氏神様は太刀八幡宮

1200年の歴史を紐ときます

太刀八幡宮の境内社 ④白峯神社

④ 白峯神社

祭神 崇徳天皇

 

正面写真

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左側面
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碑文を解読します。

大嘗祭記念改築

大正 四 乙卯 年 十一月 〇旦?

「1915年 乙卯(きのとう)」

 

大嘗祭とは、新天皇の即位の年に行われる新嘗祭のことです。大正天皇即位の礼は、大正4年11月10日に行われており、大嘗祭は11月14日・15日に行われています。

歳旦?と読めるのですが、歳旦は元旦の事みたいなので、はっきりしません。建立したという意味だと思われます。

 

背面

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碑文を解読します。

 

信徒総代〇〇順

丸山 久吉

佐藤 利平

平田 ?米吉

徳永 藤四郎

鶴川 光次郎

調 喜策

辛川 喜平

 

寄進された方々のお名前だと思われます。

この碑文は、②稲荷神社と同じ内容が彫られています。

碑文の中の鶴川光次郎さんの昭和11年新嘗祭献穀斎田のことについては、ブログ②稲荷神社で記載しています。

 

 

右側面
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お宮を作成した石師ですね。

富村大角

人造石師

鶴田 伊助

鶴田 磯次

 

 

 

神社庁への提出書類

太刀八幡宮の境内社 遷座の歴史で紹介しましたが、神社庁への提出書類には次のように記載されています。

 

「白峯神社 崇徳天皇

   大字大庭字角虫に祭祀ありしを大正15年12月11日許可を得て移轉合併す」

 

古くから角虫にあった白峯神社が、大嘗祭大正4年)の年に記念改築し、大正15年に太刀八幡宮遷座されたことになります。

 

現在の大庭地区の住所は、朝倉市大庭○○番地となってしまい、角虫や太刀八幡宮のある乙王丸という小字が表記されなくなりました。

慣例として、地元の方々は旧小字名で呼び合っていますが、角虫は三寺の一部になったようです。

この地図は、農業集落境界データから入手したものですが、角虫が記載されていました。

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日本最大の怨霊となった崇徳天皇による悪縁切りのご利益

 

白峯神社といえば、内藤宮司さんの本務社である美奈宜神社が有名です。

minagijinjya.com

 

色々、インターネットで調べたのですが、この美奈宜神社のホームページがもっとも簡潔にまとめあげられていると思います。

一部引用します。

日本最大の怨霊となった崇徳天皇による悪縁切りのご利益

 

ご祭神の崇徳天皇は、讃岐の地で一切の欲を断ち切っておこもりされたことから、白峯神社は断ち物のご利益があると信仰されてきました。
 また、戦によって心ならずも寵妃阿波内侍とお別れにならざるを得なかった崇徳天皇は、人々が御自身のような悲しい境遇にあわぬよう、幸せな男女のえにしを妨げる全ての悪縁を絶切って下さいます。

 

男女の縁をはじめ、病気、酒、煙草、賭事など、全ての悪縁を切るご利益がございます。

 

 

ウキペディア 崇徳天皇を見ると非常に長文で解説されています。

ウキペディアより転載

 

何故、崇徳天皇が日本最大の怨霊と言われるようになったのかを一口で簡単には述べられないことが分かります。

出生の噂、父との確執、弟との争い(保元の乱)、五部大乗経(『法華経』『華厳経』『涅槃経』『大集経』『大品般若経』)の写本に対する対応など怨霊伝説を作り上げる題材がたくさんあるという感じです。

 

特に、「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん(皇室の地位をおとしめ、民がそれにとって代わる)」と呪いをかけ、その後天皇の時代から、武家政権の時代が長きに渡って存続したのは、崇徳天皇の呪いのためと言われているとのことです。

 

その呪いが解け和解したのが、幕末孝明天皇が讃岐の崇徳天皇の御魂を京都に移すため白峯神宮を作ろうとして、その途上で天然痘(呪いの病と言われていたとのこと)で亡くなり、その意志を引き継いだ明治天皇白峯神宮を完成させ、御魂を移し、その後即位したことによると言われていますす。

 

