氏神様は太刀八幡宮

1200年の歴史を紐ときます

恵蘇八幡宮に祀られている太刀八幡 その3

この標題の第3弾です。

 

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困った時の神頼みではありませんが、以前「境内社 厳島神社の碑文解読」の際にお世話になった、朝倉市教育委員会 文化・生涯学習課  文化財係 Nさんに相談しました。

 

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すると次のようにメールが届きました。お忙しい中本当にありがたいことです。

 

お世話になります。興味深いお話、ありがとございます。
現在、まだ詳細を調べるに至っていませんが、現状でわかること、感じることをお伝えいたします。


●年代について
天文17(1548)年の紀年銘は、朝倉市内では比較的古い部類の石造物であるといえます。
朝倉市の中世段階(江戸時代以前)の石碑では、墓石や供養塔、逆修塔などがほどんどで、神名を刻んだ年号のある石碑は他に把握していません。
市内では「水神」や「猿田彦大伸」などは近世以降に多く建てられますが、1,700年代後半以降のものが殆どです。1600年代ですら数が少ない状況で、1,500年代は珍しいと思っています
ただし、自然の河原石をそのまま使った中世の石碑の例は他にない気がしますし、書き方が極めて近世的なのが気にかかります。もしかすると天文17年より後に作られた可能性もあります。その場合、もともとあった何か(祠や碑など)を継承するものとして石碑が作られたのかもしれません。

●なぜ川底から見つかったか
現段階では不明と言わざるを得ません。
・山田堰の築造に際しての祈願のためであれば1500年代に山田堰の原型があったことになります。山田堰の原型がそこまで遡るとも思えません。また築造祈願で古い石碑を使うとも思えません。
・山田堰築造に際して集められた石材の中に含まれていた可能性がありますが、堰の上流からの引き上げであり、もしかすると上流の大石堰や水刎など河川工事の際に石材として転用されたものが流されてきた可能性もあります。
・朝倉もしくはこの近辺で作成した石碑を肥後まで運搬する途中、事故等で川に沈んでしまった可能性もあります。

●石碑製造の目的
太刀八幡様の分霊を祀るものとして作られたのは間違いないかと思います。ただ、八幡様は勧請の際にそのままその地の地名を冠することが多いので、太刀八幡宮としての独自の勧請活動があったのかなと思います。

●「肥後八代城主 山本大○○」
恐らく肥後の八代城の城主という意味だと思いますが、近世の八代城ではなく、中世の古麓城(八代城)のことを指しているようです
城主に山本氏がいたのかは調査中です。

何も答えになっておらず誠に恐縮ではございますが、取り急ぎ現状報告とさせていただきます。
よろしくお願いいたします。

 

とても丁寧に調査をして、頂きありがとうございます。

また、この碑石を見る視点が、碑文の解析のみならず、碑石としての文化財的な価値があるのかどうかなど、さすがプロの視点という印象です。

 

まだ謎解きは続きます。

 

今後の展開が楽しみです。

 

 

 

 

 

太刀八幡宮の台風被害(平成3年)

 

平成3年(1991年)9月、台風19号は日本列島に甚大な被害をおよぼしました。

今から33年前のことです。

ja.wikipedia.org

 

風倒木という言葉が広く知られるようになったのは、この台風の頃からではないでしょうか。

特に日田杉の風倒木被害は、有名でした。

 

朝倉市大庭でも、瓦屋根やトタン屋根が飛んだりしたことを、近所の方にお聞きしたことがあります。

 

前回のブログ「太刀八幡宮の石灯籠」の中でも、第3の灯籠が台風19号に被害により倒壊した写真を紹介しました。

 

今回は、当時の社殿などの被害の状況を紹介します。

 

被害状況

①拝殿に倒れ掛かった杉


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②拝殿正面写真
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③上の写真の根本付近

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④本殿に迫った杉の倒木
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⑤上の写真の根本付近

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⑥土台が壊れた境内社
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⑦北の鳥居に倒れ掛かった杉
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⑧第3の灯籠
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⑨子持鳥居から見た石段被害
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⑩石段被害(拡大)
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この写真から分かるように、杉(桧も含まれているかもしれません)の倒木が甚大な被害へとつながっているのがわかります。

