明治30年 奉納
参宮同行
寄進された方々の名前が記載されていますが、読み取ることが出来ません。どの地区の方々の参宮同行だったのでしょうか?
水の中を雄たけびを上げて駆け抜ける馬と馬上の武士。後手には、追手の武士の姿が描かれています。
「馬 浮世絵 川渡り」でインターネット検索して、よく似た題材から、標題の「明智左馬之助 湖水渡り」にたどり着きました。
うたがわくにひさ さく「たけちさまのすけおうみこすいわたり」歌川国久(二代) 作「武智左馬之介近江湖水渡」
刀剣ワールドさんのホームページの合戦浮世絵の中に、次の浮世絵があります。
ホームページより転載
馬と武士の一体感、追手の武士や松の木が描かれている状況が、非常に大絵馬と似ています。
ホームページの解説を一部引用させていただきます。
本合戦浮世絵に描かれているのは、「明智光秀」(あけちみつひで)の重臣「明智秀満」(あけちひでみつ:「明智光春」[あけちみつはる]、「明智左馬之介」[あけちさまのすけ]とも)。1582年(天正10年)6月の「山崎の戦い」で「豊臣秀吉」に主君が敗れた知らせを受け取ると、残った兵達と合流するために、守備に付いていた安土城を離れて、本拠地である坂本城へと向かおうとしました。
明智秀満の背後には、豊臣軍の追っ手が迫ります。配下の将は散り散りとなり、周囲を見渡しても味方の姿は見当たりません。頼れるのは、愛馬「大鹿毛」(おおかげ)のみ。敵軍の包囲により、陸路での逃走は困難です。
明智秀満は、愛馬に全幅の信頼を置き、自身の命運を託しました。大海のように広がる近江湖(現在の琵琶湖)に愛馬にまたがったまま飛び込み、波立つ湖面をかき分けて進みます。目を血走らせながら馬を進め、坂本城を目指しました。湖を渡り切り坂本城へとたどり着いたものの、すでに勝敗は決し、豊臣軍が城を取り囲むなか、明智秀満は妻子らと共に自決します。
なお、描かれている明智秀満(明智左馬之介)の名前が、史実と異なり「武智左馬之介」となっている点については、江戸幕府が、徳川家や天正年間(1573~1592年)以降の大名家を題材にした浮世絵の制作を禁じたためです。
このホームページは、「浮世絵を教科書のように学べる浮世絵の専門サイトです。」とあるように、非常に分かりやすく浮世絵の解説をしています。
絵馬師の方々は、浮世絵の題材をもとに絵馬を書いていることがよく分かります。今後もお世話になるホームページです。感謝します。
明智秀満(左馬之助)とは?
本能寺の変を起こした明智光秀の重臣であった明智秀満とは、どういう人物であったのでしょうか。
福知山光秀ミュージアム
福知山光秀ミュージアムは、2020年1月11日から2021年2月7日まで開館したもので今はありませんが、ホームページは今も見ることが出来ます。館内案内を引用します。
福知山光秀ミュージアムでは、「麒麟がくる」大河ドラマ展をはじめ、最新の調査研究に基づいた新たな視点で、ドラマでも時代考証を担当する小和田哲男さんが監修した「明智光秀の生涯と丹波・福知山」に関する展示で、福知山ならではの明知光秀像を発信します。
福知山光秀ミュージアムのホームページの中に、「光秀に忠誠を尽くした猛将」として、明智秀満が紹介されています。
一部引用します。というか、たくさん引用させていただきます。
秀満は坂本城落城に際し、天下の財宝をここで失くしてはいけないと、敵将に引き渡しています。その目録を確認している様子が描かれています。
もとは三宅弥平次といい、光秀同様その前半生は謎ですが、光秀に仕えると活躍を認められ、天正6年(1578)、明智姓を与えられました。
謀反の計画を光秀から最初に相談されていたとされる人物で、最初は諫めたものの、光秀が他の重臣にも相談してしまうと、「他言した以上、いつかは知られてしまう」と進言し、実行を後押ししたとも言われています。本能寺の変では、先鋒として信長を襲撃しています。
湖水渡りの伝説
山崎の合戦時には、光秀の天下に備えて安土城の守備についていた秀満ですが、光秀敗北の報せを受けると坂本城へ急行。味方の救援に向かいましたが、道中、秀吉方の軍勢と戦闘になりました。
次第に追い詰められた秀満は乗馬したまま琵琶湖に飛び込み、湖を渡って坂本へ向かったといいます。その華麗な脱出劇は「湖水渡り」という伝説となって語り継がれています。馬で湖と浜辺の間の陸地を走り抜けたというのが事実のようですが、伝説になるほど見事な脱出だったのかもしれません
潔く明智一族の幕を引く
秀満はかろうじて坂本城へたどり着きましたが、城は完全に包囲されました。一族の命運を悟った秀満は、光秀の妻子を刺し、坂本城に火を点けた後自刃しました。これによって明智一族は滅亡しました。
演劇や小説では、明智光秀は悪逆非道の信長を倒したヒーローとして描かれることが多くあり、秀満の湖水渡りなどの華麗な武勇も歌舞伎や浮世絵に多く描かれました。主君思いの信義に厚い人物として様々な逸話が語られています。
主君・光秀に忠誠を尽くし切った秀満。今の時代でこいういう忠誠というのは、あるのでしょうか。
私の人生を振り返って、こういう忠誠という尽くし方をしたことがなかったです。
「歴史じっくり紀行」さんの動画
この動画を見て、刀剣ワールドさんの絵馬の解説や、福知山光秀ミュージアムさんの解説の理解が進みました。
動画の中で紹介されていましたが、愛馬「大鹿毛」(おおかげ)は「秀満に湖水渡らせし馬也」と札を付けて寺に預けられ、後に秀吉に接収され、曙号と名付けられて大切にされたとありました。神馬として活躍したのですね。よかった。
再び絵馬を見ると
昔、生きた馬を神様に奉納したことが、絵馬として馬の絵を奉納することに変化していったことを思うと、この絵馬は、神様に奉納するにふさわしい題材ではないでしょうか。
そして、主君に忠誠を尽くした秀満の物語は、この絵馬を見た方々に感動を与えたことでしょう。
今回も良い学びをすることが出来ました。ありがとうございます。