ウキペディアでは、次のように記載されています。

明治天皇は慶応4年(1868年)8月18日に自らの即位の礼を執り行うに際して勅使を讃岐に遣わし、崇徳天皇の御霊を京都へ帰還させて白峯神宮を創建した。

昭和天皇崇徳天皇八百年祭に当たる昭和39年(1964年)に、香川県坂出市崇徳天皇陵に勅使を遣わして式年祭を執り行わせている。

昭和39年といえば、東京オリンピックの年です。その成功を祈って、昭和天皇式年祭を執り行われたと言われています。

 

NHKBSプレミアム『英雄たちの選択』

2018年3月に放映された英雄たちの選択という番組は、「崇徳院」をテーマに作られました。その番組の内容を「憂きまど」さんが、前編、中編、後編と非常に詳しく、ブログで紹介しています。

konamijin.hatenablog.com

ブログを読んでいるだけで、番組を見ているような臨場感があって、非常に参考になる内容ですし、番組そのものも非常に良い番組だったことが伺えます。

番組をユーチューブで検索しましたが、見つかりませんでした。

 

そのなかで、朝倉のことが出てきましたので、その部分を引用します。

番組は崇徳の流された地・香川県へ。郷土史家の方が、崇徳は「綾川」を京都になぞらえて「鴨川」と呼んだと教えてくれる。近くの駅名も「鴨川」である。また、山も京都の「東山」と呼んだという。これは知らなかった。郷土史家「ここへ来て京都のことばかり思っておったんでしょうかね」。

 続けて、崇徳が住居にした木丸殿。「粗末なつくりの小さな小屋でした」というナレーション。崇徳の住居が粗末な作りだったことは、同じく『保元物語』にも書かれている。都でかつて院に召し使われていた淡路守是成(法師となり、蓮如と名乗っていた)が讃岐へ赴き、院の御所を訪れた際に対面しようと差し上げた歌はこうだ。

 「アサクラヤ木ノマロ殿ニ入ナガラ君ニ知レデ帰ルカナシサ」

蓮如の歌の「アサクラヤ木ノマロ殿ニ」という部分について、日下氏は次のように指摘している。

 

 「百済救援に向かった斉明天皇が亡くなった筑前国朝倉の地(福岡県朝倉市。木の丸殿は、その地に造った丸木のままの粗末な宮殿をいい、ここは新院の居所をそれにたとえた」

 

 

和歌を愛した崇徳天皇

 

ウキペディアの中の歌という項目の中に、崇徳天皇が関わった歌集などが記載されています。

一部引用します。

小倉百人一首』から。

瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ崇徳院
意:滝から流れる川の水の流れ(瀬)は速いので、川の水が岩にぶつかたら二つにわかれるがまた合わさって一つの流れになるように、離れ離れになった私たちも、いつかまた逢いたいと思う。

 

 

 

やまとうた さんのホームページには、崇徳天皇の歌が30首納められています。

 

上記の百人一首の歌は、恋の歌として紹介していますが、次のような補足を記載しています。

【補記】第三句「滝川の」までは「われて」を導く序詞であるが、情念のこもった暗喩ともなっている。障害に打ち当たって破局に至る、といった悲恋の経過を読みとることが可能だが、恋歌と呼ぶにはいささか詞が激しすぎはしないか。若くして宮廷の内紛に翻弄され、政争の犧牲として譲位せざるを得なかった院の無念と、なお将来に賭ける執念をこの歌に読み取るのは、決して牽強付会とは言えまい。

牽強付会(けんきょうふかい)とは、道理に合わないことを自分の都合の良いように無理にこじつけること。(コトバンクより)

 

真偽のほどは定かではありませんが和歌をこよなく愛する天皇であったことは、間違いないと思います。

 

もう一首、恋の歌を紹介します。

恋ひ死なば鳥ともなりて君がすむ宿の梢にねぐらさだめむ(久安百首)

【通釈】恋い焦がれた果てに死んでしまったら、鳥にでもなって、あなたが住む家の梢にねぐらを定めよう。

【語釈】◇鳥ともなりて 下記「長恨歌」を踏まえた句。

【本説】白居易長恨歌」(→資料編
在天願作比翼鳥 在地願為連理枝(天に在りては 願はくは比翼ひよくの鳥とり 地に在りては 願はくは連理れんりの枝とらん)

この歌の本説で書かれている長恨歌(天に在りては 願はくは比翼ひよくの鳥とり 地に在りては 願はくは連理れんりの枝とらん)という歌は、学生時代に授業で学んだ歌で、友人の結婚式のスピーチで披露したことがあります。いつまでも仲むつまじい夫婦でありますようにと祝福したものでした。なつかしい思い出が蘇りました。

