氏神様は太刀八幡宮

1200年の歴史を紐ときます

太刀八幡宮の境内社 ⑨佐塞神社

太刀八幡宮境内社 ⑨佐塞神社

 

祭神 久那斗神(くなとしん)

 

御神徳 生殖の神、夫婦和合の神

 

正面写真

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正面 碑文拡大
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文政九年 丙戌四月吉日(1826年)  200年前ですね。

奉建立

上座部□木  願主 代□

 

 

左側面写真
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背面写真
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右側面写真
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神社庁への提出書類

 太刀八幡宮の境内社 遷座の歴史で紹介しましたが、神社庁への提出書類には次のように記載されています。

 

佐塞神社 久那斗神

     本村字佐屋に鎮座せるを明治15年9月境内社に移轉す

 

他のほとんどの境内社は、「大正15年12月11日許可を得て移轉合併す」とあるのに、この境内社だけが、明治15年であり、又建立した場所も、一つだけ本殿から離れて西の鳥居入り口にあるのです。

何故でしょうか?

 

本村字佐屋という場所も明確に何処なのか分かっていません。上ノ原の荷原川にかかる橋の名前で、「佐屋橋」というのがありますので、この近くでしょうか。

奥に見える森が太刀八幡宮です。

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久那斗神

 

久那斗神という名前は、まったく知りませんでしたが、全国にお祀りしている神社があります。

 

ウキペディア岐の神を参考に一部引用します。

岐の神(クナド、くなど、くなと -のかみ)とは、古より牛馬守護の神、豊穣の神としてはもとより、禊、魔除け、厄除け、道中安全の神として信仰されている。日本民間信仰において、疫病・災害などをもたらす悪神・悪霊が集落に入るのを防ぐとされるである。また、久那土はくなぐ、即ち交合・婚姻を意味するものという説もある。

別名、久那土神、久那止神、久那戸神、久那斗神、車戸神、来名戸祖神、岐神、衝立船戸神、車戸大明神、久那度神、クナド大神、クナトの神、クナト大神、熊野大神、久刀。

 

疫病・災害などをもたらす悪神・悪霊が入るのを防ぐとありますので、この境内社だけ本殿から外れて建って、本殿を守っているのでしょうか?

 

それと正面写真にも写っていますが、男根の像が祀られていることから、生殖の神・夫婦和合の神として祀られていることは確かでしょう。

 

 

群馬県の冠稲荷神社の巫女さんの紹介

 

kanmuri.com

 

疫病といえば今は新型コロナですね。早く収まって欲しいものです。

 

出雲大社の摂末外社として出雲井社(いづもいのかみのやしろ)

 

祭神 岐神(くなどのかみ)

大国主大神が国土奉献されるとき、大神の命により天照大御神岐神(くなどのかみ)使者の案内役として諸国を巡られ、国内の平定に力を尽くされた神です。道案内(交通安全)、道路を守護する神として慕われています。

この記述からも、全国を廻り、大きな働きをされたことが分かります。

 

 

男根を祀る

 

おにぎりまとめさんが、男根を祀る神社の記事を書いていますので一部引用します。

日本には子宝・安産祈願、縁結びや商売繁盛など、様々な願いをかけて男根が奉られている神社が多数存在するのです。

 

過激な標題ですよね。とても楽しめる内容です。

matome.eternalcollegest.com

 

この記事の最初に紹介されている愛知県小牧市田縣神社は、何度が訪れたことがあります。当時勤めていた会社に来たお客様を、観光案内するルートの一つだったのです。神社の横には、秘宝館もあり、お客様にも結構喜んで頂いたことを思い出します。

 

しかし、同様な神社が全国にあるのですね。写真を見ると若い女性も喜んで祭に参加している様子が分かりますね。外人さんも嬉しそう。

 

ただし、ここで紹介されている神社には、久那斗神は祀られていないようです。

 

 

 

子孫繫栄に向けて

 

子孫繁栄のためには、性は当たり前に大切な事なのに、今の私たちはすぐに「わいせつ・エッチ」と捉えて、性を語ることをタブーにしていますよね。

もともと日本人は、性に対しておおらかだったと書かれていることもあります。

 

特に今、少子高齢化の社会に入り、やがて人口減少問題が大きく社会を変えるかも知れないことを思うと、若い人が安心して子育てが出来るようにサポートしたいと思います。

 

そして子宝に恵まれない方は、久那斗神のお力を頂きに参拝するといいのでしょう。

 

 

 

 

 

太刀八幡宮の境内社 ⑧厳島神社

太刀八幡宮境内社 ⑧厳島神社

 

祭神 市杵島姫命=弁財天

 

正面写真

 

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左側面写真

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このお社は、非常に長い碑文が書かれています。出来る限り解読してみます。

 

柳此辯財天ヲ勧請□□□□

不代ノ臣諸岡勘次衛也□□ノ頃

秋月□城ノ□夜須郡依井村二住□

南筑生乗郡吉井ノ市二商用在二

妻往来ノ節大庭村平田□□□二

望テ文禄□□ニ住宅ヲ移□□百

 

 

内藤宮司さんと現地確認した際、下線箇所の辯財天大庭村平田そして次の写真にある背面の石に刻まれた竹生島の文字で、神社庁への提出書類にある厳島神社であると判明しました。

 

 

背面写真
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背面の石 正面
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竹生島

 

背面写真 

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読めません

 

右側面写真

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□□□□□子孫繫栄□□□□

□□□長久ヲ祈□ナリ

 

願主 師岡 産徒

 

石工  平□□□

享和元年(1801年) 辛酉 九月 朔日

 

この碑文は、220年前に、弁財天を勧請する経緯や、子孫繁栄や長久の祈りが刻み込まれたものだというのが分かりますね。

全文を解読出来ればいいのですが、残念です。

 

神社庁への提出書類

 太刀八幡宮の境内社 遷座の歴史で紹介しましたが、神社庁への提出書類には次のように記載されています。

 

