来たる7月24日月曜日、午前9時より夏の例大祭が開催されます。
新しく修復された本殿での、久しぶりの例大祭です。
宮司さんも、気合が入るでしょうか?
私も参加して例大祭の状況を録画する予定です。
📹
太刀八幡宮の西の参道入り口、鳥居をくぐると小さな石橋があります。
この石橋の下からは、水が湧き出て美しいせせらぎを作っています。
令和五年(2023年)7月8日 撮影
この橋の向こう側は、土で埋め立てられていますので、橋の下から水が湧き出ていることになります。
橋の下はどうなっているのか? いつも疑問に思っていました。
写真では分かりにくいですが、コンクリートの側溝を裏返しに置いている中からも、向こう側からも湧き水が出ています。
下の写真は、今年の3月5日に撮影したものです。
この川は、冬の間は枯れています。
梅雨入り頃から、水がチョロチョロ流れ初めていました。
私が住んでいる家の古井戸は、今は枯れています。
昔は暮らしの大切な水を汲み上げていたはずです。
地域の人は、寺内ダムが出来てから水が枯れたようにいっていました。
太刀八幡宮も、以前は一年中水を湧き出していたのかもしれません。
そういえば、以前長老の話を紹介した時に、今は埋め立てられている橋の向こう側に池があって鯉が泳いでいたとお聞きしました。
伊勢神宮のホームページに、宇治橋・五十鈴川の紹介があります。
一部引用します。
内宮ほとりの清流にかかる、日常から神聖な世界への架け橋
美しい表現ですよね。
太刀八幡宮の西の参道を作った時、伊勢神宮をモデルにして、石橋を架け、池を作ったのでしょうね。
参拝する人は、この川のせせらぎで禊をして参拝していたのでしょう。
美しいせせらぎの中で、かわいい龍が遊んでいるように思えてきます。
🐉 🌈
参拝する人を見守って下さいね。
太刀八幡宮には、「筑前国上座部大庭村 太刀八幡宮 縁起巻物 上下2巻」があります。
本物は、内藤宮司さんが保管しており、複写版は総代会長が代々引き継いでいます。
丁度一年前、総代会長にお願いして、公民館で巻物を拝見させていただきました。
複写版とはいえ、立派に装丁された巻物2巻です。
下の写真は、その上巻の最初の部分です。
上巻は約9m、下巻は約6m、合わせて15mの非常に長い巻物です。
公民館の畳の間で見たから全貌が分かりましたが、個人の家では広げることは出来ません。
非常に美しい文字で書かれていますね。
少し引用してみます。
大日本は天地ひらけて後 天祖始めて基をひらき
日神の御孫瓊々杵尊(ににぎのみこと)初めて皇統を
なれ給ひしあり 世々の帝(みかど)皆皇神の御末にて
・・・
太刀八幡宮の縁起の始まりに、天孫降臨の記述があるのは驚きです。
何が書かれているのか、興味があります。
しかし今の私には、この巻物を解読する読解力がありません。
太刀八幡宮縁起の解説
総代会長引継資料の中に標題の資料がありました。
作成したのは「筑後川流域の絵馬」をまとめられた鶴田多々穂さんです。
以前のブログで鶴田多々穂のことを「絵馬を調査した功労者」として紹介しています。
この巻物を解読するには大変な努力があったと思います。
鶴田多々穂さんに感謝しながら、その解説の全文を引用して紹介させていただきます。
一部私では読めない文字もあるので、不正確な箇所もありますが、ご容赦ください。
