氏神様は太刀八幡宮

1200年の歴史を紐ときます

太刀八幡宮の境内社 ⑦天満神社

太刀八幡宮境内社 ⑦天満神社

 

祭神 菅原道真

 

正面写真

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梅の文様が、天神様を表しています。

 

左側面写真

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背面写真

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徳次 塗器 氏子中

大正 10年4月 合同?

 

 

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博多出栄?町

石工 高瀬 ?喜

 

 

神社庁への提出書類

 

太刀八幡宮の境内社 遷座の歴史で紹介しましたが、神社庁への提出書類には次のように記載されています。

 

天満神社 菅原神

     大字大庭字平田に祭祀ありしを大正15年12月11日許可を得て移轉合併す

 

さくら町の歴史ものがたりの太刀八幡宮の項に、地名のことで次のような記述があります。

太刀八幡宮の南の方に徳次(とくつぎ)・塗器(ぬるげ)という集落の地名がありますが、この名前のおこりは神功皇后がこの地にこられたときにできたといわれています。

徳次は「磨剣(とくつるぎ)」であって、剣(つるぎ)などを磨(と)がれたところで、また、塗器(ぬるげ)は剣や槍(やり)などに漆などを塗らせたところとつたえられています。

 

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図は神功皇后伝承を歩く 綾杉るな から転載

 

 

太宰府天満宮

www.dazaifutenmangu.or.jp

 

ホームページの一部を引用します。

太宰府天満宮は、菅原道真すがわらのみちざね公の墓所ごぼしょの上にご社殿を造営し、その御神霊おみたまを永久にお祀りしている神社です。 「学問・至誠しせい・厄除けの神様」として、日本全国はもとより広く世のご崇敬を集め、年間に約1000万人の参拝者が訪れています。

誰もが学問の神様として、一度はお詣りに訪れたことがあるのではないでしょうか。

 

このホームページを見ると道真公の生涯が、神童と称された幼少期・文武で名を馳せた青年期・出世から左遷へ・失意の中でも誠を尽くされた晩年期など非常に良くまとまって記載されています。

 

私は、若い頃(27歳から4年程)大宰府の榎寺というところに住んでいたこともあり、よく天満宮には足を運んでいました。

菅原道真公が左遷で流されて住んでいたところが、榎社となって残っており、毎日その横を通って会社に通勤していました。

そこには、道真公にお仕えしてた浄妙尼さんの祠があって、よくお詣りしていたことを思い出します。

 

大宰府魅力発見塾さんのブログ 「太宰府 榎社 浄妙院 菅原道真公が過ごした場所」には次のような記述があります。

苦境を見かねた浄妙尼は道真公に梅の枝に餅を挟んで格子越しに差し入れをしたといわれています。この故事にならい太宰府天満宮参道の梅が枝餅がつくられるようになったといわれています。

 

こんど梅ヶ枝餅を食べる時は、道真公と浄妙尼さんの事を思いながら、感謝していただきます。

 

怨霊となった道真公

 

ウキペディア大宰府天満宮を見ると,歴史という項目の中に再三「道真の祟り」という言葉で出てきます。一部引用します。

一方都では疫病や異常気象など不吉な事が続き、さらに6年後の延喜9年(909年)には藤原時平が39歳の壮年で死去した。これらのできごとを「道真の祟り」と恐れてその御霊を鎮めるために、醍醐天皇の勅を奉じた左大臣藤原仲平大宰府に下向、道真の墓所の上に社殿を造営し、延喜19年(919年)に竣工したが、これが安楽寺天満宮の創祀である。

