氏神様は太刀八幡宮

1200年の歴史を紐ときます

太刀八幡宮 令和6年が来た🐉

小雨の大晦日でした。

 

太刀八幡宮は、令和6年を出迎える準備も終え、何年振りかに、参道は竹灯籠に火が灯り、参拝者を本殿へと誘います。

 


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そして、午前零時が近づくと、参拝者が小雨の中続々と集まって来ます。


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老若男女、中にはかわいいワンちゃんを抱いて、新年を祝っています。

家族で参拝する方、若者だけで参拝する方など様々ですが、この時間に参拝されるということは、信仰心がないと出来ないことだと思います。

 

神様方は、かわいい我が子を見るように、参拝者達を出迎えているように感じます。

 

明けましておめでとうございます。

 

朝は、小雨もあがり、内藤宮司さんをお迎えして、歳旦祭が行われました。

 


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一晩中、参拝者の対応をして頂いた総代さん達が参道に整列して、神事が執り行われていきます。

 

コロナ禍とインフルエンザが流行しているからでしょうか、今年も福引は開催されませんでしたが、来年こそは福引が開催され、子供達を含めた楽しい歓声が境内を包むことを祈念します。

 

今日までに、多くの方々がこのブログを見て頂いて、本当にありがとうございます。

 

今年も、引き続き太刀八幡宮のあれこれを発信していきますので、よろしくお願いいたします。

 

太刀八幡宮 冬いちごの輝き

太刀八幡宮の北側の斜面(子持ち鳥居の西側)には、この時期、冬いちご🍓がルビーのような輝きで私たちを出迎えます。クリスマスチェリーとも呼ばれています。

 

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小さな実ですが、甘酸っぱさが野生の息吹を感じさせてくれます。

私の大好きな冬の味覚です。

 

昨年は、たくさん実っていて、私の舌を満足させてくれましたが、今年は敷地内に繁殖している竹や杉の枝の伐採により、多くの冬いちごはその下に隠れています。

 

誰が冬いちごを育てているのでしょうね。

鳥が種を落とすのでしょうか。

 

花言葉は、

  • 「真心の愛」
  • 「未来の予感」
  • 「尊重と愛情」
  • 「誘惑」

とあるようです。

 

「華のいわや」さんのブログに花言葉の解説が書かれていますので、一部引用します。

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四つの花言葉それぞれに解説していますが、私には太刀八幡宮の神様が「真心の愛」という花言葉を添えて、恵みを与えてくれたのだと感じましたので、その解説を引用します。

 

「真心の愛」

 

冬にも果実を実らせ、動物達が本当に必要としている時の貴重な食糧となる事から付いた花言葉です。

心からの愛情で接してくれる両親や配偶者などへ贈るのに向きます。

あなたが愛情を注ぐという意味で、子供や配偶者にも良いでしょう。

どんなスキャンダルがあった時も、一貫して応援し続けている芸能人へのファンレターに画像添付しても、意味が合います。

この花言葉が合わないのは、仕事上の付き合いなど、損得で結び付いている人です。

どんな下心があるのかと、警戒させるだけです。

 

今年、太刀八幡宮を参拝した西郷隆盛月照さん・野村望東尼さんの事、そして標柱(しめばしら)に書かれた吉田松陰の言葉などから、「誠」の心の大切さを学び、ブログで発信してきましたが、この花言葉『「真心の愛」で生きよ』という言葉を今年最後のプレゼントとして、神様方が与えてくれたのだと思うのです。

 

簡単なことではないと感じますが、神様方の応援やお叱りを受けながら、これからの人生を生きる指針として、歩んでいきたいと思います。

 

クリスマスプレゼント💝

ありがとうございます。🙏

 

 

太刀八幡宮 川祭り その3 甘酒

前回、前々回と川祭りのブログを二つ紹介しています。

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実はずっと気になっていた甘酒を、今日(12月26日)奉納してきました。

 

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この写真は、平成3年の物ですが、川沿いに祭壇を設けて、四方にぶら下げた竹筒に、甘酒を注いでいます。(前々回のブログで紹介)

 

また、朝倉町史に書かれていた、川祭り(カッパ祭り)の中でも、竹筒に甘酒を入れて奉納し、残った甘酒を皆さんで頂いている事が書かれています。

 