又、一部文字の解釈をカッコ書きしています。
太刀八幡宮 縁起の解説
太刀八幡宮縁起の原本は、江戸時代の正徳五年(1715年)入地村〇禅〇の古賀仁右衛門高重という人が撰文(文章を作ること)し書いたもので、其の後巻物が古びたため補修したが当時の庄屋が自宅に保管していたところ火災のため焼失した。再び寛政元年(1789年)副本にもとづいて廣瀬適(かない)という人が浄書した。
これが現在伝えられている縁起上下の二巻である。
上巻のあらすじ
仲哀天皇・神功皇后・應神天皇の事跡(出来事)が誌されている。
日本武尊の子であり 成務天皇十四年二月 越前國敦賀から紀伊國に巡幸の時、日向國に熊襲が叛乱(反乱)した事を聞き、同年六月長門國豊浦宮に至り、皇后(神功)を呼び寄せ、仲哀天皇八年春正月四日 神功皇后を伴って筑紫に行幸 同一月二十二日儺縣より糧日宮(かしいぐう)に至る。
協議の結果熊襲征伐を中止したが翌年二月六日、年五十二才で糧日宮で崩御された。
棺を掛けて置いた椎の木が霊香を放ったので、其所を香椎と呼ぶことになった。
仲哀天皇の遺志をつぎ、吉備臣祖鴨別に命じて熊襲を征伐させたが、次いで秋月古処山の麓、荷田村というところに羽白熊鷲が叛(そむ)いた。
皇后は怡土郡雷山の層増岐野に至り、軍勢を催ほしここから再び荷田村の羽白熊鷲を討った。
その時「熊鷲を取り得て我が心安し」と云われた。そこを「夜須」という。
三月二十五日山門郡の土蜘蛛田油津媛を討ち亡ぼし大庭村上野原にて軍士を練り兵器をとがしめ、皇后みづから帯びる太刀を捧げて天神地祇に祈った。
火前國松浦縣に至り再び筑前國に帰り三韓征伐を計画す。身重の体ながら自ら大軍を率い、新羅に渡り程なく百済・高麗をも降伏させた。
皇后は対馬・壱岐を経、筑前國志賀島、姪浜を過ぎて香椎に帰着した。
やがて臨月となり十二月四日宇美で男子を出産し、誉田(ほんだ)皇子と名づけた。のち八幡大神とも應神天皇とも云う。其の後皇后は皇子を連れて長門國豊浦宮に遷し、間もなく大和國稚櫻宮に至る。六十九年間政事をとり、百歳の高齢で崩御された。
應神天皇
誉田皇子即位す。
三韓より学者・縫工業多数を招き学校の制度や衣服裁縫の業を奨励し世を治める。
下巻のあらすじ
応神天皇の事跡が主体に誌され、末尾に神社縁起の由来が書かれている。
嵯峨天皇弘仁十四年(八二三年)神告により大庭村のこの地に八幡大神(応神天皇)を祭る。宇佐の例により神功皇后、比賣御神も相殿に祭った。
後円融院(北朝)の応安七年(一三七四年) 時の征夷大将軍足利義満は大軍を率(ひき)い、肥後國菊池武政を討つため下向したとき、先手の畠山義深 戦場に向かうにあたり太刀八幡宮に詣り、自ら太刀一振・鏑矢を捧げ戦勝祈願をなし神助により大いに敵を敗った。
天正十五年(一五八七年)豊臣秀吉九州征伐の時、社領悉く没収され祭祀などおとろえてしまった。
そもそもこの宮の八幡大神を軍神或いは弓箭(きゅうせん・弓矢をとる武士)と云うのは神功皇后の胎内にあった頃からの武徳によるものである。
応神天皇は衣服裁縫の事をひろめ、文教の道を興し國を豊かに治めた。
日本武尊、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、仁徳天皇等代々文武の大徳あり。これは唐の古人の周の大王、文王、武王などの徳にもおとらないものである。
