田公時(さかたのきんとき)、渡辺綱(わたなべのつな)、ト部季武(うらべのすえたけ)、碓井貞光(うすいのさだみつ)ら6名です。


 頼光ら一行は山伏姿に身をやつし、道中、翁に化けた住吉・八幡・熊野の神々から「神便鬼毒酒(じんべんきどくしゅ)」を与えられて道案内をしてもらい、途中、川のほとりで血のついた着物を洗う姫君に出会います。一行は、姫君より鬼の住処を詳しく聞き、酒呑童子の屋敷にたどり着きました。


 酒呑童子は頼光一行を血の酒と人肉で手厚く歓待しますが、頼光たちは例の酒を童子と手下の鬼たちに飲ませて酔い潰し、童子を返り討ち、手下の鬼共も討ち果たします。捕らえられている姫君たちを救い出し、頼光たち一行は都へ上がりました。


 討ち取られた酒呑童子の首は、王権に叛いたものの見せしめとして川原にさらすため、都に持ち帰られますが、途中、丹波、山城の国境にある老の坂で急に重くなって持ち上がらなくなり、そこで葬られたといわれています。

 

そして、福山市は、大江山鬼伝説をWEB動画作成し公開しています。

福知山市は、大ヒットアニメ作品の影響で「⻤」への関⼼が⾼まる今、歴史上最強の鬼を退治した伝説(元祖鬼殺隊伝説)が残る⼤江地域の⻤⽂化をより多くの方々に知っていただきたいと、大江山鬼伝説」を初のアニメコンテンツ化したWEB動画「転生したら鬼退治を命じられました」篇を12月6日(月曜日)より公開しました。

大江山鬼伝説」とは、平安時代中期に生まれた武将「源頼光(みなもと らいこう)※」が、「頼光四天王」と呼ばれる屈強な家臣らを従え丹波国⼤江⼭へ向かい、酒吞童子(しゅてんどうじ)率いる鬼の一味を討伐(鬼退治)するという伝説です。

 


www.youtube.com

 

この動画を見たお陰で、切り落とされた鬼の首が、頼光の兜に食らいついても、大丈夫だった理由が、分かりました。

 

酒呑童子という名前は聞き覚えがありますが、ほとんど話の内容は覚えていません。

昔、小学校の授業で学んだのかもしれません。

 

しかし、博物館の鬼伝説や福知山市の動画にしても、分かりやすく作成してくれています。

お陰様で、この絵馬のことを楽しく見ることが出来ます。

 

童子切安綱(どうじぎりやすつな)

 

源頼光が、酒吞童子の首を切り落とした刀が、現在国宝として東京国立博物館が所蔵しているということです。

 

ウキペディア童子切から画像と内容を一部引用します。

童子切:太刀 銘安綱(名物童子切安綱)刀身

童子切(どうじぎり)は、平安時代伯耆国の大原の刀工・安綱作の日本刀太刀)。童子切安綱(どうじぎりやすつな)とも呼ばれる。日本国宝に指定されている。

天下五剣の一つで、大包平と共に「日本刀の東西の両横綱」と称される最も優れた名刀とされている。

清和源氏嫡流である源頼光丹波国大江山に住み着いた鬼・酒呑童子の首をこの太刀で斬り落としたという伝承から「童子切」の名がついた

 

平安時代の刀が、それも実際に使用された刀が現在も残って国宝に指定されているなんてすごいことです。

 

大ヒットアニメ「鬼滅の刃」の中でも、鬼を退治する刀鍛冶の里の人々が描かれていました。ひょっとこの面を付けて必死に刀を鍛える姿が印象的でしたが、この童子切安綱を製作した安綱さんも、同様に、ものすごい精神集中の中で、製作していったのでしょう。

優れた刀鍛冶がいなければ、鬼退治も出来なかったというのは、アニメの話だけではなく、実際の話でもあったのでしょう。

 

テレビアニメ「鬼滅の刃」刀鍛冶篇の宣伝ビデオがありましたので、紹介します。


www.youtube.com

 

以前のブログ「太刀八幡宮の境内神社その① 太刀神社」で紹介しましたが、太刀塚に納められている神功皇后の太刀も、国宝の価値があることは、間違いないでしょうね。

 

 

 

この絵馬を奉納した思いとは

 