植林した杉の木は、根が浅く倒れやすいとは聞いていましたが、この写真を見ると太く成長した杉であっても、注意が必要だということが分かります。

 

植樹

植樹とフェンス施設記念の記念碑です。

先代諸兄の数次にわたる植林により神域とみに森厳さを増す時 恰も平成三年九月中下旬と二回にわたる大暴風により古木や植林の杉桧併せて三百本余倒伏し残木僅かとなり見る影も失くす

時に平成四年五月夜須高原に於ける全国植樹祭を励して氏子篤志の人々により各種百本余の献木を見る

往時の鎮守の森に思いを至し謝してこ〃神域に植樹せり

尚六年三月町道に沿いフェンスを施設して境内の整備を図る

 

その後、さらに植林をしています。

 

植林  杉 三百十本

    楠   二本

    桜  十一本

 

 

先人達が鎮守の森を育て守って来たから、現在の太刀八幡宮の森があります。

しかし、今 健全な鎮守の森だといえるでしょうか?

 

仮に、台風が来た時に、倒木することなく、社殿を守ってくれるでしょうか?

 

もうすぐ台風シーズンです。

 

以前から気にかけている鎮守の森の考察も深めていきたいと思います。

 

 

太刀八幡宮の石灯籠

太刀八幡宮には、3組の石灯籠が参拝者を出迎えます。

 

便宜上、本殿に近い方から、1の灯籠・2の灯籠・3の灯籠と名付けてみました。

 

 

石灯籠

 

ウキペディアには、次のように概要が記載されていますja.wikipedia.org

 

一部引用します。

概要

文字通り、灯(あかり)籠(かご)であり、・・・

 

灯籠は仏教の伝来とともに渡来し、寺院建設が盛んになった奈良時代から多く作られるようになり、多くは僧侶が用いたとされる。平安時代に至ると、神社の献灯としても用いられるようになる

 

灯籠の役割

神社では、神前の「みあかし」用、献灯用に灯籠が用いられる。

みあかしとは、神仏に供える灯火(辞書より)

 

一番上は、宝珠、続いて笠・火袋・中台・竿・基礎という6個の部品で構成されています。

 

1の灯籠

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明治42年6月建之 1909年 (115年前)

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写真は向かって左の台座

 

台座には、向かって右には21名、左には23名の名前が彫られています。

善光寺 参宮同行 拾一(11)名」という文字が読み取れます。

 

 

2の灯籠
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奉進献

 

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寛政10年 戌年9月 1798年226年前)

 

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大庭村 ○○豊助

寄進者の名前でしょうね。

寛政10年は、古賀百工さんが亡くなられた年です。関係があるでしょうか?

 


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火袋の模様が特徴的です。満月と三日月、四角と三角。

飾り模様でしょうか?

それとも別の意味があるのでしょうか?

 

3の灯籠

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昭和3年11月10日 1928年(96年前)

御即位記念

氏子中

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皇紀二千五百八十八年


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昭和3年11月10日は、昭和天皇即位の礼が、挙行されました。それを記念して設立されています。

神官 古賀廣誌 他氏子総代8名の名前が彫られています。

 

火袋や竿など一部改修されている個所があります。

 


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この写真は、平成3年(1991年)の台風被害の状況です。(33年前)

この3の灯籠が、大きく破損しています。

倒木によるものかもしれません。

 

令和6年の新年の様子

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今年の参道には、久しぶりに(たぶん3年ぶり)竹灯籠が設置されました。

写真では分かりにくいですが、石灯籠にもロウソクが設置されていました。

 

久しぶりに灯った石灯籠の明かりを見て、神様方もお喜びになったことでしょう。

 

 

 

太刀八幡宮 江戸時代の鎮守の森

朝倉図書館で「朝倉風土記」を眺めていたら、太刀八幡宮の図という挿絵を見つけました。

 

「朝倉風土記」というのは、古賀益城(ますき)さんが編集したものです。

 

