案内看板では.『正面の「子持鳥居」は、他に例のない珍しい鳥居である。』と書かれています。
あさくら町の歴史ものがたりが、朝倉町教育委員会から平成元年十月一日に発行されています。そこには、『神社の南側、石段を下ったところに、堀川の恩人と仰(あお)がれた古賀百工が、穀物のみのりを祈願して寄進(神社や寺に財産・おかね・品物などを寄付する)した、たいへん珍しい「子持鳥居」がたっています。』と書かれています。
私は、地元の人間ではないので、百工さんのことはまったく知りませんでしたが、子供が小学校の発表会で百工さんの劇をして、この地域の水田に水があるのは、百工さんの尽力無くしてはあり得ないことなのだと知りました。
百工さんのことは、朝倉市のホームページに詳しく紹介されています。
柱の日付けは、明和ニ乙酉年三月吉祥日 西暦1765年です。
左の柱の下の方には、
上座部大庭村 古賀藤四郎 産子中
そして右の柱の下には、良く読み取れないのですが次のように彫られています。
上座部大庭村 古賀十作義重
田中喜兵次
星野源次郎
同 武右○
同 武助
同 助次郎
田中弥右安兵衛 産子中」と彫られいます。
百工さんの名前は、古賀十作義重です。朝倉町の歴史ものがたりには、「上座部大庭村(現在の朝倉町上野原の徳次)の庄屋の家に生まれ、父のあとをついで庄屋になりました。」とあります。この徳次という地名についても、「徳次は(磨剣 とくつるぎ)であって剣などを磨(と)がれたところで」あり、神功皇后がこの地にこられたときにできたといわれています。
ホームページで検索していると古賀氏庄屋一覧という家系図をみることができ、古賀藤四郎という方は、上大庭の庄屋さんで、百工さんは下大庭の庄屋になります。
産子中とは、同じ産土神(うぶすなかみ)をまつる人。
田中さん、星野さんについては、今のところ情報がないのですが、きっと今後の紐解きのなかで知ることができると期待しています。
とにかくこの子持ち鳥居は、百工さんを始めとした庄屋さん達が寄進しているということでしょう。
子持鳥居が寄進された年とは
この写真は、山田堰にある百工さんの偉業説明している年表です。
左の特記に古賀百工(義重・十作・百助) ・堀川改修・新堀川新設・山田堰大改修とあり、年表と組み合わせてみると
堀川改修・新堀川新設 西暦1764年 明和1年 完成
山田堰大改修 西暦1790年 寛政2年 完成
子持鳥居が寄進されたのは、百工さんの偉業のひとつ新堀川が新設された年の翌年になります。
百工さんは、生まれた土地も神功皇后ゆかりの地であったことから、太刀八幡宮への信仰心も非常に深かったのだと思います。そして新堀川の完成という大偉業を成しえたのは、神々の応援なくして出来ることではないと考えていたとおもいます。それで、他の庄屋の方々と一緒になって、この子持鳥居を寄進されたのでしょうね。きっと毎朝太刀八幡宮にお詣りしてから工事に向かっていったと思います。
百工さーん 今年も田んぼに水が入りましたよー ありがとうございます。
2022年6月29日 撮影