氏神様は太刀八幡宮

1200年の歴史を紐ときます

太刀八幡宮 春の例大祭 報告

本日3月25日、内藤宮司さんをお迎えして、仮宮である社務所例大祭が執り行われました。

 

内藤宮司さんから、「春の例大祭祈念祭といって、一年の始まりとして五穀豊穣を祈り、秋の新嘗祭を無事に迎えるための大切なお祭りです。」と説明がありました。

 

伊勢神宮のホームページから一部引用します。

www.isejingu.or.jp

日本書紀』に天照大御神斎庭の稲穂を天孫瓊瓊杵尊に授けられたことが記され、そこに日本の始まりが位置づけられることは大きな意味を持ちます。春に豊作を祈り、秋の収穫に感謝する稲作を中心とした営みを、日本人は2000年以上繰り返して来ました。天皇陛下から国民に至るまで神を祀ることは日本の大切な文化です。

 

その後祝詞奏上、神饌、玉串奉奠を行い無事にお祭りは終わりました。

 

また、神殿玉垣修復工事も無事終わった報告があり、仮宮である社務所での例大祭の後、内神殿を修復の終わった本殿に無事に移し、内藤宮司さんのお祓いを受けました。

 

秋の新嘗祭に向けて、素晴らしい一年を過ごせますようにお祈りしました。

 

さくらが満開です。

f:id:goodlightsato:20230325100758j:image

 

修復の終わった神殿、玉垣
f:id:goodlightsato:20230325100755j:image

太刀八幡宮 春の定例祭(3月25日)

令和5年 太刀八幡宮 春の定例祭が開催されます。

 

日時 3月25日 午前9時

場所 太刀八幡宮 拝殿

 

内藤宮司さんを始め、総代役員 各地区総代さんが参加されますが、一般の方々の参加も歓迎ということですので、このブログをご覧の方で興味のある方は、ご参加してみてはいかがでしょうか。

 

私も当日参加をして、動画撮影をする予定です。

 

 

神殿玉垣修復工事も概ね終わり、美しく生まれ変わった神殿・玉垣を拝見出来ます。

 

f:id:goodlightsato:20230319190952j:image

太刀八幡宮の絵馬 その11 山猫(妖怪)退治?

 

f:id:goodlightsato:20230311182733j:image

奉納

参宮同行 16名? 下の枠には、読み取れませんが16名の名前があります。

大正10年(1921年

松目(絵馬師?)

 

非常に色鮮やかな絵馬です。

二人の武士が、妖怪を討ち取ろうとしている瞬間です。

 

妖怪は、手足は爪のはえた猫のような獣。尾は先が二股に割れています。

顔は、妖怪としか言いようのない表情です。

 

巻物が座卓の上にあり、下には広げられた巻物があります。妖怪退治にこの巻物が関係しているのでしょうか?陰陽師の呪文かな?

 

緊迫した妖怪退治の背景は、美しい山並みや花が咲き誇る樹木があり、対照的な構図です。

 

 

源頼政 鵺(ぬえ)退治

 

インターネット検索で、妖怪退治の画像検索していると、次の画像に出会いました。

 

福津市 ホームページより転載

なんとなく似ていませんか?

 

福津市のホームページには、「福津の絵馬」と題して絵馬を紹介しています。

この絵馬の解説を一部引用します。

 

源頼政鵺退治図(龗(うがみ)神社(八龍神社))

源三位 頼政が、鵺を射落とし、郎党が短刀で刺し通している場面。怪物の頭は猿、体は狸、手足は虎、尾は蛇というものであった。

 

ウキペディア 鵺には、鵺について詳しく記載されています.