 

 

落語の演題「崇徳院

 

崇徳院でインターネット検索をしていると、落語家の方々の「崇徳院」という演題のユーチューブが見つかりました。日本最大の怨霊というテーマのユーチューブが多い中で、落語はどういう話なのかと見てみると、百人一首の歌「瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ」を題材に、男女の恋を面白く扱った内容でした。

崇徳天皇も、自分の作った歌が、落語として親しまれているのを見て、さぞお喜びと思います。

笑福亭 松喬 (しょうふくてい しょきょう)」さんの落語を転載します。


www.youtube.com

 

人智で縁を切るなかれ

 

一般社団法人いのちを守る親の会という素晴らしい活動をしている組織があります。

inochi-mamoru.org

日本救命センターとして人工妊娠中絶により失われている赤ちゃんのいのちを守ることを目的とし出産に悩む妊婦へのサポートを通じて赤ちゃんのいのちを守る活動を続けています

理事長は大熊良樹さんという方で、禅僧であり、京都光明地蔵院(京都地蔵文化研究所)の主管でもあり、神社にも10年程修行した経験を持っておられます。

ユーチューブに、喜びが湧く心理学、生き方に関する講話としていのちが喜ぶ話を公開していますが、その中に第66話「人智で縁を切るなかれ」という講話があります。


www.youtube.com

 

私は、この講和を聞いて、縁というものの奥深さを考えさせられました。

よく、「袖振り合うも多生の縁」といいますね。故事ことわざ辞典では、次のように記載されています。

知らない人とたまたま道で袖が触れ合うようなちょっとしたことも、前世からの深い因縁であるということ。 解説 「多生」とは、六道を輪廻して何度も生まれ変わるという意味で、「多生の縁」は、前世で結ばれた因縁のこと。 人との縁はすべて単なる偶然ではなく、深い因縁によって起こるものだから、どんな出会いも大切にしなければならないという仏教的な教えに由来する。

その縁を、安易に「あいつとは、もう二度と会いたくない。」とかいって、怒りで縁を切るのではなく、その縁に感謝をして、悪縁であれば神様仏様に縁切りをお願いすることが大切なのですね。

 

四国全体の守り神「崇徳さん」

ウキペディアの怨霊の後半に次のように記載されています。

その一方で後世には、四国全体の守り神であるという伝説も現われるようになる。承久の乱土佐国に流された土御門上皇後白河院の曾孫)が途中で崇徳天皇の御陵の近くを通った際にその霊を慰めるために琵琶を弾いたところ、夢に崇徳天皇が現われて上皇と都に残してきた家族の守護を約束した。その後、上皇の遺児であった後嵯峨天皇鎌倉幕府の推挙により皇位に就いたとされている。また、室町幕府管領であった細川頼之が四国の守護となった際に崇徳天皇の菩提を弔ってから四国平定に乗り出して成功して以後、細川氏代々の守護神として崇敬されたと言われている

 

香川県坂出市のホームページには、文化財・史蹟の紹介で、「崇徳上皇」が取り上げられています。「讃岐での生活」や「ゆかりの地」を歌をまじえながら紹介しています。

以前は観光協会崇徳院ツアーを開催していたこともあり、そのツアーに参加した人が、「ツアーで坂出に訪れた時、坂出の方たちは、「崇徳さん」と、親しみを込めて崇徳院のことを呼んでいました。昔から地元の方たちは崇徳院のことをこう呼んでいるそうです。」とブログで書かれていました。

 

そして、先に紹介したNHKBSプレミアムの番組の中でも、

「(配所だった場所の)町の皆さんは今も崇徳さんと呼ぶ。おいたわしい、かわいそうという気持ちで霊を慰めるという気持ちが強いということを感じた。」

と紹介されていたそうですし、番組に参加していた郷土史家の方も、「崇徳さん」とおっしゃっていたそうです。

 

都で怨霊と恐れられていた崇徳天皇は、四国では守り神として崇敬され、崇徳さんとして地元では慕われているのですね。

 

親しみを込めて、参拝します

崇徳天皇を調べ始めたときは、「日本最大の怨霊」という内容が多かったのですが、調べが進むうちに、和歌を愛し、地域の人を愛したやさしいお人柄が偲ばれるようになりました。

 

「悪縁切りの神様、おはようございます。」👏

 

親しみを込めて、毎朝ご挨拶しています。