そんな事から、今年も九州北部豪雨により始まった大規模な河川改修工事のため、祭壇を設けることは出来ませんでしたが、せめて甘酒だけでも奉納したいと思って、カミさんに甘酒を作ってもらいました。

 

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カミさんが作った甘酒を竹筒に入れて荷原川に向かいます。

 

大きく様変わりした川沿いに、甘酒の入った竹筒を置いて、川の神様、カッパさん、川の中を泳ぐ魚さん達、川で子育てしている鴨🦆さん達にも、奉納しました。

 

宮司さんのように祝詞は奏上出来ませんが、約30分程甘酒を奉納した後、甘酒は私がその場でお下がりとして頂きました。

自然の風や、太陽の光を受けて、とても気持ちよく、そして美味しく頂きました😋

 


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今日は、川の中を覗いて見ても、鯉達はいませんでしたが、先日覗いた時には、二匹悠々と泳いでいました。

そしてカワセミもコンクリートの上で羽を休めるように、その姿を一時見せてくれました。

すべての画像

ウキペディアより画像引用

 

大がかりな工事で、川の魚🐟達やカワセミはどうしているか心配していましたが、皆んな帰って来ています。

 

これも川の神様が守っていたのかな。

 

来年は、工事完了により引き渡しを受け、立派な祭壇を設けて、内藤宮司さんによる祝詞奏上を頂き、川祭りが行われる事でしょう。

 

私も参加してビデオ撮影するのが楽しみです。

太刀八幡宮 川祭りその2 昔の風景

前回のブログで、川祭りを紹介しました。

 

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先日、朝倉図書館に寄ると、故田中富登美男さんの写真展が開催されていましたので、一部紹介します。

 

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農作業の風景

 

昭和の風景の中に、昔の農作業の写真がありました。

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農作業に欠かせない大切な牛さん馬さんを、家族のように大切にしていた事は、容易に想像出来ますね。

汚れた体は、川で丁寧に洗っていたことでしょう。

 

約60年前の風景ですが、遠い昔の事のようです。

 

朝倉町の歴史ものがたりには、農業の機械化として次のように書かれています。

昭和三十年頃までは牛馬を中心とした農業が行われていましたが、それ以後は日本の産業の発展とあいまって、農業の機械化が急速に進んできました。

 

(耕運機、トラクターの説明が記載されています。)

 

昔から長い間つづいてきた田苗取り、田植などすべて手作業で行われ、大変苦しい仕事でしたが、この機械化によって多くの人の手がかからなくなったり、時間もかからなくなって、農村の人びとはずっと楽になりました。

また、昔からの農作業のかたちをすっかり変えてしまいました。

 

機械化の進化、技術の進歩は目覚ましいものがあります。

農業だけではなく、特にパソコンや携帯電話・スマホの進化は、驚くべきものがありますよね。今では、誰でも当たり前に手にしていますが、このスマホのおかげで、私もこうしてブログを発信することが、出来ています。

 

毎朝散歩で田んぼ道を歩いて思うのは、農作業の姿はこれからも進化するでしょう。人間の変わりにロボットがトラクター🚜を運転しているかもしれません。無人の農作業機械が、田を耕し、苗🌱を植え、稲刈りもするかもしれません。

 

でも、稲🌾を育てているのは、大地であり、水の恵、太陽🌞の恵、風などの大自然の働きによって、収穫の時を迎える事は、これからも変わらない事ですよね。

 

子供達の川遊び

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太刀八幡宮の区域ではありませんが、三連水車を背景に子供たちがすっ裸で泳いでいます。

今では学校から遊泳を禁じられているようですが、豊かな川の水は、子供たちの絶好の遊び場ですよね。

 

前回のブログで紹介したように、カッパ達が子供たちを守ってくれているように思います。

 

農作業に欠かせなかった牛馬やカッパ達、そして川の水を始めとした大自然に感謝する川祭りが、この地域の文化として継続されていくことを願わずにはいられません。

 

大自然に感謝です。🙏

太刀八幡宮 各地区の新嘗祭と川祭り

新嘗祭

 

12月になりました。

師走です。

朝の散歩の時も、風の冷たさを感じます。

 

太刀八幡宮新嘗祭が、11月23日に行われたことは、先日のブログで紹介しました。

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それとは別に、12月1日から太刀八幡宮の各地区の新嘗祭(宮祭り)が行われます。

 