鵺退治の一部を引用します。

鵺退治

 

平家物語』や摂津国の地誌『摂津名所図会』などによると、鵺退治の話は以下のように述べられている。平安時代末期、天皇近衛天皇)の住む御所・清涼殿に、毎晩のように黒煙と共に不気味な鳴き声が響き渡り、二条天皇がこれに恐怖していた。遂に天皇は病の身となってしまい、薬や祈祷をもってしても効果はなかった。

新形三十六怪撰:猪早太と鵺 月岡芳年

側近たちはかつて源義家が弓を鳴らして怪事をやませた前例に倣って、弓の達人である源頼政に怪物退治を命じた。頼政はある夜、家来の猪早太(井早太との表記もある)を連れ、先祖の源頼光より受け継いだ弓「雷上動(らいしょうどう)」を手にして怪物退治に出向いた。すると清涼殿を不気味な黒煙が覆い始めたので、頼政山鳥の尾で作った尖り矢を射ると、悲鳴と共に鵺が二条城の北方あたりに落下し、すかさず猪早太が取り押さえてとどめを差した。その時宮廷の上空には、カッコウの鳴き声が二声三声聞こえ、静けさが戻ってきたという。これにより天皇の体調もたちまちにして回復し頼政天皇から褒美に獅子王という刀を貰賜した。

 

 

 

 

ウキペディアの解説によれば、源頼政は「雷上動(らいしょうどう)」という弓を手にして怪物退治をしていますが、太刀八幡宮の絵馬は、弓を持っていません。

鵺の姿も、尻尾は蛇には見えないので、別の怪物退治かもしれません。

 

ただ、「先祖の源頼光」といえば、以前紹介しましたね。

goodlightsato.com

 

絵馬シリーズとしても、つながりがあるのかもしれません。

 

絵馬師は、絵馬の見本集みたいなものを持っていたと思うんですが、こういう妖怪退治、鬼退治といった題材も、人気があったのでしょうか。

 

私の子供時代のテレビでも、ウルトラマン水戸黄門のような悪者成敗する番組は人気がありました。

 

いつの時代も正義が勝ち、悪や怪物を亡ぼすことが、皆の願いだったということでしょう。

太刀八幡宮 鎮守の森 フクロウの鳴き声

令和5年2月の中旬でした。

その日は朝早く出かける用事があり、朝の太刀八幡宮へのお詣りは、朝の5時頃にいつもの様に、犬たちと出かけました。

 

普段も6時頃に参拝しているのですが、この時期は日の出前で、当りは真っ暗です。

頭には、ライトをつけて散歩しています。

f:id:goodlightsato:20230311132950j:image

すると、神社の森の中から、

ホー ホーと鳴き声が聞こえてきました。

 

え😲 フクロウ

 

聞こえてくる方向は、西の参道の森です。

f:id:goodlightsato:20230311131213j:image

 

大きな楠(くすのき)や椋(むく)の木が立っています。

f:id:goodlightsato:20230311131302j:image
f:id:goodlightsato:20230311131305j:image
f:id:goodlightsato:20230311131308j:image

 

この森には、フクロウが住み着いています。

 

フクロウの巣は、どこにあるのか分かりませんが、今後の楽しみが出来ました。

 

村の人に話をしたら、

 

「そうですよ、この森にはフクロウがいますよ。河川の改修工事が落ち着いて来たので、野鳥たちも帰って来ている。」

 

と教えてくれました。

 

ユーチューブで見つけたフクロウの鳴き声です。

太刀八幡宮で聞いた声に、よく似ています。


www.youtube.com

 

この鎮守の森が、次の世代にも癒しと喜びと感動を与える森であり続けるように、少し手入れをしていければと思っています。

 

鎮守の森の学びと実践を、今後ブログで発信していきます。

太刀八幡宮の絵馬 その10 天孫降臨 猿田彦とアメノウズメのヌード

 天孫降臨 猿田彦とアメノウズメのヌード

 

f:id:goodlightsato:20230226191224j:image

奉納 大福村小塚

大正8年(1919)3月28日吉日

星野 西 師岡 矢野 高橋 他の名前が読み取れます。

絵馬師の名前 □嶺画㊞

 

初めて拝殿の絵馬達を見たとき、この絵馬にもっとも惹かれました。こんなにエロチックな絵馬があるなんて。

おっぱいをさらけ出して踊る姿から、天の岩戸神話に出てくるアメノウズメの踊りを想像しましたが、アマテラス様がいないので違う神話です。

 

鶴田多々穂さんは、この絵馬の解説を次のように記しています

戦士の神、太刀八幡宮にこの様なユーモアな絵馬があろうとは想像もしなかった。

大正8年3月28日大福村小塚の参宮同行の人々が奉納したものであるが、岩戸神楽の図と思う。

天のウズメの命が大きな乳房を出して踊っている。左側の老人は、木に止まって驚いている。

女性ヌードの始まりというべきであろう。

 

それにしても、このおっぱいに込めた祈りは何だったのでしょうか?

