氏神様は太刀八幡宮

1200年の歴史を紐ときます

太刀八幡宮の祖宮 宇佐神宮

太刀八幡宮の案内看板には、次のように由緒が書かれています。

 

弘仁14年(823)、豊前国宇佐八幡宮の霊を移し、社殿を建て「太刀八幡宮」とした。

 

その大分県宇佐市に鎮座する宇佐八幡宮(以下宇佐神宮)を参拝して来ましたので、紹介させて頂きます。

www.usajinguu.com

 

全国に4万社あまりある八幡社の総本宮にふさわしい、とても広い敷地に、美しい木々、参道、社殿に圧倒されます。

うっそうと繁るイチイガシの杜は、国の史跡に指定されています。

 

大鳥居の美しさ

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由緒が簡潔に書かれています。
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一部引用します。

神代に比売大神(ひめおおかみ)が馬城の峰(大元山)に御降臨になった宇佐の地に、欽明天皇32年(571)に応神天皇の御神霊が初めて八幡大神としてあらわれ、宇佐の各地を御巡幸ののち、神亀2年(725)に亀山の一之御殿に御鎮座になりました。

また、天平5年(733)比売大神を二之御殿にお迎えし、のち弘仁14年(823)神託により神功皇后が三之御殿に御鎮祭されました。

 

太刀八幡宮の社殿が建てられたのも、弘仁14年です。

(昨年2023年、太刀八幡宮は1200年祭を執り行いました。)

 

上宮への参道です。
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特別参拝参入口

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左端の看板には、次のように書かれています。

「令和6年3月18日 例祭

天皇陛下

幣帛料 饌料 御下賜」

 

天皇家との繋がりを表しています。

 

拝殿全景です。

一之御殿は改修中
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一之御殿 拝殿  (応神天皇

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二之御殿 拝殿 (比売大神)
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三之御殿 拝殿 (神功皇后f:id:goodlightsato:20241002152622j:image

 

奥宮の遥拝所です。

奥に薄く見える山に大元神社があります。
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由緒に書かれていた、「神代に比売大神が御降臨」になった大元山です。

宇佐市のホームページには、大元神社の事が詳しく紹介されています。

www.city.usa.oita.jp

一部引用します。

御祭神は宇佐神宮の二之御殿に祀られる比売大神(三女神)。社殿は拝殿のみで、山自体が本殿となっており、三体の巨石が御神体として祀られる神霊が宿る山である。拝殿の前には鳥居があり、そこから先は禁足地で宇佐神宮「奥宮」としての霊地である。

いつか訪れみたいところです。

 

外宮の拝殿
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八坂神社
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案内看板を一部引用します。

明治維新までこの場所には弥勒寺という神宮寺が存在していました。弥勒寺金堂の御本尊は、延命長寿・病気平癒をもたらす薬師如来で、この八坂神社は弥勒寺の守護神として、寺院の脇にお祀りされました。

 

宇佐神宮ホームページより転載

宇佐神宮は「神仏習合」発祥の地とされており、日本で初めて仏様と神様が出会った場所と境内に案内看板がありました。

この八坂神社では、毎年2月鎮疫祭(ちんえきさい)という祭りがおこなわれていて、神職と僧侶が一緒になって祭りを執り行っています。

宇佐市のホームページに写真や動画もありますので、とても参考になります。

www.city.usa.oita.jp

 

絵馬殿に入ってみました。
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多少風雨にさらされて風化している感じがします。

 

祈願祭を申し込みました。

返礼品です。

お箸は、イチイガシかな?

