氏神様は太刀八幡宮

1200年の歴史を紐ときます

太刀八幡宮の縁起 巻物の解説

太刀八幡宮には、筑前国上座部大庭村 太刀八幡宮 縁起巻物 上下2巻」があります。

 

本物は、内藤宮司さんが保管しており、複写版は総代会長が代々引き継いでいます。

 

丁度一年前、総代会長にお願いして、公民館で巻物を拝見させていただきました。

 

複写版とはいえ、立派に装丁された巻物2巻です。

 

下の写真は、その上巻の最初の部分です。

 

上巻は約9m、下巻は約6m、合わせて15mの非常に長い巻物です。

公民館の畳の間で見たから全貌が分かりましたが、個人の家では広げることは出来ません。

 

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非常に美しい文字で書かれていますね。

少し引用してみます。

 

大日本は天地ひらけて後 天祖始めて基をひらき

日神の御孫瓊々杵尊(ににぎのみこと)初めて皇統を

なれ給ひしあり 世々の帝(みかど)皆皇神の御末にて

・・・

 

太刀八幡宮の縁起の始まりに、天孫降臨の記述があるのは驚きです。

何が書かれているのか、興味があります。

しかし今の私には、この巻物を解読する読解力がありません。

 

太刀八幡宮縁起の解説

 

総代会長引継資料の中に標題の資料がありました。

 

作成したのは筑後川流域の絵馬」をまとめられた鶴田多々穂さんです。

 

以前のブログで鶴田多々穂のことを「絵馬を調査した功労者」として紹介しています。

goodlightsato.com

 

 

この巻物を解読するには大変な努力があったと思います。

 

鶴田多々穂さんに感謝しながら、その解説の全文を引用して紹介させていただきます。

一部私では読めない文字もあるので、不正確な箇所もありますが、ご容赦ください。

又、一部文字の解釈をカッコ書きしています。

 

太刀八幡宮 縁起の解説

 

太刀八幡宮縁起の原本は、江戸時代の正徳五年(1715年)入地村〇禅〇の古賀仁右衛門高重という人が撰文(文章を作ること)し書いたもので、其の後巻物が古びたため補修したが当時の庄屋が自宅に保管していたところ火災のため焼失した。再び寛政元年(1789年)副本にもとづいて廣瀬適(かない)という人が浄書した。

これが現在伝えられている縁起上下の二巻である。

 

 

 

上巻のあらすじ

 

仲哀天皇神功皇后・應神天皇の事跡(出来事)が誌されている。

 

仲哀天皇

 

日本武尊の子であり 成務天皇十四年二月 越前國敦賀から紀伊國に巡幸の時、日向國に熊襲が叛乱(反乱)した事を聞き、同年六月長門國豊浦宮に至り、皇后(神功)を呼び寄せ、仲哀天皇八年春正月四日 神功皇后を伴って筑紫に行幸 同一月二十二日儺縣より糧日宮(かしいぐう)に至る。

協議の結果熊襲征伐を中止したが翌年二月六日、年五十二才で糧日宮で崩御された。

棺を掛けて置いた椎の木が霊香を放ったので、其所を香椎と呼ぶことになった。

 

神功皇后

 

仲哀天皇の遺志をつぎ、吉備臣祖鴨別に命じて熊襲を征伐させたが、次いで秋月古処山の麓、荷田村というところに羽白熊鷲が叛(そむ)いた。

皇后は怡土郡雷山の層増岐野に至り、軍勢を催ほしここから再び荷田村の羽白熊鷲を討った。

その時「熊鷲を取り得て我が心安し」と云われた。そこを「夜須」という。

 

三月二十五日山門郡の土蜘蛛田油津媛を討ち亡ぼし大庭村上野原にて軍士を練り兵器をとがしめ、皇后みづから帯びる太刀を捧げて天神地祇に祈った。

 