朝倉市のホームページのふるさと人物誌に紹介されています。

 

一部引用します。

郷土朝倉の歴史を調べるとき、無くてはならない名著があります。「あさくら物語」「あさくら物語別冊」「朝倉風土記」の3冊です(合計約1700ページ)。今回は、その著者古賀益城の生き方と学問について紹介します。

 

www.city.asakura.lg.jp

 

 

この挿絵は、「筑前国風土記付録」 より模写と書かれています。

 

筑前国風土記付録(ちくぜんのくにふどきふろく)

寛政11年(1799年) 

福岡藩士 加藤 一純(いちじゅん)編集

 

今から225年前の風景です。

 

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姥ヶ池 社の前なる田の中にあり。昔は大なりしが今は僅かに一畝斗池なり。

一ツ木 神功皇后、御陣営をもうけさせ給ひし所と云、周囲6間余(約10m)、高さ九尺(約2.7m)ばかりの塚なり。東南の方は広く、西北は狭し。上は平らかなり。

社の南に清水あり。叢中より流れ出、冬夏にも増減なし。太刀の小川とも云。

 

本殿横には、金比羅社、録記堂、稲荷社、太刀塚が描かれています。

境内社の移り変わりを感じますが、太刀塚は変わりませんね。

録記堂というのは、社伝を保管したり、今の社務所の役割もしていたのでしょうか?

 

鳥居は、子持ち鳥居が明和2年(1765年)に建立されていますが、挿絵では普通の鳥居で描かれています。(挿絵は1799年)

 

子持鳥居の向かって左側に、描かれている木は桜🌸かな?

 以前長老は子供の時、「神社南側の桜の木の下で、大人たちがどぶろくを飲んで宴会をしていた。子供の私も飲まされた。」とおっしゃっていました。

 

花見というと、若い頃会社員時代に公園で飲んだり、ビール瓶をマイクに見立てて、歌ったりしたことを思い出します。

 

花見は「予祝」の原点の習慣という記事があります。

 

yuhobika.net

 

一部引用します。

 

春に満開に咲く「桜」を、秋の「稲」の実りに見立てて、仲間とワイワイお酒を飲みながら先に喜び、お祝いすることで願いを引き寄せようとしていたのです。

これを「予祝(よしゅく)」といい、辞書にも載っています。

 

そういえば、令和6年の春の例大祭のブログで、次のように紹介しました。

内藤主税 宮司さんがおっしゃっていますが、春の例大祭は、正式には祈年祭といいます。

 

本来は民衆が行う田の神への予祝祭であった。

 

 

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つまり、春の例大祭(祈念祭)で神々に秋の豊穣を予祝として祝い、その後満開の桜の下で、老若男女酒を酌み交わし、予祝を楽しんでいたということでしょうか?

その文化を農村は代々引き継いで来たのでしょうね。

 

戦後の時代に流されて

 

長老はおっしゃっていました。

「戦後、杉の木が金になるからということで、桜をはじめたくさんの木が伐採されて、杉が植えられた。」

 

昨年1200年祭奉祝事業として神殿などの修復工事の際、境内の杉などが使用できないか森林組合に相談したところ、コストが高くなってしまうということで諦めたと会長が言われていました。

 

まるで、山の荒廃と同じで、戦後住宅用の木が必要ということで、山に植えられた杉・ひのきが、安い木材の大量輸入により、金にならず山の手入れが出来なくなったということと似てますよね。

 

こうして、太刀八幡宮の鎮守の森は時代と共に変化していきます。

 

次の時代、この鎮守の森🌳が、氏子の皆様に愛される森であり続けるためには、今何が必要なのか。

 

今後検討していきます。

 

ちなみに、江戸時代も「ふくろうさん🦉」いたかなー

 

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故 内藤主税宮司の神葬祭

はじめに

 

このブログ「氏神様は太刀八幡宮」は、内藤主税宮司の支援・応援なくして、今日まで続くことはありませんでした。

インタビューもさせていただきました。

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絵馬のこと、境内社のことなど、太刀八幡宮の現地で一緒に調査したこともありました。

 