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神恩感謝

朝倉から宇佐神宮に向かう途中、運転歴47年で初めての走行中のパンクを経験しました。

急にガタガタし始めたので、道路が悪いのかと思いましたが、車を止めて確認すると、後ろの左のタイヤ🛞がパンクしていました。後で聞いたのですが、後ろのタイヤだったからハンドルを取られることも無かったということです。

JAFに連絡してロードサービスが到着すると、タイヤが裂けているから、パンク修理は出来ないので、タイヤ交換が必要とのこと。

平行して、JAF経由でディーラーのロードサービスさんから電話があり、色々対策を検討していただきました。

その結果、車はJAFさんが朝倉市のディーラーまで運んでくれる事になったのですが、あいにく当日はディーラーが休みなので、翌日運搬してくれることになりました。

旅行を続けるために、レンタカーを探してくれたのですが、提携しているレンタカー会社は空きの車が無いとのこと。

そうすると、JAFの運転手さんが宇佐が地元だからといって宇佐市のレンタカー屋さんを教えてくれたおかげで、レンタカーを借りる事が出来ました。そしてなんとレンタカー屋さんまで送ってくれました。私とカミさんは助手席に、パンクした車は荷台に乗って宇佐までのドライブです。道中も運転手さんと私が同学年であることや、子供も同じ年で色々楽しく子育ての話が出来、とても楽しい時間を過ごすことが出来ました。

そして、無事にずいぶん遅くなりましたが宇佐神宮を参拝することが出来、翌日は予定通りの旅行を楽しむことが出来ました。

 

今回思わぬアクシデントに会いましたが、JAFの方やディーラーのロードサービスの方にとても親切に対応していただき、本当に感謝🙏しました。

 

会員になっていたおかげで、ほとんどお金を手出しすることもありませんでした。

 

私も何か困っている人に出会った時は、自分に出来る限りのことはさせて頂き、助けあっていきたいと思います。

 

今回の出来事も、神様のお助けがあったからだと感じています。

パンクというアクシデントに対して、「何でこんなことが起こるんだ。」とマイナスの感情を持つことより、起こった対して、自分ができることを行い、出会った人の親切を素直に受けて感謝をすることの大切さを感じました。

 

これからも自然災害など防ぎようの無い出来事も起こるでしょうが、そういう時も助け合い支え合って生きていきたいと感じました。

 

大難を小難に

互いに助け合うこと

 

を神様から学んだ旅行となりました。

 

太刀八幡宮総代会の参拝

私が総代をしていた時は、コロナ禍ということもあり、3年に一度の総代会としての宇佐神宮参拝は、希望者だけとなり、結果的には内藤宮司さんと総代会長はじめ役員のみの参拝となりました。

次回は令和7年3月が参拝予定だと思いますが、このブログを読まれた総代さんには、是非参加されることをお勧めします。

聞いた話ですが、神様からの特別なプレセント🧧があると思います。

 

 

 

太刀八幡宮 鎮守の森の健康診断

 

8月30日 台風10号🌀は、朝倉市には特に大きな被害をもたらすことなく、通り過ぎました。お隣の大分県は、水害で大きな被害が出ています。

 

9月1日の朝、参拝に訪れると、参道には落ち葉が有りましたので、竹ぼうきでお掃除させて頂きました。

 

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お掃除後です。
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境内を見ると、枝が少し折れている程度でした。
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この木(けやき)は、小さな枝がたくさん落ちています。

 

樹木医さん👨‍⚕️との出会い

 

鎮守の森の考察として、とにかく倒木の危険があるなど緊急に対処の必要な事と、時間をかけて検討することを分けて考える必要があると思い、健康診断をして頂く人を探すことにしました。

 

そして、「樹木医」さんに相談しようと思い、一般社団法人 福岡県樹木医会に電話をしました。

www.f-jumokui.com

 

事務局の方に、

「神社の鎮守の森の健康診断をお願いするにはどうしたらいいのか?」

と問い合わせをしたところ、

「費用はかかりますが、診断・治療をすることが出来ます。樹木医の方から連絡を差し上げます。」

ということでした。

 

すると、早速樹木医さんから電話連絡が来て、急遽太刀八幡宮の森を見て頂くことになりました。家が朝倉市弥永ということで、仕事帰りに寄って頂けるということです。

しかも、無料で見て頂きました。🙇

 

