この標題の第3弾です。
困った時の神頼みではありませんが、以前「境内社 厳島神社の碑文解読」の際にお世話になった、朝倉市教育委員会 文化・生涯学習課 文化財係 Nさんに相談しました。
すると次のようにメールが届きました。お忙しい中本当にありがたいことです。
お世話になります。興味深いお話、ありがとございます。
現在、まだ詳細を調べるに至っていませんが、現状でわかること、感じることをお伝えいたします。
●年代について
天文17(1548)年の紀年銘は、朝倉市内では比較的古い部類の石造物であるといえます。
朝倉市の中世段階(江戸時代以前)の石碑では、墓石や供養塔、逆修塔などがほどんどで、神名を刻んだ年号のある石碑は他に把握し ていません。
市内では「水神」や「猿田彦大伸」などは近世以降に多く建てられますが、1,700年代後半以降のものが殆どです。1600年代 ですら数が少ない状況で、1,500年代は珍しいと思っています 。
ただし、自然の河原石をそのまま使った中世の石碑の例は他にない気がしますし、書き方が極めて近世的なのが気にかかります。もし かすると天文17年より後に作られた可能性もあります。その場合 、もともとあった何か(祠や碑など)を継承するものとして石碑が 作られたのかもしれません。
●なぜ川底から見つかったか
現段階では不明と言わざるを得ません。
・山田堰の築造に際しての祈願のためであれば1500年代に山田堰の原型があったことになります。山田堰の原型がそこまで遡ると も思えません。また築造祈願で古い石碑を使うとも思えません。
・山田堰築造に際して集められた石材の中に含まれていた可能性がありますが、堰の上流からの引き上げであり、もしかすると上流の 大石堰や水刎など河川工事の際に石材として転用されたものが流さ れてきた可能性もあります。
・朝倉もしくはこの近辺で作成した石碑を肥後まで運搬する途中、事故等で川に沈んでしまった可能性もあります。
●石碑製造の目的
太刀八幡様の分霊を祀るものとして作られたのは間違いないかと思います。ただ、八幡様は勧請の際にそのままその地の地名を冠する ことが多いので、 太刀八幡宮としての独自の勧請活動があったのかなと思います。
●「肥後八代城主 山本大○○」
恐らく肥後の八代城の城主という意味だと思いますが、近世の八代城ではなく、中世の古麓城(八代城)のことを指しているようです 。
城主に山本氏がいたのかは調査中です。
何も答えになっておらず誠に恐縮ではございますが、取り急ぎ現状報告とさせていただきます。
よろしくお願いいたします。
とても丁寧に調査をして、頂きありがとうございます。
また、この碑石を見る視点が、碑文の解析のみならず、碑石としての文化財的な価値があるのかどうかなど、さすがプロの視点という印象です。
まだ謎解きは続きます。
今後の展開が楽しみです。