12月1日、善光寺から始まり、左回りに開催され、小塚・中央、余名持、大角、三寺、上野原、乙王丸と続きます。

 

今日(12月1日)は、善光寺にお伺いして、新嘗祭の状況をビデオ撮影させていただきました。

 

場所は善光寺の公民館。

 

内藤主税 宮司さんが持参した祭壇を設営し、神饌(神様への供物)を供え、式典が始まります。

 

内藤宮司さんのお話もありますので、どうぞご覧ください。

 


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続き


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祭壇の写真

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玄関前の飾り付け(今回写真を撮り忘れましたので、昔の写真です。)

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川まつり

 

動画の中で宮司さんがおしゃっていますが、通常であればこの新嘗祭の神事の後、荷原川に出向き、そこに備えた祭壇でも神事が行われるのですが、豪雨対策の護岸工事の関係で、祭壇を作ることが出来ないため、宮司さんには橋の上からお祓いをして頂いています。

 

平成3年の写真ですが、川での神事の状況です。

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この川まつりですが、農作業に大きな働きをしてくれた牛・馬を川で洗ったりして大切にしていました。その川に対する感謝の気持ちが、川まつりとして継承されてきているとのことです。

 

善光寺さんの写真集の中には、次のような説明書きがあります。

機械化農業の以前ずっと昔その昔から農業は、牛馬によって営まれていたので牛馬の数、竹筒に甘酒を入れて牛馬に感謝の意を表し祭られる

 

当時何頭牛馬がいたのか分かりませんが、その数竹筒を用意したのでしょうね。

 

朝倉町史の第9編民族のところに、「川まつり」という項目があります。

 

 

引用します。

カッパまつりともいい、川筋の朝倉町ではこのまつりが多く行われている。水難事故にあわないように、水田の水が枯れないように祈るまつりである。三島部落では毎年十月二十日に部落あげて「川まつり」を行っている。座元があって、当日は竹筒3本に甘酒を入れ、それを竹笹にくくりつけ、堀川とせり川に捧げてその余りをいただくのである。この川まつりの由来は民話の節で述べることにする。

 

カッパまつり

 

引き続き、朝倉町史第七章 民話と伝説 第一節民話から引用します。

 

川まつりともいう。昔三島の里に、作兵衛さん(仮名)という働きものがいた。今日も一日の仕事を終えて、堀川の馬入れくんばで馬を洗っていた。馬洗いが終わり、自分も水浴びをしていた。ところが馬が何に驚いたのか、馬小屋目がけて走っていった。作兵衛さんも後を追い、馬小屋にいってみて驚いた。なんと手綱のわさに、カッパが手をつっこんでもがいているではないか。やがて隣近所のものが集まり大騒ぎとなった。「殺してしまえ」「見世物にだせ」といろいろガヤガヤ。そのうち一人の老人が「可哀想だから助けてやっては」と言った。里の衆も賛成した。

しかし助けてやるかわりに、次のことをカッパに約束させることにした。

「人流れがあったら必ず助けること。稲に水が枯れないようにすること」

カッパは快く引き受けて水の中に消えていった。その後三島橋のところから子供の人流れがあったが、どうしたことか三島車の「あらこ」の上で助かったという。またどんな日照りの年でも、川の水が枯れたことはなかったので、これはきっとあのカッパのお陰だと里の人は感謝した。

それからというものは、毎年十月二十日に部落あげてカッパまつりをすることになった。当日は世話人が竹筒三本に甘酒を入れ、それを竹笹にくくりつけて堀川とせり川にあげ、その余りをみんなでいただきカッパに感謝した。甘酒は刈り取り前の稲の穂をそいで作った。このまつりが終わらないと、稲取りは始められないという慣わしだった。この日は遠く筑後の方からも甘酒をいただきにくる人が多く、小学校も昼前で帰り、三嶋宮の境内は一日中賑わったという。戸渡しがあって座元になった二軒は、朝からご馳走をつくり接待の用意で一日中大変だった。何時の頃より始まったかははっきりしないが、今もこのまつりは続けられている。

 

こういう民話を見ると、地区は変わりますがこの太刀八幡宮の各地区で行われている川まつりも、農業の労働力としての牛馬に感謝することに加え、川の恵み、自然の恵みしいては大地・地球の恵みに感謝する形の現れなのだろうなと思います。

 