例大祭のビデオ撮影をブログで紹介したこともあります。

 

私は、太刀八幡宮は37社ある兼務社の一つであることから、お忙しい宮司さんにあれこれ相談することを遠慮していましたが、先日水の文化村であったイベントで偶然お会いした時も、「太刀八幡宮のことを調べて、ブログで発信している方です。」とお近くの方々に気さくに紹介してくださいました。

 

亡くなられた前日である7月24日は、「太刀八幡宮 夏の例大祭」を執り行って頂いたばかりでした。車でお帰りの際に「また、相談事がありますので、近いうちにお伺いします。」と声をかけたのが、最後の会話になりました。

 

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急な訃報に接し、お通夜・告別式と参加して、内藤宮司さんの功績や人柄を再認識する中、感謝の意味を込めて、神葬祭のことをこのブログで紹介させて頂きます。

 

神葬祭神道の葬儀)

 

いすや斎場頓田会館で、大勢の方の参列の中開催されました。

 

7月28日 お通夜

7月29日 告別式

 

7月25日の朝、用事で出かける準備をして椅子に座っていたところ、ご家族が気づいた時には、心筋梗塞で心臓が停止し、脈もない状態だったそうです。長男の内藤尚武祢宜、奥様の懸命な心臓マッサージ、そして救急隊、お医者様の対処にも関わらず、そのままお亡くなりになったとのこと。

あまりに突然のことで、ご家族も動揺を隠せない様子でした。(尚武さんの挨拶より)

 

 

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内藤主税宮司のお人柄を表すかのように、多くの方々が参列されました。

 

お通夜に参列した人数は1,000人は超えていたのではないでしょうか。参列者の玉串奉奠はいつ終わるのかと思うほど、続いていました。

告別式にも、お通夜ほどではないですが多くの方々が参列していました。

 

花輪の数は70基程あったと思います。会場内の壁を越えて受付側にも、飾られていました。太宰府天満宮宇佐神宮などの神社関係をはじめとして、本当に多種多様な方々からの花輪が並んでしました。

 

神葬祭は、福岡県神社庁朝倉支部が執り行いました。

恵蘇八幡宮の上原宮司他2名の神職と2名の巫女さんが、その役をお努めでした。

 

上原宮司の大祓奏上それに続くお言葉の中では、内藤宮司の生立ちから、神社や地域文化の再興に力を尽くしたことなど詳しくその功績と人柄をご紹介されていました。

 

弔辞を述べられた方々も、本当に内藤宮司を尊敬し、慕いそして突然の死を悔やまれていました。

 

私は、涙もろいこともありますが、皆様の弔辞・お孫さんの弔辞を聞きながら、嗚咽が止まらず、泣いていました。

 

告別式での最後の挨拶では、長男である尚武祢宜さんが次のようにお話をされていました。

 

倒れた父に「まだ早い、まだ聞きたいことがたくさんある」と叫んでいました。

しかし、父も祖父の突然の死により、そこから国学院大学で学び宮司の道を歩み出したことを思えば、私は2年間、父と一緒に仕事をする幸運に恵まれた。

今後も今までと変わらぬご支援をお願いしたい。

 

もうすでに内藤尚武祢宜は神社奉職の道を立派に歩み出しています。

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内藤尚武祢宜 令和5年 新嘗祭 太刀八幡宮において

 

言葉足らずではありますが、

 

今はただ、内藤主税宮司御霊のご平安をお祈りいたします。

🙏

令和6年 太刀八幡宮 夏の例大祭

令和6年7月24日、内藤 主税(ちから)宮司さんをお迎えして、太刀八幡宮 夏の例大祭が行われました。

 

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内藤宮司さんから、

「夏の大祭は夏越し祭といい、田植えが終わり、五穀豊穣をお祈りしながら、ひと夏の病除けと弥栄をお祈りするお祭りです。」

とご挨拶がありました。

 

その後

 

修祓(しゅばつ)   参列の方々のお祓い

大祓奏上       半年の穢れを払う

夏越しの祝詞奏上

玉串奉奠(たまぐしほうてん) 榊を神前へ奉納

 

