氏神様は太刀八幡宮

1200年の歴史を紐ときます

太刀八幡宮 鎮守の森 フクロウの鳴き声

令和5年2月の中旬でした。

その日は朝早く出かける用事があり、朝の太刀八幡宮へのお詣りは、朝の5時頃にいつもの様に、犬たちと出かけました。

 

普段も6時頃に参拝しているのですが、この時期は日の出前で、当りは真っ暗です。

頭には、ライトをつけて散歩しています。

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すると、神社の森の中から、

ホー ホーと鳴き声が聞こえてきました。

 

え😲 フクロウ

 

聞こえてくる方向は、西の参道の森です。

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大きな楠(くすのき)や椋(むく)の木が立っています。

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この森には、フクロウが住み着いています。

 

フクロウの巣は、どこにあるのか分かりませんが、今後の楽しみが出来ました。

 

村の人に話をしたら、

 

「そうですよ、この森にはフクロウがいますよ。河川の改修工事が落ち着いて来たので、野鳥たちも帰って来ている。」

 

と教えてくれました。

 

ユーチューブで見つけたフクロウの鳴き声です。

太刀八幡宮で聞いた声に、よく似ています。


www.youtube.com

 

この鎮守の森が、次の世代にも癒しと喜びと感動を与える森であり続けるように、少し手入れをしていければと思っています。

 

鎮守の森の学びと実践を、今後ブログで発信していきます。

太刀八幡宮の絵馬 その10 天孫降臨 猿田彦とアメノウズメのヌード

 天孫降臨 猿田彦とアメノウズメのヌード

 

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奉納 大福村小塚

大正8年(1919)3月28日吉日

星野 西 師岡 矢野 高橋 他の名前が読み取れます。

絵馬師の名前 □嶺画㊞

 

初めて拝殿の絵馬達を見たとき、この絵馬にもっとも惹かれました。こんなにエロチックな絵馬があるなんて。

おっぱいをさらけ出して踊る姿から、天の岩戸神話に出てくるアメノウズメの踊りを想像しましたが、アマテラス様がいないので違う神話です。

 

鶴田多々穂さんは、この絵馬の解説を次のように記しています

戦士の神、太刀八幡宮にこの様なユーモアな絵馬があろうとは想像もしなかった。

大正8年3月28日大福村小塚の参宮同行の人々が奉納したものであるが、岩戸神楽の図と思う。

天のウズメの命が大きな乳房を出して踊っている。左側の老人は、木に止まって驚いている。

女性ヌードの始まりというべきであろう。

 

それにしても、このおっぱいに込めた祈りは何だったのでしょうか?

 

神話のカリカチュア(風刺画)

 

筑紫路の絵馬 (市場直次郎著 昭和49年4月発行 ㈶西日本文化協会)という本があります。その中に、神話のカリカチュアと題して、阿蘇神社(福岡県朝倉郡杷木町:現朝倉市杷木町)の絵馬が白黒写真付きで紹介されていました。

なんと、太刀八幡宮の絵馬とそっくりではありませんか。

阿蘇神社の絵馬は、安政6年(1859)、太刀八幡宮の絵馬より60年前に奉納されています。

 

下の写真は、令和5年3月4日 戸締りされている拝殿の中に掲げられている絵馬を、格子の隙間からスマホで撮影したものです。肉眼で覗いても、暗くて何が掲げられているのか分からなかったのですが、今のスマホは性能が良くて、よく映っています。

 

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そして、この絵馬を、市場直次郎さんは非常に分かりやすく、名文で解説しています。

長文になりますが、感謝して引用させていただきます。

 

この愉快な絵馬は、筑前筑後・豊後の国境に近い杷木町穂坂の、筑後川に臨む丘上にある阿蘇神社の拝殿にかかる。この縦横各1.3メートル余の大絵馬は、安政6年(1859)の初春に小林直七以下7人の連名で奉納したもの。画家の署名はないが、印文に華仙とある。図は三人立ちの人物像で、左側のいかめしい赤ら顔、偉大な天狗鼻の大男はサルタビコ(猿田毘古)の神というちまたの神だから、国境の道筋に鎮座する神社にふさわしい絵ともいえるのだが、この絵にはそれよりももっと重要な意味がありそうである。

 