樹木医の方は、古賀 政範(まさのり)さんです。

うきは市吉井の(有)総合緑化コガキューにお勤めです。

樹木医に加えて、ロープ高所作業特別教育指導者など高い伐採能力をお持ちの方です。

kogakyu.com

ホームページを見て知ったのですが、樹木医関連の仕事のため日本各地に出かけているようです。

古賀さんは、素人の私にとても丁寧に教えて頂きました。

 

 

現地調査の内容を記録していきます。

 

1.線香林

 

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駐車場横、本殿の東側は細い杉が立ち並んでいます。

いわゆる線香林状態です。

杉の木を大きくするのであれば、間伐が必要です。

 

2.駐車場から参道入って右にある楠


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枝が枯れているのは、楠が日の当たらない場所の枝を、不必要と判断して自ら枯らしているとのこと。

この楠は、頂上部の葉っぱも綺麗で、元気だということです。

楠のみならず、基本的に樹木は光が当たらなくなった枝を自ら枯らすことで、樹勢を保とうとしているようです。

 

ただし、この枯れ枝が落ちて人に当たると、非常に危険です。

20センチ程度の枝でも真っ直ぐに落ちてくると、ヘルメットを割るほどの衝撃があります。

特に雨が降っている時は,枯れ枝も重たくなっているので要注意です。

 

3.手水舎横のケヤキ


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最初に台風の後小枝が多く落ちていたと紹介したケヤキですが、木としては頂上部の緑も状態が良く、正常とのこと。

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このケヤキも、楠同様に不必要と判断した枝は締め付けるようにして枯らしています。
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木の根元に集めた落ち葉のことを聞いてみました。

というのは、ホームページで落ち葉を木の根元に集めないでという内容を見つけたからです。

 

千葉市緑化推進協議会ホームページより転載

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一部引用します。

落ち葉を1カ所に堆積させることで、深植え状態になり根が呼吸できず地表からの水も吸収し難くなります。徐々に木は元気を無くして弱り最悪の場合、枯れてしまいます。(写真の桜は枯れてしまいました。)

また、本来は冬の低温で死滅する害虫を越冬させ、木々に悪い影響を与える事も考えられます。

 

古賀さんから教えて頂いたのは、根張りが隠れていなければ大丈夫とのことです。

根張りとは、土の上に出ている根ですね。肩のような部分です。

次の写真の楠も随分落ち葉がありますが、根張りの部分が現れており、葉も健康で問題ないとのことです。
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古賀さんの話を聞いて、「ほっ」と安心しましたが、掃除の都度落ち葉を樹木の根元に集めることは、見直す必要があるかもしれません。

以前、根元に堆積した落ち葉を、軽トラに乗せて南側の斜面(トイレの横付近)に移動していた地域がありましたが、色々検討が必要です。

 

4.御神木(楠)
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参道脇のしめ縄の張られた御神木の楠です。

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良く見ると、上部に枯れ枝が見えます。(赤ペンで囲ったところ)

少し弱っているとのことです。

その対策はどうするのかお伺いすると、根が伸びている個所の土壌改良を行うとのことです。
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楠の根は、地上部の枝の真下あたりまでは伸びているので、上の写真では電柱付近までは伸びていることになります。


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そして、楠の根の上にある狛犬や灯籠そして参道などの構造物が、根に負担をかけているようです。この付近の参道もひび割れしていますので、いつか補修をする時がくるとは思いますが、その際は御神木の根を傷めない工夫が必要でしょう。

 

5.本殿裏の杉

この杉をみても、本殿側の枝は太陽を求めて緑の葉が生い茂っていますが、反対側は枝がありません。

枯れた細い杉が一本あります。

 

6、西の参道横にある大楠

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ひときわ大きくそびえたつ楠の大木。

古賀さんも感動していました。上部まで真っ直ぐ伸びた美しい楠です。

第二の御神木として、しめ縄を張りたくなります。

 

7.西の参道横の枯れた杉 2本


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見るからに完全に枯れています。

倒木すれば電線に影響がでます。

 

8.西の参道入り口のムクノキの大木


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塞神社の前です。斜面のため根が傾いています。
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根元は空洞で反対側が透かして見える状態です。
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直根(真下に伸びている根)が腐っています。