それでも「道真の祟り」は収まらず、延喜23年(923年)には皇太子保明親王が21歳で死去。狼狽した朝廷は、延長改元したうえで、4月に道真の官位を生前の右大臣の官職に復し、正二位の位階を追贈した。しかしそれでも「祟り」が沈静化することはなく、保明の遺児慶頼王が代わって皇太子となったものの、延長3年(925年)には慶頼もわずか5歳で死去した。そしてついに延長8年(930年)6月、醍醐天皇臨席のもとで会議が開かれていた、まさにその瞬間、貴族が居ならぶ清涼殿に落雷があり、死傷者が出る事態となった(清涼殿落雷事件)。天皇は助かったが、このときの精神的な衝撃がもとで床に伏せ、9月には皇太子寛明親王朱雀天皇)に譲位し、直後に死去するに至った。承平元年(931年)には道真を側近中の側近として登用しながら、醍醐と時平に機先を制せられその失脚を防げなかった宇多法皇も死去している。わずか30年ほどの間に道真「謀反」にかかわったとされた天皇1人・皇太子2人・右大臣1名以下の高級貴族が死亡したことになる。猛威を振るう「怨霊」は鎮まらず、道真には太政大臣追贈などの慰撫の措置が行われ、道真への御霊信仰は頂点に達した。ついに正暦元年(990年)頃からは本来は天皇・皇族をまつる神社の社号である「天満宮」も併用されるに至った。

太宰府天満宮の公式ホームページには、怨霊や祟りといった記述が見当たりません。しかし、道真公の祟りを朝廷が恐れ、そして、神として祀ったからこそ、今の天満宮があるということなのでしょう。

 

菅原道真 日本文化の生みの親

 

まほろばチャンネルさんが、素晴らしい動画を作成しています。

菅原道真の一生をまとめてみました。菅原家は、低い貴族であったにもかかわらず、道真公は、北野天満宮太宰府天満宮に「学問の神様」として祀られている。これを不思議に思い調べてみました。


www.youtube.com

 

道真公の一生を非常に分かりやすくまとめているとともに、日本文化の生みの親となる遣唐使の廃止など本当に勉強になりました。ありがとうございます。

 

農耕の神様

 

太刀八幡宮境内社 遷座の歴史の中でも紹介した、資料「朝倉の神々」の集落の神々地区別一覧を見ると、天満宮・天神社は、119社中25社で最も多い数になります。

表とは別に、「天満宮(天神様)76社(集落の神も含む)」とあり、朝倉地区に非常多く祀られていることが分かります。

私が住んでいる地区にも、天神社があります。

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朝倉町史には、天満宮・天神社は「農耕守護神と祀られた」と記載されています

 

美奈宜神社(内藤宮司さんの本務社)のホームページの中に、12月のお便りとして地域の天神様という記事が載っています。

一部引用します。

ご祭神の天神様は雨を降らす雷を農耕の神様として古代より信仰されていました。雷は雨に田んぼと書きます。雷は字の由来の通り、雨を降らし、豊かな米作りができる象徴です。雷がもたらす自然の恵みを天神様として古来より信仰し、令和の現在でも変わらず感謝し続けているのです。

天神様が、古代から農耕の神として、この朝倉の地にも祀られていることが分かりました。

 

こうして学ぶと学問の神様というのは、道真公のご神徳の一側面であり、農耕の神、至誠の神、日本文化の神など多くのご神徳があることが分かります。

今日まで「学問の神様 おはようございます」と挨拶していましたが、明日から「学問の神様・農耕の神様 おはようございます」とご挨拶させていただきます。

太刀八幡宮の境内社 ⑥秋葉宮

⑥ 秋葉宮

 

祭神 軻遇突智カグツチ)命

 

正面写真  令和4年12月18日撮影 初雪です

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左側面写真
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大正12年6月 吉日〇

 

背面写真
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世話人

浦 米吉

鬼塚 竹次郎

丸山 惣三郎

 

右側面写真
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石工

酒井 千次郎

 

 

神社庁への提出書類

太刀八幡宮の境内社 遷座の歴史 で紹介しましたが、神社庁への提出書類には次のように記載されています。

秋葉宮  軻遇突智命

     大字大庭字乙王丸に祭祀ありしを大正15年12月11日許可を得て移轉合併す

 

軻遇突智命

 

ウキペディア カグツチを引用します。

 

