氏神様は太刀八幡宮

1200年の歴史を紐ときます

太刀八幡宮に宿る吉田松蔭の誠

前回のブログで、標柱の紹介をしました。

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至誠而不動  者未之有也

しせいにしてうごかざるもの

いまだこれあらざるなし

 

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そして、定例祭に掲げる幟旗(のぼりはた)にも同じ言葉がなびいています。

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吉田松蔭の事を知るために、「留魂録」を読んだことは、前回も触れたのですが、私がとても印象に残り、これからの人生に影響を与える言葉をいくつか紹介します。

 

 

松蔭が主宰する「松下村塾」の活動期間は、実質的には、わずか1年ほどにすぎません。納屋や古屋を改造したもので18畳半ほど・・

 

松下村塾は、松陰の叔父さんが始めたもので、松陰は3代目の主宰者になるとのことです。そのわずかな教師の期間に、教室も質素な部屋の中で、多くの明治維新の志士及び明治政府の要人を育てあげたとのことです。

優れた教師の姿がそこにあるのでしょう。

この漢詩を作った孟子性善説は、「教育が重要である」という説だということを前回のブログで学びましたが、まさに吉田松陰は教育者として本当に優れた人だったということが分かります。

 

 

なるほど松下村は小さな村です。しかし、神国・日本を木にたとえるならば、松下村はその木の幹になると、私は誓います。

 

これは、ふたたび投獄される時に、自分の思いを残したものの一つです。

当時日本全国に寺小屋があったでしょう。その一つの塾が明治維新を成し遂げて行きます。

松陰神社には「明治維新胎動之地」と書かれた石碑が建立されています。

萩の維新関係碑文拓本集より引用

 

松陰の誓いどおり、明治維新は成し遂げられて行きました。

 

 

留魂録第一条

身はたとひ 武蔵野の野辺に朽ちぬとも

留め置まし 大和魂

 

歌意・「たとえ私の身は、武蔵の野辺で朽ちはてようと、私の魂だけは、<どうか神様>永遠にこの地にとどめて、祖国・日本を護りつづけさせてください。」

 

遺書の冒頭に書かれた辞世の句です。

 

辞世の句としては、次の文章も本の中で紹介されています。

「吾、今、国の為に死す。死して君親に背かず。悠々たり天地の事。鑑照(かんしょう)は明神(めいしん)にあり」

 

私は、これから国のために死にます。死んでも、主君や両親に対して恥ずべきことは、何もありません。もはや私は、この世のあらゆることを、のびのびとした気持ちで受け入れています。

私は、私の人生のすべてを、今、神の御照覧にゆだねます。

 

 

死罪の判決を受けた時、松陰はこの二つの和歌を大きな声で浪々と吟(ぎん)じたとのことです。数え年で30歳、満29歳の人生でした。

 

現代教育を受けた64歳の私には、辞世の句を残す知性はありません。ましてや若干29歳の頃といえば欲に溺れた生活をしていました。(「今でもね」とカミさんに言われそうです)

 

松陰が妹の千代さんあての手紙の中に次のような言葉があります。

 

「神に願ふよりは、身で行ふがよろしく候」

 

松陰は、言うまでもなく神仏を敬っていた人です。ただし、神仏に「あれをしてくれ、これをしてくれ」というような「信仰」は、拒否していたように思います。神を敬するが頼まない・・・、考えてみれば、これはまさしく「武士道」の真髄をあらわしている言葉ではないか、と思います。

 

御利益を求めて神仏に手をあわせて来たわけではありませんが、「行動」という意味では十分動ききれていない自分がいます。

「明日にすればいいか」

「私がしなくてもいいよね」

みたいな事は今でもたくさんあります。

 

しかし、少しでも行動を大切にしたい自分も育っているように思います。

カミさんは、なにか思い立ったら「5.4.3.2.1.」とカウントダウンしてから行動しています。

良き手本が身近にいてありがたいと思っています。🙏

 