私の子供もよく荷原川に入って遊んでいました。

川に仕掛けたお魚キラーという網を毎日見に行って、時には鯰が入っていることもあり、川の恵みを体でたくさん感じることが出来たと思います。

その子供が無事に成長して、現在高校二年生の生活を楽しんでいるのは、カッパさんの助けもあったのだなと今更ながら感じます。

(中学校の先生からは、川では過去水難事故があったから、川には入らないように指導がありました。)

 

朝倉町史に書かれていますが、三島という地区では「小学校も昼前で帰り」とありますが、こういうお祭りこそ子供達が参加して、宮司さんから川の恵み・自然の恵みを学ぶことで、子供達の自然観を育てることになるのではないかなと思います。

 

村人あげての懇親会

 

この日、神事は神社総代・区長そして座元(お世話係)の参加で行われますが、宮司さんが帰った後、お昼には善光寺の皆さんが集まり、お弁当を頂いて新嘗祭のお祭りを楽しみます。そして座元の戸渡しという来年への引継行事が行われます。

 

ここ数年は、コロナ禍の影響で開催されず、今年もコロナの流行に加え、インフルエンザの流行により、懇親会は開催出来ませんでした。

 

区長からも、「来年こそは開催できることを祈念したい」と挨拶がありました。

 

私も来年は、川まつりの状況をビデオ撮影したいと思います。

 

何年、何十年と続いている文化が今後も続いていけるように、私も祈念したいと思います。

 

大自然の神様方、カッパさん いつもお守り頂きありがとうございます。

🙏

 

太刀八幡宮 令和五年新嘗祭

本日、11月23日 太刀八幡宮で、内藤禰宜さんをお迎えして、総代さん達参列の中、新嘗祭が開催されました。

 

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併せて、氏子さんに配布する令和六年の大麻への、「御魂入れ」も行われました。

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写真は、令和五年の大麻

 

ウキペディア新嘗祭には、次のように書かれています。

新嘗祭は、天皇がその年に収穫された新穀などを天神地祇(てんじんちぎ)に供えて感謝の奉告を行い、これらの供え物を神からの賜りものとして自らも食する儀式である。毎年11月23日宮中三殿の近くにある神嘉殿にて執り行われる。同日には全国の神社でも行われる。

・・・

また、宮中祭祀の中で最も重要な祭事として古代から行われてきた。

 

ウキペディアには、上で引用した概要から始まって、歴史や意義・式次第などたくさんの書き込みがされています。

 

天皇陛下は、昨日から最も重要な祭事を執り行い、神々に祈りを捧げています。

 

戦後生まれの私は、11月23日は「勤労感謝の日」という祝日としての認識しかなく、学生時代は、「学校が休める」と喜び、社会人になってからは、「会社が休める」と喜んでいました。この日に仕事に行くことになった時は、「『勤労感謝の日』に働かせるなんて、なんという会社だ」といって、不平不満をまき散らしていました。

 

この日が、日本人にとって新嘗祭という大切な日、重要な日という認識をしたのは、太刀八幡宮の総代を務めた時からかもしれません。

 

それでも、最初は農業に携わっている方のお祭りみたいな感じがありましたが、今では日本国民として、誰もが食べ物への感謝・神々への感謝を深める一日を過ごすことが大切なのだと認識しています。

 

新嘗祭まで新米を口にしない風習が古代からあったが、第二次世界大戦後に衰退した。

 

今では、今年の新米がスーパーに並んでいますので、私たちはすでに新米を食べている人がほとんどだと思います。

先日、宮司さんの本務社である美奈宜神社のイベントに訪れた時、「今年の奉納米のおにぎり🍙です。いかがですか?」という声に誘われて、おいしく今年の新米おにぎりを頂きました。😋

 

先日、どなたかがユーチューブでのお話の中で、全国の稲刈りも終わり、国民が今年の新米を食べたのを見届けるようにして、最後に天皇陛下は神々に感謝を伝え、新嘗祭を行うんだということを言われていました。

「私が食べるまで、国民は食べてはいけない」では無く、その逆で、「私は皆が食べた最後で良いんだよ」という謙虚な姿勢が表れていると言われていました。

 

 

 

 

以前のブログ、「太刀八幡宮境内社 稲荷神社」の中で、「昭和11年新嘗祭献穀斎田」を無事やり遂げた鶴川光次郎さんのことを紹介しました。

 

