氏神様は太刀八幡宮

1200年の歴史を紐ときます

古賀百工さんから中村哲さんへ 受け継がれた技術と思い

先日、「古賀百工さんの功績」というブログを公開しました。

 

goodlightsato.com

 

その中で、古賀百工さんがあまり地元の方に知られていないことを、次のように書かせていただきました。

 

朝倉の歴史に詳しい山崎長太郎さんという方が、百工さんのことを語っていますが、最後の方で次のようにおっしゃっています。

 

「百工さんのことを話すると、年寄りの人が、「そげな人がおったとな」と言われる。

百工さんのことが、あまり知られとらん。」

 

私も先日、村の懇親会で、お隣の人に古賀百工さんの話をしたら、「それって誰?」

と言われて、私の方がびっくりしました。

 

今回は、日本はもちろん海外にもその名の知れた中村哲さんと古賀百工さんとの関わりについて、書いてみます。

 

朝倉市民栄誉賞 第一号

 

中村哲さんが、アフガニスタンで凶弾に倒れ亡くなられたのが2019年(令和元年)12月4日です。

 

朝倉市は、翌年2020年(令和2年)1月23日 朝倉市民栄誉賞表彰規則を発行し、故中村哲さんに朝倉市民栄誉賞を授与しました。

 

2020年2月1日の朝倉市の広報誌に、中村哲さんの特集が組まれました。

 

www.nishinippon.co.jp

 

広報紙の内容は、朝倉市のホームページから見ることが出来ます。

 

www.city.asakura.lg.jp

 

この朝倉市広報の題名は、次の通りです。

朝倉とアフガニスタンとの懸け橋

~緑の大地計画への思いと山田堰~

 

広報を読めば、概要が良く分かるので、是非ご覧になって下さい。

 

色々な報道メディアで中村哲さんの偉業は、語られています。

 

私は、マンガ「中村哲」を図書館で借りて読みました。

朝倉図書館では、中村哲さんコーナーが設置されています。(令和6年7月現在)

 

下痢で簡単に子供が死んでしまう現状を変えていくには、100人の医者を連れてくるより、目の前を流れる大河「クナール川」から水を引いて、用水路を一本作るしかないと考えて、「緑の大地計画」を作成します。

 

ここで難関なのは、クナール川からの取水堰です。

 

中村哲さんは、日本全国の堰を見て回り、そして朝倉市の山田堰を見て「これに優るものは無い。」と山田堰をモデルにすることにしたとのことです。

 

山田堰との出会いについて、中村哲さんは「アフガニスタンの堰作りの最大のターニングポイントになった」と語られていたそうです。

 

広報の中でも

中村医師は何度も山田堰を視察。工法の研究のため、川岸で堰を一日中みつめていることもありました。

と書かれています。

 

中村哲さんは山田堰を見ながら、時代を超えて、古賀百工さんや労働者の方々や自然の神様方と会話を重ねていたのではないでしょうか。

 

中村哲さんが世界に向けて、山田堰を発信したおかげで、2014年 世界かんがい施設遺産に登録されています。

 

西日本新聞社のホームページにある中村哲医師特別サイトに「アフガンの地で 中村哲医師からの報告」という中村哲さん自身が投稿した内容が見れるのですが、再三にわたり山田堰のことを紹介しています。

 

2012/5/27付 西日本新聞朝刊

筑後川の知恵結ぶ

から一部引用します。

 

specials.nishinippon.co.jp

 

筑後川の山田堰(ぜき)は、1790年、古賀百工という朝倉の庄屋の手になる。人口増加、飢饉(ききん)と餓死が日常であった時代、幾度も改修を重ね、ついに現在の形を造った。調べるにつけ、現地が当時の日本と同じ苦悩に喘(あえ)いでいたことを知った。あえて堰の原形をとどめてくれたのはわれわれには幸運だった。その解決法をも提供してくれたからだ。

