氏神様は太刀八幡宮

1200年の歴史を紐ときます

太刀八幡宮の境内社 遷座の歴史

やっと完成しました。

 

太刀八幡宮には、境内社と呼ばれる小さなお社が9社あります。それぞれどういうお神様が祀られているのかをまとめようと調査を開始したのですが、はっきり名前が読み取れるお社はわずかで、そもそも◯◯神社と彫られていないお社が多いのです。

 

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読めますか?


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そこで内藤宮司さんの協力を仰ぎながら、福岡県神社史、朝倉町史などを参考にして、ようやくまとめることが出来ました。

 

今回は、全体の配置図・写真そして、境内社が太刀八幡宮遷座された経緯などを紹介していきます。

 

境内社の配置図

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お正月に境内社にお参りしたあの人は?

令和4年のお正月、私は総代として深夜の当番をしていました。元旦0時には、初詣の参拝の方は多いのですが、しばらくすれば参拝者の数も減り、焚火の番をしながら、朝を待つことになります。その時に、本殿をお参りした後で、境内社の一つにお参りした男性の方がおられました。こういう方もおられるのだなぁとその時はあまり深く考えもせず、その姿を見ていました。

 

今回、境内社のことを調べて行くうちに、境内社が受けた社会の変化・流れを理解することが出来、境内社にお参りされたあの方の気持ちも、少し理解することが出来たように思います。

 

宗像大社境内社

太刀八幡宮主祭神である宗像三女神をお祀りしている宗像大社のホームページを見ると、「本殿の周辺には大小のお社が24社あり、121の神様が祀られています。」と記載されています。何故こんなに多いのか色々調べていると、 世界遺産「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群 のホームページに

殿・拝殿の周りには、辺津宮末社(本社に付属する小さい神社)が並んでいます。これらは延宝3年(1675)に第3代福岡藩黒田光之によって、宗像郡内の末社が集められ、合わせて祀られたものです。現在もこの時に造営された末社の社殿が残っています。

と記載されています。

 

お殿様が地域の末社を集めた目的は何だったのでしょうか?

 

そして、太刀八幡宮境内社もお殿様(誰になるのかなー、秋月藩のお殿様?)が集めるよう指令を出したのでしょうか?

 

 

福岡県神社誌(昭和63年出版、昭和19年刊の合本)

 

福岡県神社誌には、太刀八幡宮の境内神社として、次の3社が記載されています。

 

志賀神社(少童神)

白峯神社(崇徳天皇

御太刀塚神社(息長帯姫命

 

しかし実際には9社有りますので代表的なお社だけを記載したのでしょうか?

 

太刀八幡宮神社庁への提出書類

内藤宮司さんに、現地の写真を持って境内社のことを教えてもらおうと相談にお伺いすると、昭和27年4月1日に神社庁に申告した書類を見ることが出来ました。そこには、9社の神社の名前と神様、そして遷座した年月も書かれていました。

内藤宮司から、「政府の意向で小さな神社を地域の大きい神社に取りまとめることが進められた。しかし、移した後どうしてもお社を戻して欲しいと懇願があり、元の場所に戻ったところもある。」ということでした。

 

境内社の記述は次の通りです。便宜上番号を付けています。

 

1.太刀神社 息長帯姫命

 

2.佐塞神社 久那斗神

     本村字佐屋に鎮座せるを明治15年9月境内社に移轉す

 

3.徳満宮  保食神 罔象女命

     大字大庭字乙王丸に祭祀ありしを大正15年12月11日許可を得て移轉合併す

 

4.秋葉宮  軻遇突智命

     大字大庭字乙王丸に祭祀ありしを大正15年12月11日許可を得て移轉合併す

 

5.天満神社 菅原神

     大字大庭字後園に祭祀ありしを大正15年12月11日許可を得て移轉合併す

 

6.蛭子社  事代主命

     大字大庭字後園天満神社境内社に祭祀ありしを大正15年12月11日許可を得て移轉合併す

 

7.天満神社 菅原神

     大字大庭字平田に祭祀ありしを大正15年12月11日許可を得て移轉合併す

 

8.白峯神社 崇徳天皇

     大字大庭字角虫に祭祀ありしを大正15年12月11日許可を得て移轉合併す

 

9.厳島神社 市杵島姫命

     大字大庭字平田に祭祀ありしを大正15年12月11日許可を得て移轉合併す 

 

境内社の数は9社と合致しましたが、福岡県神社誌に記載のある志賀神社がありません。

 

また内藤宮司さんから、後園の5.天満神社は、現地に戻っているとお聞きしました。ということは、6.蛭子社は天満神社境内社だったので一緒に戻っているのでしょう。

 