三人の人物のうち、大男のサルタビコに相対するお多福顔、小柄な肥り肉(じし)の女性は、これも有名なアメノウズメ(天宇受売)の神。彼女はあられもなく胸かきひろげて、おそろしく豊満な乳房をつき出し、裾まくりあげて赤い下裳(したも)もあらわに、これ見よがしの態(てい)たらく。サルタビコはと見れば、目尻をさげ、舌なめずりしながら身も心も女神の虜(とりこ)になったかの有様。女神のうしろに控える髭男は、腰に長剣を横たえながら、御幣と鈴とを持って笑いながら声援の様子。これはニニギノミコト(邇々芸命)に従う武神のひとりか。

 

天孫ニニギノミコト高天原(たかまがはら)からくだろうとするとき、道のやちまた(分かれ道)にものすごく光り輝く神がいたので、天(あま)つ神の命を受けたアメノウズメが出かけて談判する。アメノウズメは神々から『汝は手弱女(たをやめ)にはあれども、いむかふ神と面(おも)勝つ神(相対する神に向かって気おくれせぬ神だ)』と評されたほどの外交手腕の持ちぬし。そこで、相手はいたって素直に、天孫の先導をしようと思って出ているのだとの答え。かくて、いかめしいサルタビコが忠実な案内役となって、天孫の一行は無事に筑紫(つくし)の日向(ひむか)にくだられることになる、というのである。

 

この絵馬の筆者は、こんな厳粛な神話を戯画化して、天狗鼻の男神に半裸の女神を対立させ、脇役に声援の武神を配して、さながら里神楽(さとかぐら)の舞台の雰囲気を表現したので、まずは江戸末期の画家による漫画のはしりともいうべき作品である。じつは、本図のような鼻高面の男神役とお多福面の女神役が登場して性的なしぐさを演ずることは、地方の神楽や田楽などの民族芸能の伝統であり、現にこのウズメの、目鼻がひとところに寄った特異な面相はたしかに神楽の土俗面に根拠をもとめることができる。このようなサルタビコとアメノウズメのわざおぎ(伎芸)には、これによって稲霊を刺激して豊産を招く呪術としての性格があって、ただに観客を笑いに誘うというだけの笑劇ではないのである。この絵の筆者もまたこうした伝統に立って、神話に取材しながらも、絵馬奉納主の農民たちの豊作祈願の意を表現したのであろう。

 

この素晴らしい解説のお陰で、この絵馬は、天孫降臨の時の、サルタヒコとアメノウズメの出会いの場面だというころが分かりました。

そして、この場面はただおっぱいを出したヌード絵ではなく、稲霊を刺激して豊産を招く呪術としての性格を持ち、絵馬奉納主の農民たちの豊作祈願の意を表現したものだと理解できました。

 

 

日本神話 猿田彦 天孫降臨とアメノウズメとの関係

 

神社ソムリエのあやかりチャンネルさんが、天孫降臨の状況を分かりやすくユーチューブで配信しています。


www.youtube.com

 

猿田彦とアメノウズメは後に結婚したのですね。

その運命的な出会いの場面が、この絵馬に描かれていたのです。

 

 

椿大神社

 

伊勢国一の宮 猿田彦大本宮 椿大神社が、三重県鈴鹿にあります。

全国でお祀りする猿田彦大神総本宮として信仰されているとともに、猿田彦大神をはじめ、妻神・天之鈿女命様など古来からの神々をお祀りしています。

 

tsubaki.or.jp

 

 

椿大神社ホームページより転載

椿大神社のホームページの画像と、絵馬に描かれたものには、少し差があるような気がしますが、ユーモアいっぱいの絵馬の場面も素敵ですよね。

 

猿田彦のご神徳

ホームページを一部引用します

猿田彦大神は、天照大神との幽契により、天孫を先達啓行、皇大神宮の永久御鎮座の大宮所をもお定めになられたことから、地上に生きとし生けるものの平安と幸福を招く「みちびきの祖神さま」と崇敬されています。

 

アメノウズメのご神徳

ホームページを一部引用します

天之鈿女命は、「鎮魂の神」「芸能の祖神」として、俳優(わざおぎ)芸事をはじめ、あらゆる芸道の向上、また、 縁結び・夫婦円満の守護に霊験あらたかとして、古来より信仰されています。

 


猿田彦神の石碑

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私の住んでいる地区には、猿田彦神の石碑があります。

車で走っていても、あちこちで見ることが出来ますよね。

天孫降臨の時、道案内役を務めたことから、導きの神として祀られています。

 