 近代的な技術や重機もなかった時代に造られたこの取水堰には、驚くべき知恵が込められている。取水の間口を広くとり、河道全体を斜めに堰上げて水位変動を抑え、土砂流入を防ぐ。川を閉じ込めず、広い遊水地を対岸に設ける。まさにわれわれが求めるものであった。その応用はマルワリード取水堰に始まり、試行錯誤を経て、近隣の主な取水口に建設され、不可能と言われた安定灌漑(かんがい)が次々に実現した。一連の取水堰工事の成功は、悲願の「洪水と渇水に耐える取水システム」の実現であった。

 ーかくて東部アフガンと九州、220年の時と6千キロ離れた両地域は、水と命を介し、期せずして結ばれた。おそらく偶然ではあるまい。温故知新という。物言わぬ堰は、人と自然の関係についても、問いを突きつける。「近代」の破局が全世界で現れ始めた現在、私たちはどこに向かおうとしているのか。

 取水口の完成を喜ぶ人々の上空を、けたたましく外国軍ヘリが過ぎてゆく。平和な生活への願いとは、あまりに場違いなものだ。守るべきもの…それが目先の景気や軍事力でないことは確かである。

 

 

この美しい文章には、時代と距離を超えた硬い絆、何か目には見えない糸で結ばれた中村哲さんと古賀百工さんの抱擁を感じて、思わず涙が流れました。

 

そして江戸時代に作られた山田堰(傾斜堰床石張堰)が、日本で唯一残されたことへの感謝の雄叫びが感じ取れます。

 

こうした中村哲さんの山田堰・古賀百工さんへの感謝の思いそしてアフガニスタンに第二の山田堰を作った功績が、朝倉市民栄誉賞に繋がったのでしょう。

今のところ、第二号はいません。

 

ちなみに、中村哲さんは、福岡県民栄誉賞、福岡市名誉市民を始め数々の賞を受賞しています。

 

 

中村哲さんの思いが朝倉人へ

 

2019年12月6日の西日本新聞の記事は

『山田堰に光「中村哲先生のおかげ」 アフガン潤した先人の知恵に着目』

という内容です。

凶弾に倒れた2日後です。

 

アフガン潤した先人の知恵に着目

www.nishinippon.co.jp

一部抜粋します。

出会いは2009年。山田堰(ぜき)の視察に来た中村医師を、当時事務局長だった徳永さんが対応したことから親交が始まった。「世界に誇れる山田堰にスポットが当たっていないのはおかしい。もっと発信すべきではないか」。面と向かって中村医師から指摘され、気付いた。「尻に火が付き、情報発信に力を入れ始めた」

 山田堰にヒントを得てアフガンに取水堰の整備を進めてきた中村医師は、各地の講演会でたびたび山田堰を紹介した。国内外に堰の存在が知られると、地元住民の意識も変化し、川の清掃活動を始めた。その参加者は今や千人規模だ。「先生のおかげで地域の宝であることを再認識できた。みんなで守り、次代につなごうとする機運が高まった」

 

朝倉は、三連水車は有名だが、山田堰こそが世界に誇れる遺産ということに、気づかされた徳永哲也さん始めとした山田堰土地改良区の方々は、情報発信に努めました。

分かる範囲で一部紹介します。

 

平成20年(2008年) 「堀川の環境を守る会」が結成され、堀川用水のクリーンアップ活動を開始する。今では1,000人程(小学生160名程)のボランテイアが参加しています。

 

平成22年(2010年) 朝倉地区の小学校4年生を対象に、熊本県小国町で水源林体験学習を開始する。

 

令和3年(2021年) 中高の修学旅行先に、平和学習の一環として山田堰が取り上げられ、1時間の講和を行う。2022年には、15回講演活動、1300人程の中高生に情報発信を行う。

 

その他にも久留米大学で90分の講義を5年以上行ったり、情報発信に努めています。

 

