朝倉町史には、
安政三年(1856)福岡の女傑、野村望東尼も大庭に来訪し
と書かれ、望東尼のことを詳しく紹介しています。
平尾望東会顧問 谷川佳枝子さん
40年以上野村望東尼を研究された谷川さんのホームぺージを参考にさせて頂きながら、一部引用していきます。
そして、福岡チャンネルさんの動画に谷川さんが出演されています。
望東尼は、27歳で歌人大隈言道(おおくまことみち)に入門して、歌の才能が開花しました。そして多くの歌を詠んでします。
朝倉町史にも、大庭で詠んだ歌が紹介されています。
朝倉町史引用
大庭の地に竹内五百都を訪れたとき、国事に奔走する竹内の日記を見て、感動して詠んだ望東尼の歌に、
真心を書き残したる水くきに
今さらぬるるわがたもとかな
水くきというのは、筆跡のこと。
望東尼の涙する姿が、目に浮かびます。
次の歌はとても有名です。
もののふの大和心をよりあわせ
ただひとすじの大綱にせよ
(諸国の武士たちの大和心をより合わせて一本の大綱にせよ)
うちのカミさんが望東尼が大好きという話は、前のブログでしました。
以前カミさんが平尾に住んでいた時、平尾小学校では、望東尼を題材にした音楽劇を発表していました。
カミさんが保存している子供達の資料の中に、姫島小学校との交流会の台本が出てきました。今から20年以上前のものです。
望東尼が過ごした平尾と島流しにあった姫島の小学生同士が、交流を重ねています。
この時は、平尾小学校の生徒達が、姫島に訪問しています。
とてもほのぼのとしますので、内容を引用します。
「望東尼」合唱
今歌った曲は、平尾小学校の先生たちがつくった「望東尼」という曲です。
今日は、私たちのためにいろいろと準備していただきありがとうございました。
私たちは、福岡市中央区の平尾小学校から来ました。
私たちの学校の児童数は、1年生から6年生までで745人います。
校庭には、たくさんの木があり、平尾の森という遊び場所もあり、大変自然に恵まれた学校です。
それでは、私たちの平尾小学校の校歌を紹介します。どうぞお聴きください。
(校歌斉唱)
私たちの校区には、九州エネルギー館や、九電記念体育館、動植物園などがあります。
そして、野村望東尼さんが住んでいたという平尾山荘があります。
今、望東尼さんのことをみんなで調べて、音楽劇で全校に発表しようと練習にはげんでいます。
私たちは先週、修学旅行で萩に行ってきました。
萩では、望東尼さんをこの姫島の獄舎から救い出した高杉晋作の生誕地を見てきました。
そこには、望東尼さんの絵も飾られていて、望東尼さんの偉大さを改めて感じました。
そして今日は、流刑されたこの姫島の地に来ることができ、今でも、望東尼さんがいたという獄舎が大切に保存されていることを知り、ますます望東尼さんのことを尊敬するようになりました。
望東尼さんが、この姫島で過ごしていた時、この島の方から大変優しくされたということは、よく知っています。
今日この島に来て、その当時だけでなく、今でも望東尼さんが大変優しくしてもらっているように思いました。
今日は、この姫島のよさをたっぷりと感じ取って帰りたいと思います。
最後に、「モトニ」という曲を演奏します。
この曲は、岩崎大輔さんという有名な作曲家の人が作った曲です。聴いてください。
礼
いつか、子供達の音楽劇も観てみたいものです。
そして、その音楽劇の中で歌われた曲を、カミさんはよく歌っています。
今日(令和5年6月17日)、修復された太刀八幡宮の本殿の前で、カミさんに歌って頂きました。歌唱奉納です。
歌の奉納 もののふの大和心
望東尼と高杉晋作
長州の高杉晋作が、福岡に亡命してきたのは、元冶元年(1864)11月のこと。晋作は長州藩の内部抗争の末、藩の実権を握った反対勢力である俗論党から身を守るため、福岡藩士中村円太らの計らいで、10日間余り平尾山荘に潜伏することとなった。
高杉晋作は、この10日間で望東尼さんと魂の深い絆を結びます。
歌を通して、優しくそして力強く魂を支えたのでしょう。
高杉晋作はその10日間の恩義を果たすため、流刑された姫島から望東尼を救いだし、下関で感動の再会を果たします。
そんなある日のこと、病床の高杉が、
「面白きこともなき世に面白く」
と、上の句を詠んで、望東尼に下の句を続けてくれと言った。望東尼が、
「すみなすものは心なりけり」
と詠むと、高杉は「面白いのう」と言って笑ったという。
有名な高杉晋作辞世の句です。
歌のやり取りで、心の交流を深める文化は、素晴らしいですね。
大庭に来た望東尼の気持ちとは
望東尼が大庭に来た頃の出来事を年代順に並べてみました。
安政3年(1856) 望東尼 大庭に来訪
11月10日 月照さん 鹿児島の城下に着く
文久元年(1861) 望東尼54歳 念願の上京 京都では多難の国事を目のあたりにする
元治元年(1864) 11月 高杉晋作10日間余り、平尾山荘に潜伏
慶応元年(1865) 福岡藩の勤王党弾圧「乙丑の獄」により11月末玄海灘の孤島姫島の獄舎に幽閉
慶応2年(1866) 9月 高杉晋作の手配により救出され、下関に逃れる
慶応3年(1867) 4月 高杉晋作29歳で亡くなる
望東尼が大庭に来た2年後に、月照さんが大庭に来ます。
月照さんは、平尾山荘に立ち寄ったあと、大庭に向かったことになります。
最初に紹介したように、望東尼は竹内五百都の日記を見て、涙を流して感動しています。勤王の志士達の姿、そして西郷隆盛と月照さんの入水を知った望東尼は、どんなにか憤りを感じたことでしょう。
そして京都で何が起きているのか目にしたくて、念願の上京を果たしたのでないでしょうか。
夫がなくなって二年後、文久元年(1861)11月末、望東尼は念願の上京の途につく。徒歩で小倉まで行き舟で下関に渡り、下関からは瀬戸内海の海路を大坂まで進んだ。
こういう流れを見てみると、望東尼にとって大庭を訪れたことは、大きな転機になったのではないでしょうか?
そして、望東尼は太刀八幡宮で大きな祈りを捧げたのではないでしょうか?
勤王の志士達の母として何が出来るか
勤王の志士達の同志として何ができるか
🙏
曽川チャンネルさんが作った次のユーチューブは、平尾山荘、姫島などの史蹟もスライドショーとして見ることが出来て、とても感動しました。
素晴らしい動画を作っていただき感謝します。