20年以上前までは、2か月に一度この石碑の前でお祭りがあり、お団子を配っていたと村の人達から伺いました。

 

私と妻は、前を通る度に、ご挨拶をさせて頂いています。

 

これからも、人生の道案内をお願いします。

太刀八幡宮の絵馬 その9 藤原保昌 月下弄笛図

 藤原保昌 月下弄笛図

(ふじはらやすまさ げっかろうてきず)

 

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奉納 参宮同行

大正7年3月

いろは順として19名の名前が記載されています。

大内田 竹井 浦 丸山 手嶋 平田さんの名前が読み取れます。

どの地区の方々の奉納でしょうか。

 

非常に美しい絵馬で、笛をふく武将の立ち姿の美しさに、惚れ惚れします。

 

つきおかよしとし

月岡芳年 作「藤原保昌月下弄笛図」

 

先日、図書館で「もっと知りたい浮世絵 田辺昌子著 東京美術 2019年12月」を見ていた時、この絵馬の元図であろう浮世絵の紹介が写真とともに記載されていました。

その解説を引用します。

満月のもと、薄(すすき)の生いしげる野を笛を吹きながら悠然と歩む藤原(平井)保昌と、それをねらう袴垂保輔(はかまだれやすすけ)の緊迫感のあるシーン。芳年の傑作としてとして名高い作品で、明治15年秋の「内国絵画共進会」に出品した肉筆画をもとに、版元にすすめられて版画化したものと伝えられている。その隙のない保昌の姿に、結局保輔は襲うことができず従うことになる。難しいシーンであるが、彫摺の素晴らしさもともなって、見事に張りつめた空気を表現している。

 

絵馬師が、浮世絵の題材を参考にしていることが、よくわかりますね

 

以前紹介した、刀剣ワールドさんのホームページにも、標題の浮世絵と解説が記載されています。

www.touken-world-ukiyoe.jp

 

 

藤原保昌(やすまさ)

 

この名前は、以前紹介した絵馬「源頼光 鬼退治(酒吞童子)」の中に出てきました。

日本の鬼の交流博物館のホームページの、酒呑童子伝説を一部引用したものですが、再度引用します。

姫君たちを奪い返し酒呑童子を退治するため大江山へ差し向けられたのが、源頼光(みなものとのよりみつ)を頭に藤原保昌(ふじわらのやすまさ)並びに四天王の面々、坂田公時(さかたのきんとき)、渡辺綱(わたなべのつな)、ト部季武(うらべのすえたけ)、碓井貞光(うすいのさだみつ)ら6名です。

 

ウキペディアによれば、人物として次のように記載されています。

一部引用します。

武勇に秀で、源頼信平維衡平致頼らとともに道長四天王と称された。のちに、道長の薦めもあり女流歌人和泉式部と結婚した。保昌自身も歌人であり、『後拾遺和歌集』に和歌作品1首が採録されている。

中世文学のなかで坂上田村麻呂藤原利仁源頼光とともに中世の伝説的な武人4人組の1人と紹介された。

 

そして、説話の中に次のように記載されています。一部引用します。

今昔物語集』には、以下の話が記されている。 10月朧月の夜に一人で笛を吹いて道を行く者があった。それを見つけた袴垂という盗賊の首領が衣装を奪おうとその者の後をつけたが、どうにも恐ろしく思い手を出すことができなかった。その者こそが保昌で、保昌は逆に袴垂を自らの家に連れ込んで衣を与えたところ、袴垂は慌てて逃げ帰ったという

 

この絵馬は、今昔物語・宇治拾遺物語にある説話の一場面だったのですね。

 

ユーチューブで藤原保昌を検索すると、素晴らしい動画に出会いました。

よろづ萩葉の万葉ちゃんねるさんです。

この物語を、原文も含めて非常に分かりやすく解説しています。

 


www.youtube.com

 

 

月岡芳年

 

日本の美術さんのホームページに、月岡芳年:作品と解説と題して、人物像についても紹介しています。一部引用します。

 

 

月岡芳年(1839-1892)は、最後の浮世絵師と呼ばれる。明治維新は彼が三十歳のときのことであり、その頃に画家として独り立ちしていた芳年は明治二十五年に満五十三歳で死ぬまで日本の浮世絵界をリードしたのであるが、それは浮世絵史の最後の段階にあたっていた。浮世絵は芳年の死とともに長い歴史に幕を閉じたのであって、したがって芳年は最後の浮世絵師と呼ばれてしかるべき存在だったのである。