厳島神社 市杵島姫命

     大字大庭字平田に祭祀ありしを大正15年12月11日許可を得て移轉合併す 

 

 

この平田という字名は、前回の⑦天満神社と同様です。

 

天満神社 菅原神

     大字大庭字平田に祭祀ありしを大正15年12月11日許可を得て移轉合併す

 

さくら町の歴史ものがたりの太刀八幡宮の項に、地名のことで次のような記述があります。

太刀八幡宮の南の方に徳次(とくつぎ)・塗器(ぬるげ)という集落の地名がありますが、この名前のおこりは神功皇后がこの地にこられたときにできたといわれています。

徳次は「磨剣(とくつるぎ)」であって、剣(つるぎ)などを磨(と)がれたところで、また、塗器(ぬるげ)は剣や槍(やり)などに漆などを塗らせたところとつたえられています。

 

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図は神功皇后伝承を歩く 綾杉るな から転載

 

以前、子持鳥居で紹介した古賀百工さんも徳次の生まれです。

百工さんの名前は、古賀十作義重です。朝倉町の歴史ものがたりには、「上座部大庭村(現在の朝倉町上野原の徳次)の庄屋の家に生まれ、父のあとをついで庄屋になりました。」とあります。

 

信仰心の篤い地域なのでしょうね。

 

 

弁財天、市杵島姫命

 

弁財天といえば、財運の神様というイメージです。

 

太刀八幡宮主祭神である宗像三女神の一柱、市杵島姫命と同じ神様といわれています。

 

ウキペディア 弁財天を参考にします。

 

日本の弁才天は、吉祥天その他の様々な神の一面を吸収し、インド中国で伝えられるそれらとは微妙に異なる特質をもち、本地垂迹では日本神話に登場する宗像三女神の一柱である市杵嶋姫命(いちきしまひめ)と同一視されることが多い。

 

本地垂迹(ほんじすいじゃく)とは、仏教が興隆した時代に発生した神仏習合思想の一つで、神道の八百万の神々は、実は様々な菩薩天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考えである。

 

弁財天をを分かりやすく説明してくているブログがありましたので紹介します

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ご利益を引用します。

弁財天のご利益は、金運アップの他にも様々なものがあります。

海上安全・交通安全・豊漁・商売繁盛・知恵・財福・戦勝・恋愛成就・子孫繁栄・子授け・音楽上達・技芸上達・弁舌・長寿延命

などなど、この他にもたくさんあって書ききれません。

 

竹生島(ちくぶしま)

 

境内社の背面にある石に刻まれた「竹生島」。琵琶湖の北部に浮かぶ島です。竹生島の弁財天は、日本三大弁財天の一つといわれており、なおかつ最も古いので、大弁財天ともいうようです。

この島は、現在竹生島宝厳寺竹生島神社がありますが、元は神仏習合の島であり、明治以降神仏分離令により分かれたものだということです。

 

www.chikubushima.jp

 

ホームページを見ると、国宝の唐門を始め重要文化財がたくさんあります。

一部由来を引用します。

竹生島宝厳寺は、神亀元年(724年)聖武天皇が、夢枕に立った天照皇大神より「江州の湖中に小島がある。その島は弁才天の聖地であるから、寺院を建立せよ。すれば、国家泰平、五穀豊穣、万民豊楽となるであろう」というお告げを受け、僧行基を勅使としてつかわし、堂塔を開基させたのが始まりです。

それ以来、天皇行幸が続き、また伝教大師弘法大師なども来島、修業されたと伝えられています。

 

琵琶湖に浮かぶ小さな島が、弁財天の聖地として、発展しそして守られてきていることが分かります。

 

住職の四方山話というページがあるのですが、その中の「清い心の弁天様」というお話に弁天様へのお詣りの仕方というか心構えがあります。一部引用します。

弁天様は「弁財天」と書いて商売繁盛・財福の神様としても信仰されていますが、弁天様が分け隔てなくあまねく人に財をもたらしてくれるものと解釈すべきではありません。 財を成すには、己の損得勘定だけで商売をするのではなく、相手や周囲にも気を配り、誠実さをもって商売に勤しむことが必要ではないでしょうか。
母が子に対して注ぐ無償の愛、すなわち慈母愛にも似た清い心をもって誠実に商売に勤しめば、自ずと福が来るということを、弁天様のお姿の中に読み取っていただければ幸いです。

 

自分の行動が、「誠実な行動なのか」いつも心にとめていきたいと思います。

 

ユーチューブで竹生島を観光

ユーチューブで竹生島を検索すると、とても楽しくて、弁財天の勉強も出来、国宝や重要文化財を拝見しながら竹生島を堪能できる素晴らしいチャンネルを見つけました。本当に修学旅行でバスガイドさんの話を聞いているような、ワクワクして笑いありの時間を過ごすことが出来ました。ありがとうございます。

 


www.youtube.com


www.youtube.com

 

 

いつか竹生島を訪れる機会に恵まれますように👏

 

 

太刀八幡宮の境内社 ⑦天満神社

太刀八幡宮境内社 ⑦天満神社

 

祭神 菅原道真

 

正面写真

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梅の文様が、天神様を表しています。

 

左側面写真

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背面写真

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徳次 塗器 氏子中

大正 10年4月 合同?

