祭神 菅原道真公
正面写真
梅の文様が、天神様を表しています。
左側面写真
背面写真
徳次 塗器 氏子中
大正 10年4月 合同?
博多出栄?町
石工 高瀬 ?喜
神社庁への提出書類
太刀八幡宮の境内社 遷座の歴史で紹介しましたが、神社庁への提出書類には次のように記載されています。
天満神社 菅原神
大字大庭字平田に祭祀ありしを大正15年12月11日許可を得て移轉合併す
あさくら町の歴史ものがたりの太刀八幡宮の項に、地名のことで次のような記述があります。
太刀八幡宮の南の方に徳次(とくつぎ)・塗器(ぬるげ)という集落の地名がありますが、この名前のおこりは神功皇后がこの地にこられたときにできたといわれています。
徳次は「磨剣(とくつるぎ)」であって、剣(つるぎ)などを磨(と)がれたところで、また、塗器(ぬるげ)は剣や槍(やり)などに漆などを塗らせたところとつたえられています。
図は神功皇后伝承を歩く 綾杉るな から転載
ホームページの一部を引用します。
太宰府天満宮は、
菅原道真 公の御墓所 の上にご社殿を造営し、その御神霊 を永久にお祀りしている神社です。 「学問・至誠 ・厄除けの神様」として、日本全国はもとより広く世のご崇敬を集め、年間に約1000万人の参拝者が訪れています。
誰もが学問の神様として、一度はお詣りに訪れたことがあるのではないでしょうか。
このホームページを見ると道真公の生涯が、神童と称された幼少期・文武で名を馳せた青年期・出世から左遷へ・失意の中でも誠を尽くされた晩年期など非常に良くまとまって記載されています。
私は、若い頃(27歳から4年程)大宰府の榎寺というところに住んでいたこともあり、よく天満宮には足を運んでいました。
菅原道真公が左遷で流されて住んでいたところが、榎社となって残っており、毎日その横を通って会社に通勤していました。
そこには、道真公にお仕えしてた浄妙尼さんの祠があって、よくお詣りしていたことを思い出します。
大宰府魅力発見塾さんのブログ 「太宰府 榎社 浄妙院 菅原道真公が過ごした場所」には次のような記述があります。
苦境を見かねた浄妙尼は道真公に梅の枝に餅を挟んで格子越しに差し入れをしたといわれています。この故事にならい太宰府天満宮参道の梅が枝餅がつくられるようになったといわれています。
こんど梅ヶ枝餅を食べる時は、道真公と浄妙尼さんの事を思いながら、感謝していただきます。
怨霊となった道真公
ウキペディア大宰府天満宮を見ると,歴史という項目の中に再三「道真の祟り」という言葉で出てきます。一部引用します。
一方都では疫病や異常気象など不吉な事が続き、さらに6年後の延喜9年(909年)には藤原時平が39歳の壮年で死去した。これらのできごとを「道真の祟り」と恐れてその御霊を鎮めるために、醍醐天皇の勅を奉じた左大臣藤原仲平が大宰府に下向、道真の墓所の上に社殿を造営し、延喜19年(919年)に竣工したが、これが安楽寺天満宮の創祀である。
それでも「道真の祟り」は収まらず、延喜23年(923年)には皇太子保明親王が21歳で死去。狼狽した朝廷は、延長と改元したうえで、4月に道真の官位を生前の右大臣の官職に復し、正二位の位階を追贈した。しかしそれでも「祟り」が沈静化することはなく、保明の遺児慶頼王が代わって皇太子となったものの、延長3年(925年)には慶頼もわずか5歳で死去した。そしてついに延長8年(930年)6月、醍醐天皇臨席のもとで会議が開かれていた、まさにその瞬間、貴族が居ならぶ清涼殿に落雷があり、死傷者が出る事態となった(清涼殿落雷事件)。天皇は助かったが、このときの精神的な衝撃がもとで床に伏せ、9月には皇太子寛明親王(朱雀天皇)に譲位し、直後に死去するに至った。承平元年(931年)には道真を側近中の側近として登用しながら、醍醐と時平に機先を制せられその失脚を防げなかった宇多法皇も死去している。わずか30年ほどの間に道真「謀反」にかかわったとされた天皇1人・皇太子2人・右大臣1名以下の高級貴族が死亡したことになる。猛威を振るう「怨霊」は鎮まらず、道真には太政大臣追贈などの慰撫の措置が行われ、道真への御霊信仰は頂点に達した。ついに正暦元年(990年)頃からは本来は天皇・皇族をまつる神社の社号である「天満宮」も併用されるに至った。
太宰府天満宮の公式ホームページには、怨霊や祟りといった記述が見当たりません。しかし、道真公の祟りを朝廷が恐れ、そして、神として祀ったからこそ、今の天満宮があるということなのでしょう。
菅原道真 日本文化の生みの親
まほろばチャンネルさんが、素晴らしい動画を作成しています。
菅原道真の一生をまとめてみました。菅原家は、低い貴族であったにもかかわらず、道真公は、北野天満宮、太宰府天満宮に「学問の神様」として祀られている。これを不思議に思い調べてみました。
道真公の一生を非常に分かりやすくまとめているとともに、日本文化の生みの親となる遣唐使の廃止など本当に勉強になりました。ありがとうございます。
農耕の神様
太刀八幡宮の境内社 遷座の歴史の中でも紹介した、資料「朝倉の神々」の集落の神々地区別一覧を見ると、天満宮・天神社は、119社中25社で最も多い数になります。
表とは別に、「天満宮(天神様)76社(集落の神も含む)」とあり、朝倉地区に非常多く祀られていることが分かります。
私が住んでいる地区にも、天神社があります。
朝倉町史には、天満宮・天神社は「農耕守護神と祀られた」と記載されています
美奈宜神社(内藤宮司さんの本務社)のホームページの中に、12月のお便りとして地域の天神様という記事が載っています。
一部引用します。
ご祭神の天神様は雨を降らす雷を農耕の神様として古代より信仰されていました。雷は雨に田んぼと書きます。雷は字の由来の通り、雨を降らし、豊かな米作りができる象徴です。雷がもたらす自然の恵みを天神様として古来より信仰し、令和の現在でも変わらず感謝し続けているのです。
天神様が、古代から農耕の神として、この朝倉の地にも祀られていることが分かりました。
こうして学ぶと学問の神様というのは、道真公のご神徳の一側面であり、農耕の神、至誠の神、日本文化の神など多くのご神徳があることが分かります。
今日まで「学問の神様 おはようございます」と挨拶していましたが、明日から「学問の神様・農耕の神様 おはようございます」とご挨拶させていただきます。