カグツチとは、記紀神話における火の。『古事記』では、火之夜藝速男神(ひのやぎはやをのかみ)・火之炫毘古神(ひのかがびこのかみ)・火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ;加具土命)と表記される。また、『日本書紀』では、軻遇突智(かぐつち)、火産霊(ほむすび)と表記される。

神話の記述

神産みにおいてイザナギイザナミとの間に生まれた神である。火の神であったために、出産時にイザナミの陰部に火傷ができ、これがもとでイザナミは死んでしまう。その後、怒ったイザナギ十拳剣天之尾羽張(アメノオハバリ)」で首を落とされ殺された。

 

カグツチの神は、前回のブログ 太刀八幡宮の境内社 ⑤徳満宮で紹介した保食神(うけもちのかみ)のように、殺されてしまいますが、その血や体から多くの神様が生れています。

 

こういう一見残酷とも思える表現は、死と再生を意味するのか、色々解釈があるようです。

 

 

秋葉山本宮秋葉神社

 

ウキペディアによれば、[日本全国に存在する秋葉神社神社本庁傘下だけで約400社)、秋葉大権現および秋葉寺のほとんどについてその事実上の信仰の起源となった神社である]と記載されています。

 

www.akihasanhongu.jp

 

秋葉山本宮秋葉神社のホームページの一部を引用します。

御祭神は、火之迦具土大神ヒノカグツチノオオミカミと申し上げ、伊邪那岐伊邪那美二柱の神の御子で火の主宰神です。火の光は時間的、空間的に人間の活動範囲を拡め、その熱は人間に冬の寒さも克服させ、食生活を豊かにし、そのエネルギーは工業・科学の源になると共に、その威力は総ての罪穢れを祓い去ります。光と・熱と強いエネルギーを与えられたこの神は、文化科学の生みの親として畏敬され、崇められてまいりしました。

 

御神徳は、火の幸を恵み、悪火を鎮め、諸厄諸病を祓い除く火防開運の神として、火災消除・家内安全・厄除開運・商売繁盛・工業発展の霊験あらたかなるものとして、全国津々浦々から信仰されています。

 

 

今、妻に御祭神の箇所を「良い文章だね」と語って伝えて思ったのですが、目で見ていた時の印象と違って、口に出すことではるかに言葉のエネルギーというか、感動が脳🧠に響く感じがしました。

妻は最近音読に興味を持って実践しているのですが、「やっとその事に気付いてくれた」😄と笑っています。

 

秋葉神社の火祭りを見ていて思ったのですが、「鬼滅の刃」に出てくる鬼との闘いのイメージが重なってきました。作者の方もこの祭りを見ていたのかな。

 

國學院大學 「古典文化学」事業

カグツチを検索していると、國學院大學 「古典文化学」事業 火之迦具土神というデーターベースを見つけることが出来ました。

 

神話の記述を、どういう風に解釈するかを諸説解説しています。

①発火法の反映とする説。

②火山の噴火現象の反映とする説。

焼畑農耕の反映とする説。

その他火の利用による人間の文化の起こりが語られていると捉える説等

 

この中で、私としては、火山の噴火現象の反映とする説が面白いなと感じました。

一部引用します

火神の誕生あるいは斬殺を噴火現象と見なし、死体からの諸神の化生を、それによって起こる様々な災異や大地の変動の表象とする。また、母神の女陰を焼いたという内容は、火口と女陰との形状の類似に加えて、火山の火口をホドという方言の例があることから、そうした古語がホト(女陰)の語と結びついて出来たとする説もある。

 

残酷な神話の話をどう解釈するか、大学の研究でも「なお検討の余地がある」と述べられているように、色々な説がこれからも出てくるのでしょうね。

 

火之迦具土神(神話から読み解く古代日本人と火の関係)

 

このユーチューブを見たときには、「こういう素晴らしい動画を見ることが出来てありがたいなー」と思いました。本当に無料でこういう動画が見れるこの時代は、情報化社会の利点ですよね。

 


www.youtube.com

 

 

火の神様に感謝して

 

