③志賀神社
祭神 少童神(わたつみのかみ)
正面写真
左側面写真
明治十年 丁丑(ひのとうし) 五月吉日
(1877年)
背面写真
右側面写真
碑文には寄進者の名前が彫られていますので、まとめて記載します。読み取りにくい字がありますので、間違っていたらごめんなさい。🙇
左側面
安部 藤五郎
荻 利吉
鬼塚 吉三
浦 惣七
諸岡 源七
背面
同 定作 (諸岡さんだと思われます)
同 吉平
平田 平九郎
矢野 嘉作
右側面
平田 喜六
田中 再平
調 円吾
矢野 角平
調 円九
丸山 惣三
太刀八幡宮の境内社 遷座の歴史で記載しましたが、志賀神社は、福岡県神社史には記載がありますが、神社庁への提出書類には、記載がありません。何か意図があるのかな?
祭神 少童神(わたつみのかみ)
ウイキペディア ワタツミから引用します。
概要
『古事記』は綿津見神(わたつみのかみ)、大綿津見神(おおわたつみのかみ)、『日本書紀』は少童命(わたつみのみこと)、海神(わたつみ、わたのかみ)、海神豊玉彦(わたつみとよたまひこ)などの表記で書かれる。
「ワタ」は海の古語、「ツ」は「の」を表す上代語の格助詞、「ミ」は神霊の意であるので、「ワタツミ」は「海の神霊」という意味になる[1]。
一柱の神様に、色々な字があてられていることが分かります。
福岡県神社史での記述が、少童神なので、標題はそうしています。
海の心霊という言霊のとおり、海の神様です。その海の神様が、この内陸の朝倉の地に祀られているのは、何故でしょうか?
伊邪那岐命が黄泉から帰って禊をした時に、ソコツワタツミ(底津綿津見神、底津少童命)、ナカツワタツミ(中津綿津見神、中津少童命)、ウワツワタツミ(上津綿津見神、表津少童命)の三神が生まれ、この三神を総称して綿津見三神と呼んでいる。
この系統図を見ると、伊邪那岐命の禊ぎでたくさんの神々が生れたことが分かります。
志賀海神社(しかうみじんじゃ)
先日、志賀海神社に参拝してきました。志賀海神社は、全国の綿津見神社、海神社の総本社ということです。
御祭神
太刀八幡宮の祭神である神功皇后・応神天皇が祀られていました。非常に強いつながりのあることが分かります。
頂いたパンフレットの由緒から一部引用します。
神代より「海神の総本社」「龍の都」と称えられ、玄界灘に臨む海上交通の要衝である博多湾の総鎮守として志賀島に鎮座し、厚く信仰されている志賀海神社は、伊邪那岐命の禊祓によって御出生された綿津見三神を奉祭している。
御祭神「綿津見三神」は海の底、中、表を守り給う海の主宰神として、海上交通の安全をはじめ塩・魚介類といった海産物の御恵をもたらす神と篤く信仰され、禊祓の神として不浄や災厄を祓い清め、さらに水と塩(潮)を支配し、潮の満干によって人の生死をも司るとされることから人の命や生活の吉凶をも左右するとされている。
創建は明らかではないが、往古より勝馬に表津宮・仲津宮・沖津宮の三社で奉祭されており、凡そ1800年前、神功皇后の三韓出兵に際し舟師を率い御船を導き守り給うた安曇磯良丸をして表津宮を当地の勝山の麓に遷座したと伝えられている。
神功皇后の三韓出兵の安曇磯良というと、以前のブログ「太刀八幡宮の絵馬紹介 神功皇后三韓征伐図」の中でも紹介しました。
再度、その部分を紹介します。
安曇野磯良については、『大絵馬ものがたり 全5巻 須藤功著 ㈳農山漁村文化協会発行』で解説していますので、引用します。
神功皇后は三韓出兵に際し、天地の神々に七日七夜にわたり戦勝を祈り、壇之浦の海神に海路の平安を願いました。満願の日に住吉明神のお告げで安曇野磯良という海士を召され、海神より干珠満珠(かんじゅまんじゅ)を借りることができました。干珠は潮を思いのままに干し、満珠は思いのままに潮を満たすことが出来る宝珠です。