また、三連水車の維持にも多額の費用がかかることから、解体した水車の部品を販売するなど収入を増やす取り組みも行っています。

その他数々のパンフレットを作成していますので、ご覧の方も多いと思います。

 

私は、令和元年から3年まで太刀八幡宮の総代を経験したのですが、その時徳永哲也さんも太刀八幡宮の総代をされていました。令和2年の1月だったと思いますが、内藤宮司さんを囲んだ総代の新年会に参加した時、徳永さんが「何故、あげな素晴らしか方が、殺されなならんとか」と、肩を落とされていた姿を鮮明に覚えています。

その頃の私は、徳永さんと中村哲さんの親交について、また山田堰についても何も知らない時でした。

 

 

山田堰展望広場に建てられた中村哲さんの記念碑

 

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令和3年に朝倉ライオンズクラブが寄贈した、中村哲さんの記念碑です。

 

左の肖像とともに刻まれている「濁流に沃野(よくや)夢見る河童(かっぱ)かな」は、山田堰を訪れた際に読んだ直筆の句です。古賀百工さんを偲んで読んだと言われていますが、河童伝説の多い筑後川を眺めながら、自らも河童となってアフガンの緑の大地を夢見ていたのではないでしょうか。河童達も時空を超えて応援に行ったと思うのは、妄想でしょうか?

 

右の塔は、アフガニスタンにある中村哲さんをたたえる記念塔をアレンジしたものです。

「照一隅」

先に紹介した西日本新聞中村哲医師特別サイトの中に次のように紹介されています。

中村さんが、
好んで使ったのが「一隅を照らす」という言葉でした。
<今いる場所で希望の灯をともす>

 

このような奇跡を導いたのは

 

古賀百工さんは、山田堰と堀川の事業を進めるにあたり、太刀八幡宮の神々に祈りを捧げ、そして子持鳥居を他の庄屋達とともに寄進しました。生家が太刀八幡宮の近くだったことから、毎日のように参拝していたのではないかと想像します。

そして、水神社、恵蘇八幡宮の神々にも祈りを捧げたことでしょう。

山田堰は古賀百工さんが考案し、約64万人の先人たちの手で築造された

と、朝倉市の広報に記載されています。

古賀百工さんと多くの石工、農家の方々、奥様方そして神々の応援があって、山田堰は作られました。

その山田堰は筑後川の幾度の洪水に耐え、他の堰は流されコンクリート作りに改良されていく中、原型をとどめる形で改修を重ねてきています。

 

日本で唯一残った傾斜堰床石張堰。

 

この奇跡の山田堰に、出会った中村哲さん。

そして、アフガニスタンに奇跡の緑の大地を復元していきます。

同じ広報に、次のように記載されています。

現在では9カ所の堰が設けられ、65万人が帰農することが出来ました。

武器を捨て、鍬を持って事業に参加したアフガンの人々。

このアフガンの奇跡を誰が導いたのでしょうか。

中村哲さんはキリスト教徒ですが、私は宗教の枠を超えて、神々が応援していたことは間違いないと感じるんですね。

 

古賀百工さんと中村哲さん

 

生きた時代も違えば、活動する場所もまったく違うのに、まるで中村哲さんは古賀百工さんの生まれ変わりではないかと思わせるような、よく似た境遇の中事業を推し進めていきます。

 

このブログを見て頂いた方々が、郷土に

こげな素晴らしい先人がいた

こげな素晴らしい文化遺産がある

という誇りを感じてもらえると嬉しいです。

 

そして、中村哲さんの書籍やDVD📀を手にとっていただけると有り難いです。

おすすめは、DVD「カカ・ムラド 中村哲の信念」テレビ西日本作成です。

朝倉図書館の中で見たのですが、思わず泣いちゃいました。😭

山田堰も映っています。

 

愛に生きた古賀百工さんと中村哲さんに今一度手をあわせます。🙏