私が、家で塩作りを始めて11年程経ちます。

庭の剪定した薪を燃料に、好きな海の海水を煮詰めて作っています。

これからも、カグツチの神に応援を頂きながら、塩作りを楽しみたいと思います。

 


www.youtube.com

 

 

太刀八幡宮の境内社 ⑤徳満宮

⑤ 徳満宮

祭神    保食神(うけもちのかみ) 

    罔象女命(みずはのめみこと)

 

正面写真

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左側面写真
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大正12年6月 ○○

 

背面写真
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世話人

浦 福七

鬼塚 竹次郎

荻 ○吉

辛川 新右エ門

 

右側面写真
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世話人

浦 米吉

丸山 惣三郎

辛川 隣

 

石工

酒井 千次郎

 

神社庁への提出書類

太刀八幡宮の境内社 遷座の歴史で紹介しましたが、神社庁への提出書類には次のように記載されています。

徳満宮  保食神 罔象女命

     大字大庭字乙王丸に祭祀ありしを大正15年12月11日許可を得て移轉合併す

 

この境内社には、二柱の祭神が祀られています。

私は、二柱とも今までまったく知らずに生きてきました。読み方も分かりません。

色々調べていきます。

 

1.保食神(うけもちのかみ)

 

ウキペディア 保食神を引用します。

 

神話での記述

天照大神月夜見尊に、葦原中国にいる保食神という神を見てくるよう命じた。月夜見尊保食神の所へ行くと、保食神は、陸を向いて口から米飯を吐き出し、海を向いて口から魚を吐き出し、山を向いて口から獣を吐き出し、それらで月夜見尊をもてなした。月夜見尊は「吐き出したものを食べさせるとは汚らわしい」と怒り、保食神を斬ってしまった。それを聞いた天照大神は怒り、もう月夜見尊とは会いたくないと言った。それで太陽と月は昼と夜とに別れて出るようになったのである。

天照大神保食神の所に天熊人(アメノクマヒト)を遣すと、保食神は死んでいた。保食神の屍体の頭から、額から、眉から、目から、腹から、陰部から大豆小豆が生まれた。天熊人がこれらを全て持ち帰ると、天照大神は喜び、民が生きてゆくために必要な食物だとしてこれらを田畑の種とした。

ウキペディアの解説にもありますが、

この説話は食物起源神話であり、東南アジアを中心に世界各地に見られるとのことです。古事記』では同様の説話がスサノオオオゲツヒメの話となっています。

 

食物神というだけでなく、「頭から牛馬が生まれた」ということからの神ともされる。

 

食物神であり、農業の神であり、牛馬の神であり、また蚕の神として祀られているとのことです。

 

以前は、農業には牛馬が欠かせませんでした。そして私が現在住んでいる家にも、蚕を育てていた棚がありました。今は天井をすべて撤去したので残ってはいませんが、この地区では養蚕が盛んだったのでしょう。

 

インターネットで検索しているとユーチューブに次の動画が見つかりました。


www.youtube.com

 

一部引用します。

保食(うけもち)の神祀らずに、いくら野山拓いたとて、物作ることはできないぞ。

野拓く時は野の神まつれ。

物作る時は保食(うけもち)の神まつれ。

産土の神様にもお願いして、お取次ぎ願わねば何事も成就せんぞ。

山も川も野も人民も草も木も動物虫けらも何もかもこの方の徳であるぞ。

地にむかえ、草にむかえ、生物にむかえ、木にむかえ、

石もの言うぞ、草もの言うぞ

 

この神事を見ると、いかに保食神(うけもちのかみ)がこの自然界において大切な役割をしているのかが分かります。

 

今回学んだことを活かすためにも、小さな家庭菜園ですが、我が家の庭のあらゆる生物鉱物に感謝して、自然栽培を実践していきます。

 

2.罔象女命(みずはのめみこと)

 

ウキペディア ミズハノメから引用します。

 

古事記』では弥都波能売神(みづはのめのかみ)、『日本書紀』では罔象女神(みつはのめのかみ)と表記する。神社の祭神としては水波能売命などとも表記される。淤加美神とともに、日本における代表的な水の神(水神)である。