その代わりに、板根(板状の根っこ)が発達して木を支えています。

この板根が傷ついて腐らないように注意が必要です。
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ムクノキの葉っぱは元気です。

中段には、枯れた太めの枝がありますので、木の下に行く場合は要注意です。

 

9.荒れた竹林
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竹の繫殖により、社務所近くまで侵入しています。

 

10.子持鳥居前の杉


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子持鳥居前の杉はとても立派です。

ところが、参道入り口のコンクリートや石を持ち上げています。

太刀八幡宮のシンボルでもある子持鳥居の景観を守るのか、それとも杉を守るのかいつか選択する時がきます。

仮に杉を伐採するとなったら、重機が入らないので高所作業で小さく杉の上部を切断しながら、倒しても問題ない高さになったら、根元から伐採するという特殊な伐採が必要となります。

 

11.道路にはみ出た桜の枝

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河川工事中、大型ダンプは反対車線を走行していました。

「桜伐る馬鹿梅伐らぬ馬鹿」といいますが、桜の木は樹勢が強く、落葉した後ならば、はみ出た枝を剪定しても、桜は枯れないとのことです。

 

 

まとめ

 

緊急に対処すること

 

1.枯れ枝の落下に対する注意喚起

神社境内で発生する事故、災害の中でも、樹木の倒木、枝折れに起因するものが34%に上るというデータもあります。

参拝者への事故を防ぐためには、参道上の枯れ枝に対する注意看板が望まれます。

また、総代さん達は、作業のため鎮守の森に入る時は、ヘルメット⛑️の着用が必須になります。

 

2.枯木の伐採

 

完全に立ち枯れしている木が10本近くあるのではないでしょうか。

参道に倒れる木から優先順位をつけて、伐採が望まれます。

ただし、総代さん達が自らチェーンソーを使って伐採するのは止めるべきです。

ボランティア保険の対象にならないようです。

(私が総代をしていた時、チェーンソーで木を伐採している方がいましたが、ちょっと危険だなと感じていました。チェーンソーによる伐採作業は、自身の防具の着用も義務付けられていますし、周囲の作業の方の安全確保も必要なので素人がする作業ではありません。)

費用は掛かりますが、業者さんなどプロお任せするのが一番良いと思われます。

 

時間をかけての検討事項

 

1.樹木の経過観察

 

御神木の楠が少し弱っているということなので、定期的な経過観察が必要です。

また、西の参道入り口のムクノキの大木も同様に、特に根の部分の経過観察が必要です。

 

2.木の根元に落ち葉

 

毎月の境内清掃の方法になりますが、落ち葉の扱いを検討する必要があります。

落ち葉置き場を別に確保するあるいは、燃やすなどでしょうか。

 

3.竹林の整備

 

晦日の深夜、竹灯篭が参道に置かれ参拝者を出迎えます。

そのための竹は必要ですが、枯れた竹など竹林を乱しているものは除去して、美しい竹林の整備を検討すべきでしょう。

社務所裏にまで竹が侵入しています。まさか社務所の床を突き破ることはあるのでしょうか?

 

4.道路にはみ出した桜の枝剪定

 

落葉後、実施。

 

5.鎮守の森計画の検討

 

どういう森を次世代に残すのかの検討

 

例えば線香林のエリアは、どういう森にするかのビジョンによって対策が変わります。

長老が言っていたように、どぶろくを飲んで楽しい花見をするエリアにするとなれば、公園のような整備が必要なのかもしれません。

 

あるいは、フクロウが住んでいるであろう地域は、極力人が入らない原生林のように保護するとか。

 

若い人の意見ももらって、将来の太刀八幡宮の森を検討することが必要でしょうね。

 

整備には、色々費用も掛かりますので、時間をかけて話し合うことが望まれます。

 

さいごに

 