 

時代の流れ

 

最後の浮世絵師が書いたその代表作の浮世絵が、絵馬となってこの太刀八幡宮に奉納されています。

 

時代の流れというか、移り変わりを感じます。

 

この絵馬が掲げられた当時は、絵馬や浮世絵は大切な娯楽だったと思いますが、今は娯楽の対象は、テレビや映画、テレビゲーム、ユーチューブ等様々です。

 

時代は常に変化していますね。

 

しかし、過去の絵馬を眺めながら、そして色々調べていくと、人間としての学びが深まるということは、人間の本質というのは変わらないということでしょうか。

 

まだまだ学びの旅は、これからも続きます。

 

太刀八幡宮の絵馬 その8 脇屋義助の正論

脇屋義助(わきやよしすけ)の正論

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奉納

明治41年 戊申 2月

三井寺区 参宮同行

18名の方々と世話人として4名の名前が記載されています。

田中さん 鶴田さん 鶴川さんの名前が読み取れます。

 

 

鶴田多々穂さんの解説

 

太刀八幡宮の絵馬その1 神功皇后三韓征伐図の中で、絵馬を調査した功労者として紹介した鶴田多々穂さんは、この絵馬の解説を残しています。

一部私が読み取れない箇所もありますが、全文を引用させていただきます。一部言葉の解説を付け加えています。

 

武兵の面目を識(わきまえ)る脇屋義助

 

南朝の忠臣 新田義貞の弟 脇屋義助は、兄に劣らざる誠忠・智謀兼備の名将であった。

 

義貞、義助は元鎌倉の幕下であったが、勤皇の志篤く、時の執権 北条高時の専横(好き勝手に振る舞うこと)を憤り、高時討伐の義兵を挙ぐべきときを窺っていた。

 

たまたま楠正成(まさしげ)等、高時討伐の兵を挙げたので、高時は弟 泰家に20万の大軍を授けて京へ進発せしめんとし、関八州の豪族にその兵糧軍費を課し、上野国新田庄(現在の群馬県太田市および桐生市伊勢崎市みどり市の一部と埼玉県深谷市の一部)にあった荘園)に居た新田氏へも銭六萬貫の軍費を財課し、使者として出雲冬親連?を遣わした。

 

義貞大いに憤り、使者を斬り村の入り口にさらし首にした。

 

これを知った高時、激怒し義貞を討たんとしたが、この報を耳にした義貞は一族を集め謀議した。

 

或る者は鎌倉方の大軍を利根川に迎いて討つにしかずと唱へ、或る者は敵は大軍なれば、一先ず越後に退き彼の地の一族を糾合(ある目的のもとに人々を寄せ集め、まとめること)して兵を挙げんと論議まちまちにてまとまらず、この時 脇屋義助進み出て、

 

方々は余りにも消極的なり。先んずれば人を制すとの例え、座して強敵を待ち勝ちたるためし未だなし。

退いては徒(いたづら)に士気を無くし結局敗戦に終わらんか、天下の人々はあれ見よ新田は北条の使者を殺した罪で誅伐(罪ある者を攻め討つこと)されしと笑われん。同じ命を捨てるなら、勤王の大義のために我から進んで北条を討ち、最後の一騎なりしとて鎌倉へ攻め入るべし。待って死するか進んで討死するかは云わずとも明らかなり

 

と凛然として論駁(相手の論や説の誤りを論じて攻撃すること)したので。一族勇躍直ちに挙兵を挙げ、4万7千騎をもって鎌倉を攻め、高時を亡ぼした。

 

 

この絵馬の状況を、非常に理解しやすく解説しています。

私は脇屋義助という人を知りませんでしたが、歴史好きの方には、有名な話なのかもしれません。

 

脇屋義助の生涯

Wakiya Yoshisuke.jpg

ウキペディアより転載 菊池容斎画『前賢故実』より

 

 

愛媛県今治市脇屋義助公廟があります。「廟(びょう)」とは、先祖や先人の霊を祀る建物のことです。

 

今治市のホームページには、観光情報として、紹介していますので、写真と解説を一部引用します。

 

脇屋義助公廟の写真

 

南北朝時代南朝方は四国の総大将として新田義貞の弟脇屋義助刑部卿に任じて伊予(現在の愛媛県)に派遣しました。義助公は今治浦に上陸し本営を国府に移しましたが、20日ばかりで病没しました。現在の墓碑は江戸時代に再建されたものです。