この絵馬が奉納されたのは、明治29年3月です。

その頃の出来事といえば、明治27年7月25日から明治28年4月17日にかけて行われた日清戦争があります。

日清戦争については、ブログ

goodlightsato.com

で紹介しましたが、「清国に勝ったことで国民精神は高揚していた」とあったように、朝倉でも大騒ぎであったことは確かでしょう。

 

この絵馬で描かれた鬼は、清国を意図していたのかもしれません。それに対して勇敢に戦った源頼光達の姿は、日本男児こうあれという気持ちが込められているのかもしれません。

 

ちょっと考えすぎかな。

 

ひとつの物語として、悪に立ち向かう勇敢な姿を、子供達に伝えるために奉納したのかもしれません。

 

私としては、私の心の中に起こる怒り、憎しみなどの悪の心・鬼の心を、太刀八幡の神様方に祓って頂きたく、この絵馬を奉納します。🙏

令和五年 我が家の絵馬

初めての手づくり絵馬

 

今日は、令和5年1月22日。旧正月です。

 

そして、初めて絵馬を作成し、玄関に飾りました。

 

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小さい小絵馬ですが、今年一年、笑顔で暮らせる願いを込めて、夫婦で笑ったうさぎを描いてみました。私が右側、妻が左側の🐇を描きました。😃

 

 

令和五年癸卯(みずのと・う)

 

太刀八幡宮の絵馬や、境内社そして鳥居などには、干支(かんし・えと)が書かれています。

 

私は、十二支である

「子(ね)、丑(うし)、寅(とら)、卯(う)、辰(たつ)、巳(み)、午(うま)、未(ひつじ)、申(さる)、酉(とり)、戌(いぬ)、亥(い)」

は慣れ親しんでいますが、

 

十干である

甲(きのえ)、乙(きのと)、丙(ひのえ)、丁(ひのと)、戊(つちのえ)、己(つちのと)、庚(かのえ)、辛(かのと)、壬(みずのえ)、癸(みずのと)」

は馴染みがないので、読み方すら分かりません。

 

癸卯がどういう年なのか、検索してみたところ、クオカードさんのホームページが分かりやすく簡潔でしたので一部引用します。

www.quocard.com

 

癸卯(みずのとう)の意味

 

癸卯は、十干の10番目にあたる癸と、十二支の4番目にあたる卯の組み合わせで、十干十二支では40番目にあたる組み合わせです。陰陽五行説では、癸が水の陰のエネルギーを表し、卯が木の陰のエネルギーを表します。

<癸の意味>

「癸」は雨や露、霧など、静かで温かい大地を潤す恵みの水を表しています。十干の最後にあたる癸は、生命の終わりを意味するとともに、次の新たな生命が成長し始めている状態を意味しています。

<卯の意味>

「卯」は穏やかなうさぎの様子から安全、温和の意味があります。また、うさぎのように跳ね上がるという意味があり、卯年は何かを開始するのに縁起がよく、希望があふれ、景気回復、好転するよい年になると言われています。

2023年はどんな年になる?

2023年は癸卯の年で、「癸」と「卯」の組み合わせから、これまでの努力が実を結び、勢いよく成長し飛躍するような年になると考えられます。

 

 

これまでの努力が実を結び、勢いよく生長し飛躍するような年になるなんて、ワクワクしますね。

 

社会も個人も、コロナ禍で自粛を余儀なくされてきた年を超えて、良い年となるように祈ります。🙏

 

太刀八幡宮の境内社 ⑨佐塞神社

太刀八幡宮境内社 ⑨佐塞神社

 

祭神 久那斗神(くなとしん)

 

御神徳 生殖の神、夫婦和合の神

 

正面写真

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正面 碑文拡大
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文政九年 丙戌四月吉日(1826年)  200年前ですね。

奉建立

上座部□木  願主 代□

 

 

左側面写真
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背面写真
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右側面写真
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神社庁への提出書類

 太刀八幡宮の境内社 遷座の歴史で紹介しましたが、神社庁への提出書類には次のように記載されています。

 

佐塞神社 久那斗神

     本村字佐屋に鎮座せるを明治15年9月境内社に移轉す

 

他のほとんどの境内社は、「大正15年12月11日許可を得て移轉合併す」とあるのに、この境内社だけが、明治15年であり、又建立した場所も、一つだけ本殿から離れて西の鳥居入り口にあるのです。

何故でしょうか?