 

 

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博多出栄?町

石工 高瀬 ?喜

 

 

神社庁への提出書類

 

太刀八幡宮の境内社 遷座の歴史で紹介しましたが、神社庁への提出書類には次のように記載されています。

 

天満神社 菅原神

     大字大庭字平田に祭祀ありしを大正15年12月11日許可を得て移轉合併す

 

さくら町の歴史ものがたりの太刀八幡宮の項に、地名のことで次のような記述があります。

太刀八幡宮の南の方に徳次(とくつぎ)・塗器(ぬるげ)という集落の地名がありますが、この名前のおこりは神功皇后がこの地にこられたときにできたといわれています。

徳次は「磨剣(とくつるぎ)」であって、剣(つるぎ)などを磨(と)がれたところで、また、塗器(ぬるげ)は剣や槍(やり)などに漆などを塗らせたところとつたえられています。

 

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図は神功皇后伝承を歩く 綾杉るな から転載

 

 

太宰府天満宮

www.dazaifutenmangu.or.jp

 

ホームページの一部を引用します。

太宰府天満宮は、菅原道真すがわらのみちざね公の墓所ごぼしょの上にご社殿を造営し、その御神霊おみたまを永久にお祀りしている神社です。 「学問・至誠しせい・厄除けの神様」として、日本全国はもとより広く世のご崇敬を集め、年間に約1000万人の参拝者が訪れています。

誰もが学問の神様として、一度はお詣りに訪れたことがあるのではないでしょうか。

 

このホームページを見ると道真公の生涯が、神童と称された幼少期・文武で名を馳せた青年期・出世から左遷へ・失意の中でも誠を尽くされた晩年期など非常に良くまとまって記載されています。

 

私は、若い頃(27歳から4年程)大宰府の榎寺というところに住んでいたこともあり、よく天満宮には足を運んでいました。

菅原道真公が左遷で流されて住んでいたところが、榎社となって残っており、毎日その横を通って会社に通勤していました。

そこには、道真公にお仕えしてた浄妙尼さんの祠があって、よくお詣りしていたことを思い出します。

 

大宰府魅力発見塾さんのブログ 「太宰府 榎社 浄妙院 菅原道真公が過ごした場所」には次のような記述があります。

苦境を見かねた浄妙尼は道真公に梅の枝に餅を挟んで格子越しに差し入れをしたといわれています。この故事にならい太宰府天満宮参道の梅が枝餅がつくられるようになったといわれています。

 

こんど梅ヶ枝餅を食べる時は、道真公と浄妙尼さんの事を思いながら、感謝していただきます。

 

怨霊となった道真公

 

ウキペディア大宰府天満宮を見ると,歴史という項目の中に再三「道真の祟り」という言葉で出てきます。一部引用します。

一方都では疫病や異常気象など不吉な事が続き、さらに6年後の延喜9年(909年)には藤原時平が39歳の壮年で死去した。これらのできごとを「道真の祟り」と恐れてその御霊を鎮めるために、醍醐天皇の勅を奉じた左大臣藤原仲平大宰府に下向、道真の墓所の上に社殿を造営し、延喜19年(919年)に竣工したが、これが安楽寺天満宮の創祀である。

それでも「道真の祟り」は収まらず、延喜23年(923年)には皇太子保明親王が21歳で死去。狼狽した朝廷は、延長改元したうえで、4月に道真の官位を生前の右大臣の官職に復し、正二位の位階を追贈した。しかしそれでも「祟り」が沈静化することはなく、保明の遺児慶頼王が代わって皇太子となったものの、延長3年(925年)には慶頼もわずか5歳で死去した。そしてついに延長8年(930年)6月、醍醐天皇臨席のもとで会議が開かれていた、まさにその瞬間、貴族が居ならぶ清涼殿に落雷があり、死傷者が出る事態となった(清涼殿落雷事件)。天皇は助かったが、このときの精神的な衝撃がもとで床に伏せ、9月には皇太子寛明親王朱雀天皇)に譲位し、直後に死去するに至った。承平元年(931年)には道真を側近中の側近として登用しながら、醍醐と時平に機先を制せられその失脚を防げなかった宇多法皇も死去している。わずか30年ほどの間に道真「謀反」にかかわったとされた天皇1人・皇太子2人・右大臣1名以下の高級貴族が死亡したことになる。猛威を振るう「怨霊」は鎮まらず、道真には太政大臣追贈などの慰撫の措置が行われ、道真への御霊信仰は頂点に達した。ついに正暦元年(990年)頃からは本来は天皇・皇族をまつる神社の社号である「天満宮」も併用されるに至った。

太宰府天満宮の公式ホームページには、怨霊や祟りといった記述が見当たりません。しかし、道真公の祟りを朝廷が恐れ、そして、神として祀ったからこそ、今の天満宮があるということなのでしょう。

 

菅原道真 日本文化の生みの親

 

まほろばチャンネルさんが、素晴らしい動画を作成しています。

菅原道真の一生をまとめてみました。菅原家は、低い貴族であったにもかかわらず、道真公は、北野天満宮太宰府天満宮に「学問の神様」として祀られている。これを不思議に思い調べてみました。


www.youtube.com

 

道真公の一生を非常に分かりやすくまとめているとともに、日本文化の生みの親となる遣唐使の廃止など本当に勉強になりました。ありがとうございます。

 

農耕の神様

 

太刀八幡宮境内社 遷座の歴史の中でも紹介した、資料「朝倉の神々」の集落の神々地区別一覧を見ると、天満宮・天神社は、119社中25社で最も多い数になります。

表とは別に、「天満宮(天神様)76社(集落の神も含む)」とあり、朝倉地区に非常多く祀られていることが分かります。

私が住んでいる地区にも、天神社があります。

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朝倉町史には、天満宮・天神社は「農耕守護神と祀られた」と記載されています

 

美奈宜神社(内藤宮司さんの本務社)のホームページの中に、12月のお便りとして地域の天神様という記事が載っています。

一部引用します。

ご祭神の天神様は雨を降らす雷を農耕の神様として古代より信仰されていました。雷は雨に田んぼと書きます。雷は字の由来の通り、雨を降らし、豊かな米作りができる象徴です。雷がもたらす自然の恵みを天神様として古来より信仰し、令和の現在でも変わらず感謝し続けているのです。

天神様が、古代から農耕の神として、この朝倉の地にも祀られていることが分かりました。

 

こうして学ぶと学問の神様というのは、道真公のご神徳の一側面であり、農耕の神、至誠の神、日本文化の神など多くのご神徳があることが分かります。

今日まで「学問の神様 おはようございます」と挨拶していましたが、明日から「学問の神様・農耕の神様 おはようございます」とご挨拶させていただきます。

太刀八幡宮の境内社 ⑥秋葉宮

⑥ 秋葉宮

 

