氏神様は太刀八幡宮

1200年の歴史を紐ときます

太刀八幡宮 古賀百工さんの功績

令和6年6月17日(月)、山田堰の堀川の通水式が行われ、三連水車が回り始めるというニュースがながれました。

 

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前回、「恵蘇八幡宮に祀られている太刀八幡大神」というブログを公開したこともあり、多くの先人達が山田堰そして堀川を改修して頂いたお陰様で、朝倉地区の農業用水が確保されていることに、感動と感謝の気持ちが沸き上がります。

 

今回は、この太刀八幡宮のひざ元の徳次で生まれ育ち、後に堀川の恩人と呼ばれた「古賀百工」さんのことを紹介します。

 

古賀百工さんについては、以前のブログ「子持鳥居」で少し触れています。

太刀八幡宮のシンボルともいうべき「子持鳥居」は、古賀百工さんを含めた当時の庄屋さん達が寄進したことを紹介しました。

 

goodlightsato.com

 

 

 

朝倉市のホームページには、堀川の恩人として、とても分かりやすく紹介しています。

 

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古賀百工とインターネットで検索すれば、たくさんの情報を得ることが出来ますが、今回は私がとっても分かりやすいなーと思ったユーチューブを紹介します。

 

 

8年前のユーチューブですが、始まりから12分程までをご覧いただくと、百工さんのことを知ることが出来ます。

 

 


www.youtube.com

 

このユーチューブの中で、朝倉の歴史に詳しい山崎長太郎さんという方が、百工さんのことを語っていますが、最後の方で次のようにおっしゃっています。

 

「百工さんのことを話すると、年寄りの人が、「そげな人がおったとな」と言われる。

百工さんのことが、あまり知られとらん。」

 

私も先日、村の懇親会で、お隣の人に古賀百工さんの話をしたら、「それって誰?」

と言われて、私の方がびっくりしました。

 

私は、外から引越してきた人間なので、古賀百工さんのことは、全く知りませんでしたが、子供が大福小学校4年の時に、山田堰に見学に行ったり、三連水車や堀川のことを学んだ上で、古賀百工さんの劇を発表しました。

その劇を小学校で見たので、古賀百工さんのことを知ったのですが、この朝倉で育った方々は、必ず古賀百工さんのことを学び、知っているもの思っていました。

 

 

もう一つのユーチューブは、山田堰から堀川全線を分かりやすく紹介したものです。

始まりから13分程です。


www.youtube.com

 

何かほのぼのとしたチャンネルですが、みなさんどう感じられましたが?

 

私は、今日も田植えの始まった田園風景を散歩しながら、現在当たり前に引かれている田への水は、先人たちの並々ならぬ努力のお陰であるのだと思うと、本当にありがたいと思いましたし、何もこの水だけでなく、今生活で当たり前にあると思っているものも、すべてが多くの方々のお陰だということに気づけて、良かったと思ったのでした。

 

このブログを公開するために、百工さんのお墓に手を合わせて来ました。

りっぱな案内看板もあり、とても綺麗に整備されていました。

気づきをありがとうございました。

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恵蘇八幡宮に祀られている太刀八幡大神 その2

前回のブログの続きです。

oodlightsato.com

 

碑石に刻まれた文字は、

 

天文十七年 戊申 三月十五日

太刀八幡大神

肥後八代城主

山本大納言?

 

でした。

それに対して、疑問が残りました。

 

肥後八代城主

山本大納言?

とは、どなたでしょうか。

ひごやつしろじょうしゅでしょうか?

ひごはちだいじょうしゅでしょうか?

何故肥後(熊本)なのでしょうか?