 

 

城郭放浪記さんのホームページには、13枚の写真を紹介していますが、その中に今治市教育委員会の由来看板あります。転載します。

伊予 脇屋義助公廟堂-城郭放浪記

 

この由来を読むと、当時の時代背景が簡潔にまとまっています。南北朝時代の戦いの状況、兄 新田義貞南朝の有力武将が討ち死にする中、南朝方の総師として四国に入りますが、38歳で病に倒れたことが分かります。

 

義の人生を貫いた武将だと感じます。

 

この由来書の最後に、貝原益軒の名前があるので、福岡とのつながりもあるのでしょうか。

 

ウキペディアには、

新田氏発祥の地である群馬県太田市と、脇屋義助が病没した地である愛媛県今治市は、2002年に姉妹都市提携を結んでいる

と記載されています。

 

脇屋義助の人生が後の世に、遠く離れた都市の縁を結んでいるとは、驚きですね。

 

ちなみに、ウキペディアには墓所として、福井県坂井市丸岡町長崎の称念寺?と鳥取県倉吉市新町の大蓮寺が記載されています。

今治市でも、太田市でもないのは何故でしょうか?

歴史の謎があるのでしょうね。

 

今回も一枚の絵馬から多くの学びをすることが出来ました。

この絵馬が掲げられた時、義の講談をした方々が目に浮かぶようです。

それを聞いた子供たちは、義の心を養い、人生を貫いていかれたことと思います。

 

来月には、64歳になりますが、私もこの絵馬から学んだ義の心を胸に、人生をまい進していこうと思います。

 

(人''▽`)ありがとう☆ございます

 

太刀八幡宮の絵馬 その7 明智左馬之助(秀満) 湖水渡り

太刀八幡宮の絵馬 その7 明智左馬之助(秀満) 湖水渡り

 

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明治30年 奉納

参宮同行

 

寄進された方々の名前が記載されていますが、読み取ることが出来ません。どの地区の方々の参宮同行だったのでしょうか?

 

水の中を雄たけびを上げて駆け抜ける馬と馬上の武士。後手には、追手の武士の姿が描かれています。

 

「馬 浮世絵 川渡り」でインターネット検索して、よく似た題材から、標題の「明智左馬之助 湖水渡り」にたどり着きました。

 

 

 

うたがわくにひさ さく「たけちさまのすけおうみこすいわたり」歌川国久(二代) 作「武智左馬之介近江湖水渡」

 

刀剣ワールドさんのホームページの合戦浮世絵の中に、次の浮世絵があります。

 

武智左馬之介近江湖水渡

ホームページより転載

 

馬と武士の一体感、追手の武士や松の木が描かれている状況が、非常に大絵馬と似ています。

 

ホームページの解説を一部引用させていただきます。

 

本合戦浮世絵に描かれているのは、「明智光秀」(あけちみつひで)の重臣明智秀満」(あけちひでみつ:「明智光春」[あけちみつはる]、「明智左馬之介」[あけちさまのすけ]とも)。1582年(天正10年)6月の「山崎の戦い」で「豊臣秀吉」に主君が敗れた知らせを受け取ると、残った兵達と合流するために、守備に付いていた安土城を離れて、本拠地である坂本城へと向かおうとしました。

明智秀満の背後には、豊臣軍の追っ手が迫ります。配下の将は散り散りとなり、周囲を見渡しても味方の姿は見当たりません。頼れるのは、愛馬「大鹿毛」(おおかげ)のみ。敵軍の包囲により、陸路での逃走は困難です。

明智秀満は、愛馬に全幅の信頼を置き、自身の命運を託しました。大海のように広がる近江湖(現在の琵琶湖)に愛馬にまたがったまま飛び込み、波立つ湖面をかき分けて進みます。目を血走らせながら馬を進め、坂本城を目指しました。湖を渡り切り坂本城へとたどり着いたものの、すでに勝敗は決し、豊臣軍が城を取り囲むなか、明智秀満は妻子らと共に自決します。

なお、描かれている明智秀満明智左馬之介)の名前が、史実と異なり「武智左馬之介」となっている点については、江戸幕府が、徳川家天正年間(1573~1592年)以降の大名家を題材にした浮世絵の制作を禁じたためです。

 

このホームページは、「浮世絵を教科書のように学べる浮世絵の専門サイトです。」とあるように、非常に分かりやすく浮世絵の解説をしています。

 

絵馬師の方々は、浮世絵の題材をもとに絵馬を書いていることがよく分かります。今後もお世話になるホームページです。感謝します。

 

明智秀満(左馬之助)とは?

