氏神様は太刀八幡宮

1200年の歴史を紐ときます

太刀八幡宮の絵馬の紹介 その1 神功皇后三韓征伐図

拝殿正面からの写真です。

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入口のガラス越しに絵馬が奉納されているのが分かります。

この拝殿は、野ざらしではないので、参拝者の方々はガラス越しに覗かないと見えませんが、絵馬の保存ということに関していえば、功を奏しています。

これから数回に分けて、絵馬の紹介をしていきます。

 

絵馬を調査した功労者

先日、甘木歴史資料館に次の資料を閲覧してきました。

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                            甘木歴史資料館 所蔵

昭和48年冬にまとめられた報告書です。朝倉町内30か所の神社に足を運び、451枚の絵馬を調べ、その内年代の判明したものが306枚あったと書かれています。

この資料を作成した鶴田多々穂(たたほ)さんは、朝倉町役場の収入役を務められた方です。(平成4年3月24日没 享年67歳)

山田井堰堀川三百年史 1967年(昭和42年)2月 山田堰土地改良区出版

日本の水車 朝倉の水車の位置づけ 1990年(平成2年)8月 朝倉町(福岡県):朝倉町教育委員会出版

等の著作があります。

この「筑後川流域の絵馬」のはしがきに、絵馬調査をはじめた動機が書かれていますので引用します。

過去堀川三百年史を出版し、その他朝倉町の耕地整理の歴史・朝倉町の史蹟めぐり・朝倉町の方言俗語・郷土の行事・子供の遊びなどを書き続けるたびに各地の取材に廻った。特に朝倉の史蹟めぐりの編集にあたっては、神社仏閣をしばしば訪れたものであった。たまたま神社の調査のとき、拝殿にかかげられた古い絵馬が目についた。同史蹟めぐりの編集が終わり、いつの日にかは消滅してしまうであろう絵馬の面影を残して置く必要を感じ、調査の計画を立て手をつけた次第である。

太刀八幡宮の記述箇所です。

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絵馬の掲げられている位置、画題名、年代、摘要として奉納者などが記載されています。

昭和48年6月13日(1973年)調査となっていますので、49年前の資料です。

次ページ以降には太刀八幡宮の概要、そして3枚の絵馬の写真と解説そして4枚の絵馬の写真が紹介されています。

この太刀八幡宮の資料は、私が神社総代を務めた最初の年度(平成元年度)のお正月明けに、内藤宮司さんと総代さんの懇親会(今はコロナ禍で中止になっています)がありまして、その時に鶴田多々穂の息子さんの鶴田卓(すぐる)さんが、「父がまとめた資料ですが参考にご覧下さい」と数部カラーコピーを配っていただいたものでした。その資料を見ながら懇親会が盛り上がったのを思い出します。その後神社の例大祭で拝殿に上がる度に、私はこの絵馬達に見とれていたのでした。

 

今回、太刀八幡宮への感謝のブログを書き始めた中で、この絵馬達を紹介できることは、とても光栄なことであり、自分の学びもさらに深めて行きたいと思います。

今では判読出来ない年代や奉納者の名前等はこの資料を参考に、15枚の絵馬を紹介していきます。また、画題名なども、鶴田多々穂さんが調査した時代と違い、現代は図書館に絵馬の本も充実しており、またインターネットを通じて様々な情報を得る事が出来ますので、そういう情報を加えながら解説していきます。

 

神功皇后三韓征伐図

嘉永(かえい)5年(1852)壬子(みずのえね)冬12月吉祥日 

大庄屋 星野茂三郎義澄 奉献

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拝殿の正面中央に掲げられています。170年前の絵馬です。少し色あせていますが、神功皇后軍が新羅軍を攻撃し、今まさに新羅軍の軍船が沈没しようとしているようです。祭神の一柱 神功皇后を讃えています。

 

福岡県立美術館が平成11年秋に『「特別展」神に捧げた祈りの美 絵馬』を開催しています。その時の出版本の目録に「神功皇后伝絵」という題名で解説していますので、引用させていただきます。直方市近津神社。