 

いつか、謎が解けるでしょう。

 

と前回は終わったのですが、とても気になり、この碑石を工事で掘り出した山田堰土地改良区に問い合わせをしてみました。

 

残念ですが、山田堰土地改良区の方は、知りませんでしたが、恵蘇八幡宮宮司さんに聞くと良いと教えて頂きました。

 

それで、恵蘇八幡宮の上原宮司さんにさっそく電話をして、この碑石の事をお聞きしました。

 

この碑石は、父た宮司時代に発掘されたもので、父が話していたこととして、次のように教えて下さいました。

 

この碑石は、山田堰のために埋められたものではなく、たぶん上流から流れついたものではないか。

 

太刀八幡大神は、武運の神様だから、上流のどこかに祀られていた碑石が、大雨で流れついて、山田堰までたどりついたのではないか。

 

上流で、肥後というと、阿蘇が考えられるが、定かではない。

 

私は、前回のブログで、

 

碑石に彫られている天文(てんぶん)十七年 戊申(つちのえさる) 三月十五日は、1548年 今から476年前です。

 

つまり、この最初に堀川ができた115年前に、この碑石が川底に奉納されたことになります。

堀川の最初の工事が、無事に成功するように、関係者が奉納したことは容易に想像出来ます。

 

と書きましたが、肥後の城主が山田堰の安全祈願をするとは思えませんよね。

福岡藩の仕事ですからね。

 

仮に、太刀八幡大神が肥後の国で祀られていたとすると、これまた武士の神様・武運の神様として、崇められいたということでしょうか?

 

謎解きというのは、楽しいですね。

 

脳トレには、最適です。

 

上原宮司さんも、何か分かったら私にお知らせしてくれると、おっしゃって頂きました。

 

この謎解きは、さらに続くでしょう。

恵蘇八幡宮に祀られている太刀八幡大神

恵蘇八幡宮は、朝倉市山田にある神社で、朝倉地域の総社と言われています。

 

我が家の神棚には、お伊勢さんの天照皇大神宮、太刀八幡宮そして恵蘇八幡宮のお札が並んでいます。

 

 

eso8man.com

 

この恵蘇八幡宮の境内の東側に、境内社として太刀八幡大神が祀られています。

背景には、山田堰の水神社が写っています。

 

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最上部石碑には、

 

天文十七年 戊申 三月十五日

太刀八幡大神

肥後八代城主

山本大納言?

 

と彫られています。

 

その下の台座の碑文です。

 

此の碑石は 昭和

五十六一月 山田堰

改修工事中 堰の

上流右岸 七米の

水底より発掘す

よって此の地に祀る

 

昭和56年は、1981年。今から43年前です。

山田堰の改修工事中に、太刀八幡大神と刻まれた碑石が、川底より出てきたのですから、工事関係者も含めて当時大きなニュースとして取り上げられたのではないでしょうか?(残念ながら、今のところ見つかりません)

 

 

山田堰

 

 

朝倉市のホームページには、山田堰の概要を簡潔に紹介していますので、是非ご覧ください。

www.city.asakura.lg.jpp

 

一部引用します。

 

山田堰は、江戸時代に干ばつで苦しむ農民たちを救うため筑後川右岸の耕地を水田化するために設けられた井堰です。

 

先人の知恵と技術の結晶であり、朝倉市の輝かしい文化です。2014年には、「世界かんがい施設遺産」に登録されました。

 

2019年12月に亡くなった中村哲医師は2010年に山田堰をモデルとした取水堰をアフガニスタンに築造しました。

 

また、農林水産省のホームページでは、

日本で唯一の石張堰である山田堰

と紹介しています。

www.maff.go.jp

 

 

碑石が埋められた背景

 

碑石に彫られている天文(てんぶん)十七年 戊申(つちのえさる) 三月十五日は、1548年 今から476年前です。

 

次の写真は、水神社境内に掲げられて「江戸時代の堀川関係年表」です。

 

 

始まりが

1663年 寛文3年 堀川できる

となっています。

 

つまり、この最初に堀川ができた115年前に、この碑石が川底に奉納されたことになります。

 

堀川の最初の工事が、無事に成功するように、関係者が奉納したことは容易に想像出来ます。

干ばつで苦しむ農民を助けるために残された道は、この筑後川の水を引くことなしにはあり得なかったのでしょうね。

 

今でいう工事の安全祈願祭として、この太刀八幡大神の碑石を安置したというのは、太刀八幡大神に寄せる期待の大きさというか、太刀八幡大神の力添えなくして、この事業が成功しないということを表していますね。

 

この碑石を奉納した

肥後八代城主

山本大納言?