 

本村字佐屋という場所も明確に何処なのか分かっていません。上ノ原の荷原川にかかる橋の名前で、「佐屋橋」というのがありますので、この近くでしょうか。

奥に見える森が太刀八幡宮です。

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久那斗神

 

久那斗神という名前は、まったく知りませんでしたが、全国にお祀りしている神社があります。

 

ウキペディア岐の神を参考に一部引用します。

岐の神(クナド、くなど、くなと -のかみ)とは、古より牛馬守護の神、豊穣の神としてはもとより、禊、魔除け、厄除け、道中安全の神として信仰されている。日本民間信仰において、疫病・災害などをもたらす悪神・悪霊が集落に入るのを防ぐとされるである。また、久那土はくなぐ、即ち交合・婚姻を意味するものという説もある。

別名、久那土神、久那止神、久那戸神、久那斗神、車戸神、来名戸祖神、岐神、衝立船戸神、車戸大明神、久那度神、クナド大神、クナトの神、クナト大神、熊野大神、久刀。

 

疫病・災害などをもたらす悪神・悪霊が入るのを防ぐとありますので、この境内社だけ本殿から外れて建って、本殿を守っているのでしょうか?

 

それと正面写真にも写っていますが、男根の像が祀られていることから、生殖の神・夫婦和合の神として祀られていることは確かでしょう。

 

 

群馬県の冠稲荷神社の巫女さんの紹介

 

kanmuri.com

 

疫病といえば今は新型コロナですね。早く収まって欲しいものです。

 

出雲大社の摂末外社として出雲井社(いづもいのかみのやしろ)

 

祭神 岐神(くなどのかみ)

大国主大神が国土奉献されるとき、大神の命により天照大御神岐神(くなどのかみ)使者の案内役として諸国を巡られ、国内の平定に力を尽くされた神です。道案内(交通安全)、道路を守護する神として慕われています。

この記述からも、全国を廻り、大きな働きをされたことが分かります。

 

 

男根を祀る

 

おにぎりまとめさんが、男根を祀る神社の記事を書いていますので一部引用します。

日本には子宝・安産祈願、縁結びや商売繁盛など、様々な願いをかけて男根が奉られている神社が多数存在するのです。

 

過激な標題ですよね。とても楽しめる内容です。

matome.eternalcollegest.com

 

この記事の最初に紹介されている愛知県小牧市田縣神社は、何度が訪れたことがあります。当時勤めていた会社に来たお客様を、観光案内するルートの一つだったのです。神社の横には、秘宝館もあり、お客様にも結構喜んで頂いたことを思い出します。

 

しかし、同様な神社が全国にあるのですね。写真を見ると若い女性も喜んで祭に参加している様子が分かりますね。外人さんも嬉しそう。

 

ただし、ここで紹介されている神社には、久那斗神は祀られていないようです。

 

 

 

子孫繫栄に向けて

 

子孫繁栄のためには、性は当たり前に大切な事なのに、今の私たちはすぐに「わいせつ・エッチ」と捉えて、性を語ることをタブーにしていますよね。

もともと日本人は、性に対しておおらかだったと書かれていることもあります。

 

特に今、少子高齢化の社会に入り、やがて人口減少問題が大きく社会を変えるかも知れないことを思うと、若い人が安心して子育てが出来るようにサポートしたいと思います。

 

そして子宝に恵まれない方は、久那斗神のお力を頂きに参拝するといいのでしょう。

 

 

 

 

 

太刀八幡宮の境内社 ⑧厳島神社

太刀八幡宮境内社 ⑧厳島神社

 

祭神 市杵島姫命=弁財天

 

正面写真

 

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左側面写真

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このお社は、非常に長い碑文が書かれています。出来る限り解読してみます。

 

柳此辯財天ヲ勧請□□□□

不代ノ臣諸岡勘次衛也□□ノ頃

秋月□城ノ□夜須郡依井村二住□

南筑生乗郡吉井ノ市二商用在二

妻往来ノ節大庭村平田□□□二

望テ文禄□□ニ住宅ヲ移□□百

 

 

内藤宮司さんと現地確認した際、下線箇所の辯財天大庭村平田そして次の写真にある背面の石に刻まれた竹生島の文字で、神社庁への提出書類にある厳島神社であると判明しました。

 

 

背面写真
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背面の石 正面
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竹生島

 

背面写真 

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読めません

 

右側面写真

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□□□□□子孫繫栄□□□□

□□□長久ヲ祈□ナリ

 