大絵馬ものがたり 第5巻 p51
大絵馬ものがたりでは、住吉明神となっていますね。
ウキペディア 志賀海神社では、
古代の九州北部では、海人を司る阿曇氏(安曇氏)が海上を支配したとされる。志賀島は海上交通の要衝であり、その志賀島と海の中道を含めた一帯が阿曇氏の本拠地であったとされており、志賀海神社は阿曇氏の中心地であったと考えられている。
とあります。
綿津見三神は、安曇氏の祖神または奉斎神とされていることからも、神功皇后との関わりが深いのでしょう。
御神徳
パンフレットには、次のように記載されています。
海上守護・交通安全はもとより諸厄を祓い清め、再生回帰の神として災厄祓除、病気平癒、健康長寿、家内安全、又、その昔松浦より連れ去られた子供たちを助けられたことから子供守護のご神徳があるとされ厚く信仰されている。
志賀海神社のホームページには、神功皇后伝説が記載されていますので、引用します。
神功皇后は三韓出兵に際して、志賀島の阿曇磯良を召されました。そして龍神より干珠満珠を授かり、無事に三韓を平定して帰還されました。
志賀海神社にはその様子を描いた神功皇后出兵絵巻が残されています。志賀島には神功皇后伝説にちなんだ地名が多く残っています。
阿曇磯良を海国から召し出そうと7日7晩神楽を奏したところが舞能ヶ浜、志賀島にお着きになり願いがかなったと仰せられたところが叶ヶ浜、皇后が馬から下りられたところが下馬ヶ浜、志賀大明神に奉賽した際に馬が喜びいなないたので勝馬となったといわれています。 また志賀海神社裏手の山を勝山と称され、そこに櫂を奉られました。
ホームページには、神功皇后出兵絵巻だと思いますが、スクロールで見ることが出来ます。
このように、志賀海神社そして、志賀島は、神功皇后と深いつながりがあることが分かりました。
明治時代になって太刀八幡宮の氏子の方々もこのことを知り、是非太刀八幡宮に境内社を奉祀しようと話し合って、寄進されたのでしょうか。
国歌「君が代」になった山誉祭 神楽歌
ウイキペディア 志賀海神社を読んでいて興味深いのは、山誉祭で歌われる神楽の歌が紹介されていますので、引用します。
「 | 君が代<だい>は 千代に八千代に さざれいしの いわおとなりてこけのむすまで あれはや あれこそは 我君のみふねかや うつろうがせ身骸<みがい>に命<いのち> 千歳<せんざい>という 花こそ 咲いたる 沖の御津<おんづ>の汐早にはえたらむ釣尾<つるお>にくわざらむ 鯛は沖のむれんだいほや 志賀の浜 長きを見れば 幾世経らなむ 香椎路に向いたるあの吹上の浜 千代に八千代まで 今宵夜半につき給う 御船こそ たが御船ありけるよ あれはや あれこそは 阿曇の君のめし給う 御船になりけるよ いるかよ いるか 汐早のいるか 磯良<いそら>が崎に 鯛釣るおきな |
」 |
国歌である君が代に酷似しているが、先々代の香椎宮・宮司 木下祝夫の父である木下美重によれば、この山誉祭神楽歌が旅芸人によって広められ、古今和歌集に収められ、のちに薩摩琵琶の『蓬莱山』にある「君が代」になり国歌になったことが香椎宮に所蔵されていた筑紫の神楽記録から判明しているという。
国歌「君が代」の始まりが、この志賀海神社の神楽からだったのかもしれないというのは、初耳でした。
ユーチューブを検索すると、神楽の映像がありました。福岡黄金ロードさんのユーチューブを引用します。
志賀海神社 山誉祭
安曇磯良や住吉三神を祀った今宮神社、そして神功皇后がこの祭りに関わっていたことも紹介されていて、非常に参考になる内容でした。
境内社 志賀神社のことを知るために、妻とちょっとした小旅行を楽しみました。
そして、「水と塩(潮)」を支配している神様の海岸で、塩を作る海水を頂いてきました。
少童神 海の神様、塩の神様 ありがとうございます