と進み、夏の大祭は終わりました。

 

内藤宮司さん本務社宮司が常駐している神社)である美奈宜神社(林田)では、来たる7月30日に夏越祭が盛大に開催されます。

 

minagijinjya.com

 

特大の茅の輪が飾られています。

 

私も昨年、茅の輪をくぐりました。

 

皆さまも如何でしょうか。

 

先日、太刀八幡宮を参拝していたら、長老が「私が子供の頃は、お祭りの時におばちゃんが、甘木からリヤカーを引いて屋台が出ていた。」と懐かしそうにおっしゃっていました。

 

その昔の風景が目に浮かんで、私達も微笑んでしまいました。

😊

 

 

 

 

 

 

古賀百工さんから中村哲さんへ 受け継がれた技術と思い

先日、「古賀百工さんの功績」というブログを公開しました。

 

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その中で、古賀百工さんがあまり地元の方に知られていないことを、次のように書かせていただきました。

 

朝倉の歴史に詳しい山崎長太郎さんという方が、百工さんのことを語っていますが、最後の方で次のようにおっしゃっています。

 

「百工さんのことを話すると、年寄りの人が、「そげな人がおったとな」と言われる。

百工さんのことが、あまり知られとらん。」

 

私も先日、村の懇親会で、お隣の人に古賀百工さんの話をしたら、「それって誰?」

と言われて、私の方がびっくりしました。

 

今回は、日本はもちろん海外にもその名の知れた中村哲さんと古賀百工さんとの関わりについて、書いてみます。

 

朝倉市民栄誉賞 第一号

 

中村哲さんが、アフガニスタンで凶弾に倒れ亡くなられたのが2019年(令和元年)12月4日です。

 

朝倉市は、翌年2020年(令和2年)1月23日 朝倉市民栄誉賞表彰規則を発行し、故中村哲さんに朝倉市民栄誉賞を授与しました。

 

2020年2月1日の朝倉市の広報誌に、中村哲さんの特集が組まれました。

 

www.nishinippon.co.jp

 

広報紙の内容は、朝倉市のホームページから見ることが出来ます。

 

www.city.asakura.lg.jp

 

この朝倉市広報の題名は、次の通りです。

朝倉とアフガニスタンとの懸け橋

~緑の大地計画への思いと山田堰~

 

広報を読めば、概要が良く分かるので、是非ご覧になって下さい。

 

色々な報道メディアで中村哲さんの偉業は、語られています。

 

私は、マンガ「中村哲」を図書館で借りて読みました。

朝倉図書館では、中村哲さんコーナーが設置されています。(令和6年7月現在)

 

下痢で簡単に子供が死んでしまう現状を変えていくには、100人の医者を連れてくるより、目の前を流れる大河「クナール川」から水を引いて、用水路を一本作るしかないと考えて、「緑の大地計画」を作成します。

 

ここで難関なのは、クナール川からの取水堰です。

 

中村哲さんは、日本全国の堰を見て回り、そして朝倉市の山田堰を見て「これに優るものは無い。」と山田堰をモデルにすることにしたとのことです。

 

山田堰との出会いについて、中村哲さんは「アフガニスタンの堰作りの最大のターニングポイントになった」と語られていたそうです。

 

広報の中でも

中村医師は何度も山田堰を視察。工法の研究のため、川岸で堰を一日中みつめていることもありました。

と書かれています。

 

中村哲さんは山田堰を見ながら、時代を超えて、古賀百工さんや労働者の方々や自然の神様方と会話を重ねていたのではないでしょうか。

 

中村哲さんが世界に向けて、山田堰を発信したおかげで、2014年 世界かんがい施設遺産に登録されています。

 

西日本新聞社のホームページにある中村哲医師特別サイトに「アフガンの地で 中村哲医師からの報告」という中村哲さん自身が投稿した内容が見れるのですが、再三にわたり山田堰のことを紹介しています。

 

2012/5/27付 西日本新聞朝刊

筑後川の知恵結ぶ

から一部引用します。

 

specials.nishinippon.co.jp

 