願主 師岡 産徒

 

石工  平□□□

享和元年(1801年) 辛酉 九月 朔日

 

この碑文は、220年前に、弁財天を勧請する経緯や、子孫繁栄や長久の祈りが刻み込まれたものだというのが分かりますね。

全文を解読出来ればいいのですが、残念です。

 

神社庁への提出書類

 太刀八幡宮の境内社 遷座の歴史で紹介しましたが、神社庁への提出書類には次のように記載されています。

 

厳島神社 市杵島姫命

     大字大庭字平田に祭祀ありしを大正15年12月11日許可を得て移轉合併す 

 

 

この平田という字名は、前回の⑦天満神社と同様です。

 

天満神社 菅原神

     大字大庭字平田に祭祀ありしを大正15年12月11日許可を得て移轉合併す

 

さくら町の歴史ものがたりの太刀八幡宮の項に、地名のことで次のような記述があります。

太刀八幡宮の南の方に徳次(とくつぎ)・塗器(ぬるげ)という集落の地名がありますが、この名前のおこりは神功皇后がこの地にこられたときにできたといわれています。

徳次は「磨剣(とくつるぎ)」であって、剣(つるぎ)などを磨(と)がれたところで、また、塗器(ぬるげ)は剣や槍(やり)などに漆などを塗らせたところとつたえられています。

 

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図は神功皇后伝承を歩く 綾杉るな から転載

 

以前、子持鳥居で紹介した古賀百工さんも徳次の生まれです。

百工さんの名前は、古賀十作義重です。朝倉町の歴史ものがたりには、「上座部大庭村(現在の朝倉町上野原の徳次)の庄屋の家に生まれ、父のあとをついで庄屋になりました。」とあります。

 

信仰心の篤い地域なのでしょうね。

 

 

弁財天、市杵島姫命

 

弁財天といえば、財運の神様というイメージです。

 

太刀八幡宮主祭神である宗像三女神の一柱、市杵島姫命と同じ神様といわれています。

 

ウキペディア 弁財天を参考にします。

 

日本の弁才天は、吉祥天その他の様々な神の一面を吸収し、インド中国で伝えられるそれらとは微妙に異なる特質をもち、本地垂迹では日本神話に登場する宗像三女神の一柱である市杵嶋姫命(いちきしまひめ)と同一視されることが多い。

 

本地垂迹(ほんじすいじゃく)とは、仏教が興隆した時代に発生した神仏習合思想の一つで、神道の八百万の神々は、実は様々な菩薩天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考えである。

 

弁財天をを分かりやすく説明してくているブログがありましたので紹介します

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ご利益を引用します。

弁財天のご利益は、金運アップの他にも様々なものがあります。

海上安全・交通安全・豊漁・商売繁盛・知恵・財福・戦勝・恋愛成就・子孫繁栄・子授け・音楽上達・技芸上達・弁舌・長寿延命

などなど、この他にもたくさんあって書ききれません。

 

竹生島(ちくぶしま)

 

境内社の背面にある石に刻まれた「竹生島」。琵琶湖の北部に浮かぶ島です。竹生島の弁財天は、日本三大弁財天の一つといわれており、なおかつ最も古いので、大弁財天ともいうようです。

この島は、現在竹生島宝厳寺竹生島神社がありますが、元は神仏習合の島であり、明治以降神仏分離令により分かれたものだということです。

 

www.chikubushima.jp

 

ホームページを見ると、国宝の唐門を始め重要文化財がたくさんあります。

一部由来を引用します。

竹生島宝厳寺は、神亀元年(724年)聖武天皇が、夢枕に立った天照皇大神より「江州の湖中に小島がある。その島は弁才天の聖地であるから、寺院を建立せよ。すれば、国家泰平、五穀豊穣、万民豊楽となるであろう」というお告げを受け、僧行基を勅使としてつかわし、堂塔を開基させたのが始まりです。

それ以来、天皇行幸が続き、また伝教大師弘法大師なども来島、修業されたと伝えられています。

 

琵琶湖に浮かぶ小さな島が、弁財天の聖地として、発展しそして守られてきていることが分かります。

 