祭神 軻遇突智カグツチ)命

 

正面写真  令和4年12月18日撮影 初雪です

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左側面写真
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大正12年6月 吉日〇

 

背面写真
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世話人

浦 米吉

鬼塚 竹次郎

丸山 惣三郎

 

右側面写真
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石工

酒井 千次郎

 

 

神社庁への提出書類

太刀八幡宮の境内社 遷座の歴史 で紹介しましたが、神社庁への提出書類には次のように記載されています。

秋葉宮  軻遇突智命

     大字大庭字乙王丸に祭祀ありしを大正15年12月11日許可を得て移轉合併す

 

軻遇突智命

 

ウキペディア カグツチを引用します。

 

カグツチとは、記紀神話における火の。『古事記』では、火之夜藝速男神(ひのやぎはやをのかみ)・火之炫毘古神(ひのかがびこのかみ)・火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ;加具土命)と表記される。また、『日本書紀』では、軻遇突智(かぐつち)、火産霊(ほむすび)と表記される。

神話の記述

神産みにおいてイザナギイザナミとの間に生まれた神である。火の神であったために、出産時にイザナミの陰部に火傷ができ、これがもとでイザナミは死んでしまう。その後、怒ったイザナギ十拳剣天之尾羽張(アメノオハバリ)」で首を落とされ殺された。

 

カグツチの神は、前回のブログ 太刀八幡宮の境内社 ⑤徳満宮で紹介した保食神(うけもちのかみ)のように、殺されてしまいますが、その血や体から多くの神様が生れています。

 

こういう一見残酷とも思える表現は、死と再生を意味するのか、色々解釈があるようです。

 

 

秋葉山本宮秋葉神社

 

ウキペディアによれば、[日本全国に存在する秋葉神社神社本庁傘下だけで約400社)、秋葉大権現および秋葉寺のほとんどについてその事実上の信仰の起源となった神社である]と記載されています。

 

www.akihasanhongu.jp

 

秋葉山本宮秋葉神社のホームページの一部を引用します。

御祭神は、火之迦具土大神ヒノカグツチノオオミカミと申し上げ、伊邪那岐伊邪那美二柱の神の御子で火の主宰神です。火の光は時間的、空間的に人間の活動範囲を拡め、その熱は人間に冬の寒さも克服させ、食生活を豊かにし、そのエネルギーは工業・科学の源になると共に、その威力は総ての罪穢れを祓い去ります。光と・熱と強いエネルギーを与えられたこの神は、文化科学の生みの親として畏敬され、崇められてまいりしました。

 

御神徳は、火の幸を恵み、悪火を鎮め、諸厄諸病を祓い除く火防開運の神として、火災消除・家内安全・厄除開運・商売繁盛・工業発展の霊験あらたかなるものとして、全国津々浦々から信仰されています。

 

 

今、妻に御祭神の箇所を「良い文章だね」と語って伝えて思ったのですが、目で見ていた時の印象と違って、口に出すことではるかに言葉のエネルギーというか、感動が脳🧠に響く感じがしました。

妻は最近音読に興味を持って実践しているのですが、「やっとその事に気付いてくれた」😄と笑っています。

 

秋葉神社の火祭りを見ていて思ったのですが、「鬼滅の刃」に出てくる鬼との闘いのイメージが重なってきました。作者の方もこの祭りを見ていたのかな。

 

國學院大學 「古典文化学」事業

カグツチを検索していると、國學院大學 「古典文化学」事業 火之迦具土神というデーターベースを見つけることが出来ました。

 

神話の記述を、どういう風に解釈するかを諸説解説しています。

①発火法の反映とする説。

②火山の噴火現象の反映とする説。

焼畑農耕の反映とする説。

その他火の利用による人間の文化の起こりが語られていると捉える説等

 

この中で、私としては、火山の噴火現象の反映とする説が面白いなと感じました。

一部引用します

火神の誕生あるいは斬殺を噴火現象と見なし、死体からの諸神の化生を、それによって起こる様々な災異や大地の変動の表象とする。また、母神の女陰を焼いたという内容は、火口と女陰との形状の類似に加えて、火山の火口をホドという方言の例があることから、そうした古語がホト(女陰)の語と結びついて出来たとする説もある。

 

残酷な神話の話をどう解釈するか、大学の研究でも「なお検討の余地がある」と述べられているように、色々な説がこれからも出てくるのでしょうね。

 

火之迦具土神(神話から読み解く古代日本人と火の関係)

 

このユーチューブを見たときには、「こういう素晴らしい動画を見ることが出来てありがたいなー」と思いました。本当に無料でこういう動画が見れるこの時代は、情報化社会の利点ですよね。

 


www.youtube.com

 

 

火の神様に感謝して

 

私が、家で塩作りを始めて11年程経ちます。

庭の剪定した薪を燃料に、好きな海の海水を煮詰めて作っています。

これからも、カグツチの神に応援を頂きながら、塩作りを楽しみたいと思います。

 


www.youtube.com

 

 

太刀八幡宮の境内社 ⑤徳満宮

⑤ 徳満宮

祭神    保食神(うけもちのかみ) 

    罔象女命(みずはのめみこと)

 

正面写真

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左側面写真
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大正12年6月 ○○

 

背面写真
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世話人

浦 福七

鬼塚 竹次郎

荻 ○吉

辛川 新右エ門

 

右側面写真
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世話人

浦 米吉

丸山 惣三郎

辛川 隣

 

石工

酒井 千次郎

 

神社庁への提出書類

太刀八幡宮の境内社 遷座の歴史で紹介しましたが、神社庁への提出書類には次のように記載されています。

徳満宮  保食神 罔象女命

     大字大庭字乙王丸に祭祀ありしを大正15年12月11日許可を得て移轉合併す

 

この境内社には、二柱の祭神が祀られています。

私は、二柱とも今までまったく知らずに生きてきました。読み方も分かりません。

色々調べていきます。

 

1.保食神(うけもちのかみ)

 

ウキペディア 保食神を引用します。

 