筑後川の山田堰(ぜき)は、1790年、古賀百工という朝倉の庄屋の手になる。人口増加、飢饉(ききん)と餓死が日常であった時代、幾度も改修を重ね、ついに現在の形を造った。調べるにつけ、現地が当時の日本と同じ苦悩に喘(あえ)いでいたことを知った。あえて堰の原形をとどめてくれたのはわれわれには幸運だった。その解決法をも提供してくれたからだ。

 近代的な技術や重機もなかった時代に造られたこの取水堰には、驚くべき知恵が込められている。取水の間口を広くとり、河道全体を斜めに堰上げて水位変動を抑え、土砂流入を防ぐ。川を閉じ込めず、広い遊水地を対岸に設ける。まさにわれわれが求めるものであった。その応用はマルワリード取水堰に始まり、試行錯誤を経て、近隣の主な取水口に建設され、不可能と言われた安定灌漑(かんがい)が次々に実現した。一連の取水堰工事の成功は、悲願の「洪水と渇水に耐える取水システム」の実現であった。

 ーかくて東部アフガンと九州、220年の時と6千キロ離れた両地域は、水と命を介し、期せずして結ばれた。おそらく偶然ではあるまい。温故知新という。物言わぬ堰は、人と自然の関係についても、問いを突きつける。「近代」の破局が全世界で現れ始めた現在、私たちはどこに向かおうとしているのか。

 取水口の完成を喜ぶ人々の上空を、けたたましく外国軍ヘリが過ぎてゆく。平和な生活への願いとは、あまりに場違いなものだ。守るべきもの…それが目先の景気や軍事力でないことは確かである。

 

 

この美しい文章には、時代と距離を超えた硬い絆、何か目には見えない糸で結ばれた中村哲さんと古賀百工さんの抱擁を感じて、思わず涙が流れました。

 

そして江戸時代に作られた山田堰(傾斜堰床石張堰)が、日本で唯一残されたことへの感謝の雄叫びが感じ取れます。

 

こうした中村哲さんの山田堰・古賀百工さんへの感謝の思いそしてアフガニスタンに第二の山田堰を作った功績が、朝倉市民栄誉賞に繋がったのでしょう。

今のところ、第二号はいません。

 

ちなみに、中村哲さんは、福岡県民栄誉賞、福岡市名誉市民を始め数々の賞を受賞しています。

 

 

中村哲さんの思いが朝倉人へ

 

2019年12月6日の西日本新聞の記事は

『山田堰に光「中村哲先生のおかげ」 アフガン潤した先人の知恵に着目』

という内容です。

凶弾に倒れた2日後です。

 

アフガン潤した先人の知恵に着目

www.nishinippon.co.jp

一部抜粋します。

出会いは2009年。山田堰(ぜき)の視察に来た中村医師を、当時事務局長だった徳永さんが対応したことから親交が始まった。「世界に誇れる山田堰にスポットが当たっていないのはおかしい。もっと発信すべきではないか」。面と向かって中村医師から指摘され、気付いた。「尻に火が付き、情報発信に力を入れ始めた」

 山田堰にヒントを得てアフガンに取水堰の整備を進めてきた中村医師は、各地の講演会でたびたび山田堰を紹介した。国内外に堰の存在が知られると、地元住民の意識も変化し、川の清掃活動を始めた。その参加者は今や千人規模だ。「先生のおかげで地域の宝であることを再認識できた。みんなで守り、次代につなごうとする機運が高まった」

 

朝倉は、三連水車は有名だが、山田堰こそが世界に誇れる遺産ということに、気づかされた徳永哲也さん始めとした山田堰土地改良区の方々は、情報発信に努めました。

分かる範囲で一部紹介します。

 

平成20年(2008年) 「堀川の環境を守る会」が結成され、堀川用水のクリーンアップ活動を開始する。今では1,000人程(小学生160名程)のボランテイアが参加しています。

 

平成22年(2010年) 朝倉地区の小学校4年生を対象に、熊本県小国町で水源林体験学習を開始する。

 