住職の四方山話というページがあるのですが、その中の「清い心の弁天様」というお話に弁天様へのお詣りの仕方というか心構えがあります。一部引用します。

弁天様は「弁財天」と書いて商売繁盛・財福の神様としても信仰されていますが、弁天様が分け隔てなくあまねく人に財をもたらしてくれるものと解釈すべきではありません。 財を成すには、己の損得勘定だけで商売をするのではなく、相手や周囲にも気を配り、誠実さをもって商売に勤しむことが必要ではないでしょうか。
母が子に対して注ぐ無償の愛、すなわち慈母愛にも似た清い心をもって誠実に商売に勤しめば、自ずと福が来るということを、弁天様のお姿の中に読み取っていただければ幸いです。

 

自分の行動が、「誠実な行動なのか」いつも心にとめていきたいと思います。

 

ユーチューブで竹生島を観光

ユーチューブで竹生島を検索すると、とても楽しくて、弁財天の勉強も出来、国宝や重要文化財を拝見しながら竹生島を堪能できる素晴らしいチャンネルを見つけました。本当に修学旅行でバスガイドさんの話を聞いているような、ワクワクして笑いありの時間を過ごすことが出来ました。ありがとうございます。

 


www.youtube.com


www.youtube.com

 

 

いつか竹生島を訪れる機会に恵まれますように👏

 

 

太刀八幡宮の境内社 ⑦天満神社

太刀八幡宮境内社 ⑦天満神社

 

祭神 菅原道真

 

正面写真

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梅の文様が、天神様を表しています。

 

左側面写真

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背面写真

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徳次 塗器 氏子中

大正 10年4月 合同?

 

 

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博多出栄?町

石工 高瀬 ?喜

 

 

神社庁への提出書類

 

太刀八幡宮の境内社 遷座の歴史で紹介しましたが、神社庁への提出書類には次のように記載されています。

 

天満神社 菅原神

     大字大庭字平田に祭祀ありしを大正15年12月11日許可を得て移轉合併す

 

さくら町の歴史ものがたりの太刀八幡宮の項に、地名のことで次のような記述があります。

太刀八幡宮の南の方に徳次(とくつぎ)・塗器(ぬるげ)という集落の地名がありますが、この名前のおこりは神功皇后がこの地にこられたときにできたといわれています。

徳次は「磨剣(とくつるぎ)」であって、剣(つるぎ)などを磨(と)がれたところで、また、塗器(ぬるげ)は剣や槍(やり)などに漆などを塗らせたところとつたえられています。

 

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図は神功皇后伝承を歩く 綾杉るな から転載

 

 

太宰府天満宮

www.dazaifutenmangu.or.jp

 

ホームページの一部を引用します。

太宰府天満宮は、菅原道真すがわらのみちざね公の墓所ごぼしょの上にご社殿を造営し、その御神霊おみたまを永久にお祀りしている神社です。 「学問・至誠しせい・厄除けの神様」として、日本全国はもとより広く世のご崇敬を集め、年間に約1000万人の参拝者が訪れています。

誰もが学問の神様として、一度はお詣りに訪れたことがあるのではないでしょうか。

 

このホームページを見ると道真公の生涯が、神童と称された幼少期・文武で名を馳せた青年期・出世から左遷へ・失意の中でも誠を尽くされた晩年期など非常に良くまとまって記載されています。

 

私は、若い頃(27歳から4年程)大宰府の榎寺というところに住んでいたこともあり、よく天満宮には足を運んでいました。

菅原道真公が左遷で流されて住んでいたところが、榎社となって残っており、毎日その横を通って会社に通勤していました。

そこには、道真公にお仕えしてた浄妙尼さんの祠があって、よくお詣りしていたことを思い出します。

 

大宰府魅力発見塾さんのブログ 「太宰府 榎社 浄妙院 菅原道真公が過ごした場所」には次のような記述があります。

苦境を見かねた浄妙尼は道真公に梅の枝に餅を挟んで格子越しに差し入れをしたといわれています。この故事にならい太宰府天満宮参道の梅が枝餅がつくられるようになったといわれています。

 

こんど梅ヶ枝餅を食べる時は、道真公と浄妙尼さんの事を思いながら、感謝していただきます。

 

怨霊となった道真公

 

ウキペディア大宰府天満宮を見ると,歴史という項目の中に再三「道真の祟り」という言葉で出てきます。一部引用します。

一方都では疫病や異常気象など不吉な事が続き、さらに6年後の延喜9年(909年)には藤原時平が39歳の壮年で死去した。これらのできごとを「道真の祟り」と恐れてその御霊を鎮めるために、醍醐天皇の勅を奉じた左大臣藤原仲平大宰府に下向、道真の墓所の上に社殿を造営し、延喜19年(919年)に竣工したが、これが安楽寺天満宮の創祀である。

