朝倉町史を読んで、何故西郷隆盛と月照が薩摩潟に身を投じたのか?、私には分かりませんでした。
朝倉町史一部引用
竹内と別れた月照は、平野国臣とともに十一月十日に鹿児島の城下に着いたが、薩摩藩の情勢は急変しており、西郷の必死の奔走にもかかわらず、遂に身の置き所もなく、十一月十六日月照は、西郷隆盛と相抱いて薩摩潟に身を投じたのであった。
西郷隆盛と月照とインターネット検索すれば、色々な情報が得られます。
歴史人さんのホームページから一部引用させていただきます。
月照もその尊王攘夷の考え方を支持する一人で、彼は孝明天皇のために攘夷が成功するよう祈祷を行い、海外列強の脅威から日本を守ろうとしました。
月照さんは、普通の住職ではなく、尊王攘夷の思想を持ち、住職は弟に譲り、武士と公家との間に入って活動をしていたようです。
この厳しい状況からさらに追い打ちをかけるように、西郷が崇敬して仕えていた主君・島津斉彬が突然死してしまいます。この斉彬の死は西郷を悲嘆の底に沈ませ、主君を追って自殺することを考えるまでに西郷は弱ってしまいました。
しかし、その西郷の自殺を止めたのがまさに月照で、彼の励ましにより、西郷は生きる気力を取り戻したのです。
この厳しい状況というのは、安政の大獄です。
そして、安政の大獄により、西郷隆盛も月照さんの幕府に追われることになります。
今度は月照さんを助けるために、西郷隆盛は薩摩で匿うとするのです。
その途中、月照さんは平尾山荘に寄り、そして大庭にも立ち寄ったのでした。
西郷隆盛は、月照さんを薩摩藩に受け入れるために、先に薩摩に戻り色々と画策をしたのでしょう。しかし・・
斉彬の死後、薩摩藩の実権は弟の島津久光が握っていましたが、薩摩藩は西郷に対し、月照を「日向国送り」にするよう命令します。
「日向国」は現在の宮崎県のことですが、それは文字通り日向国に連れていくということではなく、実際は「日向国の国境まで進んだら月照を斬りすてよ」という命令なのです。
西郷は、共に戦った同志である月照を切り捨てるなど出来るはずもなく、かと言って藩の命令に背くこともできませんでした。
ならばせめて一人では逝かせはしない…そう思った西郷は、ある決断を下します。それは、共に入水自殺することでした。
命の恩人である月照さんを助けることが出来ないむなしさを感じます。
そして、西郷隆盛も月照さんも辞世の句を残して、つまり覚悟してこの世を去ろうとしたのです。
月照の辞世の句
大君の為には何か惜しからむ薩摩の瀬戸に身は沈むとも【意味】大君(孝徳天皇)のためならば、薩摩の海に身が沈もうとも何も惜しくはない
西郷隆盛の辞世の句
二つなき道にこの身を捨て小舟波立たばとて風吹かばとて【意味】自らが信じたただ一つの道のためなら、波風が立とうが、この身をうち捨てられた小舟同様に捨てよう
引き上げられた二人でしたが、奇跡的に西郷隆盛は息を吹き返しました。
西郷隆盛といえば、敬天愛人 天を敬い人を愛すという言葉が有名です。
「道というのはこの天地のおのずからなるものであり、人はこれにのっとって行うべきものであるから何よりもまず、天を敬うことを目的とすべきである。天は他人も自分も平等に愛したもうから、自分を愛する心をもって人を愛することが肝要である」(西郷南洲顕彰会発行『南洲翁遺訓』より抜粋)
恩を受けた月照さんに対する愛の表現が、共に入水自殺することなんて、悲しい選択です。
西郷隆盛は、明治に入って月照さんの墓参りに行って、慟哭して涙したとのことです。
本当に月照さんを愛していたのですね。
それいけ歴史クンTVさんのユーチューブは、簡潔ですがとても参考になりました。
いつか、清水寺をお詣りすると時は、月照さんのお墓参りをさせていただきます。
合掌🙏