前回のブログの続きです。
碑石に刻まれた文字は、
天文十七年 戊申 三月十五日
太刀八幡大神
肥後八代城主
山本大納言?
でした。
それに対して、疑問が残りました。
肥後八代城主
山本大納言?
とは、どなたでしょうか。
ひごやつしろじょうしゅでしょうか?
ひごはちだいじょうしゅでしょうか?
何故肥後(熊本)なのでしょうか?
いつか、謎が解けるでしょう。
と前回は終わったのですが、とても気になり、この碑石を工事で掘り出した山田堰土地改良区に問い合わせをしてみました。
残念ですが、山田堰土地改良区の方は、知りませんでしたが、恵蘇八幡宮の宮司さんに聞くと良いと教えて頂きました。
それで、恵蘇八幡宮の上原宮司さんにさっそく電話をして、この碑石の事をお聞きしました。
この碑石は、父た宮司時代に発掘されたもので、父が話していたこととして、次のように教えて下さいました。
この碑石は、山田堰のために埋められたものではなく、たぶん上流から流れついたものではないか。
太刀八幡大神は、武運の神様だから、上流のどこかに祀られていた碑石が、大雨で流れついて、山田堰までたどりついたのではないか。
上流で、肥後というと、阿蘇が考えられるが、定かではない。
私は、前回のブログで、
碑石に彫られている天文(てんぶん)十七年 戊申(つちのえさる) 三月十五日は、1548年 今から476年前です。
つまり、この最初に堀川ができた115年前に、この碑石が川底に奉納されたことになります。
堀川の最初の工事が、無事に成功するように、関係者が奉納したことは容易に想像出来ます。
と書きましたが、肥後の城主が山田堰の安全祈願をするとは思えませんよね。
福岡藩の仕事ですからね。
仮に、太刀八幡大神が肥後の国で祀られていたとすると、これまた武士の神様・武運の神様として、崇められいたということでしょうか?
謎解きというのは、楽しいですね。
脳トレには、最適です。
上原宮司さんも、何か分かったら私にお知らせしてくれると、おっしゃって頂きました。
この謎解きは、さらに続くでしょう。