それでも「道真の祟り」は収まらず、延喜23年(923年)には皇太子保明親王が21歳で死去。狼狽した朝廷は、延長改元したうえで、4月に道真の官位を生前の右大臣の官職に復し、正二位の位階を追贈した。しかしそれでも「祟り」が沈静化することはなく、保明の遺児慶頼王が代わって皇太子となったものの、延長3年(925年)には慶頼もわずか5歳で死去した。そしてついに延長8年(930年)6月、醍醐天皇臨席のもとで会議が開かれていた、まさにその瞬間、貴族が居ならぶ清涼殿に落雷があり、死傷者が出る事態となった(清涼殿落雷事件)。天皇は助かったが、このときの精神的な衝撃がもとで床に伏せ、9月には皇太子寛明親王朱雀天皇)に譲位し、直後に死去するに至った。承平元年(931年)には道真を側近中の側近として登用しながら、醍醐と時平に機先を制せられその失脚を防げなかった宇多法皇も死去している。わずか30年ほどの間に道真「謀反」にかかわったとされた天皇1人・皇太子2人・右大臣1名以下の高級貴族が死亡したことになる。猛威を振るう「怨霊」は鎮まらず、道真には太政大臣追贈などの慰撫の措置が行われ、道真への御霊信仰は頂点に達した。ついに正暦元年(990年)頃からは本来は天皇・皇族をまつる神社の社号である「天満宮」も併用されるに至った。

太宰府天満宮の公式ホームページには、怨霊や祟りといった記述が見当たりません。しかし、道真公の祟りを朝廷が恐れ、そして、神として祀ったからこそ、今の天満宮があるということなのでしょう。

 

菅原道真 日本文化の生みの親

 

まほろばチャンネルさんが、素晴らしい動画を作成しています。

菅原道真の一生をまとめてみました。菅原家は、低い貴族であったにもかかわらず、道真公は、北野天満宮太宰府天満宮に「学問の神様」として祀られている。これを不思議に思い調べてみました。


www.youtube.com

 

道真公の一生を非常に分かりやすくまとめているとともに、日本文化の生みの親となる遣唐使の廃止など本当に勉強になりました。ありがとうございます。

 

農耕の神様

 

太刀八幡宮境内社 遷座の歴史の中でも紹介した、資料「朝倉の神々」の集落の神々地区別一覧を見ると、天満宮・天神社は、119社中25社で最も多い数になります。

表とは別に、「天満宮(天神様)76社(集落の神も含む)」とあり、朝倉地区に非常多く祀られていることが分かります。

私が住んでいる地区にも、天神社があります。

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朝倉町史には、天満宮・天神社は「農耕守護神と祀られた」と記載されています

 

美奈宜神社(内藤宮司さんの本務社)のホームページの中に、12月のお便りとして地域の天神様という記事が載っています。

一部引用します。

ご祭神の天神様は雨を降らす雷を農耕の神様として古代より信仰されていました。雷は雨に田んぼと書きます。雷は字の由来の通り、雨を降らし、豊かな米作りができる象徴です。雷がもたらす自然の恵みを天神様として古来より信仰し、令和の現在でも変わらず感謝し続けているのです。

天神様が、古代から農耕の神として、この朝倉の地にも祀られていることが分かりました。

 

こうして学ぶと学問の神様というのは、道真公のご神徳の一側面であり、農耕の神、至誠の神、日本文化の神など多くのご神徳があることが分かります。

今日まで「学問の神様 おはようございます」と挨拶していましたが、明日から「学問の神様・農耕の神様 おはようございます」とご挨拶させていただきます。

太刀八幡宮の境内社 ⑥秋葉宮

⑥ 秋葉宮

 

祭神 軻遇突智カグツチ)命

 

正面写真  令和4年12月18日撮影 初雪です

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左側面写真
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大正12年6月 吉日〇

 

背面写真
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世話人

浦 米吉

鬼塚 竹次郎

丸山 惣三郎

 

右側面写真
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石工

酒井 千次郎

 

 

神社庁への提出書類

太刀八幡宮の境内社 遷座の歴史 で紹介しましたが、神社庁への提出書類には次のように記載されています。

秋葉宮  軻遇突智命

     大字大庭字乙王丸に祭祀ありしを大正15年12月11日許可を得て移轉合併す

 