今回古賀さんには、夕方の5時から6時半まで、現地調査をしていただきました。

そして古賀さんは、「良い木を見れて良かった。」とおっしゃって下さいました。

本来ならそれ相当のお礼がいるところだと思うのですが、お茶の一本も用意してなくて本当に申し訳ないと思いました。

家に帰って、カミさんに話をすると

「鎮守の森を手入れしていくことが、お礼になるんじゃないの。」

とのお言葉。

太刀八幡宮の神々のお言葉と思って、鎮守の森の考察を進めるとともに、私の出来ることから手入れをしていきたいと思います。

 

古賀さん、どうもありがとうございました。🙏

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

恵蘇八幡宮に祀られている太刀八幡 その3

この標題の第3弾です。

 

goodlightsato.com

 

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困った時の神頼みではありませんが、以前「境内社 厳島神社の碑文解読」の際にお世話になった、朝倉市教育委員会 文化・生涯学習課  文化財係 Nさんに相談しました。

 

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すると次のようにメールが届きました。お忙しい中本当にありがたいことです。

 

お世話になります。興味深いお話、ありがとございます。
現在、まだ詳細を調べるに至っていませんが、現状でわかること、感じることをお伝えいたします。


●年代について
天文17(1548)年の紀年銘は、朝倉市内では比較的古い部類の石造物であるといえます。
朝倉市の中世段階(江戸時代以前)の石碑では、墓石や供養塔、逆修塔などがほどんどで、神名を刻んだ年号のある石碑は他に把握していません。
市内では「水神」や「猿田彦大伸」などは近世以降に多く建てられますが、1,700年代後半以降のものが殆どです。1600年代ですら数が少ない状況で、1,500年代は珍しいと思っています
ただし、自然の河原石をそのまま使った中世の石碑の例は他にない気がしますし、書き方が極めて近世的なのが気にかかります。もしかすると天文17年より後に作られた可能性もあります。その場合、もともとあった何か(祠や碑など)を継承するものとして石碑が作られたのかもしれません。

●なぜ川底から見つかったか
現段階では不明と言わざるを得ません。
・山田堰の築造に際しての祈願のためであれば1500年代に山田堰の原型があったことになります。山田堰の原型がそこまで遡るとも思えません。また築造祈願で古い石碑を使うとも思えません。
・山田堰築造に際して集められた石材の中に含まれていた可能性がありますが、堰の上流からの引き上げであり、もしかすると上流の大石堰や水刎など河川工事の際に石材として転用されたものが流されてきた可能性もあります。
・朝倉もしくはこの近辺で作成した石碑を肥後まで運搬する途中、事故等で川に沈んでしまった可能性もあります。

●石碑製造の目的
太刀八幡様の分霊を祀るものとして作られたのは間違いないかと思います。ただ、八幡様は勧請の際にそのままその地の地名を冠することが多いので、太刀八幡宮としての独自の勧請活動があったのかなと思います。

●「肥後八代城主 山本大○○」
恐らく肥後の八代城の城主という意味だと思いますが、近世の八代城ではなく、中世の古麓城(八代城)のことを指しているようです
城主に山本氏がいたのかは調査中です。

何も答えになっておらず誠に恐縮ではございますが、取り急ぎ現状報告とさせていただきます。
よろしくお願いいたします。

 

とても丁寧に調査をして、頂きありがとうございます。

また、この碑石を見る視点が、碑文の解析のみならず、碑石としての文化財的な価値があるのかどうかなど、さすがプロの視点という印象です。

 

まだ謎解きは続きます。

 

今後の展開が楽しみです。

 

 

 

 

 

太刀八幡宮の台風被害(平成3年)

 

平成3年(1991年)9月、台風19号は日本列島に甚大な被害をおよぼしました。

今から33年前のことです。

ja.wikipedia.org

 

風倒木という言葉が広く知られるようになったのは、この台風の頃からではないでしょうか。

特に日田杉の風倒木被害は、有名でした。

 

朝倉市大庭でも、瓦屋根やトタン屋根が飛んだりしたことを、近所の方にお聞きしたことがあります。

 

前回のブログ「太刀八幡宮の石灯籠」の中でも、第3の灯籠が台風19号に被害により倒壊した写真を紹介しました。

 