とは、どなたでしょうか。

ひごやつしろじょうしゅでしょうか?

ひごはちだいじょうしゅでしょうか?

 

残念ながら、私のインターネット検索能力では、探しきれませんでした。

 

そもそも何故、肥後なのでしょうか。

 

肥後と言えば、童謡ではありませんが、熊本県ですよね。

 

国土交通省筑後川河川事務所のホームページには、次のように記載されています。一部引用します。

 

www.qsr.mlit.go.jp

 

万治のはじめ(1658年頃)、現在の山田堰のかんがい地区である朝倉町および甘木市の一部においては、すでに地区内を流れる谷川の水を利用し、少面積ではあったが、稲を栽培していた。

その後、年貢の増徴等が続き、年貢を確保するには新田開墾という気運が高まり、また福岡藩においても藩の施策として取り上げ、新田開墾に重要な用水源を筑後川に求めることとし、堀川用水新設の企画がなされた。

 

つまりこの事業は、福岡藩の施策とあります。

ただ、碑石はこの「万治のはじめ」の約100年前のものですからね。

 

山本大納言?とはどなたでしょうか。

 

このはいつか解けると信じましょう。

 

それにしても、476年前に祈念して納められた太刀八幡大神の碑石が物語るのは、その後何度も改修したとはいえ、日本で唯一の石張堰として現在も活用され、「世界かんがい施設遺産」に登録され、そしてその技術は中村哲さんの手によりアフガニスタンの農地開拓に活かされているなんて、すごいつながりですよね。

 

当初の奉納者の想像を超えた神計らいがなされ、現在の世に活用され、今後も大切に地元の人達に手によって引き継がれていきます。

 

 

 

 

 

太刀八幡宮 車のお祓い

私事ではございますが、太刀八幡宮交通安全祈願と車のお祓いをして頂きました。

 

太刀八幡宮には、宮司さんは常駐していませんが、内藤宮司さんに相談したところ、

「良いですよ。太刀八幡宮に来ますよ。せっかくだから、本殿の中で祈願をしましょう。」

とおっしゃって下さいました。

 

準備する物をお伺いすると

「せっかくなので、お酒、米、塩を準備して下さい。」

とのことでした。

 

拝殿、本殿への扉の鍵を、総代会長さんにお借りして、中の掃除🧹が終わった頃に、内藤宮司さんが到着されました。

 

お酒、米、塩をお供えして、神事が始まります。

 

私達夫婦は、椅子に座り、

 

祝詞奏上

・私達へのお祓い

玉串奉奠(たまぐしほうてん)

 

 

と神事が進みます。

 

最後に、車を一周して、お祓いをして頂きました。

 

初穂料は、内藤宮司さんの本務社である美奈宜神社と同じ、5千円で良いとの事で、特に出張費はいらないとのことでした。

 

毎朝、太刀八幡宮にお参りしていることから、新しい家族である車のお祓いは、この場所でしたいという願いが叶い、私達は大満足です。

 

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ちなみに、新しい家族は、ホンダの車で、太刀八幡宮の祭神の1柱である、応神天皇こと「ほんだわけのみこと」と縁があると思って喜んでいます。😊

 

宇佐神宮ホームページより引用

 

皆様方も、色々な祈願を太刀八幡宮で行ってみてはいかがでしょうか。🙏

 

令和6年 太刀八幡宮 春の例大祭

今日は、令和6年3月25日。

 

小雨降る中、春の例大祭が開催されました。

境内の桜🌸も、少しほころび、大祭をお祝いしています。

 

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内藤主税 宮司さんがおっしゃっていますが、春の例大祭は、正式には祈年祭といいます。

農耕の初めのお祭りであり、夏祭り・秋祭り・新嘗祭と続きますと挨拶されていました。

 