火前國松浦縣に至り再び筑前國に帰り三韓征伐を計画す。身重の体ながら自ら大軍を率い、新羅に渡り程なく百済・高麗をも降伏させた。

皇后は対馬壱岐を経、筑前志賀島姪浜を過ぎて香椎に帰着した。

やがて臨月となり十二月四日宇美で男子を出産し、誉田(ほんだ)皇子と名づけた。のち八幡大神とも應神天皇とも云う。其の後皇后は皇子を連れて長門國豊浦宮に遷し、間もなく大和國稚櫻宮に至る。六十九年間政事をとり、百歳の高齢で崩御された。

 

應神天皇

 

誉田皇子即位す。

三韓より学者・縫工業多数を招き学校の制度や衣服裁縫の業を奨励し世を治める。

八幡大神と崇められ百十一歳で崩御さる。

 

下巻のあらすじ

 

応神天皇の事跡が主体に誌され、末尾に神社縁起の由来が書かれている。

 

嵯峨天皇弘仁十四年(八二三年)神告により大庭村のこの地に八幡大神応神天皇)を祭る。宇佐の例により神功皇后、比賣御神も相殿に祭った。

 

後円融院(北朝)の応安七年(一三七四年) 時の征夷大将軍足利義満は大軍を率(ひき)い、肥後國菊池武政を討つため下向したとき、先手の畠山義深 戦場に向かうにあたり太刀八幡宮に詣り、自ら太刀一振・鏑矢を捧げ戦勝祈願をなし神助により大いに敵を敗った。

 

天正十五年(一五八七年)豊臣秀吉九州征伐の時、社領悉く没収され祭祀などおとろえてしまった。

 

そもそもこの宮の八幡大神を軍神或いは弓箭(きゅうせん・弓矢をとる武士)と云うのは神功皇后の胎内にあった頃からの武徳によるものである。

神功皇后八幡大神とは同根一体の神である。

応神天皇は衣服裁縫の事をひろめ、文教の道を興し國を豊かに治めた。

日本武尊仲哀天皇神功皇后応神天皇仁徳天皇等代々文武の大徳あり。これは唐の古人の周の大王、文王、武王などの徳にもおとらないものである。

 

この様な神であり誠をもって敬嵩すればよろずのさわりもなく、家栄へ、寿命長く、子孫も繁栄すること天地と共に限りないものである。

 

正徳五年(一七一五年)   古賀高重 謹書

 

付記

 

日代・出張野・塗器瀬・磨劔・御帳張・討熊襲野等の名、皆神功皇后の御旧跡也。

 

日代(ひしろ)とは大和國日代の宮の名を行在所に移し給へるなり。

出張野とは軍勢を備へさせたまふ所なり

塗器(ぬるげ)野瀬とは兵器を塗りかざらしめ給ふ所なり

磨劔(とくつぎ)とは兵刃をとぎみがかせ給ふ所なり

御帳張(三井原)とはご陣営の所なり

熊襲野(うしろぞの)とは熊襲を討ち平げたまふ時凱歌を唱へさせられし所也

 

加藤一純の付記

 

 

太刀八幡宮は由緒深い社であるが、年久しくなり或いは いにしえの戦乱により社記文書は無くなってしまった。

大庭村の農長古賀重次、古賀重敬、祠官上原實次は入地村の古賀高重に依頼し縁起二巻を作った

古賀高重は歴史に明るくその記述は正しいものである。

 

正徳五年(一七一五年)  貝原 常春

 

 

或る時藩命により当地方巡行のとき縁起を見たが年代古く損壊が甚だしかったので之を補修し時の庄屋に渡したが、自宅に保管中火災のため焼失した。副本があったので廣瀬適に浄書を依頼し元通り上下二巻を作った。

 

寛政元年(一七八九年)  加藤 一純

 

 

 

昭和五十三年(一九七八年)正月  鶴田多々穂 誌之(之を誌す)

 

 

太刀八幡宮の縁起が簡潔にまとまった良い資料ですよね。

巻物すべてに目を通し、判読し、それをあらすじとしてまとめあげた鶴田多々穂の尽力に改めて感謝します。🙏

 

そして、いつかこの巻物を全文読める時が来ることを、楽しみにしています。

 

誰か読める人、いないかな?

 

😊