神話での記述

天照大神月夜見尊に、葦原中国にいる保食神という神を見てくるよう命じた。月夜見尊保食神の所へ行くと、保食神は、陸を向いて口から米飯を吐き出し、海を向いて口から魚を吐き出し、山を向いて口から獣を吐き出し、それらで月夜見尊をもてなした。月夜見尊は「吐き出したものを食べさせるとは汚らわしい」と怒り、保食神を斬ってしまった。それを聞いた天照大神は怒り、もう月夜見尊とは会いたくないと言った。それで太陽と月は昼と夜とに別れて出るようになったのである。

天照大神保食神の所に天熊人(アメノクマヒト)を遣すと、保食神は死んでいた。保食神の屍体の頭から、額から、眉から、目から、腹から、陰部から大豆小豆が生まれた。天熊人がこれらを全て持ち帰ると、天照大神は喜び、民が生きてゆくために必要な食物だとしてこれらを田畑の種とした。

ウキペディアの解説にもありますが、

この説話は食物起源神話であり、東南アジアを中心に世界各地に見られるとのことです。古事記』では同様の説話がスサノオオオゲツヒメの話となっています。

 

食物神というだけでなく、「頭から牛馬が生まれた」ということからの神ともされる。

 

食物神であり、農業の神であり、牛馬の神であり、また蚕の神として祀られているとのことです。

 

以前は、農業には牛馬が欠かせませんでした。そして私が現在住んでいる家にも、蚕を育てていた棚がありました。今は天井をすべて撤去したので残ってはいませんが、この地区では養蚕が盛んだったのでしょう。

 

インターネットで検索しているとユーチューブに次の動画が見つかりました。


www.youtube.com

 

一部引用します。

保食(うけもち)の神祀らずに、いくら野山拓いたとて、物作ることはできないぞ。

野拓く時は野の神まつれ。

物作る時は保食(うけもち)の神まつれ。

産土の神様にもお願いして、お取次ぎ願わねば何事も成就せんぞ。

山も川も野も人民も草も木も動物虫けらも何もかもこの方の徳であるぞ。

地にむかえ、草にむかえ、生物にむかえ、木にむかえ、

石もの言うぞ、草もの言うぞ

 

この神事を見ると、いかに保食神(うけもちのかみ)がこの自然界において大切な役割をしているのかが分かります。

 

今回学んだことを活かすためにも、小さな家庭菜園ですが、我が家の庭のあらゆる生物鉱物に感謝して、自然栽培を実践していきます。

 

2.罔象女命(みずはのめみこと)

 

ウキペディア ミズハノメから引用します。

 

古事記』では弥都波能売神(みづはのめのかみ)、『日本書紀』では罔象女神(みつはのめのかみ)と表記する。神社の祭神としては水波能売命などとも表記される。淤加美神とともに、日本における代表的な水の神(水神)である。

古事記』の神産みの段において、カグツチを生んで陰部を火傷し苦しんでいたイザナミがした尿から、和久産巣日神ワクムスビ)とともに生まれたとしている。『日本書紀』の第二の一書では、イザナミが死ぬ間際に埴山媛神(ハニヤマヒメ)と罔象女神を生んだとし、埴山媛神と軻遇突智カグツチ)の間に稚産霊ワクムスビ)が生まれたとしている。

 

 

 

 

水神社

 

罔象女命(みずはのめみこと)といえば、この地区では山田堰にある水神社が有名とのことです。

 

jinjakairou.com

 

朝倉神社回廊さんのホームページによれば、

享保7年(1722年)山田堰から堀川用水に水を通すため切貫水門工事を起こすにあたり、工事の安全と水難消除を祈り、水波能売命を祭祀し水門の上に水神社を建立。

寛政10年(1798年)堀川用水を築いた古賀百工の功績を称え合わせて祀っています。現在も山田堰・堀川・水車群・堀川用水路の守護神です。

とあります。

 

以前のブログ子持鳥居 - 氏神様は太刀八幡宮で紹介しましたが、この太刀八幡宮の地区の田んぼの水を潤してくれるのも山田堰のお陰であり、古賀百工さんのお陰でもあります。

 

子持鳥居をブログ公開した時は、田んぼに水がはられた時でしたが、今は稲刈りも終わり、新嘗祭も終わり、時が過ぎているのを感じてしまいます。

 

 

罔象女命(みずはのめみこと)はどういう神様?

穴場の神社とお寺へ御朱印巡りさんのホームページに分かりやすく解説していましたので、一部引用します。

実はこの罔象(みづは)という名前、中国の古書にも登場するのですが、それには「龍」や「子供の姿をした水神」と説明されているんです。

 神格

  • 水の神様
  • 井戸の神様
  • 灌漑用水の神様
  • 農耕の神様
  •  
  • 神徳
  • 祈雨、止雨、治水、農耕守護、
  • 商売繁昌、子宝、安産
  •  

 

朝倉町史に書かれていた雨乞い

 

朝倉町史(p849)には、次のように記載されています。

 

乙王丸部落では、徳満宮のご神体を水につけると雨が降るというので、荒々しく水の中に投げ込んだという。

 

ご神体がどういう姿か分かりませんが、当時の方々が降雨を願って神頼みをしていることがよく分かります。

 

どの川に投げ込んだのでしょうか?

それともどこかの井戸の中に投げ込んだのでしょうか?