伊勢神宮のホームページには、次のように書かれています。

www.isejingu.or.jp

日本書紀』に天照大御神斎庭の稲穂を天孫瓊瓊杵尊に授けられたことが記され、そこに日本の始まりが位置づけられることは大きな意味を持ちます。春に豊作を祈り、秋の収穫に感謝する稲作を中心とした営みを、日本人は2000年以上繰り返して来ました。天皇陛下から国民に至るまで神を祀ることは日本の大切な文化です。

 

私は太刀八幡宮のブログを書きながら、この「日本の文化」ということに心が向かうのです。

私の目には見えない神様を、信じる信じないということではなく、日本人として培ってきた生活様式を生活の基盤としていることが、生きる上で大切なのかなと思うんですね。

朝起きたら、家族に「おはようございます」と挨拶をする。

近所の人に会ったら、挨拶をする。

このことと同じように、「祈年祭には豊作を祈る」ことも、生活様式・文化なのだろうと思うのです。

 

私は農家ではありませんが、豊作なくして私の繁栄もありませんので、これからもこのお祭りを大切にしたいと思います。

 

ウキペディア祈年祭には、次のように書かれています。

ja.wikipedia.org

 

本来は民衆が行う田の神への予祝祭であったが、中国の大祀祈殻の要素を取り入れ、律令国家祭祀として成立した。

 

予祝祭とは、あらかじめ祝うことで、今年の豊作をイメージしてお祝いのお祭りをするという文化を何千年も続けて来たのですね。

 

私も、今日は個人的な願い🤲も、予祝祭としてお祈りしたいと思います。

 

それでは、本日行われた、祈年祭の動画をご覧頂き、ご一緒に参拝していただけるとありがたいです。🙏 

皆様にとっても、素晴らしい秋の収穫を得る祈年の一日になりますように。

 


www.youtube.com

 

 

太刀八幡宮 平尾八幡宮に学ぶ

うちのカミさんは、以前 福岡市平尾に住んでいました。

 

そのカミさんが、「平尾八幡宮は、以前は暗くて社務所も開いていなかったけど、きれいになって社務所も人がいるようになっていたから、何か参考になるかもね。」と言うので、さっそくドライブを楽しんで行って来ました。

 

平尾は、以前のブログで紹介した、野村望東尼さんが住んでいた平尾山荘がある所です。

 

goodlightsato.com

 

平尾八幡宮は、住宅とマンションが立ち並ぶベッドタウンの中に有ります。

 

神殿全景、奥が社務所

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とてもスッキリした感じがします。

砂利を敷いてあるのも、清潔感を感じますね。

 

祭神は、応神天皇神功皇后菊理姫です。

 

お賽銭箱の隣りには、おみくじが置いてあります。
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お賽銭箱脇に、賽銭泥棒さんへのメッセージが置かれていまチュー。
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参拝した日は、土曜日だったので、社務所は閉まっていました。
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日曜日と1日、15日の午前中のみ、社務所が開いているのですね。

御朱印もその時受けることが出来るようです。

 

内藤宮司さんからお伺いしたことがありますが、三奈宜神社にも御朱印を求める女性が多く訪れるとおっしゃっていました。

 

太刀八幡宮も、1日(朔日参り)だけでも社務所を開けて、参拝者の方々にお茶🍵を飲んでいただき、一息いれてもらえたらいいですよね。

 

お伊勢さんでは、朔日参りの時は、特別のおもてなしもあるようです。

 

ise-kanko.jp

 

 

太刀八幡宮御朱印を作るのも良いでしょうね。

先日のブログで紹介した、朝倉市文化生涯学習課 文化財係のNさんは、「無人の神社で御朱印を置いているところもあります。」とおっしゃっていました。

 

 

 

菅原道真公が、休んだ石の復刻石がありました。私たちも座って来ました。
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修復工事寄附のお願い看板です。
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私たちが、参拝している時も、若い男性の方や、赤ちゃんを胸に抱いた若夫婦など3組程が、参拝していました。

 

きれいになった事も、参拝者の増加に寄与しているのかも知れません。

 