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朝倉町史から引用した内容ですが、読みながら大庭村中あげての一大イベントに取り組む姿に、私は感動して目頭が熱くなりました。

 

 

時代は、変化していますので、かつてのように新嘗祭を祝う習慣は、少なくなっているかもしれませんが、私のように日本文化の大切さ、稲作文化の大切さに、今さらながら気づいたものとしては、今日は、天皇陛下に感謝をし、食べ物を育む大地・地球さんをはじめ、農業に携わる人々、運搬や、容器製造など食品業界に関わる全ての方々に感謝して過ごします。

 

本当にありがとうございます。🙏

 

 

 

太刀八幡宮に宿る吉田松蔭の誠

前回のブログで、標柱の紹介をしました。

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至誠而不動  者未之有也

しせいにしてうごかざるもの

いまだこれあらざるなし

 

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そして、定例祭に掲げる幟旗(のぼりはた)にも同じ言葉がなびいています。

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吉田松蔭の事を知るために、「留魂録」を読んだことは、前回も触れたのですが、私がとても印象に残り、これからの人生に影響を与える言葉をいくつか紹介します。

 

 

松蔭が主宰する「松下村塾」の活動期間は、実質的には、わずか1年ほどにすぎません。納屋や古屋を改造したもので18畳半ほど・・

 

松下村塾は、松陰の叔父さんが始めたもので、松陰は3代目の主宰者になるとのことです。そのわずかな教師の期間に、教室も質素な部屋の中で、多くの明治維新の志士及び明治政府の要人を育てあげたとのことです。

優れた教師の姿がそこにあるのでしょう。

この漢詩を作った孟子性善説は、「教育が重要である」という説だということを前回のブログで学びましたが、まさに吉田松陰は教育者として本当に優れた人だったということが分かります。

 

 

なるほど松下村は小さな村です。しかし、神国・日本を木にたとえるならば、松下村はその木の幹になると、私は誓います。

 

これは、ふたたび投獄される時に、自分の思いを残したものの一つです。

当時日本全国に寺小屋があったでしょう。その一つの塾が明治維新を成し遂げて行きます。

松陰神社には「明治維新胎動之地」と書かれた石碑が建立されています。

萩の維新関係碑文拓本集より引用

 

松陰の誓いどおり、明治維新は成し遂げられて行きました。

 

 

留魂録第一条

身はたとひ 武蔵野の野辺に朽ちぬとも

留め置まし 大和魂

 

歌意・「たとえ私の身は、武蔵の野辺で朽ちはてようと、私の魂だけは、<どうか神様>永遠にこの地にとどめて、祖国・日本を護りつづけさせてください。」

 

遺書の冒頭に書かれた辞世の句です。

 

辞世の句としては、次の文章も本の中で紹介されています。

「吾、今、国の為に死す。死して君親に背かず。悠々たり天地の事。鑑照(かんしょう)は明神(めいしん)にあり」

 

私は、これから国のために死にます。死んでも、主君や両親に対して恥ずべきことは、何もありません。もはや私は、この世のあらゆることを、のびのびとした気持ちで受け入れています。

私は、私の人生のすべてを、今、神の御照覧にゆだねます。

 

 

死罪の判決を受けた時、松陰はこの二つの和歌を大きな声で浪々と吟(ぎん)じたとのことです。数え年で30歳、満29歳の人生でした。

 

現代教育を受けた64歳の私には、辞世の句を残す知性はありません。ましてや若干29歳の頃といえば欲に溺れた生活をしていました。(「今でもね」とカミさんに言われそうです)

 

松陰が妹の千代さんあての手紙の中に次のような言葉があります。

 

「神に願ふよりは、身で行ふがよろしく候」

 

松陰は、言うまでもなく神仏を敬っていた人です。ただし、神仏に「あれをしてくれ、これをしてくれ」というような「信仰」は、拒否していたように思います。神を敬するが頼まない・・・、考えてみれば、これはまさしく「武士道」の真髄をあらわしている言葉ではないか、と思います。

 

御利益を求めて神仏に手をあわせて来たわけではありませんが、「行動」という意味では十分動ききれていない自分がいます。

「明日にすればいいか」

「私がしなくてもいいよね」

みたいな事は今でもたくさんあります。

 

