その中の厳島神社の境内社を調べた時、刻まれた長文の碑文について紹介しました。
この時のブログの中では、全文を解読出来ずに終わりました。
正面から見て、左側面写真
背面写真
正面から見て右側面写真
その後、内藤宮司さんから、「朝倉市の文化生涯学習課 文化財係にお願いすると良いよ」というお話を頂き、連絡してみたところ、さっそくNさんが太刀八幡宮に足を運んでいただき、なんと拓本をとっていかれました。
拓本をとる作業の前には、まずお酒を奉納して、手を合わせていました。👏
作業中の写真
そして、先日解読内容を送って頂きました。
送付文も含めて、全文引用します。
読めない箇所や読み方があっているか不確かな箇所もあり、
凡そこれくらいの意味というところでご了承頂ければ幸いです。
【意訳】
この弁財天を勧請したのは、秋月種実の代々の家臣、師岡勘次兵衛である。
天正の頃(一五七三~一五九一)の秋月城落城の際には夜須郡依井村に住んでいた。
南筑の生葉郡吉井の市に商用があって、この往来の大庭村平田というところに来て、
文禄年中(一五九二~一五九五)に住宅を移し、数百〇を耕地にした。霊験によって弁財天を進んで崇敬した。
元和年中(一六一五~一六二三)に三代の孫、九郎左衛門 惣兵衛 市次良は各々大隅に住居を替え、別に相続した。
凡そ二百十有余年、絶えていたが、八世の孫、社地のこの地に移して新たに石の玉殿(祠)を造営し、神処を飾り奉って、子孫繁栄・五穀豊穣の長久を祈るものである。
願主 師岡姓産徒
石工 筑後 山北村 ○○ 平沢辰諄
享和元(一八〇一)年 辛酉 朔且
歴史を感じますね。
このお社が出来たのが、223年前になりますが、由来は更にさかのぼり、1590年代というと430年前には、弁財天さんを崇拝していた事が分かります。
そして、このお社は他の境内社と共に、大正15年(1926年) 太刀八幡宮に遷座することになりました。
神社庁提出書類より
大字大庭字平田に祭祀ありしを大正15年12月11日許可を得て移轉合併す
境内社の遷座の歴史については、以前のブログを参照していただけるとありがたいです。
神社合祀という政策により、遷座することになったとはいえ、現在このお社は、太刀八幡宮に敷地内に鎮座して、約100年になります。
長年にわたり、信仰の対象となった弁財天さんは、今も太刀八幡宮に鎮座しているのです。
その歴史を知り、弁財天さんにご挨拶出来ることは、私にとって至極の喜びです。😊
この喜びを多くの方と共有出来ればありがたいです。
自分では,解読出来ない碑文を、今回朝倉市の文化財係のお助けにより、その内容を知ることが出来ました。
本当にありがとうございました。🙇♂️
追記(令和6年8月29日)
先日、朝倉図書館で、筑前国続風土記附録 加藤一純著 寛政11年(1799年)を見ていた時、次の記述を見つけました。
厳島明神
ヒラタ 社はなし
樹林の内に石体あり。長さ二尺、横一尺斗、半は土中に埋れり。石面に竹生島明神と彫れり。
二尺は約60㎝。
お社の碑文の後ろにある石体がそれでしょう。
1799年では、半分埋まっていた石体が、1801年 師岡家の方々により、お社が作られ、丁寧にお祀りされたということでしょうね。
😊