 

いつかご神体を見る機会があることを祈っています。

 

雨乞い祈願石燈篭

 

太刀八幡宮の西の参道の入り口にある鳥居の横に、雨乞い祈願の石燈籠があります。

 

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碑文の内容です。

上座部大庭村産子中

請雨願成就石燈吉○

元文二丁巳(ひのとみ)年九月吉

1737年の建立です。

 

先ほど紹介した水神社に掲げてある年表を見ると、この時代は大干ばつ・飢饉と大洪水に見舞われた時代であることが分かります。

 

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1722年(享保7年) 水門新設 水神社を祀る

1724年(享保9年) 旱ばつ

1726年(享保11年) 洪水

1728年(享保13年) 大旱ばつ

1732年(享保17年) 享保の大ききん・稲凶作、筑前国餓死者10万人、捨子禁止令出す

1736年(元文1年) 筑後川大洪水

1737年(元文2年) 太刀八幡宮の「請雨願石燈」建立

1754年(宝暦4年) 大風

1758年(宝暦8年) 大雨洪水・干ばつ根付不能

 

下線部は、朝倉町史の年表抜粋

 

捨子禁止令が発令されるほど、口減らしが横行していたことを思うと言葉になりません。

 

 

大地と水の神様に感謝

 

この徳満宮という境内社に、何故二柱の神が祀られているのだろうと疑問に思っていましたが、こうして調べていくと、まさに人や生物が生きていく上で欠かせない、大地と水の組み合わせではないかと思います。

大地を大切にし、水を大切にすることを誓いながら、朝のご挨拶をしていきます。

 

ちょっとこぼれ話

先日、新海誠監督の「君の名は」を観たのですが、ヒロインの名前「宮水三葉(みやみずみつは)」を、新海監督は、日本書紀に登場する「罔象女神(ミツハメノカミ)」から命名したと明言しているらしいです。

私は、みつはさんの「口噛み酒」を飲んでみたいと思っていました。🍶

感動の「歴史と文化のまちづくり シンポジウム」

昨日 令和4年12月3日 朝倉地域生涯学習センターホールで歴史と文化のまちづくりシンポジウムが開催されました。

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■内容

1. 筑紫舞「古代からの朝倉伝統の舞」筑紫舞伝承会

2. 基調講演「歴史を感じるまちづくり」RKB毎日放送アナウンサー 田畑 竜介氏

3. パネルディスカッション「歴史を感じるまちづくり」

  コーディネーター 上野誠氏(國學院大學文学部教授)

  パネリスト     相川七瀬氏(歌手・國學院大學神道文化学部在学中)

             後藤いずみ氏(福岡かるた会会長)

             林裕二氏(朝倉市長)

             田畑竜介氏(RKB毎日放送アナウンサー)

内容は朝倉市ホームページより転載

 

 

ちょっと私が感動した内容がありました。👏

 

 

 

コーディネーターの上野さんが、後藤いずみ福岡かるた会長に質問した時のことです。その前段として、歌手の相川七瀬さんが、「歌詞の内容を理解して、言葉を紡いで歌っている。」という話をしていました。

 

上野 「競技かるたの時に、百人一首の歌の内容を噛みしめることはありますか?」

後藤 「競技の時は、一瞬の反応なので歌の内容を噛みしめるということはないが、皆さんそれぞれ好きな歌というのは有ります。たとえば瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふという恋の歌は、人気があります。

 

えー 崇徳天皇さんの歌だ。

goodlightsato.com

太刀八幡宮境内社 白峯神社で調べたばかりたったので、ビックリ‼️しました。

そして、祭神の崇徳天皇さんもさぞお喜びしているだろうなぁと、一人感動していました。

🙌

 

 

 

それと歌手の相川七瀬さんですが、名前は聞いたことがあるような気がするのですが、家に帰ってからプロフィールに書いてあったユーチューブを見てみました。デビュー曲の「夢見る少女じゃいられない」は、ほとんど聞いたことのない歌で、世代のギャップを感じましたが、「なないろ旅」を見た時に、感動してしまいました。

神社の神殿の前で、歌を奉納する姿は、まるで女神です。また神社を紹介するナレーションもとても優しく見ていて心が安らぎます。


www.youtube.com

 

鹿島神宮の奥の宮の檜皮葺屋根の葺き替え工事の解説は、現在太刀八幡宮の改修工事をしていることもあり、非常に興味深く見ました。伝統文化、伝統工法の重要性を感じます。


www.youtube.com

 

それと古代米の赤米大使として活躍する相川さんですが、赤米フェスタ2021の内容も感動もので、朝倉の三連水車近くで栽培している赤米とも今後関わり合いがでるのでしょうね。


www.youtube.com

 

 

コーディネーターの上野誠さんは、甘木出身で、とても軽快な口調で皆さんのコメントを引き出していました。家に帰ったら、高校一年生の息子が、「上野さんて、万葉の先生❓」とパンフレットを見ていうので、「そう、なんで知ってるの」と聞くと、「比良松中学校で講演会があった。百人一首の大会の時だったかな?」とのことでした。万葉学者として、多岐に渡って活動しているようです。

 

RKB毎日放送アナウンサーの田畑竜介さんは、朝倉が大好きで、その魅力を活かしたまちづくりを提案して、多くの観光客に来ていただけるのではないかと、問いかけていました。水害の時も取材で何度も訪れただけでなく、個人的にボランティアとして何度も朝倉に足を運ばれたそうです。

 

林裕二市長は、役所言葉たけでなく、人間味あふれた自分の言葉で発言し、とても親しみを持つことができました。

 

本当に、良いシンポジウムに参加出来て良かったと思いました。お導きありがとうございました。

 

太刀八幡宮の境内社 ④白峯神社

④ 白峯神社

祭神 崇徳天皇

 

正面写真

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左側面
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碑文を解読します。

大嘗祭記念改築

大正 四 乙卯 年 十一月 〇旦?