 

神話のカリカチュア(風刺画)

 

筑紫路の絵馬 (市場直次郎著 昭和49年4月発行 ㈶西日本文化協会)という本があります。その中に、神話のカリカチュアと題して、阿蘇神社(福岡県朝倉郡杷木町:現朝倉市杷木町)の絵馬が白黒写真付きで紹介されていました。

なんと、太刀八幡宮の絵馬とそっくりではありませんか。

阿蘇神社の絵馬は、安政6年(1859)、太刀八幡宮の絵馬より60年前に奉納されています。

 

下の写真は、令和5年3月4日 戸締りされている拝殿の中に掲げられている絵馬を、格子の隙間からスマホで撮影したものです。肉眼で覗いても、暗くて何が掲げられているのか分からなかったのですが、今のスマホは性能が良くて、よく映っています。

 

f:id:goodlightsato:20230304135650j:image

そして、この絵馬を、市場直次郎さんは非常に分かりやすく、名文で解説しています。

長文になりますが、感謝して引用させていただきます。

 

この愉快な絵馬は、筑前筑後・豊後の国境に近い杷木町穂坂の、筑後川に臨む丘上にある阿蘇神社の拝殿にかかる。この縦横各1.3メートル余の大絵馬は、安政6年(1859)の初春に小林直七以下7人の連名で奉納したもの。画家の署名はないが、印文に華仙とある。図は三人立ちの人物像で、左側のいかめしい赤ら顔、偉大な天狗鼻の大男はサルタビコ(猿田毘古)の神というちまたの神だから、国境の道筋に鎮座する神社にふさわしい絵ともいえるのだが、この絵にはそれよりももっと重要な意味がありそうである。

 

三人の人物のうち、大男のサルタビコに相対するお多福顔、小柄な肥り肉(じし)の女性は、これも有名なアメノウズメ(天宇受売)の神。彼女はあられもなく胸かきひろげて、おそろしく豊満な乳房をつき出し、裾まくりあげて赤い下裳(したも)もあらわに、これ見よがしの態(てい)たらく。サルタビコはと見れば、目尻をさげ、舌なめずりしながら身も心も女神の虜(とりこ)になったかの有様。女神のうしろに控える髭男は、腰に長剣を横たえながら、御幣と鈴とを持って笑いながら声援の様子。これはニニギノミコト(邇々芸命)に従う武神のひとりか。

 

天孫ニニギノミコト高天原(たかまがはら)からくだろうとするとき、道のやちまた(分かれ道)にものすごく光り輝く神がいたので、天(あま)つ神の命を受けたアメノウズメが出かけて談判する。アメノウズメは神々から『汝は手弱女(たをやめ)にはあれども、いむかふ神と面(おも)勝つ神(相対する神に向かって気おくれせぬ神だ)』と評されたほどの外交手腕の持ちぬし。そこで、相手はいたって素直に、天孫の先導をしようと思って出ているのだとの答え。かくて、いかめしいサルタビコが忠実な案内役となって、天孫の一行は無事に筑紫(つくし)の日向(ひむか)にくだられることになる、というのである。

 

この絵馬の筆者は、こんな厳粛な神話を戯画化して、天狗鼻の男神に半裸の女神を対立させ、脇役に声援の武神を配して、さながら里神楽(さとかぐら)の舞台の雰囲気を表現したので、まずは江戸末期の画家による漫画のはしりともいうべき作品である。じつは、本図のような鼻高面の男神役とお多福面の女神役が登場して性的なしぐさを演ずることは、地方の神楽や田楽などの民族芸能の伝統であり、現にこのウズメの、目鼻がひとところに寄った特異な面相はたしかに神楽の土俗面に根拠をもとめることができる。このようなサルタビコとアメノウズメのわざおぎ(伎芸)には、これによって稲霊を刺激して豊産を招く呪術としての性格があって、ただに観客を笑いに誘うというだけの笑劇ではないのである。この絵の筆者もまたこうした伝統に立って、神話に取材しながらも、絵馬奉納主の農民たちの豊作祈願の意を表現したのであろう。

 