神功皇后伝絵」は福岡県内各地に多数伝わる絵馬であり、しかも絵馬の中でも特に大きく作られ、また拝殿の正面に掲げられる場合も多い。神がかった神功皇后が、新羅への遠征を命じる神託を告げるが、仲哀天皇はそれを信用しなかったため、神の怒りに触れ即座に没する。皇后は神の意志に従い、新羅へ渡海して勝利を収める,という記紀の伝説に基づいている。「神功皇后伝絵」絵馬においては、下部に新羅軍との海戦の様子が描かれる。右側の龍頭鷁鳥首の軍船が日本軍であり、指揮をとる白髪の武内宿禰の姿も見える。一方、上部は降伏した新羅王らが、皇后の面前にひれ伏す場面である。

なお、新羅遠征時に皇后が身籠もっていた応神天皇が、のちに八幡神として崇敬されることから「八幡縁起図」と称する場合もある。

 

この解説から見ても、太刀八幡宮の絵馬もこの原則に則って描かれているようです。雲の上は判読しにくいですが、新羅王が神功皇后にひれ伏しているのでしょうか。

 

福津市収蔵「八幡縁起絵馬」粉本 というものがあります。粉本とは、中国では絵の下書きを胡粉(牡蠣・蛤・ほたてなどの貝がらから作られた日本画の白色絵具)で描いたことから生まれた言葉で、元絵や種本のことです。

福津の絵馬 津屋崎市郷土史会編集発行 平成20年3月』 から写真を転載させていただきます。

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そしてこの粉本をもとにして描かれた実際の絵馬が、恵蘇八幡宮に奉納されていると紹介しています。元絵といっても大きなもので、160㎝×194㎝もあります。

この粉本は、風雨にさらされていないので、内容が鮮明です。日本軍の船には、巴紋・菊紋・桐紋が掲げてあります。太刀八幡宮の社紋・神紋で紹介したこの三つの神紋が描かれているのは、非常に興味深いです。

また、この絵馬(粉本)には、皇后軍の軍船上の安曇磯良(あずみのいそら)が描かれています。

安曇野磯良については、『大絵馬ものがたり 全5巻 須藤功著 ㈳農山漁村文化協会発行』で解説していますので、引用します。

神功皇后三韓出兵に際し、天地の神々に七日七夜にわたり戦勝を祈り、壇之浦の海神に海路の平安を願いました。満願の日に住吉明神のお告げで安曇野磯良という海士を召され、海神より干珠満珠(かんじゅまんじゅ)を借りることができました。干珠は潮を思いのままに干し、満珠は思いのままに潮を満たすことが出来る宝珠です。

大絵馬ものがたり 第5巻 p51

そして同じ大絵馬ものがたりに、うきは市諏訪神社神功皇后伝図の解説が記載されていますので、引用します。

神の加護

筑紫を出た神功皇后の軍船は順風に乗って進み、対馬を過ぎて朝鮮半島が見え始めたころ、新羅の軍船が連なって向かってきました。

そこで皇后が干珠を振ると、たちまち潮が引いて新羅の軍船は進むことができなくなりました。兵士たちが軍船をおりて向かってくると、今度は満珠を振りました。すると潮が一気に満ちて兵士たちは波に呑まれてしまいました。それだけではありません。『古事記』には、満珠の起こした波は新羅におよび、国の半分を吞み込んだとあります。結果、新羅はもとより、百済高句麗も戦うことなく降伏しました。

大絵馬ものがたり 第5巻 p73

こうして改めて、太刀八幡宮の絵馬を見れば、満珠のおこした波によって新羅軍の軍船が呑み込まれようとしているのでしょうか。

 

絵馬の役割

今こうして一枚の絵馬を紹介・解説していると、奉献された当時、今のようにテレビやインターネット等の娯楽もない時代、この絵馬は氏子の皆さんの注目の的であり、毎日たくさんの氏子さんが訪れ、中には子供や孫に神功皇后の物語を説明しているおじいさんもいたのではないでしょうか。町の美術館・文化交流館のような働きも兼ねていたように感じます。