「1915年 乙卯(きのとう)」

 

大嘗祭とは、新天皇の即位の年に行われる新嘗祭のことです。大正天皇即位の礼は、大正4年11月10日に行われており、大嘗祭は11月14日・15日に行われています。

歳旦?と読めるのですが、歳旦は元旦の事みたいなので、はっきりしません。建立したという意味だと思われます。

 

背面

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碑文を解読します。

 

信徒総代〇〇順

丸山 久吉

佐藤 利平

平田 ?米吉

徳永 藤四郎

鶴川 光次郎

調 喜策

辛川 喜平

 

寄進された方々のお名前だと思われます。

この碑文は、②稲荷神社と同じ内容が彫られています。

碑文の中の鶴川光次郎さんの昭和11年新嘗祭献穀斎田のことについては、ブログ②稲荷神社で記載しています。

 

 

右側面
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お宮を作成した石師ですね。

富村大角

人造石師

鶴田 伊助

鶴田 磯次

 

 

 

神社庁への提出書類

太刀八幡宮の境内社 遷座の歴史で紹介しましたが、神社庁への提出書類には次のように記載されています。

 

「白峯神社 崇徳天皇

   大字大庭字角虫に祭祀ありしを大正15年12月11日許可を得て移轉合併す」

 

古くから角虫にあった白峯神社が、大嘗祭大正4年)の年に記念改築し、大正15年に太刀八幡宮遷座されたことになります。

 

現在の大庭地区の住所は、朝倉市大庭○○番地となってしまい、角虫や太刀八幡宮のある乙王丸という小字が表記されなくなりました。

慣例として、地元の方々は旧小字名で呼び合っていますが、角虫は三寺の一部になったようです。

この地図は、農業集落境界データから入手したものですが、角虫が記載されていました。

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日本最大の怨霊となった崇徳天皇による悪縁切りのご利益

 

白峯神社といえば、内藤宮司さんの本務社である美奈宜神社が有名です。

minagijinjya.com

 

色々、インターネットで調べたのですが、この美奈宜神社のホームページがもっとも簡潔にまとめあげられていると思います。

一部引用します。

日本最大の怨霊となった崇徳天皇による悪縁切りのご利益

 

ご祭神の崇徳天皇は、讃岐の地で一切の欲を断ち切っておこもりされたことから、白峯神社は断ち物のご利益があると信仰されてきました。
 また、戦によって心ならずも寵妃阿波内侍とお別れにならざるを得なかった崇徳天皇は、人々が御自身のような悲しい境遇にあわぬよう、幸せな男女のえにしを妨げる全ての悪縁を絶切って下さいます。

 

男女の縁をはじめ、病気、酒、煙草、賭事など、全ての悪縁を切るご利益がございます。

 

 

ウキペディア 崇徳天皇を見ると非常に長文で解説されています。

ウキペディアより転載

 

何故、崇徳天皇が日本最大の怨霊と言われるようになったのかを一口で簡単には述べられないことが分かります。

出生の噂、父との確執、弟との争い(保元の乱)、五部大乗経(『法華経』『華厳経』『涅槃経』『大集経』『大品般若経』)の写本に対する対応など怨霊伝説を作り上げる題材がたくさんあるという感じです。

 

特に、「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん(皇室の地位をおとしめ、民がそれにとって代わる)」と呪いをかけ、その後天皇の時代から、武家政権の時代が長きに渡って存続したのは、崇徳天皇の呪いのためと言われているとのことです。

 

その呪いが解け和解したのが、幕末孝明天皇が讃岐の崇徳天皇の御魂を京都に移すため白峯神宮を作ろうとして、その途上で天然痘(呪いの病と言われていたとのこと)で亡くなり、その意志を引き継いだ明治天皇白峯神宮を完成させ、御魂を移し、その後即位したことによると言われていますす。

 

ウキペディアでは、次のように記載されています。

明治天皇は慶応4年(1868年)8月18日に自らの即位の礼を執り行うに際して勅使を讃岐に遣わし、崇徳天皇の御霊を京都へ帰還させて白峯神宮を創建した。

昭和天皇崇徳天皇八百年祭に当たる昭和39年(1964年)に、香川県坂出市崇徳天皇陵に勅使を遣わして式年祭を執り行わせている。

昭和39年といえば、東京オリンピックの年です。その成功を祈って、昭和天皇式年祭を執り行われたと言われています。

 

NHKBSプレミアム『英雄たちの選択』

2018年3月に放映された英雄たちの選択という番組は、「崇徳院」をテーマに作られました。その番組の内容を「憂きまど」さんが、前編、中編、後編と非常に詳しく、ブログで紹介しています。

konamijin.hatenablog.com

ブログを読んでいるだけで、番組を見ているような臨場感があって、非常に参考になる内容ですし、番組そのものも非常に良い番組だったことが伺えます。

番組をユーチューブで検索しましたが、見つかりませんでした。

 

そのなかで、朝倉のことが出てきましたので、その部分を引用します。

番組は崇徳の流された地・香川県へ。郷土史家の方が、崇徳は「綾川」を京都になぞらえて「鴨川」と呼んだと教えてくれる。近くの駅名も「鴨川」である。また、山も京都の「東山」と呼んだという。これは知らなかった。郷土史家「ここへ来て京都のことばかり思っておったんでしょうかね」。

 続けて、崇徳が住居にした木丸殿。「粗末なつくりの小さな小屋でした」というナレーション。崇徳の住居が粗末な作りだったことは、同じく『保元物語』にも書かれている。都でかつて院に召し使われていた淡路守是成(法師となり、蓮如と名乗っていた)が讃岐へ赴き、院の御所を訪れた際に対面しようと差し上げた歌はこうだ。

 「アサクラヤ木ノマロ殿ニ入ナガラ君ニ知レデ帰ルカナシサ」

蓮如の歌の「アサクラヤ木ノマロ殿ニ」という部分について、日下氏は次のように指摘している。

 

 「百済救援に向かった斉明天皇が亡くなった筑前国朝倉の地(福岡県朝倉市。木の丸殿は、その地に造った丸木のままの粗末な宮殿をいい、ここは新院の居所をそれにたとえた」

 

 

和歌を愛した崇徳天皇

 

ウキペディアの中の歌という項目の中に、崇徳天皇が関わった歌集などが記載されています。

一部引用します。

小倉百人一首』から。

瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ崇徳院
意:滝から流れる川の水の流れ(瀬)は速いので、川の水が岩にぶつかたら二つにわかれるがまた合わさって一つの流れになるように、離れ離れになった私たちも、いつかまた逢いたいと思う。

 

 

 

やまとうた さんのホームページには、崇徳天皇の歌が30首納められています。

 