この素晴らしい解説のお陰で、この絵馬は、天孫降臨の時の、サルタヒコとアメノウズメの出会いの場面だというころが分かりました。

そして、この場面はただおっぱいを出したヌード絵ではなく、稲霊を刺激して豊産を招く呪術としての性格を持ち、絵馬奉納主の農民たちの豊作祈願の意を表現したものだと理解できました。

 

 

日本神話 猿田彦 天孫降臨とアメノウズメとの関係

 

歴史ミステリーチャンネルさんが、天孫降臨の状況を分かりやすくユーチューブで配信しています。


www.youtube.com

 

猿田彦とアメノウズメは後に結婚したのですね。

その運命的な出会いの場面が、この絵馬に描かれていたのです。

 

 

椿大神社

 

伊勢国一の宮 猿田彦大本宮 椿大神社が、三重県鈴鹿にあります。

全国でお祀りする猿田彦大神総本宮として信仰されているとともに、猿田彦大神をはじめ、妻神・天之鈿女命様など古来からの神々をお祀りしています。

 

tsubaki.or.jp

 

 

椿大神社ホームページより転載

椿大神社のホームページの画像と、絵馬に描かれたものには、少し差があるような気がしますが、ユーモアいっぱいの絵馬の場面も素敵ですよね。

 

猿田彦のご神徳

ホームページを一部引用します

猿田彦大神は、天照大神との幽契により、天孫を先達啓行、皇大神宮の永久御鎮座の大宮所をもお定めになられたことから、地上に生きとし生けるものの平安と幸福を招く「みちびきの祖神さま」と崇敬されています。

 

アメノウズメのご神徳

ホームページを一部引用します

天之鈿女命は、「鎮魂の神」「芸能の祖神」として、俳優(わざおぎ)芸事をはじめ、あらゆる芸道の向上、また、 縁結び・夫婦円満の守護に霊験あらたかとして、古来より信仰されています。

 


猿田彦神の石碑

f:id:goodlightsato:20230305143443j:image

私の住んでいる地区には、猿田彦神の石碑があります。

車で走っていても、あちこちで見ることが出来ますよね。

天孫降臨の時、道案内役を務めたことから、導きの神として祀られています。

 

20年以上前までは、2か月に一度この石碑の前でお祭りがあり、お団子を配っていたと村の人達から伺いました。

 

私と妻は、前を通る度に、ご挨拶をさせて頂いています。

 

これからも、人生の道案内をお願いします。

太刀八幡宮の絵馬 その9 藤原保昌 月下弄笛図

 藤原保昌 月下弄笛図

(ふじはらやすまさ げっかろうてきず)

 

f:id:goodlightsato:20230225125327j:image

奉納 参宮同行

大正7年3月

いろは順として19名の名前が記載されています。

大内田 竹井 浦 丸山 手嶋 平田さんの名前が読み取れます。

どの地区の方々の奉納でしょうか。

 

非常に美しい絵馬で、笛をふく武将の立ち姿の美しさに、惚れ惚れします。

 

つきおかよしとし

月岡芳年 作「藤原保昌月下弄笛図」

 

先日、図書館で「もっと知りたい浮世絵 田辺昌子著 東京美術 2019年12月」を見ていた時、この絵馬の元図であろう浮世絵の紹介が写真とともに記載されていました。

その解説を引用します。

満月のもと、薄(すすき)の生いしげる野を笛を吹きながら悠然と歩む藤原(平井)保昌と、それをねらう袴垂保輔(はかまだれやすすけ)の緊迫感のあるシーン。芳年の傑作としてとして名高い作品で、明治15年秋の「内国絵画共進会」に出品した肉筆画をもとに、版元にすすめられて版画化したものと伝えられている。その隙のない保昌の姿に、結局保輔は襲うことができず従うことになる。難しいシーンであるが、彫摺の素晴らしさもともなって、見事に張りつめた空気を表現している。

 

絵馬師が、浮世絵の題材を参考にしていることが、よくわかりますね

 

以前紹介した、刀剣ワールドさんのホームページにも、標題の浮世絵と解説が記載されています。

www.touken-world-ukiyoe.jp

 

 

藤原保昌(やすまさ)

 

