恵蘇八幡宮は、朝倉市山田にある神社で、朝倉地域の総社と言われています。
我が家の神棚には、お伊勢さんの天照皇大神宮、太刀八幡宮そして恵蘇八幡宮のお札が並んでいます。
この恵蘇八幡宮の境内の東側に、境内社として太刀八幡大神が祀られています。
背景には、山田堰の水神社が写っています。
最上部石碑には、
天文十七年 戊申 三月十五日
太刀八幡大神
肥後八代城主
山本大納言?
と彫られています。
その下の台座の碑文です。
此の碑石は 昭和
五十六一月 山田堰
改修工事中 堰の
上流右岸 七米の
水底より発掘す
よって此の地に祀る
昭和56年は、1981年。今から43年前です。
山田堰の改修工事中に、太刀八幡大神と刻まれた碑石が、川底より出てきたのですから、工事関係者も含めて当時大きなニュースとして取り上げられたのではないでしょうか?(残念ながら、今のところ見つかりません)
山田堰
朝倉市のホームページには、山田堰の概要を簡潔に紹介していますので、是非ご覧ください。
一部引用します。
山田堰は、江戸時代に干ばつで苦しむ農民たちを救うため筑後川右岸の耕地を水田化するために設けられた井堰です。
先人の知恵と技術の結晶であり、朝倉市の輝かしい文化です。2014年には、「世界かんがい施設遺産」に登録されました。
また、農林水産省のホームページでは、
日本で唯一の石張堰である山田堰
と紹介しています。
碑石が埋められた背景
碑石に彫られている天文(てんぶん)十七年 戊申(つちのえさる) 三月十五日は、1548年 今から476年前です。
次の写真は、水神社境内に掲げられて「江戸時代の堀川関係年表」です。
始まりが
1663年 寛文3年 堀川できる
となっています。
つまり、この最初に堀川ができた115年前に、この碑石が川底に奉納されたことになります。
堀川の最初の工事が、無事に成功するように、関係者が奉納したことは容易に想像出来ます。
干ばつで苦しむ農民を助けるために残された道は、この筑後川の水を引くことなしにはあり得なかったのでしょうね。
今でいう工事の安全祈願祭として、この太刀八幡大神の碑石を安置したというのは、太刀八幡大神に寄せる期待の大きさというか、太刀八幡大神の力添えなくして、この事業が成功しないということを表していますね。
この碑石を奉納した
肥後八代城主
山本大納言?
とは、どなたでしょうか。
ひごやつしろじょうしゅでしょうか?
ひごはちだいじょうしゅでしょうか?
残念ながら、私のインターネット検索能力では、探しきれませんでした。
そもそも何故、肥後なのでしょうか。
肥後と言えば、童謡ではありませんが、熊本県ですよね。
国土交通省の筑後川河川事務所のホームページには、次のように記載されています。一部引用します。
万治のはじめ(1658年頃)、現在の山田堰のかんがい地区である朝倉町および甘木市の一部においては、すでに地区内を流れる谷川の水を利用し、少面積ではあったが、稲を栽培していた。
その後、年貢の増徴等が続き、年貢を確保するには新田開墾という気運が高まり、また福岡藩においても藩の施策として取り上げ、新田開墾に重要な用水源を筑後川に求めることとし、堀川用水新設の企画がなされた。
つまりこの事業は、福岡藩の施策とあります。
ただ、碑石はこの「万治のはじめ」の約100年前のものですからね。
山本大納言?とはどなたでしょうか。
この謎はいつか解けると信じましょう。
それにしても、476年前に祈念して納められた太刀八幡大神の碑石が物語るのは、その後何度も改修したとはいえ、日本で唯一の石張堰として現在も活用され、「世界かんがい施設遺産」に登録され、そしてその技術は中村哲さんの手によりアフガニスタンの農地開拓に活かされているなんて、すごいつながりですよね。
当初の奉納者の想像を超えた神計らいがなされ、現在の世に活用され、今後も大切に地元の人達に手によって引き継がれていきます。