氏神様は太刀八幡宮

1200年の歴史を紐ときます

太刀八幡宮の標柱(しめばしら)

太刀八幡宮には、2カ所標柱が建立されています。

 

標柱とは、岡山県神社庁神道用語辞典に次のように記載されています。

神社又は祭場の設備の一種。参道の入口或いは社頭に建つ一対の柱で、これに「注連縄」を張る。石柱の場合が多い。

 

神社に行けば良く見かけます。

広島県の何処かの町の「地域神社の標柱」というホームページがあります。一部引用します。

www.cf.city.hiroshima.jp

この石柱は「標柱(しめばしら)」といい、そこに彫られた語句は「宣揚文(せんようぶん)」といいます。

この「標柱」というものの建立は全国的なものではなく、瀬戸内に多く、中でも広島県が圧倒的に多くその数約1千百社、1千五百対(平成10年)あるそうです。

 

この標柱は、鳥居の原型だという意見もあるようなのですが、はっきりした文献を見つけることが出来ませんでした。

刻まれた宣揚文を、参拝者の方に伝えたいという思いの結晶でしょうか。

 

その1.本参道 

 

子持ち鳥居をくぐり、石段を登りきったところに立っています。

 

f:id:goodlightsato:20231009191316j:image

正面写真

神明恩頼 錫斯年豊


f:id:goodlightsato:20231009191320j:image

背面写真

昭和九年三月二十日 1934年(89年前)

参宮同行


f:id:goodlightsato:20231009191312j:image

右柱 背面下部 4名の名前が彫られています。
f:id:goodlightsato:20231009191323j:image

左柱 背面下部 4名の名前が彫られています。

 

神明恩頼 錫斯年豊

しんめいおんらい しゃくかねんぽう

 

この言葉をインターネット検索しても、見つけることが出来ませんでした。

一文字づつ検索していきます。

 

神明(しんめい) 超自然的な存在。あらたかな神。

恩頼(おんらい) 神から受ける恩徳。みたまのふゆ

 

京都大神宮さんのブログで恩頼の説明をしています。

   

kyotodaijingu.sblo.jp

 

錫(しゃく) たまわる。たまもの。 天錫ー天から賜わるもの。

斯(か) これ ここ このように

年豊(ねんぽう) 豊作

 

言葉をつなぎ合わせると次のような意味になります。

 

神の恩徳を受けて、ここに豊作を賜(たまわ)る

 

8名の同朋が、お伊勢さん参りのお礼として奉納したものです。

参宮同行については、以前のブログで紹介しています。

goodlightsato.com

 

 

 

その2.東参道 入口

 

駐車場に車を止めると、すぐに出迎えています。

 

f:id:goodlightsato:20231009191418j:image

正面写真 

至誠而不動

者未之有也


f:id:goodlightsato:20231009191412j:image

柱 内側

御大典記念

平成二年十一月吉日

柱 背面

当時の総代会長、役員、総代さん 25名の名前が彫られています。


f:id:goodlightsato:20231009191421j:image

標柱横に設置の板看板

しせいにしてうごかざるもの

いまだこれあらざるなし

よしだしょういん

 

 

WEB漢文大系というホームページがあります。

そこに、詳しく説明が記載されています。

kanbun.info

一部引用します。

  • 出典:『孟子』離婁上
  • 解釈:こちらがこの上もない誠の心を尽くしても、感動しなかったという人にはいまだあったためしがない。誠を尽くせば、人は必ず心動かされるということ。

 

孟子は、戦国時代の思想家です。

WEB漢文大系には、前後の文章が乗っているので、誠の大切さを説明しているものだということが分かります。

 

孟子は、性善説を唱えた人で、ウキペディアには次のように記載されています。

ja.wikipedia.org

 

孟子性善説は、「世に悪人がいる」ことを前提に「それでも性は善である」と主張する説だった。つまり孟子によれば、どんな人間でも井戸に落ちそうな幼児屠殺されそうな家畜を見たとき、憐れみなどの道徳感情不忍人之心ひとにしのびざるのこころ四端)が生じる。この道徳感情が善なる性であり、これを教育などで拡充すればどんな人間でも善人になれる、それゆえ教育が重要である、という説だった

性善説性悪説もともに教育の重要さを唱えていることが分かります。

 

 

吉田松陰

ウキペディア吉田松陰には、吉田松陰語録として次のように書かれています。引用します。

至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり

(本当の誠実さを持ちながら行動を伴わない人はいない、本物の誠実さがあるというのであれば、行動しなさい)

 

吉田松陰は、松下村塾」で明治維新で活躍した志士に大きな影響を与えたということは知っていました。

以前山口県萩を訪れた時、松陰神社に参拝していますが、吉田松陰がどういう人だったのかは詳しく知りませんでした。若くして志半ばで死罪となった人というイメージでした。

 

そこで、吉田松陰のことを学ぶために、次の本を読んでみました。

 

 

正直、相当感動しました。

ただ、カミさんからは「どの本読んでもいつも感動してるよ。」といわれていますが・・・

 

ウキペディアには、つぎのように書かれています。

留魂録』(りゅうこんろく)は、幕末長州藩の思想家である吉田松陰が、1859年安政6年)に処刑前に獄中で松下村塾の門弟のために著した遺書である。この遺書は松下村塾門下生のあいだでまわし読みされ、松門の志士達の行動力の源泉となった。

 

この遺書の理解を深めるために、吉田松陰が書いた数々の手紙や妹さんのインタビュー記事等が納められており、今の私にはこれからの人生を生きる上でも、とても参考になりました。

 

この本の中に次のように書かれているところがあります。現代語訳になっています。

5月14日江戸に送られると聞く

私は、一枚の白木綿の布を手に入れて、孟子「誠をきわめれば、その力によって動かしえないようなものはこの世の中には一つもない。」という言葉を書きつけ、それを手ぬぐいに縫い付けて、江戸にやってきました。そして、その手ぬぐいを評定所に置いてきましたが、それは私の志とするところを、そういうかたちであらわしておこうと思ったからです。

ただ私の誠が、世の中に通じるのか、通じないのか、その一点だけを、天のご意思にゆだねようと思った。

 

吉田松陰は、をきわめ、自分の命は終わりを迎えますが、そのことにより門人であった高杉晋作を始めとした明治維新の志士達が偉業を成し遂げて行きます。

 

志半ばで死を迎えたのでありませんでした。

 

この標柱を建てた総代さん達は、太刀八幡宮を参拝する方々に、それぞれの立場での誠をきわめてほしいという願いを込めて、この宣揚文を選んだのだと感じます。

 

誠の心、大和魂

 

まだまだ学びが続きます。