この様な神であり誠をもって敬嵩すればよろずのさわりもなく、家栄へ、寿命長く、子孫も繁栄すること天地と共に限りないものである。
正徳五年(一七一五年) 古賀高重 謹書
付記
日代・出張野・塗器瀬・磨劔・御帳張・討熊襲野等の名、皆神功皇后の御旧跡也。
日代(ひしろ)とは大和國日代の宮の名を行在所に移し給へるなり。
出張野とは軍勢を備へさせたまふ所なり
塗器(ぬるげ)野瀬とは兵器を塗りかざらしめ給ふ所なり
磨劔(とくつぎ)とは兵刃をとぎみがかせ給ふ所なり
御帳張(三井原)とはご陣営の所なり
討熊襲野(うしろぞの)とは熊襲を討ち平げたまふ時凱歌を唱へさせられし所也
加藤一純の付記
太刀八幡宮は由緒深い社であるが、年久しくなり或いは いにしえの戦乱により社記文書は無くなってしまった。
大庭村の農長古賀重次、古賀重敬、祠官上原實次は入地村の古賀高重に依頼し縁起二巻を作った
古賀高重は歴史に明るくその記述は正しいものである。
正徳五年(一七一五年) 貝原 常春
或る時藩命により当地方巡行のとき縁起を見たが年代古く損壊が甚だしかったので之を補修し時の庄屋に渡したが、自宅に保管中火災のため焼失した。副本があったので廣瀬適に浄書を依頼し元通り上下二巻を作った。
寛政元年(一七八九年) 加藤 一純
昭和五十三年(一九七八年)正月 鶴田多々穂 誌之(之を誌す)
太刀八幡宮の縁起が簡潔にまとまった良い資料ですよね。
巻物すべてに目を通し、判読し、それをあらすじとしてまとめあげた鶴田多々穂の尽力に改めて感謝します。🙏
そして、いつかこの巻物を全文読める時が来ることを、楽しみにしています。
誰か読める人、いないかな?
😊
太刀八幡宮の本殿前には、神様をお守りする狛犬さん達が、3対並んで私たちを出迎えています。
本殿前が一番古く、そして小さい狛犬です。
手前に来るにしたがい、新しくそしてサイズも大きくなっています。
献納された年代が違いますので、比較も楽しいです。
一の狛犬
口を開けた顔が一部欠けています。
最初、欠けた顔がかわいそうで、修復出来ないのかな?と思っていましたが、古い有名な神社でも欠けた顔の狛犬たちがあり、これはこれで年代物としての味があるのかなとこの頃は思っています。
台座の紋様は何でしょうか?蓮の花?
口は閉じています。
今(2023年)から、184年前の建立です。
富地保長
星野茂三郎
裁?澄
建立
献納した方々の名前が、彫られています。
星野茂三郎さんといえば、以前のブログ「太刀八幡宮を参拝する維新の志士達」で紹介した明治維新の志士達を匿(かくま)った大庄屋さんです。
大庄屋 星野茂三郎の家が、勤王の志士達の隠れ家になったのは、1850年頃からです。
以前のブログ「太刀八幡宮を参拝する維新の志士達 野村望東尼」で野村望東尼が大庭に来た頃の出来事を年代順に並べてみたのですが、一部抜粋します。
安政3年(1856) 望東尼 大庭に来訪
11月10日 月照さん 鹿児島の城下に着く
この狛犬さんは、明治維新の志士達の祈りを、神様方と一緒に聞いていたのですね。
二の狛犬
左足を少し前に出しているからでしょうか、躍動感があります。
台座の紋様は、一の狛犬とは変わっていますね。
何の花かな?