古事記』の神産みの段において、カグツチを生んで陰部を火傷し苦しんでいたイザナミがした尿から、和久産巣日神ワクムスビ)とともに生まれたとしている。『日本書紀』の第二の一書では、イザナミが死ぬ間際に埴山媛神(ハニヤマヒメ)と罔象女神を生んだとし、埴山媛神と軻遇突智カグツチ)の間に稚産霊ワクムスビ)が生まれたとしている。

 

 

 

 

水神社

 

罔象女命(みずはのめみこと)といえば、この地区では山田堰にある水神社が有名とのことです。

 

jinjakairou.com

 

朝倉神社回廊さんのホームページによれば、

享保7年(1722年)山田堰から堀川用水に水を通すため切貫水門工事を起こすにあたり、工事の安全と水難消除を祈り、水波能売命を祭祀し水門の上に水神社を建立。

寛政10年(1798年)堀川用水を築いた古賀百工の功績を称え合わせて祀っています。現在も山田堰・堀川・水車群・堀川用水路の守護神です。

とあります。

 

以前のブログ子持鳥居 - 氏神様は太刀八幡宮で紹介しましたが、この太刀八幡宮の地区の田んぼの水を潤してくれるのも山田堰のお陰であり、古賀百工さんのお陰でもあります。

 

子持鳥居をブログ公開した時は、田んぼに水がはられた時でしたが、今は稲刈りも終わり、新嘗祭も終わり、時が過ぎているのを感じてしまいます。

 

 

罔象女命(みずはのめみこと)はどういう神様?

穴場の神社とお寺へ御朱印巡りさんのホームページに分かりやすく解説していましたので、一部引用します。

実はこの罔象(みづは)という名前、中国の古書にも登場するのですが、それには「龍」や「子供の姿をした水神」と説明されているんです。

 神格

  • 水の神様
  • 井戸の神様
  • 灌漑用水の神様
  • 農耕の神様
  •  
  • 神徳
  • 祈雨、止雨、治水、農耕守護、
  • 商売繁昌、子宝、安産
  •  

 

朝倉町史に書かれていた雨乞い

 

朝倉町史(p849)には、次のように記載されています。

 

乙王丸部落では、徳満宮のご神体を水につけると雨が降るというので、荒々しく水の中に投げ込んだという。

 

ご神体がどういう姿か分かりませんが、当時の方々が降雨を願って神頼みをしていることがよく分かります。

 

どの川に投げ込んだのでしょうか?

それともどこかの井戸の中に投げ込んだのでしょうか?

 

いつかご神体を見る機会があることを祈っています。

 

雨乞い祈願石燈篭

 

太刀八幡宮の西の参道の入り口にある鳥居の横に、雨乞い祈願の石燈籠があります。

 

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碑文の内容です。

上座部大庭村産子中

請雨願成就石燈吉○

元文二丁巳(ひのとみ)年九月吉

1737年の建立です。

 

先ほど紹介した水神社に掲げてある年表を見ると、この時代は大干ばつ・飢饉と大洪水に見舞われた時代であることが分かります。

 

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1722年(享保7年) 水門新設 水神社を祀る

1724年(享保9年) 旱ばつ

1726年(享保11年) 洪水

1728年(享保13年) 大旱ばつ

1732年(享保17年) 享保の大ききん・稲凶作、筑前国餓死者10万人、捨子禁止令出す

1736年(元文1年) 筑後川大洪水

1737年(元文2年) 太刀八幡宮の「請雨願石燈」建立

1754年(宝暦4年) 大風

1758年(宝暦8年) 大雨洪水・干ばつ根付不能

 

下線部は、朝倉町史の年表抜粋

 

捨子禁止令が発令されるほど、口減らしが横行していたことを思うと言葉になりません。

 

 

大地と水の神様に感謝

 

この徳満宮という境内社に、何故二柱の神が祀られているのだろうと疑問に思っていましたが、こうして調べていくと、まさに人や生物が生きていく上で欠かせない、大地と水の組み合わせではないかと思います。