軻遇突智命

 

ウキペディア カグツチを引用します。

 

カグツチとは、記紀神話における火の。『古事記』では、火之夜藝速男神(ひのやぎはやをのかみ)・火之炫毘古神(ひのかがびこのかみ)・火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ;加具土命)と表記される。また、『日本書紀』では、軻遇突智(かぐつち)、火産霊(ほむすび)と表記される。

神話の記述

神産みにおいてイザナギイザナミとの間に生まれた神である。火の神であったために、出産時にイザナミの陰部に火傷ができ、これがもとでイザナミは死んでしまう。その後、怒ったイザナギ十拳剣天之尾羽張(アメノオハバリ)」で首を落とされ殺された。

 

カグツチの神は、前回のブログ 太刀八幡宮の境内社 ⑤徳満宮で紹介した保食神(うけもちのかみ)のように、殺されてしまいますが、その血や体から多くの神様が生れています。

 

こういう一見残酷とも思える表現は、死と再生を意味するのか、色々解釈があるようです。

 

 

秋葉山本宮秋葉神社

 

ウキペディアによれば、[日本全国に存在する秋葉神社神社本庁傘下だけで約400社)、秋葉大権現および秋葉寺のほとんどについてその事実上の信仰の起源となった神社である]と記載されています。

 

www.akihasanhongu.jp

 

秋葉山本宮秋葉神社のホームページの一部を引用します。

御祭神は、火之迦具土大神ヒノカグツチノオオミカミと申し上げ、伊邪那岐伊邪那美二柱の神の御子で火の主宰神です。火の光は時間的、空間的に人間の活動範囲を拡め、その熱は人間に冬の寒さも克服させ、食生活を豊かにし、そのエネルギーは工業・科学の源になると共に、その威力は総ての罪穢れを祓い去ります。光と・熱と強いエネルギーを与えられたこの神は、文化科学の生みの親として畏敬され、崇められてまいりしました。

 

御神徳は、火の幸を恵み、悪火を鎮め、諸厄諸病を祓い除く火防開運の神として、火災消除・家内安全・厄除開運・商売繁盛・工業発展の霊験あらたかなるものとして、全国津々浦々から信仰されています。

 

 

今、妻に御祭神の箇所を「良い文章だね」と語って伝えて思ったのですが、目で見ていた時の印象と違って、口に出すことではるかに言葉のエネルギーというか、感動が脳🧠に響く感じがしました。

妻は最近音読に興味を持って実践しているのですが、「やっとその事に気付いてくれた」😄と笑っています。

 

秋葉神社の火祭りを見ていて思ったのですが、「鬼滅の刃」に出てくる鬼との闘いのイメージが重なってきました。作者の方もこの祭りを見ていたのかな。

 

國學院大學 「古典文化学」事業

カグツチを検索していると、國學院大學 「古典文化学」事業 火之迦具土神というデーターベースを見つけることが出来ました。

 

神話の記述を、どういう風に解釈するかを諸説解説しています。

①発火法の反映とする説。

②火山の噴火現象の反映とする説。

焼畑農耕の反映とする説。

その他火の利用による人間の文化の起こりが語られていると捉える説等

 

この中で、私としては、火山の噴火現象の反映とする説が面白いなと感じました。

一部引用します

火神の誕生あるいは斬殺を噴火現象と見なし、死体からの諸神の化生を、それによって起こる様々な災異や大地の変動の表象とする。また、母神の女陰を焼いたという内容は、火口と女陰との形状の類似に加えて、火山の火口をホドという方言の例があることから、そうした古語がホト(女陰)の語と結びついて出来たとする説もある。

 

残酷な神話の話をどう解釈するか、大学の研究でも「なお検討の余地がある」と述べられているように、色々な説がこれからも出てくるのでしょうね。

 

火之迦具土神(神話から読み解く古代日本人と火の関係)

 

このユーチューブを見たときには、「こういう素晴らしい動画を見ることが出来てありがたいなー」と思いました。本当に無料でこういう動画が見れるこの時代は、情報化社会の利点ですよね。

 


www.youtube.com

 

 

火の神様に感謝して

 

私が、家で塩作りを始めて11年程経ちます。

庭の剪定した薪を燃料に、好きな海の海水を煮詰めて作っています。

これからも、カグツチの神に応援を頂きながら、塩作りを楽しみたいと思います。

 


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