氏神様は太刀八幡宮

1200年の歴史を紐ときます

太刀八幡宮の絵馬 その5 於馬関春帆楼講和談判図

於馬関春帆楼講和談判図

明治28年(1895年)6月12日

願成就 征清軍人

鬼塚甚平 国武〇〇

半田〇助 ○○○○

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127年前の絵馬です。少し色あせた感じがします。

江戸時代の絵馬が終わり、これから明治時代の絵馬になります。年代順に紹介していきたいと思います。

 

日本と清国の講話状況の緊迫感が感じ取れます。

馬関というのは、現在の下関の古称で、明治35年下関市と改称しています。

絵馬の中の字は、春風楼となっていますが、正しくは春帆楼(しゅんぱんろう)です。

現在はふぐ料理の有名な割烹旅館として営業しています。

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春帆楼ホームページより転載

 

ウキペディアには、

1895年、日清講和談判場とし、時の全権・伊藤博文等が、清国使節李鴻章等と会見し、日清戦争講和条約である下関条約を締結した所である。

と書かれています。

 

下関条約を簡潔に説明しているキッズネットを引用します。

 

しものせきじょうやく【下関条約

 

1895(明治めいじ28)年,下関しものせき山口やまぐち県)で調印ちょういんされた日清戦争にっしんせんそう講和条約こうわじょうやく

日本側全権がわぜんけん伊藤博文いとうひろぶみ陸奥宗光むつむねみつしん側全権がわぜんけん李鴻章リホンチャンとの間で調印ちょういんされた。内容ないようは,

(1)朝鮮ちょうせん独立どくりつをみとめ,

(2)しん国は日本に,台湾たいわん遼東リヤオトン半島・澎湖ポンフー諸島の割譲かつじょうを,

(3)また,賠償金ばいしょうきん2億両おくテールやく3おく1000万円)を支払しはらう,などであった。

コーチ

遼東リヤオトン半島はこのあと,ロシアなどの三国干渉さんごくかんしょう返還へんかんすることになる

下関条約が調印された日時は、1895年明治28年)4月17日ですので、この絵馬は調印後わずか2か月で奉納されことにあります。

 

「願成就 征清軍人」の征清(せいしん)とは、日清戦争のことをいいますので、日清戦争に従軍した人達の願いが成就しましたということで奉納されたのでしょうか。奉納者の名前が左側に4名書かれているのですが、色あせて読み取りにくい状態です。

 

この絵馬を理解するには、日清戦争のことを知る必要があると思い、いくつかのホームページ、ユーチューブの情報を見たのですが、今回は朝倉町日清戦争の項目を引用します。

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朝倉町史は昭和61年3月31日に朝倉町教育委員会から発行されています。図書館からお借りして読んでいるのですが、非常に内容が多岐にわたり、朝倉の古代から現代を知るには非常に参考になる良い資料です。

 

第6編近代 第三節 戦争と朝倉地方 日清戦争(p420)を引用します。

明治維新後、急速に発展してきた日本は、軍事上・通商上の視点から、朝鮮支配を考え、いろいろな工作を続けて来た。

1840年アヘン戦争で、イギリスに屈伏した清国は、欧米諸国に治外法権を許した結果、香港・九龍半島・威海衛・広州湾・旅順・大連・膠州湾・天津・上海・広東・漢口・厦門・九江などの重要な港湾が、諸外国の租界とされてしまった。こうした中で、1884年に、朝鮮で東学党の乱が起きた。これに手を焼いた朝鮮政府は、鎮圧のため清国に対し出兵を要請した。日本政府も、居留民保護のために軍隊を出動させた。しかし、朝鮮の清国依存は強く、このため、清国の勢力を朝鮮から追い出さなければ、日本の朝鮮支配は難しく、かえって防衛上にも危険があり、政府は清国追い出しの機会を待っていた。

朝鮮における内政改革の主導権をめぐり、日本と清国の間に意見の対立をきたし、仲々その交渉のはかどらないまま、明治27年(1894)7月25日、豊島沖で日本、清国海軍の衝突があり、日本政府は8月1日、清国に対し宣戦布告をした。日本としては初めての対外戦争である。宣戦とともに日本海軍は、黄海に清国海軍を撃破、一方陸軍部隊は、9月に平壌を占領し、10月には朝鮮全土から清国を追い出してしまった。11月にはさらに旅順・大連を陥落させ、翌年2月には威海衛、3月には澎湖島を占領した。「眠れる獅子」と、その底力を諸外国から恐れられていた清国であったが、日本軍は予想以上の戦果をあげ勝利を得た。

ここで清国は、列国の勧めで講話を申し出た。明治28年(1895)4月17日、下関の春帆楼において講話会議が開かれた。その結果は、遼東半島並びに、台湾・澎湖島を日本に譲渡し、賠償金として、約3億円を支払うことで講話条約が調印され、ここに日清戦争は終わった。この戦闘で2647人の尊い人命が失われ、戦前の国家予算の2倍を超える膨大な軍事費が使われた。このため戦後の国民の生活は圧迫されたが、清国に勝ったことで国民精神は高揚していた。

その後ドイツ・フランス・ロシアの三国干渉により、遼東半島を手放すことになったが、かえって国民の結束を強め、軍備拡張を支持する結果となった。そのため諸国に反日、抗日の感情が生れた。のちに満州をめぐるロシアとの対立の原因となった。

 

その後、日露戦争大東亜戦争へと時代は進んで行きます。

 

この絵馬は、日清戦争に従軍した兵隊さんの思いが詰まった一枚なのでしょうね。「清国に勝ったことで国民精神は高揚していた」と書かれているように、この朝倉地方も大変な騒ぎだったのかもしれません。講話条約締結後、わずか2か月で奉納されたのは、その高揚した気持ちの表れなのでしょう。

 

太刀八幡宮では、出征軍人の見送りも行われています。無事に帰還したことの感謝の気持ちも絵馬には込められているのでしょう。また朝倉町史年表の中に、「郡出征者 246名、戦病死者 28名」とありますので、亡くなられた方の冥福を祈る気持ちも含まれているのででしょう。

 

太刀八幡宮の絵馬の中では近代の戦争の絵馬は、この一枚になります。

朝倉町史には、日露・大東亜戦争のことも詳しく記載されていますので少し紹介します。

その中では、「屈強な若者達が皆軍隊にとられて、働き手がなく、労働不足に悩む家も多数あった」ことが書かれています。「日露戦争では朝倉地方より2607名が従軍し、その内109名が戦死、戦病死している」とも書かれています。大東亜戦争になるとその数は膨大に膨れていっているのでしょう。

戦争の項目の最後に「ここに、お国のためと信じ亡くなられた方々のお名前を掲げ、つつしんでご冥福をお祈りする次第である。」として、対外戦没者名が西南の役より記載されています。(P544)

 

ここでは、人数の紹介をさせていただきます。

西南の役 1名

日清戦争 2名

日露戦争 19名

大東亜戦争 622名 (各地区ごとに名前が記載されています。)

 

この尊い命の上に、今の朝倉があるのだなとあらためて感じます。合掌