ちなみに書類に記載の見慣れない字名は、後園は中央、平田は徳次、角虫は三寺と内藤宮司さんに教えて頂きました。

 

 

朝倉の神々

 

以前総代会長が引き継いだ資料を見せてもらった時の資料を見直していると、有りました。太刀八幡宮境内社が、記載されていました。

誰がまとめた資料か分かりませんが、太刀八幡宮を含めた朝倉の神社の分類、そしてそれぞれの神社の祭神や境内社などが記載されています。

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神社庁への提出書類と見比べてみます。

 

提出書類       朝倉の神々

 

1.太刀神社      息長〆帯姫

2.佐塞神社      塞ノ神

3.徳満宮       徳満宮

4.秋葉宮       秋葉宮

5.天満神社      

6.蛭子社

7.天満神社      天満宮

8.白峯神社      白峯大明神

9.厳島神社      弁財天

 ○         稲荷社

 〇         志賀大明神

 

提出書類の5.天満神社については、「犬丸に鎮座せしを文政年間後薗に遷祀し、大正13年太刀八幡に遷座、昭和26年現在地に奉祀する」朝倉町史第9編に記載がありました。多少年数の差はありますが、天満神社と蛭子社は再び後薗に戻っていかれました。

 

これで、9社が判明いたしました。

 

朝倉町史、朝倉の神々という資料が無ければ、最終的にまとめることが出来ませんでした。作成された方々に感謝します。それにしても良くまとめていると思います。大変な努力と足を運んだことでしょう🙏

 

神社合祀

 

内藤宮司さんから教えて頂いた神社をまとめた話は、神社合祀として調べることが出来ました。ウイキペディアを引用します。

神社合祀(じんじゃごうし)とは、神社の合併政策のことである。神社整理ともいう。複数の神社の祭神を一つの神社に合祀(いわゆる稲八金天神社)させるか、もしくは一つの神社の摂末社にまとめて遷座させ、その他の神社を廃することによって、神社の数を減らすというもの。主に明治時代末期に行われたものをさす。

 

神社合祀の目的は、神社の数を減らし残った神社に経費を集中させることで一定基準以上の設備・財産を備えさせ、神社の威厳を保たせて、神社の継続的経営を確立させることにあった。

 

神社合祀政策は1906年明治39年)の第1次西園寺内閣において、内務大臣・原敬によって出された勅令によって進められ、当初は地域の実情に合わせかなりの幅を持たせたものであった。だが、第2次桂内閣の内務大臣平田東助がこの訓令を強固に推し進めることを厳命したため、全国で1914年大正3年)までに約20万社あった神社の7万社が取り壊された。

 

太刀八幡宮には大正15年に7社遷座していますので、7万社からさらに多くの神社が取り壊されたことになります。

 

合祀反対運動

氏子・崇敬者の側としては、反対集会を開くこともあったが、主として大きな運動もできず、合祀によって廃された神社の祭神が祟りを起こしたなどと語る形でしか不満を示すことはできなかった。

とはいうものの、この合祀政策は、博物学者・民俗学者で粘菌の研究で知られる南方熊楠ら知識人が言論によって強い反対を示した。南方は、合祀によって①敬神思想を弱める、②民の和融を妨げる、③地方を衰微する、④民の慰安を奪い、人情を薄くし、風俗を害する、⑤愛国心を損なう、⑥土地の治安と利益に大害がある、⑦史跡と古伝を滅却する、⑧天然風景と天然記念物を亡滅すると批判した[1]こうした反対運動によって次第に収束して、帝国議会での答弁などを通して、1910年明治43年)以降には急激な合祀は一応収まった。しかし、時既に遅く、この合祀政策が残した爪跡は大きく、多数の祭礼習俗が消えてしまい、宗教的信仰心に損傷を与える結果となった

 

合祀された神社の復祀

戦後になると、戦前の神社非宗教体制は解体され、すべてが宗教法人となった[1]。一度合祀されたものの、のちに復祀された神社も少なくなかった。

 

後園の天満神社昭和26年復祀の道を辿ったのですね。

 

こうした政治の波にのまれて、太刀八幡宮境内社が、今にあります。

それぞれのお社の氏子の方々の気持ちは複雑だったことでしょう。

 

境内社にお詣りを

私は、今まで境内社に手を合わすことはなかったのですが、この歴史を知り、それぞれのお神様のことを知ることで、今では毎朝『おはよう御座います😃』とご挨拶をすることになりました。お神様も少し喜んでくれているような気がしています。

 

次回からは、それぞれの境内社の事を紹介していきます。