第8条 後來(こうらい)の種子

今、私は死を前にしても、とてもおだやかで安らかな気持ちでいます。それは、春夏秋冬という四季の循環について考えて、こういうことを悟ったからです。

・・・

私は今、30歳です、何一つ成功させることができないまま、30歳で死んでいきます。人から見れば、それは、たとえば稲が、稲穂が出る前に死んだり、稲穂が実るまえに死んだりすることに、よく似ているかもしれません。そうであれば、それは、たしかに「惜しい」ことでしょう。

しかし、私自身、私の人生は、これはこれで一つの「収穫の時」をむかえたのではないか、と思っています。どうして、その「収穫の時」を、悲しむ必要があるでしょう。

・・・

人というのは、10歳で死んでいく人には、その10歳のなかに、春夏秋冬の四季があります。

20歳で死んでいく人にはその20歳のなかに、100歳で死んでいく人にはその100歳のなかにまた春夏秋冬の四季があるのです。

・・・

私は、すでに30歳になります。稲にたとえれば、もう稲穂も出て、実も結んでいます。その実が、じつはカラばかりで中身がないものなのか・・・、あるいは。りっぱな中身がつまったものなのか・・・、それは、本人である私にはわかりません。

けれども、もしも同志の人々のなかで、私のささやかな誠の心を「あわれ」という人がいて、その誠の心を「私が受け継ごう」と思ってくれたら、幸いです。それは、たとえば一粒のモミが、次の春の種モミになるようなものでしょう。

もしも、そうなれば、私の人生は、カラばかりで中身のないものではなくて、春夏秋冬を経て、りっぱに中身がつまった種モミのようなものであった、ということになります。同志のみなさん、どうか、そこのところを、よく考えてください。

 

 

長文の引用になりました。

現在64歳の私は、私の人生の春夏秋冬のどこにいるのかを考えさせられました。

もちろん明日何が起こるか分かりません。

冬かも知れません。

でも、松陰のこの言葉を知った以上、私はまだまだ色々な事を学び、それを行動をもって世の中に足跡を残したくなって来ています。

どんな足跡を残せるのかは、本人の私には分からないのかもしれませんが、私なりに精一杯生きてみたいと思います。

 

吉田松陰が書いた手紙は現在のところ、なんと627通も残っている

 

この本の中では、たくさんの手紙が紹介されています。

高杉晋作にあてた手紙もあるのですが、その内容を読むと教育者「晋作」の愛情がとても感じられます。

時代が違うとはいえ、生徒が先生に手紙を書いて教えを請い、それに答えて先生が丁寧な愛情を込めた手紙を書くようなことが、あるのでしょうか。私の学生時代では、残念ながらありませんでした。

こういうことが、松下村塾では「わずか一年ほど」の教師期間だったかもしれませんが、多くの明治維新の志士達を育て上げることに繋がったのでしょう。

 

高杉晋作さんは以前のブログに登場しています。

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著者の松浦光修さんが、後半で次の文章を書いています。

もしも幕末の萩で、すべての若者が「リスクの高い行い」に恐れをなして、松下村塾に集うことなく、明治維新が起こっていなかったら、日本はどうなっていたのでしょう。言うまでもなく、日本は、他のアジア・アフリカ・オセアニアの国々と同じく、植民地にされていたはずです。しかし、松下村塾には、「リスク冒す必要のあること」を見わける「智恵」と、それに向かっていく「勇気」をあわせもつ若者たちが集まりました。そのこと自体、私には「奇跡」としか思われないのですが、その「奇跡」が、やがては日本を植民地化の危機から救い、やがては世界の有色人種を、欧米諸国の支配から解放するという、さらなる「奇跡」を呼び起こすのです。

 

吉田松陰という種モミが、果たした功績は、日本だけでなく世界の秩序にまで発展しています。そのことを理解するには、さらなる学びが必要です。

 

学校の歴史教育で、私は何を学んできたのでしょうか?🤔

 

至誠而不動  者未之有也

 

この言葉を「宣揚文」として選択した当時の総代さん達は、誰もが持っている「誠の心」を今一度思い出して、人生を歩んで欲しいと願ったのでしょう。

 

もしかしたら神様に、選ばされたのかな?