 

本能寺の変を起こした明智光秀重臣であった明智秀満とは、どういう人物であったのでしょうか。

 

福知山光秀ミュージアム

 

福知山光秀ミュージアムは、2020年1月11日から2021年2月7日まで開館したもので今はありませんが、ホームページは今も見ることが出来ます。館内案内を引用します。

福知山光秀ミュージアムでは、「麒麟がくる大河ドラマ展をはじめ、最新の調査研究に基づいた新たな視点で、ドラマでも時代考証を担当する小和田哲男さんが監修した「明智光秀の生涯と丹波・福知山」に関する展示で、福知山ならではの明知光秀像を発信します。

 

福知山光秀ミュージアムのホームページの中に、「光秀に忠誠を尽くした猛将」として、明智秀満が紹介されています。

 

一部引用します。というか、たくさん引用させていただきます。

 

明智秀光肖像画

秀満は坂本城落城に際し、天下の財宝をここで失くしてはいけないと、敵将に引き渡しています。その目録を確認している様子が描かれています。

 

もとは三宅弥平次といい、光秀同様その前半生は謎ですが、光秀に仕えると活躍を認められ、天正6年(1578)、明智姓を与えられました。
謀反の計画を光秀から最初に相談されていたとされる人物で、最初は諫めたものの、光秀が他の重臣にも相談してしまうと、「他言した以上、いつかは知られてしまう」と進言し、実行を後押ししたとも言われています。本能寺の変では、先鋒として信長を襲撃しています。

 

湖水渡りの伝説

山崎の合戦時には、光秀の天下に備えて安土城の守備についていた秀満ですが、光秀敗北の報せを受けると坂本城へ急行。味方の救援に向かいましたが、道中、秀吉方の軍勢と戦闘になりました。
次第に追い詰められた秀満は乗馬したまま琵琶湖に飛び込み、湖を渡って坂本へ向かったといいます。その華麗な脱出劇は「湖水渡り」という伝説となって語り継がれています。馬で湖と浜辺の間の陸地を走り抜けたというのが事実のようですが、伝説になるほど見事な脱出だったのかもしれません

 

潔く明智一族の幕を引く

秀満はかろうじて坂本城へたどり着きましたが、城は完全に包囲されました。一族の命運を悟った秀満は、光秀の妻子を刺し、坂本城に火を点けた後自刃しました。これによって明智一族は滅亡しました。

 

演劇や小説では、明智光秀は悪逆非道の信長を倒したヒーローとして描かれることが多くあり、秀満の湖水渡りなどの華麗な武勇も歌舞伎や浮世絵に多く描かれました。主君思いの信義に厚い人物として様々な逸話が語られています。

 

主君・光秀に忠誠を尽くし切った秀満。今の時代でこいういう忠誠というのは、あるのでしょうか。

私の人生を振り返って、こういう忠誠という尽くし方をしたことがなかったです。

 

 

「歴史じっくり紀行」さんの動画

 

この動画を見て、刀剣ワールドさんの絵馬の解説や、福知山光秀ミュージアムさんの解説の理解が進みました。

 


www.youtube.com

 

動画の中で紹介されていましたが、愛馬「大鹿毛」(おおかげ)は「秀満に湖水渡らせし馬也」と札を付けて寺に預けられ、後に秀吉に接収され、曙号と名付けられて大切にされたとありました。神馬として活躍したのですね。よかった。

 

 

再び絵馬を見ると

 

昔、生きた馬を神様に奉納したことが、絵馬として馬の絵を奉納することに変化していったことを思うと、この絵馬は、神様に奉納するにふさわしい題材ではないでしょうか。

そして、主君に忠誠を尽くした秀満の物語は、この絵馬を見た方々に感動を与えたことでしょう。

 

今回も良い学びをすることが出来ました。ありがとうございます。

太刀八幡宮の絵馬 その6 源 頼光 鬼退治(酒吞童子)

源 頼光(みなもとの よりみつ) 鬼退治(酒呑童子

明治29年(1896年)3月吉日

奉納 善光寺同行 14名

 

