氏神様は太刀八幡宮

1200年の歴史を紐ときます

太刀八幡宮の境内社 ⑧厳島神社の碑文解読

以前太刀八幡宮境内社を調べて、ブログで公開しています。

 

その中の厳島神社境内社を調べた時、刻まれた長文の碑文について紹介しました。

 

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この時のブログの中では、全文を解読出来ずに終わりました。

 

正面から見て、左側面写真

 

背面写真

 

正面から見て右側面写真

 

その後、内藤宮司さんから、「朝倉市の文化生涯学習課 文化財係にお願いすると良いよ」というお話を頂き、連絡してみたところ、さっそくNさんが太刀八幡宮に足を運んでいただき、なんと拓本をとっていかれました。

 

拓本をとる作業の前には、まずお酒を奉納して、手を合わせていました。👏

 

作業中の写真

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そして、先日解読内容を送って頂きました。

 

送付文も含めて、全文引用します。

 

読めない箇所や読み方があっているか不確かな箇所もあり、凡そこれくらいの意味というところでご了承頂ければ幸いです。

 

【意訳】

この弁財天を勧請したのは、秋月種実の代々の家臣、師岡勘次兵衛である。

天正の頃(一五七三~一五九一)の秋月城落城の際には夜須郡依井村に住んでいた。

南筑の生葉郡吉井の市に商用があって、この往来の大庭村平田というところに来て、

文禄年中(一五九二~一五九五)に住宅を移し、数百〇を耕地にした。霊験によって弁財天を進んで崇敬した。

元和年中(一六一五~一六二三)に三代の孫、九郎左衛門 惣兵衛 市次良は各々大隅に住居を替え、別に相続した。

凡そ二百十有余年、絶えていたが、八世の孫、社地のこの地に移して新たに石の玉殿(祠)を造営し、神処を飾り奉って、子孫繁栄・五穀豊穣の長久を祈るものである。

 

願主 師岡姓産徒

石工 筑後 山北村 ○○ 平沢辰諄

享和元(一八〇一)年 辛酉 朔且

 

 

歴史を感じますね。

このお社が出来たのが、223年前になりますが、由来は更にさかのぼり、1590年代というと430年前には、弁財天さんを崇拝していた事が分かります。

 

そして、このお社は他の境内社と共に、大正15年(1926年) 太刀八幡宮遷座することになりました。

 

神社庁提出書類より

大字大庭字平田に祭祀ありしを大正15年12月11日許可を得て移轉合併す 

 

境内社遷座の歴史については、以前のブログを参照していただけるとありがたいです。

 

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神社合祀という政策により、遷座することになったとはいえ、現在このお社は、太刀八幡宮に敷地内に鎮座して、約100年になります。

 

長年にわたり、信仰の対象となった弁財天さんは、今も太刀八幡宮に鎮座しているのです。

 

その歴史を知り、弁財天さんにご挨拶出来ることは、私にとって至極の喜びです。😊

 

この喜びを多くの方と共有出来ればありがたいです。

 

自分では,解読出来ない碑文を、今回朝倉市文化財係のお助けにより、その内容を知ることが出来ました。

 

本当にありがとうございました。🙇‍♂️