こちらも、同様に襲いかかるような躍動感を感じます。
石工達も、一生懸命腕を磨いて作成しているのですね。
苔むして、献納した方々の名前を判別出来ません。
大嘗祭記念
大正四年十一月吉日
1915年ですから、今から108年前です。
第三の狛犬
堂々とした威圧感があります。
台座の形は、まるで高級な花台のようなおしゃれな形になっています。
苔むして判読不能です。
昭和八年四月五日 参宮同行
1933年なので。90年前の建立です。
狛犬とは
普段何気なく狛犬という言葉を使っていますが、ユーチューブに京都国立博物館が作成した子供向けの「今日から君も狛犬博士」という動画がとても参考になりました。
この動画を見れば、右が獅子で左が狛犬ということが分かります。
狛犬を見るのがますます楽しくなります。
日本の想像上の生物
狛犬をインターネット検索すれば、日本の想像上の生物という言葉を見ることがあります。
神社で良く彫り物で見る龍も同様に言われています。
私は以前、滝の修行をしていた時に、導師から龍や不動明王はじめ多くの仏様のことをお聞きしました。
導師が目の前にいる印を結んだ仏様が誰なのか分からずにいると、後ほど仏像の本の中でその名前を知ることがあったということです。
導師同様に仏様を見る事の出来る彫師が、その姿を彫り上げたのですね。
私には、神様・仏様・霊獣達を見ることは出来ませんが、見える人は今も昔もたくさんいるのだと確信しています。
龍も見える人によって、絵や彫り物の姿が変わっているだと思います。
狛犬たちも同様に、普段見る事の出来ない私たちにすれば「想像上の生物」という言葉で説明してしまいますが、私は実際にいると思うんですよね。そうでないと、全国の神社に奉納されている訳がないと思っています。
神様の周りを、ぴょんぴょん飛び回っている狛犬さん達を想像すると、楽しいですよね。
そういえば、我が家の柴犬がまだ1歳にならない頃、神社の狛犬近くに行くと、逃げ回っていました。
狛犬が見えたのかな?
ワン🐕
今日は、令和5年6月30日です。
昨晩から非常に強い雨☔️が降っています。
気象庁は、全国的に災害級の大雨が降ると警戒🚨を呼びかけています。
朝方まで強い雨だったのですが、朝6時頃雨が少し弱まったので、傘を持っていつも通り、カミさんと🐕2匹で、太刀八幡宮を参拝しました。
いつものように、子持ち鳥居から階段を上り、拝殿に向かいます。
「今日は、6月30日です。半年の罪穢れを祓えたまえ、清めたまえ」と挨拶をした後、西の参道を降りて来ました。
そうしたら、なんとびっくり‼️
神様が細い竹で、茅の輪を作ってくれていました。
「すごいねー」
この天気の中、参拝出来たことも奇跡ですが、茅の輪くぐりが出来たことも奇跡です。
奇跡を起こす太刀八幡宮の神々に感謝します。
これからも、たくさんの奇跡を楽しませて下さい。
ありがとうございます。🙏
カミさんが長老から「西郷隆盛と月照さんが大庭に来たんだ」と声かけられたことから、明治維新の志士達を学んで来ました。
西郷隆盛さん、月照さん、竹内五百都さん、野村望東尼さん、高杉晋作さん等
激動の幕末期を駆け抜けて生きた人々です。
そして、志士達を支えた大庭の人達も、明治維新に貢献した偉大な人達です。
カミさんが長老から聞いた話に、当時大庭の村は水の分配で揉めていたのを、志士達に解決してもらったというのがありました。大庭の人達との交流を深めていたのを感じますね。
明治維新から世界維新へ
明治維新は、アヘン戦争で負けた中国のように、日本を欧米の植民地にさせてはいけないという志が起こしたものだと思います。
そして、今の時代は、物質的には豊かにはなったけれど、世界では未だに戦争が行われ、かたやこの朝倉も平成29年7月に九州北部豪雨を経験したように、地球規模で異常気象が発生し、これからも大地震・津波など自然災害が予想されています。
こうした時代ですが、私は今回明治維新の志士達から、メッセージを受けたように思うのです。
【たとえどんな事があっても、その状況の中から活路を見出し、面白く生きてごらん。】
前回のブログの中で、高杉晋作さんの辞世の句を紹介しました。
再度引用します。
そんなある日のこと、病床の高杉が、
「面白きこともなき世に面白く」
と、上の句を詠んで、望東尼に下の句を続けてくれと言った。望東尼が、
「すみなすものは心なりけり」
と詠むと、高杉は「面白いのう」と言って笑ったという。
高杉晋作さんの29年の人生は、傍から見れば苦難の人生のように思えますが、本人は「面白いのう」と笑った姿を見て、心の在り方で人生はいかようにも捉えることが出来るということを学びました。
私は今64歳ですが過去を振り返ると、辛い事・悲しい事・怒ったことなどたくさん出来事がありました。
しかし、心の在り方を変えてそれらの事を見直した時、「あー、すべては今の自分を作り上げる大事な出来事だったんだ」と思えるのです。魂を磨くための砥石という言い方も出来ます。
そうすると、すべてが「面白いのう」と感謝出来るようになりました。
明治維新の志士達のような、後世に名を残すような働きは出来なくても、日々笑顔😄でどんな状況に遭遇しようが、人生を悲観的にならず、心豊かに生きていければ、世界維新に貢献出来ると思うのは妄想でしょうか?