今回は、当時の社殿などの被害の状況を紹介します。

 

被害状況

①拝殿に倒れ掛かった杉


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②拝殿正面写真
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③上の写真の根本付近

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④本殿に迫った杉の倒木
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⑤上の写真の根本付近

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⑥土台が壊れた境内社
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⑦北の鳥居に倒れ掛かった杉
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⑧第3の灯籠
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⑨子持鳥居から見た石段被害
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⑩石段被害(拡大)
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この写真から分かるように、杉(桧も含まれているかもしれません)の倒木が甚大な被害へとつながっているのがわかります。

植林した杉の木は、根が浅く倒れやすいとは聞いていましたが、この写真を見ると太く成長した杉であっても、注意が必要だということが分かります。

 

植樹

植樹とフェンス施設記念の記念碑です。

先代諸兄の数次にわたる植林により神域とみに森厳さを増す時 恰も平成三年九月中下旬と二回にわたる大暴風により古木や植林の杉桧併せて三百本余倒伏し残木僅かとなり見る影も失くす

時に平成四年五月夜須高原に於ける全国植樹祭を励して氏子篤志の人々により各種百本余の献木を見る

往時の鎮守の森に思いを至し謝してこ〃神域に植樹せり

尚六年三月町道に沿いフェンスを施設して境内の整備を図る

 

その後、さらに植林をしています。

 

植林  杉 三百十本

    楠   二本

    桜  十一本

 

 

先人達が鎮守の森を育て守って来たから、現在の太刀八幡宮の森があります。

しかし、今 健全な鎮守の森だといえるでしょうか?

 

仮に、台風が来た時に、倒木することなく、社殿を守ってくれるでしょうか?

 

もうすぐ台風シーズンです。

 

以前から気にかけている鎮守の森の考察も深めていきたいと思います。

 

 

太刀八幡宮の石灯籠

太刀八幡宮には、3組の石灯籠が参拝者を出迎えます。

 

便宜上、本殿に近い方から、1の灯籠・2の灯籠・3の灯籠と名付けてみました。

 

 

石灯籠

 

ウキペディアには、次のように概要が記載されていますja.wikipedia.org

 

一部引用します。

概要

文字通り、灯(あかり)籠(かご)であり、・・・

 

灯籠は仏教の伝来とともに渡来し、寺院建設が盛んになった奈良時代から多く作られるようになり、多くは僧侶が用いたとされる。平安時代に至ると、神社の献灯としても用いられるようになる

 

灯籠の役割

神社では、神前の「みあかし」用、献灯用に灯籠が用いられる。

みあかしとは、神仏に供える灯火(辞書より)

 

一番上は、宝珠、続いて笠・火袋・中台・竿・基礎という6個の部品で構成されています。

 

1の灯籠

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明治42年6月建之 1909年 (115年前)

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写真は向かって左の台座

 

台座には、向かって右には21名、左には23名の名前が彫られています。

善光寺 参宮同行 拾一(11)名」という文字が読み取れます。

 

 

2の灯籠
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奉進献

 

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寛政10年 戌年9月 1798年226年前)

 

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大庭村 ○○豊助

寄進者の名前でしょうね。

寛政10年は、古賀百工さんが亡くなられた年です。関係があるでしょうか?

 


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火袋の模様が特徴的です。満月と三日月、四角と三角。

飾り模様でしょうか?

それとも別の意味があるのでしょうか?