写真は、撮りませんでしたが、神域内に十数台の番号札が建てられた駐車場🅿️が有りました。多分、一般の方に貸し出し、駐車料金を神社の収入源にしているのでしょう。

 

「参拝の方は、拝殿前に止めてください」と立て看板もありました。

 

色々参考になりますね。

 

夢が広がります😴

 

 

 

 

太刀八幡宮の境内社 ⑧厳島神社の碑文解読

以前太刀八幡宮境内社を調べて、ブログで公開しています。

 

その中の厳島神社境内社を調べた時、刻まれた長文の碑文について紹介しました。

 

goodlightsato.com

 

この時のブログの中では、全文を解読出来ずに終わりました。

 

正面から見て、左側面写真

 

背面写真

 

正面から見て右側面写真

 

その後、内藤宮司さんから、「朝倉市の文化生涯学習課 文化財係にお願いすると良いよ」というお話を頂き、連絡してみたところ、さっそくNさんが太刀八幡宮に足を運んでいただき、なんと拓本をとっていかれました。

 

拓本をとる作業の前には、まずお酒を奉納して、手を合わせていました。👏

 

作業中の写真

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そして、先日解読内容を送って頂きました。

 

送付文も含めて、全文引用します。

 

読めない箇所や読み方があっているか不確かな箇所もあり、凡そこれくらいの意味というところでご了承頂ければ幸いです。

 

【意訳】

この弁財天を勧請したのは、秋月種実の代々の家臣、師岡勘次兵衛である。

天正の頃(一五七三~一五九一)の秋月城落城の際には夜須郡依井村に住んでいた。

南筑の生葉郡吉井の市に商用があって、この往来の大庭村平田というところに来て、

文禄年中(一五九二~一五九五)に住宅を移し、数百〇を耕地にした。霊験によって弁財天を進んで崇敬した。

元和年中(一六一五~一六二三)に三代の孫、九郎左衛門 惣兵衛 市次良は各々大隅に住居を替え、別に相続した。

凡そ二百十有余年、絶えていたが、八世の孫、社地のこの地に移して新たに石の玉殿(祠)を造営し、神処を飾り奉って、子孫繁栄・五穀豊穣の長久を祈るものである。

 

願主 師岡姓産徒

石工 筑後 山北村 ○○ 平沢辰諄

享和元(一八〇一)年 辛酉 朔且

 

 

歴史を感じますね。

このお社が出来たのが、223年前になりますが、由来は更にさかのぼり、1590年代というと430年前には、弁財天さんを崇拝していた事が分かります。

 

そして、このお社は他の境内社と共に、大正15年(1926年) 太刀八幡宮遷座することになりました。

 

神社庁提出書類より

大字大庭字平田に祭祀ありしを大正15年12月11日許可を得て移轉合併す 

 

境内社遷座の歴史については、以前のブログを参照していただけるとありがたいです。

 

goodlightsato.com

 

神社合祀という政策により、遷座することになったとはいえ、現在このお社は、太刀八幡宮に敷地内に鎮座して、約100年になります。

 

長年にわたり、信仰の対象となった弁財天さんは、今も太刀八幡宮に鎮座しているのです。

 

その歴史を知り、弁財天さんにご挨拶出来ることは、私にとって至極の喜びです。😊

 

この喜びを多くの方と共有出来ればありがたいです。

 

自分では,解読出来ない碑文を、今回朝倉市文化財係のお助けにより、その内容を知ることが出来ました。

 

本当にありがとうございました。🙇‍♂️

 

追記(令和6年8月29日)

先日、朝倉図書館で、筑前国風土記附録 加藤一純著 寛政11年(1799年)を見ていた時、次の記述を見つけました。

厳島明神

ヒラタ 社はなし

樹林の内に石体あり。長さ二尺、横一尺斗、半は土中に埋れり。石面に竹生島明神と彫れり。

二尺は約60㎝。


お社の碑文の後ろにある石体がそれでしょう。

1799年では、半分埋まっていた石体が、1801年 師岡家の方々により、お社が作られ、丁寧にお祀りされたということでしょうね。

😊