時には太刀八幡宮の神々に相談に乗っていただきながら、これからの人生を面白く生きていきます。
明治維新の志士達よ
ありがとうございました。🙏
朝倉町史には、
安政三年(1856)福岡の女傑、野村望東尼も大庭に来訪し
と書かれ、望東尼のことを詳しく紹介しています。
平尾望東会顧問 谷川佳枝子さん
40年以上野村望東尼を研究された谷川さんのホームぺージを参考にさせて頂きながら、一部引用していきます。
そして、福岡チャンネルさんの動画に谷川さんが出演されています。
望東尼は、27歳で歌人大隈言道(おおくまことみち)に入門して、歌の才能が開花しました。そして多くの歌を詠んでします。
朝倉町史にも、大庭で詠んだ歌が紹介されています。
朝倉町史引用
大庭の地に竹内五百都を訪れたとき、国事に奔走する竹内の日記を見て、感動して詠んだ望東尼の歌に、
真心を書き残したる水くきに
今さらぬるるわがたもとかな
水くきというのは、筆跡のこと。
望東尼の涙する姿が、目に浮かびます。
次の歌はとても有名です。
もののふの大和心をよりあわせ
ただひとすじの大綱にせよ
(諸国の武士たちの大和心をより合わせて一本の大綱にせよ)
うちのカミさんが望東尼が大好きという話は、前のブログでしました。
以前カミさんが平尾に住んでいた時、平尾小学校では、望東尼を題材にした音楽劇を発表していました。
カミさんが保存している子供達の資料の中に、姫島小学校との交流会の台本が出てきました。今から20年以上前のものです。
望東尼が過ごした平尾と島流しにあった姫島の小学生同士が、交流を重ねています。
この時は、平尾小学校の生徒達が、姫島に訪問しています。
とてもほのぼのとしますので、内容を引用します。
「望東尼」合唱
今歌った曲は、平尾小学校の先生たちがつくった「望東尼」という曲です。
今日は、私たちのためにいろいろと準備していただきありがとうございました。
私たちは、福岡市中央区の平尾小学校から来ました。
私たちの学校の児童数は、1年生から6年生までで745人います。
校庭には、たくさんの木があり、平尾の森という遊び場所もあり、大変自然に恵まれた学校です。
それでは、私たちの平尾小学校の校歌を紹介します。どうぞお聴きください。
(校歌斉唱)
私たちの校区には、九州エネルギー館や、九電記念体育館、動植物園などがあります。
そして、野村望東尼さんが住んでいたという平尾山荘があります。
今、望東尼さんのことをみんなで調べて、音楽劇で全校に発表しようと練習にはげんでいます。
私たちは先週、修学旅行で萩に行ってきました。
萩では、望東尼さんをこの姫島の獄舎から救い出した高杉晋作の生誕地を見てきました。
そこには、望東尼さんの絵も飾られていて、望東尼さんの偉大さを改めて感じました。
そして今日は、流刑されたこの姫島の地に来ることができ、今でも、望東尼さんがいたという獄舎が大切に保存されていることを知り、ますます望東尼さんのことを尊敬するようになりました。
望東尼さんが、この姫島で過ごしていた時、この島の方から大変優しくされたということは、よく知っています。
今日この島に来て、その当時だけでなく、今でも望東尼さんが大変優しくしてもらっているように思いました。