 

3の灯籠

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昭和3年11月10日 1928年(96年前)

御即位記念

氏子中

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皇紀二千五百八十八年


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昭和3年11月10日は、昭和天皇即位の礼が、挙行されました。それを記念して設立されています。

神官 古賀廣誌 他氏子総代8名の名前が彫られています。

 

火袋や竿など一部改修されている個所があります。

 


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この写真は、平成3年(1991年)の台風被害の状況です。(33年前)

この3の灯籠が、大きく破損しています。

倒木によるものかもしれません。

 

令和6年の新年の様子

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今年の参道には、久しぶりに(たぶん3年ぶり)竹灯籠が設置されました。

写真では分かりにくいですが、石灯籠にもロウソクが設置されていました。

 

久しぶりに灯った石灯籠の明かりを見て、神様方もお喜びになったことでしょう。

 

 

 

太刀八幡宮 江戸時代の鎮守の森

朝倉図書館で「朝倉風土記」を眺めていたら、太刀八幡宮の図という挿絵を見つけました。

 

「朝倉風土記」というのは、古賀益城(ますき)さんが編集したものです。

 

朝倉市のホームページのふるさと人物誌に紹介されています。

 

一部引用します。

郷土朝倉の歴史を調べるとき、無くてはならない名著があります。「あさくら物語」「あさくら物語別冊」「朝倉風土記」の3冊です(合計約1700ページ)。今回は、その著者古賀益城の生き方と学問について紹介します。

 

www.city.asakura.lg.jp

 

 

この挿絵は、「筑前国風土記付録」 より模写と書かれています。

 

筑前国風土記付録(ちくぜんのくにふどきふろく)

寛政11年(1799年) 

福岡藩士 加藤 一純(いちじゅん)編集

 

今から225年前の風景です。

 

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姥ヶ池 社の前なる田の中にあり。昔は大なりしが今は僅かに一畝斗池なり。

一ツ木 神功皇后、御陣営をもうけさせ給ひし所と云、周囲6間余(約10m)、高さ九尺(約2.7m)ばかりの塚なり。東南の方は広く、西北は狭し。上は平らかなり。

社の南に清水あり。叢中より流れ出、冬夏にも増減なし。太刀の小川とも云。

 

本殿横には、金比羅社、録記堂、稲荷社、太刀塚が描かれています。

境内社の移り変わりを感じますが、太刀塚は変わりませんね。

録記堂というのは、社伝を保管したり、今の社務所の役割もしていたのでしょうか?

 

鳥居は、子持ち鳥居が明和2年(1765年)に建立されていますが、挿絵では普通の鳥居で描かれています。(挿絵は1799年)

 

子持鳥居の向かって左側に、描かれている木は桜🌸かな?

 以前長老は子供の時、「神社南側の桜の木の下で、大人たちがどぶろくを飲んで宴会をしていた。子供の私も飲まされた。」とおっしゃっていました。

 

花見というと、若い頃会社員時代に公園で飲んだり、ビール瓶をマイクに見立てて、歌ったりしたことを思い出します。

 

花見は「予祝」の原点の習慣という記事があります。

 

yuhobika.net

 

一部引用します。

 

春に満開に咲く「桜」を、秋の「稲」の実りに見立てて、仲間とワイワイお酒を飲みながら先に喜び、お祝いすることで願いを引き寄せようとしていたのです。

これを「予祝(よしゅく)」といい、辞書にも載っています。

 

そういえば、令和6年の春の例大祭のブログで、次のように紹介しました。

内藤主税 宮司さんがおっしゃっていますが、春の例大祭は、正式には祈年祭といいます。

 

本来は民衆が行う田の神への予祝祭であった。

 

 

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つまり、春の例大祭(祈念祭)で神々に秋の豊穣を予祝として祝い、その後満開の桜の下で、老若男女酒を酌み交わし、予祝を楽しんでいたということでしょうか?

その文化を農村は代々引き継いで来たのでしょうね。

 

戦後の時代に流されて

 

長老はおっしゃっていました。

「戦後、杉の木が金になるからということで、桜をはじめたくさんの木が伐採されて、杉が植えられた。」

 

昨年1200年祭奉祝事業として神殿などの修復工事の際、境内の杉などが使用できないか森林組合に相談したところ、コストが高くなってしまうということで諦めたと会長が言われていました。

 

まるで、山の荒廃と同じで、戦後住宅用の木が必要ということで、山に植えられた杉・ひのきが、安い木材の大量輸入により、金にならず山の手入れが出来なくなったということと似てますよね。

 

こうして、太刀八幡宮の鎮守の森は時代と共に変化していきます。

 