しかし、少しでも行動を大切にしたい自分も育っているように思います。

カミさんは、なにか思い立ったら「5.4.3.2.1.」とカウントダウンしてから行動しています。

良き手本が身近にいてありがたいと思っています。🙏

 

第8条 後來(こうらい)の種子

今、私は死を前にしても、とてもおだやかで安らかな気持ちでいます。それは、春夏秋冬という四季の循環について考えて、こういうことを悟ったからです。

・・・

私は今、30歳です、何一つ成功させることができないまま、30歳で死んでいきます。人から見れば、それは、たとえば稲が、稲穂が出る前に死んだり、稲穂が実るまえに死んだりすることに、よく似ているかもしれません。そうであれば、それは、たしかに「惜しい」ことでしょう。

しかし、私自身、私の人生は、これはこれで一つの「収穫の時」をむかえたのではないか、と思っています。どうして、その「収穫の時」を、悲しむ必要があるでしょう。

・・・

人というのは、10歳で死んでいく人には、その10歳のなかに、春夏秋冬の四季があります。

20歳で死んでいく人にはその20歳のなかに、100歳で死んでいく人にはその100歳のなかにまた春夏秋冬の四季があるのです。

・・・

私は、すでに30歳になります。稲にたとえれば、もう稲穂も出て、実も結んでいます。その実が、じつはカラばかりで中身がないものなのか・・・、あるいは。りっぱな中身がつまったものなのか・・・、それは、本人である私にはわかりません。

けれども、もしも同志の人々のなかで、私のささやかな誠の心を「あわれ」という人がいて、その誠の心を「私が受け継ごう」と思ってくれたら、幸いです。それは、たとえば一粒のモミが、次の春の種モミになるようなものでしょう。

もしも、そうなれば、私の人生は、カラばかりで中身のないものではなくて、春夏秋冬を経て、りっぱに中身がつまった種モミのようなものであった、ということになります。同志のみなさん、どうか、そこのところを、よく考えてください。

 

 

長文の引用になりました。

現在64歳の私は、私の人生の春夏秋冬のどこにいるのかを考えさせられました。

もちろん明日何が起こるか分かりません。

冬かも知れません。

でも、松陰のこの言葉を知った以上、私はまだまだ色々な事を学び、それを行動をもって世の中に足跡を残したくなって来ています。

どんな足跡を残せるのかは、本人の私には分からないのかもしれませんが、私なりに精一杯生きてみたいと思います。

 

吉田松陰が書いた手紙は現在のところ、なんと627通も残っている

 

この本の中では、たくさんの手紙が紹介されています。

高杉晋作にあてた手紙もあるのですが、その内容を読むと教育者「晋作」の愛情がとても感じられます。

時代が違うとはいえ、生徒が先生に手紙を書いて教えを請い、それに答えて先生が丁寧な愛情を込めた手紙を書くようなことが、あるのでしょうか。私の学生時代では、残念ながらありませんでした。

こういうことが、松下村塾では「わずか一年ほど」の教師期間だったかもしれませんが、多くの明治維新の志士達を育て上げることに繋がったのでしょう。

 

高杉晋作さんは以前のブログに登場しています。

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著者の松浦光修さんが、後半で次の文章を書いています。

もしも幕末の萩で、すべての若者が「リスクの高い行い」に恐れをなして、松下村塾に集うことなく、明治維新が起こっていなかったら、日本はどうなっていたのでしょう。言うまでもなく、日本は、他のアジア・アフリカ・オセアニアの国々と同じく、植民地にされていたはずです。しかし、松下村塾には、「リスク冒す必要のあること」を見わける「智恵」と、それに向かっていく「勇気」をあわせもつ若者たちが集まりました。そのこと自体、私には「奇跡」としか思われないのですが、その「奇跡」が、やがては日本を植民地化の危機から救い、やがては世界の有色人種を、欧米諸国の支配から解放するという、さらなる「奇跡」を呼び起こすのです。

 

吉田松陰という種モミが、果たした功績は、日本だけでなく世界の秩序にまで発展しています。そのことを理解するには、さらなる学びが必要です。

 

学校の歴史教育で、私は何を学んできたのでしょうか?🤔

 

至誠而不動  者未之有也

 

この言葉を「宣揚文」として選択した当時の総代さん達は、誰もが持っている「誠の心」を今一度思い出して、人生を歩んで欲しいと願ったのでしょう。

 

もしかしたら神様に、選ばされたのかな?