今日は、この姫島のよさをたっぷりと感じ取って帰りたいと思います。
最後に、「モトニ」という曲を演奏します。
この曲は、岩崎大輔さんという有名な作曲家の人が作った曲です。聴いてください。
礼
いつか、子供達の音楽劇も観てみたいものです。
そして、その音楽劇の中で歌われた曲を、カミさんはよく歌っています。
今日(令和5年6月17日)、修復された太刀八幡宮の本殿の前で、カミさんに歌って頂きました。歌唱奉納です。
歌の奉納 もののふの大和心
望東尼と高杉晋作
長州の高杉晋作が、福岡に亡命してきたのは、元冶元年(1864)11月のこと。晋作は長州藩の内部抗争の末、藩の実権を握った反対勢力である俗論党から身を守るため、福岡藩士中村円太らの計らいで、10日間余り平尾山荘に潜伏することとなった。
高杉晋作は、この10日間で望東尼さんと魂の深い絆を結びます。
歌を通して、優しくそして力強く魂を支えたのでしょう。
高杉晋作はその10日間の恩義を果たすため、流刑された姫島から望東尼を救いだし、下関で感動の再会を果たします。
そんなある日のこと、病床の高杉が、
「面白きこともなき世に面白く」
と、上の句を詠んで、望東尼に下の句を続けてくれと言った。望東尼が、
「すみなすものは心なりけり」
と詠むと、高杉は「面白いのう」と言って笑ったという。
有名な高杉晋作辞世の句です。
歌のやり取りで、心の交流を深める文化は、素晴らしいですね。
大庭に来た望東尼の気持ちとは
望東尼が大庭に来た頃の出来事を年代順に並べてみました。
安政3年(1856) 望東尼 大庭に来訪
11月10日 月照さん 鹿児島の城下に着く
文久元年(1861) 望東尼54歳 念願の上京 京都では多難の国事を目のあたりにする
元治元年(1864) 11月 高杉晋作10日間余り、平尾山荘に潜伏
慶応元年(1865) 福岡藩の勤王党弾圧「乙丑の獄」により11月末玄海灘の孤島姫島の獄舎に幽閉
慶応2年(1866) 9月 高杉晋作の手配により救出され、下関に逃れる
慶応3年(1867) 4月 高杉晋作29歳で亡くなる
望東尼が大庭に来た2年後に、月照さんが大庭に来ます。
月照さんは、平尾山荘に立ち寄ったあと、大庭に向かったことになります。
最初に紹介したように、望東尼は竹内五百都の日記を見て、涙を流して感動しています。勤王の志士達の姿、そして西郷隆盛と月照さんの入水を知った望東尼は、どんなにか憤りを感じたことでしょう。
そして京都で何が起きているのか目にしたくて、念願の上京を果たしたのでないでしょうか。
夫がなくなって二年後、文久元年(1861)11月末、望東尼は念願の上京の途につく。徒歩で小倉まで行き舟で下関に渡り、下関からは瀬戸内海の海路を大坂まで進んだ。
こういう流れを見てみると、望東尼にとって大庭を訪れたことは、大きな転機になったのではないでしょうか?
そして、望東尼は太刀八幡宮で大きな祈りを捧げたのではないでしょうか?
勤王の志士達の母として何が出来るか
勤王の志士達の同志として何ができるか
🙏
曽川チャンネルさんが作った次のユーチューブは、平尾山荘、姫島などの史蹟もスライドショーとして見ることが出来て、とても感動しました。
素晴らしい動画を作っていただき感謝します。