この名前は、以前紹介した絵馬「源頼光 鬼退治(酒吞童子)」の中に出てきました。

日本の鬼の交流博物館のホームページの、酒呑童子伝説を一部引用したものですが、再度引用します。

姫君たちを奪い返し酒呑童子を退治するため大江山へ差し向けられたのが、源頼光(みなものとのよりみつ)を頭に藤原保昌(ふじわらのやすまさ)並びに四天王の面々、坂田公時(さかたのきんとき)、渡辺綱(わたなべのつな)、ト部季武(うらべのすえたけ)、碓井貞光(うすいのさだみつ)ら6名です。

 

ウキペディアによれば、人物として次のように記載されています。

一部引用します。

武勇に秀で、源頼信平維衡平致頼らとともに道長四天王と称された。のちに、道長の薦めもあり女流歌人和泉式部と結婚した。保昌自身も歌人であり、『後拾遺和歌集』に和歌作品1首が採録されている。

中世文学のなかで坂上田村麻呂藤原利仁源頼光とともに中世の伝説的な武人4人組の1人と紹介された。

 

そして、説話の中に次のように記載されています。一部引用します。

今昔物語集』には、以下の話が記されている。 10月朧月の夜に一人で笛を吹いて道を行く者があった。それを見つけた袴垂という盗賊の首領が衣装を奪おうとその者の後をつけたが、どうにも恐ろしく思い手を出すことができなかった。その者こそが保昌で、保昌は逆に袴垂を自らの家に連れ込んで衣を与えたところ、袴垂は慌てて逃げ帰ったという

 

この絵馬は、今昔物語・宇治拾遺物語にある説話の一場面だったのですね。

 

ユーチューブで藤原保昌を検索すると、素晴らしい動画に出会いました。

よろづ萩葉の万葉ちゃんねるさんです。

この物語を、原文も含めて非常に分かりやすく解説しています。

 


www.youtube.com

 

 

月岡芳年

 

日本の美術さんのホームページに、月岡芳年:作品と解説と題して、人物像についても紹介しています。一部引用します。

 

 

月岡芳年(1839-1892)は、最後の浮世絵師と呼ばれる。明治維新は彼が三十歳のときのことであり、その頃に画家として独り立ちしていた芳年は明治二十五年に満五十三歳で死ぬまで日本の浮世絵界をリードしたのであるが、それは浮世絵史の最後の段階にあたっていた。浮世絵は芳年の死とともに長い歴史に幕を閉じたのであって、したがって芳年は最後の浮世絵師と呼ばれてしかるべき存在だったのである。

 

時代の流れ

 

最後の浮世絵師が書いたその代表作の浮世絵が、絵馬となってこの太刀八幡宮に奉納されています。

 

時代の流れというか、移り変わりを感じます。

 

この絵馬が掲げられた当時は、絵馬や浮世絵は大切な娯楽だったと思いますが、今は娯楽の対象は、テレビや映画、テレビゲーム、ユーチューブ等様々です。

 

時代は常に変化していますね。

 

しかし、過去の絵馬を眺めながら、そして色々調べていくと、人間としての学びが深まるということは、人間の本質というのは変わらないということでしょうか。

 

まだまだ学びの旅は、これからも続きます。

 

太刀八幡宮の絵馬 その8 脇屋義助の正論

脇屋義助(わきやよしすけ)の正論

f:id:goodlightsato:20230218200827j:image

奉納

明治41年 戊申 2月

三井寺区 参宮同行

18名の方々と世話人として4名の名前が記載されています。

田中さん 鶴田さん 鶴川さんの名前が読み取れます。

 

 

鶴田多々穂さんの解説

 

太刀八幡宮の絵馬その1 神功皇后三韓征伐図の中で、絵馬を調査した功労者として紹介した鶴田多々穂さんは、この絵馬の解説を残しています。

一部私が読み取れない箇所もありますが、全文を引用させていただきます。一部言葉の解説を付け加えています。

 

武兵の面目を識(わきまえ)る脇屋義助

 

南朝の忠臣 新田義貞の弟 脇屋義助は、兄に劣らざる誠忠・智謀兼備の名将であった。

 

義貞、義助は元鎌倉の幕下であったが、勤皇の志篤く、時の執権 北条高時の専横(好き勝手に振る舞うこと)を憤り、高時討伐の義兵を挙ぐべきときを窺っていた。

 

