①太刀神社
祭神 息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)=神功皇后(じんぐうこうごう)
太刀塚は、境内社だったんですね。(神社庁提出資料の境内社 一番に記載)
太刀塚については、以前ブログで少し紹介しています。
太刀八幡宮の祭神は、宗像三女神(田心姫命・市杵島姫命・湍津姫命) 応神天皇 神功皇后であり、本殿に祀られています。
その本殿に祀られている神功皇后が、境内社である太刀神社の祭神として祀られているのも不思議な感じがしますが、太刀八幡宮にとってこの太刀神社がルーツになる重要な場所なので、境内社として扱われているのでしょう。
神社名の起こりとなった太刀塚
以前ブログで紹介した小冊子「太刀八幡宮」に、太刀塚の記載がありますので一部引用します。
二、太刀八幡宮の発祥
神功皇后は気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)とも大帯姫尊(おおたらしひめのみこと)とも云い、人皇十四代仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の妃(きさき)であり、応神天皇(おうじんてんのう)の母である。
仲哀天皇の御代、日向国(ひゅうがのくに)の熊襲(くまそ)を討つために、天皇とともに九州に来たが、天皇は志半ばにして筑紫の香椎(かしい)の宮で崩(ほう)ぜられた。
天皇の意志を受けた神功皇后は、直ちに熊襲を討ち、秋月古処山(こしょさん)の麓(ふもと)の地方で騒いでいた羽白熊鷲(はじろくまわし)という賊(ぞく)を平らげ、つづいて山門(やまと)土蜘蛛田油津姫(つちぐもたぶらつひめ)という強敵を滅ぼした。その途次(とじ)皇后は、大庭村上野原の廣野にて軍兵を練り、兵器をとがしめ、みづから帯びていた太刀を奉納して、天神地祇(てんじんちぎ)に国敵降伏の戦勝を祈願し、ここに大石を畳(たた)み、この太刀を納め塚(つか)を築き、太刀塚として祭った。
三、神社名の起こりとなった太刀塚
このほか或る書によれば
「天皇御太刀と申すは、神代より伝えさせ給うものにして、凡人の手にふれる事は恐れある故に、亀井ヶ原という所に、口八尺四方、深さ五丈掘らせ給い、内に金(かね)の棹(さお)を渡し、金(かね)のくさりにてつなぎ給い、上に三丈の石をたたみて封じ給う」とも書かれている。
この記述をもとに、どのように埋設されているのか想像図を描いてみました。
今、地上にある太刀塚の囲いの土台部が、2.4m四方です。この広さで、地下15mまで掘り下げて、神功皇后の御太刀を奉納したんですね。
神功皇后が納めた御太刀とは?
インターネットで、古い太刀を検索していると、平戸城に展示している重要文化財が目にとまりました。
長崎県のホームページに説明文と写真が載っていますので、引用します。
重要文化財(国指定) 鐶頭大刀無銘拵付一口附大刀図一通
かんとうのたちむめいこしらえつきひとくちつけたりたちのずいっつう
柄頭を環状にまるめた鉄製の直刀。長さ93㎝。水牛の角製の鍔をつけ、竹を馬革で包んだ鞘(さや)を持つ。刀身は杢(もく)目(め)肌(はだ)が美しい。刃紋は小乱れで錵(にえ)がよく出来ている。亀岡神社の社伝によると、神功皇后の朝鮮半島出兵に従軍した七郎氏広の佩刀と伝えられ、同類が平戸島の志々伎神社、小値賀町の神島(こうじま)神社に伝わっていたが、現存するのは本資料のみである。
とありますので、同じ時代の太刀でしょう。
そして、神功皇后の太刀は、「神代より伝えさせ給うものにして」と書かれていますので、美しく荘厳な太刀だったと想像します。
2017年のブログですが、エンタメ特化型情報メディア スパイスの記事で、
春日大社御創建1250年記念展『伝説の名刀たち』開催中
と題して国宝級の名刀の紹介があります。一部引用します。
国宝「金地螺鈿毛抜形太刀(きんじらでんけぬきがたたち)」平安時代
金無垢の金具、超絶技巧の装飾、奇抜なデザイン。猫好きで知られる藤原頼長の太刀と想定される。拵(こしらえ)の柄に大きな透かしが空いており、それが古代の毛抜きに似ていることから「毛抜形太刀」といわれる。
この太刀は金具の部分が金メッキではなく、純度の高い純金で作られているとのことです。
奈良テレビのニュース番組でこの太刀のことを取り上げていて、とても参考になります。NHKでは、現代の名匠たちが、この太刀の復元品を作成する状況をビデオで販売しています。
こうして想像するに、太刀塚に奉納された神功皇后の太刀は、純金で黄金に光っていたのでしょうか?
太刀と刀の違い
刀剣ワールドというホームページに、太刀と刀の違いが詳しく書かれています。
一部引用します。
最も簡単に太刀と打刀を見分ける方法は、その携帯の仕方です。
少しずつ太刀のイメージが膨らんできます。
絵馬の神功皇后が手にしている太刀は、美しい鳥の羽根?を飾った鞘に納まっているように見えます。
神功皇后は、何故太刀を奉納したのか?
先に述べた小冊子に、「天神地祇(てんじんちぎ)に国敵降伏の戦勝を祈願し、」とあります。天神地祇とは、天の神、地の神すべての神のことです。
また、「とりわけ、神功皇后は宗像三女神を深く斎き祭られた」という記述もあります。
先日、境内社の件で内藤宮司さんに色々教えていただいた時に、「この本を読むと良いよ」と、綾杉るなさんの「神功皇后伝承を歩く」を紹介して頂きました。この本を持って、美奈宜神社に参拝される方も多いとのことです。
彩杉るなさんは、下関を含んだ福岡県の神功皇后ゆかりの神社を自らの足で100社まわり、美奈宜神社では内藤宮司さんとも対談をしています。もちろん太刀八幡宮にも参拝していますし、朝倉市では11の神社を巡って本の中で紹介しています。
本の「はじめに」を紹介します。
福岡県の神社を参拝すると、神功皇后の伝承が大変多い事に気づかされます。その存在は千八百年もの間、語り継がれ祈られて、戦いを勝利に導く女神となり、出産する女性を守護する女神となっていました。
その太刀八幡宮の記述の中で、何故神功皇后がこの土地に太刀を奉納したのかについて、次のような文章がありますので、引用します。
三女神は宇佐宮から勧請したとなっているが、当宮はもともと三女神を祀っていたのではないか。何故なら三女神は太刀から生まれた神々だからだ。その縁で皇后は太刀を奉納したのではないだろうか。
三女神の誕生について、宗像神社のホームページの由緒には
と書かれています。
彩杉るなさんのこの記述も、100の神社を巡り神功皇后伝承をまとめ上げた方の意見として、とても興味深いものがあります。
また、本のなかでも紹介していますが、
ブログ「ひもろぎ逍遙」では、各神社の訪問日記を綴っていますので合わせてご覧ください。本とブログがリンクした新しい形の神社ガイドブックとなればと思います。
としして太刀八幡の紹介もしています。
タイムマシンが開発される時を待って
1800年前、この場所で神功皇后が太刀を奉納する姿が,目に浮かんできます。
実際どのような太刀を、どのように奉納したのかは、将来の新技術の開発を待つことにします。映画のように見ることが出来る日が来るかもしれません。その時が楽しみです。