朝倉図書館で「朝倉風土記」を眺めていたら、太刀八幡宮の図という挿絵を見つけました。
「朝倉風土記」というのは、古賀益城(ますき)さんが編集したものです。
朝倉市のホームページのふるさと人物誌に紹介されています。
一部引用します。
郷土朝倉の歴史を調べるとき、無くてはならない名著があります。「あさくら物語」「あさくら物語別冊」「朝倉風土記」の3冊です(合計約1700ページ)。今回は、その著者古賀益城の生き方と学問について紹介します。
この挿絵は、「筑前国続風土記付録」 より模写と書かれています。
寛政11年(1799年)
福岡藩士 加藤 一純(いちじゅん)編集
今から225年前の風景です。
姥ヶ池 社の前なる田の中にあり。昔は大なりしが今は僅かに一畝斗池なり。
一ツ木 神功皇后、御陣営をもうけさせ給ひし所と云、周囲6間余(約10m)、高さ九尺(約2.7m)ばかりの塚なり。東南の方は広く、西北は狭し。上は平らかなり。
社の南に清水あり。叢中より流れ出、冬夏にも増減なし。太刀の小川とも云。
本殿横には、金比羅社、録記堂、稲荷社、太刀塚が描かれています。
境内社の移り変わりを感じますが、太刀塚は変わりませんね。
録記堂というのは、社伝を保管したり、今の社務所の役割もしていたのでしょうか?
鳥居は、子持ち鳥居が明和2年(1765年)に建立されていますが、挿絵では普通の鳥居で描かれています。(挿絵は1799年)
子持鳥居の向かって左側に、描かれている木は桜🌸かな?
以前長老は子供の時、「神社南側の桜の木の下で、大人たちがどぶろくを飲んで宴会をしていた。子供の私も飲まされた。」とおっしゃっていました。
花見というと、若い頃会社員時代に公園で飲んだり、ビール瓶をマイクに見立てて、歌ったりしたことを思い出します。
花見は「予祝」の原点の習慣という記事があります。
一部引用します。
春に満開に咲く「桜」を、秋の「稲」の実りに見立てて、仲間とワイワイお酒を飲みながら先に喜び、お祝いすることで願いを引き寄せようとしていたのです。
これを「予祝(よしゅく)」といい、辞書にも載っています。
そういえば、令和6年の春の例大祭のブログで、次のように紹介しました。
内藤主税 宮司さんがおっしゃっていますが、春の例大祭は、正式には「祈年祭」といいます。
本来は民衆が行う田の神への予祝祭であった。
つまり、春の例大祭(祈念祭)で神々に秋の豊穣を予祝として祝い、その後満開の桜の下で、老若男女酒を酌み交わし、予祝を楽しんでいたということでしょうか?
その文化を農村は代々引き継いで来たのでしょうね。
戦後の時代に流されて
長老はおっしゃっていました。
「戦後、杉の木が金になるからということで、桜をはじめたくさんの木が伐採されて、杉が植えられた。」
昨年1200年祭奉祝事業として神殿などの修復工事の際、境内の杉などが使用できないか森林組合に相談したところ、コストが高くなってしまうということで諦めたと会長が言われていました。
まるで、山の荒廃と同じで、戦後住宅用の木が必要ということで、山に植えられた杉・ひのきが、安い木材の大量輸入により、金にならず山の手入れが出来なくなったということと似てますよね。
こうして、太刀八幡宮の鎮守の森は時代と共に変化していきます。
次の時代、この鎮守の森🌳が、氏子の皆様に愛される森であり続けるためには、今何が必要なのか。
今後検討していきます。
ちなみに、江戸時代も「ふくろうさん🦉」いたかなー