大地を大切にし、水を大切にすることを誓いながら、朝のご挨拶をしていきます。

 

ちょっとこぼれ話

先日、新海誠監督の「君の名は」を観たのですが、ヒロインの名前「宮水三葉(みやみずみつは)」を、新海監督は、日本書紀に登場する「罔象女神(ミツハメノカミ)」から命名したと明言しているらしいです。

私は、みつはさんの「口噛み酒」を飲んでみたいと思っていました。🍶

感動の「歴史と文化のまちづくり シンポジウム」

昨日 令和4年12月3日 朝倉地域生涯学習センターホールで歴史と文化のまちづくりシンポジウムが開催されました。

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■内容

1. 筑紫舞「古代からの朝倉伝統の舞」筑紫舞伝承会

2. 基調講演「歴史を感じるまちづくり」RKB毎日放送アナウンサー 田畑 竜介氏

3. パネルディスカッション「歴史を感じるまちづくり」

  コーディネーター 上野誠氏(國學院大學文学部教授)

  パネリスト     相川七瀬氏(歌手・國學院大學神道文化学部在学中)

             後藤いずみ氏(福岡かるた会会長)

             林裕二氏(朝倉市長)

             田畑竜介氏(RKB毎日放送アナウンサー)

内容は朝倉市ホームページより転載

 

 

ちょっと私が感動した内容がありました。👏

 

 

 

コーディネーターの上野さんが、後藤いずみ福岡かるた会長に質問した時のことです。その前段として、歌手の相川七瀬さんが、「歌詞の内容を理解して、言葉を紡いで歌っている。」という話をしていました。

 

上野 「競技かるたの時に、百人一首の歌の内容を噛みしめることはありますか?」

後藤 「競技の時は、一瞬の反応なので歌の内容を噛みしめるということはないが、皆さんそれぞれ好きな歌というのは有ります。たとえば瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふという恋の歌は、人気があります。

 

えー 崇徳天皇さんの歌だ。

goodlightsato.com

太刀八幡宮境内社 白峯神社で調べたばかりたったので、ビックリ‼️しました。

そして、祭神の崇徳天皇さんもさぞお喜びしているだろうなぁと、一人感動していました。

🙌

 

 

 

それと歌手の相川七瀬さんですが、名前は聞いたことがあるような気がするのですが、家に帰ってからプロフィールに書いてあったユーチューブを見てみました。デビュー曲の「夢見る少女じゃいられない」は、ほとんど聞いたことのない歌で、世代のギャップを感じましたが、「なないろ旅」を見た時に、感動してしまいました。

神社の神殿の前で、歌を奉納する姿は、まるで女神です。また神社を紹介するナレーションもとても優しく見ていて心が安らぎます。


www.youtube.com

 

鹿島神宮の奥の宮の檜皮葺屋根の葺き替え工事の解説は、現在太刀八幡宮の改修工事をしていることもあり、非常に興味深く見ました。伝統文化、伝統工法の重要性を感じます。


www.youtube.com

 

それと古代米の赤米大使として活躍する相川さんですが、赤米フェスタ2021の内容も感動もので、朝倉の三連水車近くで栽培している赤米とも今後関わり合いがでるのでしょうね。


www.youtube.com

 

 

コーディネーターの上野誠さんは、甘木出身で、とても軽快な口調で皆さんのコメントを引き出していました。家に帰ったら、高校一年生の息子が、「上野さんて、万葉の先生❓」とパンフレットを見ていうので、「そう、なんで知ってるの」と聞くと、「比良松中学校で講演会があった。百人一首の大会の時だったかな?」とのことでした。万葉学者として、多岐に渡って活動しているようです。

 

RKB毎日放送アナウンサーの田畑竜介さんは、朝倉が大好きで、その魅力を活かしたまちづくりを提案して、多くの観光客に来ていただけるのではないかと、問いかけていました。水害の時も取材で何度も訪れただけでなく、個人的にボランティアとして何度も朝倉に足を運ばれたそうです。

 

林裕二市長は、役所言葉たけでなく、人間味あふれた自分の言葉で発言し、とても親しみを持つことができました。

 

本当に、良いシンポジウムに参加出来て良かったと思いました。お導きありがとうございました。

 

太刀八幡宮の境内社 ④白峯神社

④ 白峯神社

祭神 崇徳天皇

 

正面写真

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左側面
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碑文を解読します。

大嘗祭記念改築

大正 四 乙卯 年 十一月 〇旦?