たまたま楠正成(まさしげ)等、高時討伐の兵を挙げたので、高時は弟 泰家に20万の大軍を授けて京へ進発せしめんとし、関八州の豪族にその兵糧軍費を課し、上野国新田庄(現在の群馬県太田市および桐生市伊勢崎市みどり市の一部と埼玉県深谷市の一部)にあった荘園)に居た新田氏へも銭六萬貫の軍費を財課し、使者として出雲冬親連?を遣わした。

 

義貞大いに憤り、使者を斬り村の入り口にさらし首にした。

 

これを知った高時、激怒し義貞を討たんとしたが、この報を耳にした義貞は一族を集め謀議した。

 

或る者は鎌倉方の大軍を利根川に迎いて討つにしかずと唱へ、或る者は敵は大軍なれば、一先ず越後に退き彼の地の一族を糾合(ある目的のもとに人々を寄せ集め、まとめること)して兵を挙げんと論議まちまちにてまとまらず、この時 脇屋義助進み出て、

 

方々は余りにも消極的なり。先んずれば人を制すとの例え、座して強敵を待ち勝ちたるためし未だなし。

退いては徒(いたづら)に士気を無くし結局敗戦に終わらんか、天下の人々はあれ見よ新田は北条の使者を殺した罪で誅伐(罪ある者を攻め討つこと)されしと笑われん。同じ命を捨てるなら、勤王の大義のために我から進んで北条を討ち、最後の一騎なりしとて鎌倉へ攻め入るべし。待って死するか進んで討死するかは云わずとも明らかなり

 

と凛然として論駁(相手の論や説の誤りを論じて攻撃すること)したので。一族勇躍直ちに挙兵を挙げ、4万7千騎をもって鎌倉を攻め、高時を亡ぼした。

 

 

この絵馬の状況を、非常に理解しやすく解説しています。

私は脇屋義助という人を知りませんでしたが、歴史好きの方には、有名な話なのかもしれません。

 

脇屋義助の生涯

Wakiya Yoshisuke.jpg

ウキペディアより転載 菊池容斎画『前賢故実』より

 

 

愛媛県今治市脇屋義助公廟があります。「廟(びょう)」とは、先祖や先人の霊を祀る建物のことです。

 

今治市のホームページには、観光情報として、紹介していますので、写真と解説を一部引用します。

 

脇屋義助公廟の写真

 

南北朝時代南朝方は四国の総大将として新田義貞の弟脇屋義助刑部卿に任じて伊予(現在の愛媛県)に派遣しました。義助公は今治浦に上陸し本営を国府に移しましたが、20日ばかりで病没しました。現在の墓碑は江戸時代に再建されたものです。

 

 

城郭放浪記さんのホームページには、13枚の写真を紹介していますが、その中に今治市教育委員会の由来看板あります。転載します。

伊予 脇屋義助公廟堂-城郭放浪記

 

この由来を読むと、当時の時代背景が簡潔にまとまっています。南北朝時代の戦いの状況、兄 新田義貞南朝の有力武将が討ち死にする中、南朝方の総師として四国に入りますが、38歳で病に倒れたことが分かります。

 

義の人生を貫いた武将だと感じます。

 

この由来書の最後に、貝原益軒の名前があるので、福岡とのつながりもあるのでしょうか。

 

ウキペディアには、

新田氏発祥の地である群馬県太田市と、脇屋義助が病没した地である愛媛県今治市は、2002年に姉妹都市提携を結んでいる

と記載されています。

 

脇屋義助の人生が後の世に、遠く離れた都市の縁を結んでいるとは、驚きですね。

 

ちなみに、ウキペディアには墓所として、福井県坂井市丸岡町長崎の称念寺?と鳥取県倉吉市新町の大蓮寺が記載されています。

今治市でも、太田市でもないのは何故でしょうか?

歴史の謎があるのでしょうね。

 

今回も一枚の絵馬から多くの学びをすることが出来ました。

この絵馬が掲げられた時、義の講談をした方々が目に浮かぶようです。

それを聞いた子供たちは、義の心を養い、人生を貫いていかれたことと思います。

 

来月には、64歳になりますが、私もこの絵馬から学んだ義の心を胸に、人生をまい進していこうと思います。

 

(人''▽`)ありがとう☆ございます