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退治した鬼の首が、源頼光の兜に食らいついています。非常に迫力のある絵馬です。

部下である武士が、見守っています。

 

鬼退治の英雄 源頼光

 

源頼光を色々検索していると、京都府福知山市にある「日本の鬼の交流博物館」にたどり着きました。

 

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このポスターの絵画の中で、中段の絵画には、絵馬と同様に鬼の首が頼光の兜に食らいついている状況が描かれています。

 

日本の鬼の交流博物館のホームページから、酒呑童子伝説を一部引用します。

www.city.fukuchiyama.lg.jp

時は平安朝、一条天皇の頃。西暦1000年前後、京の都は栄えていましたが、それはほんの一握りの摂関貴族たちの繁栄であり、世の中は乱れに乱れ民衆は社会不安におののいていました。そんな世の中で、酒呑童子は王権に叛き、京の都から姫君たちを次々にさらっていたのです。


 姫君たちを奪い返し酒呑童子を退治するため大江山へ差し向けられたのが、源頼光(みなものとのよりみつ)を頭に藤原保昌(ふじわらのやすまさ)並びに四天王の面々、坂田公時(さかたのきんとき)、渡辺綱(わたなべのつな)、ト部季武(うらべのすえたけ)、碓井貞光(うすいのさだみつ)ら6名です。


 頼光ら一行は山伏姿に身をやつし、道中、翁に化けた住吉・八幡・熊野の神々から「神便鬼毒酒(じんべんきどくしゅ)」を与えられて道案内をしてもらい、途中、川のほとりで血のついた着物を洗う姫君に出会います。一行は、姫君より鬼の住処を詳しく聞き、酒呑童子の屋敷にたどり着きました。


 酒呑童子は頼光一行を血の酒と人肉で手厚く歓待しますが、頼光たちは例の酒を童子と手下の鬼たちに飲ませて酔い潰し、童子を返り討ち、手下の鬼共も討ち果たします。捕らえられている姫君たちを救い出し、頼光たち一行は都へ上がりました。


 討ち取られた酒呑童子の首は、王権に叛いたものの見せしめとして川原にさらすため、都に持ち帰られますが、途中、丹波、山城の国境にある老の坂で急に重くなって持ち上がらなくなり、そこで葬られたといわれています。

 

そして、福山市は、大江山鬼伝説をWEB動画作成し公開しています。

福知山市は、大ヒットアニメ作品の影響で「⻤」への関⼼が⾼まる今、歴史上最強の鬼を退治した伝説(元祖鬼殺隊伝説)が残る⼤江地域の⻤⽂化をより多くの方々に知っていただきたいと、大江山鬼伝説」を初のアニメコンテンツ化したWEB動画「転生したら鬼退治を命じられました」篇を12月6日(月曜日)より公開しました。

大江山鬼伝説」とは、平安時代中期に生まれた武将「源頼光(みなもと らいこう)※」が、「頼光四天王」と呼ばれる屈強な家臣らを従え丹波国⼤江⼭へ向かい、酒吞童子(しゅてんどうじ)率いる鬼の一味を討伐(鬼退治)するという伝説です。

 


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この動画を見たお陰で、切り落とされた鬼の首が、頼光の兜に食らいついても、大丈夫だった理由が、分かりました。

 

酒呑童子という名前は聞き覚えがありますが、ほとんど話の内容は覚えていません。

昔、小学校の授業で学んだのかもしれません。

 

しかし、博物館の鬼伝説や福知山市の動画にしても、分かりやすく作成してくれています。

お陰様で、この絵馬のことを楽しく見ることが出来ます。

 

童子切安綱(どうじぎりやすつな)

 

源頼光が、酒吞童子の首を切り落とした刀が、現在国宝として東京国立博物館が所蔵しているということです。

 

ウキペディア童子切から画像と内容を一部引用します。

童子切:太刀 銘安綱(名物童子切安綱)刀身

童子切(どうじぎり)は、平安時代伯耆国の大原の刀工・安綱作の日本刀太刀)。童子切安綱(どうじぎりやすつな)とも呼ばれる。日本国宝に指定されている。

天下五剣の一つで、大包平と共に「日本刀の東西の両横綱」と称される最も優れた名刀とされている。

清和源氏嫡流である源頼光丹波国大江山に住み着いた鬼・酒呑童子の首をこの太刀で斬り落としたという伝承から「童子切」の名がついた

 