令和3年(2021年) 中高の修学旅行先に、平和学習の一環として山田堰が取り上げられ、1時間の講和を行う。2022年には、15回講演活動、1300人程の中高生に情報発信を行う。

 

その他にも久留米大学で90分の講義を5年以上行ったり、情報発信に努めています。

 

また、三連水車の維持にも多額の費用がかかることから、解体した水車の部品を販売するなど収入を増やす取り組みも行っています。

その他数々のパンフレットを作成していますので、ご覧の方も多いと思います。

 

私は、令和元年から3年まで太刀八幡宮の総代を経験したのですが、その時徳永哲也さんも太刀八幡宮の総代をされていました。令和2年の1月だったと思いますが、内藤宮司さんを囲んだ総代の新年会に参加した時、徳永さんが「何故、あげな素晴らしか方が、殺されなならんとか」と、肩を落とされていた姿を鮮明に覚えています。

その頃の私は、徳永さんと中村哲さんの親交について、また山田堰についても何も知らない時でした。

 

 

山田堰展望広場に建てられた中村哲さんの記念碑

 

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令和3年に朝倉ライオンズクラブが寄贈した、中村哲さんの記念碑です。

 

左の肖像とともに刻まれている「濁流に沃野(よくや)夢見る河童(かっぱ)かな」は、山田堰を訪れた際に読んだ直筆の句です。古賀百工さんを偲んで読んだと言われていますが、河童伝説の多い筑後川を眺めながら、自らも河童となってアフガンの緑の大地を夢見ていたのではないでしょうか。河童達も時空を超えて応援に行ったと思うのは、妄想でしょうか?

 

右の塔は、アフガニスタンにある中村哲さんをたたえる記念塔をアレンジしたものです。

「照一隅」

先に紹介した西日本新聞中村哲医師特別サイトの中に次のように紹介されています。

中村さんが、
好んで使ったのが「一隅を照らす」という言葉でした。
<今いる場所で希望の灯をともす>

 

このような奇跡を導いたのは

 

古賀百工さんは、山田堰と堀川の事業を進めるにあたり、太刀八幡宮の神々に祈りを捧げ、そして子持鳥居を他の庄屋達とともに寄進しました。生家が太刀八幡宮の近くだったことから、毎日のように参拝していたのではないかと想像します。

そして、水神社、恵蘇八幡宮の神々にも祈りを捧げたことでしょう。

山田堰は古賀百工さんが考案し、約64万人の先人たちの手で築造された

と、朝倉市の広報に記載されています。

古賀百工さんと多くの石工、農家の方々、奥様方そして神々の応援があって、山田堰は作られました。

その山田堰は筑後川の幾度の洪水に耐え、他の堰は流されコンクリート作りに改良されていく中、原型をとどめる形で改修を重ねてきています。

 

日本で唯一残った傾斜堰床石張堰。

 

この奇跡の山田堰に、出会った中村哲さん。

そして、アフガニスタンに奇跡の緑の大地を復元していきます。

同じ広報に、次のように記載されています。

現在では9カ所の堰が設けられ、65万人が帰農することが出来ました。

武器を捨て、鍬を持って事業に参加したアフガンの人々。

このアフガンの奇跡を誰が導いたのでしょうか。

中村哲さんはキリスト教徒ですが、私は宗教の枠を超えて、神々が応援していたことは間違いないと感じるんですね。

 

古賀百工さんと中村哲さん

 

生きた時代も違えば、活動する場所もまったく違うのに、まるで中村哲さんは古賀百工さんの生まれ変わりではないかと思わせるような、よく似た境遇の中事業を推し進めていきます。

 

このブログを見て頂いた方々が、郷土に

こげな素晴らしい先人がいた

こげな素晴らしい文化遺産がある

という誇りを感じてもらえると嬉しいです。

 

そして、中村哲さんの書籍やDVD📀を手にとっていただけると有り難いです。

おすすめは、DVD「カカ・ムラド 中村哲の信念」テレビ西日本作成です。

朝倉図書館の中で見たのですが、思わず泣いちゃいました。😭

山田堰も映っています。

 

愛に生きた古賀百工さんと中村哲さんに今一度手をあわせます。🙏