氏神様は太刀八幡宮

1200年の歴史を紐ときます

太刀八幡宮の絵馬 その8 脇屋義助の正論

脇屋義助(わきやよしすけ)の正論

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奉納

明治41年 戊申 2月

三井寺区 参宮同行

18名の方々と世話人として4名の名前が記載されています。

田中さん 鶴田さん 鶴川さんの名前が読み取れます。

 

 

鶴田多々穂さんの解説

 

太刀八幡宮の絵馬その1 神功皇后三韓征伐図の中で、絵馬を調査した功労者として紹介した鶴田多々穂さんは、この絵馬の解説を残しています。

一部私が読み取れない箇所もありますが、全文を引用させていただきます。一部言葉の解説を付け加えています。

 

武兵の面目を識(わきまえ)る脇屋義助

 

南朝の忠臣 新田義貞の弟 脇屋義助は、兄に劣らざる誠忠・智謀兼備の名将であった。

 

義貞、義助は元鎌倉の幕下であったが、勤皇の志篤く、時の執権 北条高時の専横(好き勝手に振る舞うこと)を憤り、高時討伐の義兵を挙ぐべきときを窺っていた。

 

たまたま楠正成(まさしげ)等、高時討伐の兵を挙げたので、高時は弟 泰家に20万の大軍を授けて京へ進発せしめんとし、関八州の豪族にその兵糧軍費を課し、上野国新田庄(現在の群馬県太田市および桐生市伊勢崎市みどり市の一部と埼玉県深谷市の一部)にあった荘園)に居た新田氏へも銭六萬貫の軍費を財課し、使者として出雲冬親連?を遣わした。

 

義貞大いに憤り、使者を斬り村の入り口にさらし首にした。

 

これを知った高時、激怒し義貞を討たんとしたが、この報を耳にした義貞は一族を集め謀議した。

 

或る者は鎌倉方の大軍を利根川に迎いて討つにしかずと唱へ、或る者は敵は大軍なれば、一先ず越後に退き彼の地の一族を糾合(ある目的のもとに人々を寄せ集め、まとめること)して兵を挙げんと論議まちまちにてまとまらず、この時 脇屋義助進み出て、

 

方々は余りにも消極的なり。先んずれば人を制すとの例え、座して強敵を待ち勝ちたるためし未だなし。

退いては徒(いたづら)に士気を無くし結局敗戦に終わらんか、天下の人々はあれ見よ新田は北条の使者を殺した罪で誅伐(罪ある者を攻め討つこと)されしと笑われん。同じ命を捨てるなら、勤王の大義のために我から進んで北条を討ち、最後の一騎なりしとて鎌倉へ攻め入るべし。待って死するか進んで討死するかは云わずとも明らかなり

 

と凛然として論駁(相手の論や説の誤りを論じて攻撃すること)したので。一族勇躍直ちに挙兵を挙げ、4万7千騎をもって鎌倉を攻め、高時を亡ぼした。

 

 

この絵馬の状況を、非常に理解しやすく解説しています。

私は脇屋義助という人を知りませんでしたが、歴史好きの方には、有名な話なのかもしれません。

 

脇屋義助の生涯

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ウキペディアより転載 菊池容斎画『前賢故実』より

 

 

愛媛県今治市脇屋義助公廟があります。「廟(びょう)」とは、先祖や先人の霊を祀る建物のことです。

 

今治市のホームページには、観光情報として、紹介していますので、写真と解説を一部引用します。

 

脇屋義助公廟の写真

 

南北朝時代南朝方は四国の総大将として新田義貞の弟脇屋義助刑部卿に任じて伊予(現在の愛媛県)に派遣しました。義助公は今治浦に上陸し本営を国府に移しましたが、20日ばかりで病没しました。現在の墓碑は江戸時代に再建されたものです。

 

 

城郭放浪記さんのホームページには、13枚の写真を紹介していますが、その中に今治市教育委員会の由来看板あります。転載します。

伊予 脇屋義助公廟堂-城郭放浪記

 

この由来を読むと、当時の時代背景が簡潔にまとまっています。南北朝時代の戦いの状況、兄 新田義貞南朝の有力武将が討ち死にする中、南朝方の総師として四国に入りますが、38歳で病に倒れたことが分かります。

 

義の人生を貫いた武将だと感じます。

 

この由来書の最後に、貝原益軒の名前があるので、福岡とのつながりもあるのでしょうか。

 

ウキペディアには、

新田氏発祥の地である群馬県太田市と、脇屋義助が病没した地である愛媛県今治市は、2002年に姉妹都市提携を結んでいる

と記載されています。

 

脇屋義助の人生が後の世に、遠く離れた都市の縁を結んでいるとは、驚きですね。

 

ちなみに、ウキペディアには墓所として、福井県坂井市丸岡町長崎の称念寺?と鳥取県倉吉市新町の大蓮寺が記載されています。

今治市でも、太田市でもないのは何故でしょうか?

歴史の謎があるのでしょうね。

 

今回も一枚の絵馬から多くの学びをすることが出来ました。

この絵馬が掲げられた時、義の講談をした方々が目に浮かぶようです。

それを聞いた子供たちは、義の心を養い、人生を貫いていかれたことと思います。

 

来月には、64歳になりますが、私もこの絵馬から学んだ義の心を胸に、人生をまい進していこうと思います。

 

(人''▽`)ありがとう☆ございます