上記の百人一首の歌は、恋の歌として紹介していますが、次のような補足を記載しています。

【補記】第三句「滝川の」までは「われて」を導く序詞であるが、情念のこもった暗喩ともなっている。障害に打ち当たって破局に至る、といった悲恋の経過を読みとることが可能だが、恋歌と呼ぶにはいささか詞が激しすぎはしないか。若くして宮廷の内紛に翻弄され、政争の犧牲として譲位せざるを得なかった院の無念と、なお将来に賭ける執念をこの歌に読み取るのは、決して牽強付会とは言えまい。

牽強付会(けんきょうふかい)とは、道理に合わないことを自分の都合の良いように無理にこじつけること。(コトバンクより)

 

真偽のほどは定かではありませんが和歌をこよなく愛する天皇であったことは、間違いないと思います。

 

もう一首、恋の歌を紹介します。

恋ひ死なば鳥ともなりて君がすむ宿の梢にねぐらさだめむ(久安百首)

【通釈】恋い焦がれた果てに死んでしまったら、鳥にでもなって、あなたが住む家の梢にねぐらを定めよう。

【語釈】◇鳥ともなりて 下記「長恨歌」を踏まえた句。

【本説】白居易長恨歌」(→資料編
在天願作比翼鳥 在地願為連理枝(天に在りては 願はくは比翼ひよくの鳥とり 地に在りては 願はくは連理れんりの枝とらん)

この歌の本説で書かれている長恨歌(天に在りては 願はくは比翼ひよくの鳥とり 地に在りては 願はくは連理れんりの枝とらん)という歌は、学生時代に授業で学んだ歌で、友人の結婚式のスピーチで披露したことがあります。いつまでも仲むつまじい夫婦でありますようにと祝福したものでした。なつかしい思い出が蘇りました。

 

 

落語の演題「崇徳院

 

崇徳院でインターネット検索をしていると、落語家の方々の「崇徳院」という演題のユーチューブが見つかりました。日本最大の怨霊というテーマのユーチューブが多い中で、落語はどういう話なのかと見てみると、百人一首の歌「瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ」を題材に、男女の恋を面白く扱った内容でした。

崇徳天皇も、自分の作った歌が、落語として親しまれているのを見て、さぞお喜びと思います。

笑福亭 松喬 (しょうふくてい しょきょう)」さんの落語を転載します。


www.youtube.com

 

人智で縁を切るなかれ

 

一般社団法人いのちを守る親の会という素晴らしい活動をしている組織があります。

inochi-mamoru.org

日本救命センターとして人工妊娠中絶により失われている赤ちゃんのいのちを守ることを目的とし出産に悩む妊婦へのサポートを通じて赤ちゃんのいのちを守る活動を続けています

理事長は大熊良樹さんという方で、禅僧であり、京都光明地蔵院(京都地蔵文化研究所)の主管でもあり、神社にも10年程修行した経験を持っておられます。

ユーチューブに、喜びが湧く心理学、生き方に関する講話としていのちが喜ぶ話を公開していますが、その中に第66話「人智で縁を切るなかれ」という講話があります。


www.youtube.com

 

私は、この講和を聞いて、縁というものの奥深さを考えさせられました。

よく、「袖振り合うも多生の縁」といいますね。故事ことわざ辞典では、次のように記載されています。

知らない人とたまたま道で袖が触れ合うようなちょっとしたことも、前世からの深い因縁であるということ。 解説 「多生」とは、六道を輪廻して何度も生まれ変わるという意味で、「多生の縁」は、前世で結ばれた因縁のこと。 人との縁はすべて単なる偶然ではなく、深い因縁によって起こるものだから、どんな出会いも大切にしなければならないという仏教的な教えに由来する。

その縁を、安易に「あいつとは、もう二度と会いたくない。」とかいって、怒りで縁を切るのではなく、その縁に感謝をして、悪縁であれば神様仏様に縁切りをお願いすることが大切なのですね。

 

四国全体の守り神「崇徳さん」

ウキペディアの怨霊の後半に次のように記載されています。

その一方で後世には、四国全体の守り神であるという伝説も現われるようになる。承久の乱土佐国に流された土御門上皇後白河院の曾孫)が途中で崇徳天皇の御陵の近くを通った際にその霊を慰めるために琵琶を弾いたところ、夢に崇徳天皇が現われて上皇と都に残してきた家族の守護を約束した。その後、上皇の遺児であった後嵯峨天皇鎌倉幕府の推挙により皇位に就いたとされている。また、室町幕府管領であった細川頼之が四国の守護となった際に崇徳天皇の菩提を弔ってから四国平定に乗り出して成功して以後、細川氏代々の守護神として崇敬されたと言われている

 

香川県坂出市のホームページには、文化財・史蹟の紹介で、「崇徳上皇」が取り上げられています。「讃岐での生活」や「ゆかりの地」を歌をまじえながら紹介しています。

以前は観光協会崇徳院ツアーを開催していたこともあり、そのツアーに参加した人が、「ツアーで坂出に訪れた時、坂出の方たちは、「崇徳さん」と、親しみを込めて崇徳院のことを呼んでいました。昔から地元の方たちは崇徳院のことをこう呼んでいるそうです。」とブログで書かれていました。

 

そして、先に紹介したNHKBSプレミアムの番組の中でも、

「(配所だった場所の)町の皆さんは今も崇徳さんと呼ぶ。おいたわしい、かわいそうという気持ちで霊を慰めるという気持ちが強いということを感じた。」

と紹介されていたそうですし、番組に参加していた郷土史家の方も、「崇徳さん」とおっしゃっていたそうです。

 

都で怨霊と恐れられていた崇徳天皇は、四国では守り神として崇敬され、崇徳さんとして地元では慕われているのですね。

 

親しみを込めて、参拝します

崇徳天皇を調べ始めたときは、「日本最大の怨霊」という内容が多かったのですが、調べが進むうちに、和歌を愛し、地域の人を愛したやさしいお人柄が偲ばれるようになりました。

 

「悪縁切りの神様、おはようございます。」👏

 

親しみを込めて、毎朝ご挨拶しています。