次の時代、この鎮守の森🌳が、氏子の皆様に愛される森であり続けるためには、今何が必要なのか。

 

今後検討していきます。

 

ちなみに、江戸時代も「ふくろうさん🦉」いたかなー

 

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故 内藤主税宮司の神葬祭

はじめに

 

このブログ「氏神様は太刀八幡宮」は、内藤主税宮司の支援・応援なくして、今日まで続くことはありませんでした。

インタビューもさせていただきました。

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絵馬のこと、境内社のことなど、太刀八幡宮の現地で一緒に調査したこともありました。

 

例大祭のビデオ撮影をブログで紹介したこともあります。

 

私は、太刀八幡宮は37社ある兼務社の一つであることから、お忙しい宮司さんにあれこれ相談することを遠慮していましたが、先日水の文化村であったイベントで偶然お会いした時も、「太刀八幡宮のことを調べて、ブログで発信している方です。」とお近くの方々に気さくに紹介してくださいました。

 

亡くなられた前日である7月24日は、「太刀八幡宮 夏の例大祭」を執り行って頂いたばかりでした。車でお帰りの際に「また、相談事がありますので、近いうちにお伺いします。」と声をかけたのが、最後の会話になりました。

 

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急な訃報に接し、お通夜・告別式と参加して、内藤宮司さんの功績や人柄を再認識する中、感謝の意味を込めて、神葬祭のことをこのブログで紹介させて頂きます。

 

神葬祭神道の葬儀)

 

いすや斎場頓田会館で、大勢の方の参列の中開催されました。

 

7月28日 お通夜

7月29日 告別式

 

7月25日の朝、用事で出かける準備をして椅子に座っていたところ、ご家族が気づいた時には、心筋梗塞で心臓が停止し、脈もない状態だったそうです。長男の内藤尚武祢宜、奥様の懸命な心臓マッサージ、そして救急隊、お医者様の対処にも関わらず、そのままお亡くなりになったとのこと。

あまりに突然のことで、ご家族も動揺を隠せない様子でした。(尚武さんの挨拶より)

 

 

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内藤主税宮司のお人柄を表すかのように、多くの方々が参列されました。

 

お通夜に参列した人数は1,000人は超えていたのではないでしょうか。参列者の玉串奉奠はいつ終わるのかと思うほど、続いていました。

告別式にも、お通夜ほどではないですが多くの方々が参列していました。

 

花輪の数は70基程あったと思います。会場内の壁を越えて受付側にも、飾られていました。太宰府天満宮宇佐神宮などの神社関係をはじめとして、本当に多種多様な方々からの花輪が並んでしました。

 

神葬祭は、福岡県神社庁朝倉支部が執り行いました。

恵蘇八幡宮の上原宮司他2名の神職と2名の巫女さんが、その役をお努めでした。

 

上原宮司の大祓奏上それに続くお言葉の中では、内藤宮司の生立ちから、神社や地域文化の再興に力を尽くしたことなど詳しくその功績と人柄をご紹介されていました。

 

弔辞を述べられた方々も、本当に内藤宮司を尊敬し、慕いそして突然の死を悔やまれていました。

 

私は、涙もろいこともありますが、皆様の弔辞・お孫さんの弔辞を聞きながら、嗚咽が止まらず、泣いていました。

 

告別式での最後の挨拶では、長男である尚武祢宜さんが次のようにお話をされていました。

 

倒れた父に「まだ早い、まだ聞きたいことがたくさんある」と叫んでいました。

しかし、父も祖父の突然の死により、そこから国学院大学で学び宮司の道を歩み出したことを思えば、私は2年間、父と一緒に仕事をする幸運に恵まれた。

今後も今までと変わらぬご支援をお願いしたい。

 

もうすでに内藤尚武祢宜は神社奉職の道を立派に歩み出しています。

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内藤尚武祢宜 令和5年 新嘗祭 太刀八幡宮において

 

言葉足らずではありますが、

 

今はただ、内藤主税宮司御霊のご平安をお祈りいたします。

🙏