平安時代の刀が、それも実際に使用された刀が現在も残って国宝に指定されているなんてすごいことです。

 

大ヒットアニメ「鬼滅の刃」の中でも、鬼を退治する刀鍛冶の里の人々が描かれていました。ひょっとこの面を付けて必死に刀を鍛える姿が印象的でしたが、この童子切安綱を製作した安綱さんも、同様に、ものすごい精神集中の中で、製作していったのでしょう。

優れた刀鍛冶がいなければ、鬼退治も出来なかったというのは、アニメの話だけではなく、実際の話でもあったのでしょう。

 

テレビアニメ「鬼滅の刃」刀鍛冶篇の宣伝ビデオがありましたので、紹介します。


www.youtube.com

 

以前のブログ「太刀八幡宮の境内神社その① 太刀神社」で紹介しましたが、太刀塚に納められている神功皇后の太刀も、国宝の価値があることは、間違いないでしょうね。

 

 

 

この絵馬を奉納した思いとは

 

この絵馬が奉納されたのは、明治29年3月です。

その頃の出来事といえば、明治27年7月25日から明治28年4月17日にかけて行われた日清戦争があります。

日清戦争については、ブログ

goodlightsato.com

で紹介しましたが、「清国に勝ったことで国民精神は高揚していた」とあったように、朝倉でも大騒ぎであったことは確かでしょう。

 

この絵馬で描かれた鬼は、清国を意図していたのかもしれません。それに対して勇敢に戦った源頼光達の姿は、日本男児こうあれという気持ちが込められているのかもしれません。

 

ちょっと考えすぎかな。

 

ひとつの物語として、悪に立ち向かう勇敢な姿を、子供達に伝えるために奉納したのかもしれません。

 

私としては、私の心の中に起こる怒り、憎しみなどの悪の心・鬼の心を、太刀八幡の神様方に祓って頂きたく、この絵馬を奉納します。🙏

令和五年 我が家の絵馬

初めての手づくり絵馬

 

今日は、令和5年1月22日。旧正月です。

 

そして、初めて絵馬を作成し、玄関に飾りました。

 

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小さい小絵馬ですが、今年一年、笑顔で暮らせる願いを込めて、夫婦で笑ったうさぎを描いてみました。私が右側、妻が左側の🐇を描きました。😃

 

 

令和五年癸卯(みずのと・う)

 

太刀八幡宮の絵馬や、境内社そして鳥居などには、干支(かんし・えと)が書かれています。

 

私は、十二支である

「子(ね)、丑(うし)、寅(とら)、卯(う)、辰(たつ)、巳(み)、午(うま)、未(ひつじ)、申(さる)、酉(とり)、戌(いぬ)、亥(い)」

は慣れ親しんでいますが、

 

十干である

甲(きのえ)、乙(きのと)、丙(ひのえ)、丁(ひのと)、戊(つちのえ)、己(つちのと)、庚(かのえ)、辛(かのと)、壬(みずのえ)、癸(みずのと)」

は馴染みがないので、読み方すら分かりません。

 

癸卯がどういう年なのか、検索してみたところ、クオカードさんのホームページが分かりやすく簡潔でしたので一部引用します。

www.quocard.com

 

癸卯(みずのとう)の意味

 

癸卯は、十干の10番目にあたる癸と、十二支の4番目にあたる卯の組み合わせで、十干十二支では40番目にあたる組み合わせです。陰陽五行説では、癸が水の陰のエネルギーを表し、卯が木の陰のエネルギーを表します。

<癸の意味>

「癸」は雨や露、霧など、静かで温かい大地を潤す恵みの水を表しています。十干の最後にあたる癸は、生命の終わりを意味するとともに、次の新たな生命が成長し始めている状態を意味しています。

<卯の意味>

「卯」は穏やかなうさぎの様子から安全、温和の意味があります。また、うさぎのように跳ね上がるという意味があり、卯年は何かを開始するのに縁起がよく、希望があふれ、景気回復、好転するよい年になると言われています。

2023年はどんな年になる?

2023年は癸卯の年で、「癸」と「卯」の組み合わせから、これまでの努力が実を結び、勢いよく成長し飛躍するような年になると考えられます。

 

 

これまでの努力が実を結び、勢いよく生長し飛躍するような年になるなんて、ワクワクしますね。

 

社会も個人も、コロナ禍で自粛を余儀なくされてきた年を超えて、良い年となるように祈ります。🙏