氏神様は太刀八幡宮

1200年の歴史を紐ときます

太刀八幡宮を参拝する明治維新の志士達

今回は、前回の「長老よもやま話 西郷隆盛太刀八幡宮を参拝」の続きになります。

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朝倉町史 第5編 近世 第6章 幕末期の激動 第二節(368頁)に勤王志士の隠れ家と題して、当時の状況が記載されていますので、引用します。

 

竹内五百都

 

 朝倉町乙王丸の星野家は、幕末時代勤王の志士が潜伏し、志士の会所として国事を論じた隠れ家として知られている。

 嘉永三年(1850)薩摩藩では、当主島津斉興の世子で英邁(えいまい)の誉れ高い斉彬を後継藩主に推す一派と、藩主の愛妾お由良の方の腹に生まれた久光を擁立する一派との間で激烈なお家騒動が起こった。これは開国・攘夷両派の抗争でもあったが、この事件に連座した薩摩の国士たちは、福岡藩に庇護を求めて脱藩した。

 薩摩藩の追補をのがれるため、竹内伴右エ門は竹内五百都(上座郡大庭村)、岩崎専吉は洋中藻平(御笠郡筒井原)、木村仲之亟は北条右門(御笠郡中村)、井上出雲守は工藤左門(御笠郡下臼井)とそれぞれ変名してかくれ住んだ。

 竹内五百都は福岡藩の家老、黒田一葦の手によって、はじめ下座郡中島田村(金川村、現甘木市)の家臣、萩本幸右エ門方に潜伏していたが、その後上座郡大庭村(朝倉町乙王丸)大庄屋星野茂三郎方に移してかくまわれた。

 安政三年(1856)福岡の女傑、野村望東尼も大庭に来訪し、安政五年には国学者鈴木重胤が西遊の途上、往復ともに立寄り、又平野国臣、相良藤次、村山松根等の志士も相ついで竹内をたずねて国事を談じ、西郷隆盛もひそかに来訪したと伝えられている。

 

福岡藩が何故薩摩藩の国士達を庇護したのでしょうか?

 

朝倉町史には、

福岡藩黒田長溥は、薩摩藩島津重豪の九男で、福岡黒田家の養子になった人である。

とあるので、その縁で庇護したのかもしれません。

 

そして、ひそかに来訪した西郷隆盛は、地域の人にも良く知られ、代々語り継がれてきたのですね。

 

野村望東尼

 

 竹内五百都の隠れ家を訪れた野村望東尼は、文化三年(1806)福岡藩四百石取りの中級武士、浦野重右エ門勝重の三女として生まれ、再婚して藩士野村新三郎貞貫の後妻となり、夫婦とも歌人大隈言道の門に入り、平尾向岡の山荘に隠居し、花鳥風月を友にしていたが、夫と死別したあと上洛して大隈言道や、太田垣蓮月尼などと交わるうちに、京都で勤王志士たちとの交流がはじまり勤王思想がめばえてくる。福岡に帰り、平野国臣や中村円太など筑前の志士と深くまじわり、平尾の山荘には長州の高杉晋作も潜伏するなど志士たちの世話をした。

 大庭の地に竹内五百都を訪れたとき、国事に奔走する竹内の日記を見て、感動して詠んだ望東尼の歌に、

 

真心を書き残したる水くきに

  今さらぬるるわがたもとかな

 

また大庭星野家の門口にあった垣根の杉を見て詠んだ歌に

 

住む人の心もしるくすぐさまに

    たちならびたる門のほこ杉

 

この望東尼も慶応元年(1865)六月二十日、福岡藩の乙丑の変で姫島に配流されることになるのである。

 

野村望東尼さんが住んでいた平尾山荘の近くに、妻が以前住んでいました。その縁もあって妻は野村望東尼が大好きで、平尾山荘に良く足を運んでいました。

私も妻と平尾山荘を訪れたことがあり、静かなひと時を過ごしたことが思い出されます。

 

庭園フォトギャラリーさんのホームページに、平尾山荘の写真と説明がありますが、

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幕末には西郷隆盛と関係の深かった僧・月照高杉晋作がこの山荘に滞在、匿われたことも

 

高杉晋作をはじめ平野国臣、中村円太といった地元の尊皇攘夷派の福岡藩士も出入りする場所に。

とあるように、野村望東尼が大庭に足を運ぶ背景を、感じ取ることが出来ます。

 

月照

 

安政五年(1858)世にいう安政の大獄が起こり、天下の形勢漸く多事となった頃、京都清水寺成就院住職月照も、幕史の追求をのがれて九州へ下向した際、一時この地に難を避けた。

 薩摩藩脱洋中藻平(岩崎専吉変名)に案内されて月照は、同年十月十八日太宰府から上大庭の竹内を訪れ、平野国臣、阪田諸遠らと一堂に会し、西郷隆盛との盟約に従い、月照薩摩入りのための密議をこらした。

 翌日竹内が平野国臣月照と別離の宴を張ったとき、月照は竹内に歌を贈っている。

 

そこ深き君が心にくみて知れ

  山下水のすむもにごるも

 

 月照薩摩入りの状況は「平野次郎伝」によると、翌十月二十日、月照は「サイアン布」の衣を着ていたが、中島田萩本幸右衛エ門(三奈木家中)方に立ち寄り丹前に着替え、月照の僕(しもべ)重助、平野国臣、竹内五百都、娘お鉄と、荷物を運ぶ星野の僕、彦次弟正作(小塚の人)一行六人は、萩本宅を出、萩本の縁家である長田の岸長之亟(三奈木家中)の斡旋で、長田松山の清八(船頭)、楓の角平(船頭)両人は、筑後領立野入江に船を繋ぎ、楓よりひそかに小舟で乗り移り、久留米水天宮参りと称して筑後川を下り若津(現大川市)に出た。風波のため十日あまり滞在し、漸く十一月一日便船で薩摩へ向かっている。

 竹内と別れた月照は、平野国臣とともに十一月十日に鹿児島の城下に着いたが、薩摩藩の情勢は急変しており、西郷の必死の奔走にもかかわらず、遂に身の置き所もなく、十一月十六日月照は、西郷隆盛と相抱いて薩摩潟に身を投じたのであった。

 竹内は大庭村に住むこと六年、粕屋郡相ノ島に移り住む事になるが、大庭を去るにあたって、

 

客舎朝倉巳十年

帰心日夜億麒陽

無端更渡相窪水

回首朝倉是故郷

 

と詠じ、朝倉の地を故郷の地となつかしんでいる。このほか大庭に居た頃詠んだ歌に、

 

今日よりは柴のとぼそのおりおりに

  思いわたらむ朝倉の関

 

大君の御食に供へし朝倉の

  日代の苔は今盛りなり

 

広幡の八幡の神の御浄井の

  太刀の川辺の波の花かた

 

竹内は文久三年(1863)ようやくゆるされて薩摩に帰ったが、葛城彦一と変名して京都に出て、諸国の志士とまじわり、のち近衛家に仕えて身を終わった。維新の功労により正五位を追贈されている。

 

 

朝倉町史を読むと、当時の勤王の志士達の息づかいが聞こえてきそうです。

 

この内容を理解するには、当時の時代背景などをもっと詳しく学ぶ必要があります。

 

竹内五百都が読んだ歌は、太刀八幡宮への感謝の気持ちを感じます。

(歌の意味が分かればいいのですが、今の私には学がありません)

 

そして、明らかに勤王の志士たちは、太刀八幡宮に国家の安寧を祈ったことでしょう。

 

次回、もう少し時代背景の解説と、歴史から学んだことを伝えていきたいと思います。