「1915年 乙卯(きのとう)」

 

大嘗祭とは、新天皇の即位の年に行われる新嘗祭のことです。大正天皇即位の礼は、大正4年11月10日に行われており、大嘗祭は11月14日・15日に行われています。

歳旦?と読めるのですが、歳旦は元旦の事みたいなので、はっきりしません。建立したという意味だと思われます。

 

背面

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碑文を解読します。

 

信徒総代〇〇順

丸山 久吉

佐藤 利平

平田 ?米吉

徳永 藤四郎

鶴川 光次郎

調 喜策

辛川 喜平

 

寄進された方々のお名前だと思われます。

この碑文は、②稲荷神社と同じ内容が彫られています。

碑文の中の鶴川光次郎さんの昭和11年新嘗祭献穀斎田のことについては、ブログ②稲荷神社で記載しています。

 

 

右側面
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お宮を作成した石師ですね。

富村大角

人造石師

鶴田 伊助

鶴田 磯次

 

 

 

神社庁への提出書類

太刀八幡宮の境内社 遷座の歴史で紹介しましたが、神社庁への提出書類には次のように記載されています。

 

「白峯神社 崇徳天皇

   大字大庭字角虫に祭祀ありしを大正15年12月11日許可を得て移轉合併す」

 

古くから角虫にあった白峯神社が、大嘗祭大正4年)の年に記念改築し、大正15年に太刀八幡宮遷座されたことになります。

 

現在の大庭地区の住所は、朝倉市大庭○○番地となってしまい、角虫や太刀八幡宮のある乙王丸という小字が表記されなくなりました。

慣例として、地元の方々は旧小字名で呼び合っていますが、角虫は三寺の一部になったようです。

この地図は、農業集落境界データから入手したものですが、角虫が記載されていました。

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日本最大の怨霊となった崇徳天皇による悪縁切りのご利益

 

白峯神社といえば、内藤宮司さんの本務社である美奈宜神社が有名です。

minagijinjya.com

 

色々、インターネットで調べたのですが、この美奈宜神社のホームページがもっとも簡潔にまとめあげられていると思います。

一部引用します。

日本最大の怨霊となった崇徳天皇による悪縁切りのご利益

 

ご祭神の崇徳天皇は、讃岐の地で一切の欲を断ち切っておこもりされたことから、白峯神社は断ち物のご利益があると信仰されてきました。
 また、戦によって心ならずも寵妃阿波内侍とお別れにならざるを得なかった崇徳天皇は、人々が御自身のような悲しい境遇にあわぬよう、幸せな男女のえにしを妨げる全ての悪縁を絶切って下さいます。

 

男女の縁をはじめ、病気、酒、煙草、賭事など、全ての悪縁を切るご利益がございます。

 

 

ウキペディア 崇徳天皇を見ると非常に長文で解説されています。

ウキペディアより転載

 

何故、崇徳天皇が日本最大の怨霊と言われるようになったのかを一口で簡単には述べられないことが分かります。

出生の噂、父との確執、弟との争い(保元の乱)、五部大乗経(『法華経』『華厳経』『涅槃経』『大集経』『大品般若経』)の写本に対する対応など怨霊伝説を作り上げる題材がたくさんあるという感じです。

 

特に、「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん(皇室の地位をおとしめ、民がそれにとって代わる)」と呪いをかけ、その後天皇の時代から、武家政権の時代が長きに渡って存続したのは、崇徳天皇の呪いのためと言われているとのことです。

 

その呪いが解け和解したのが、幕末孝明天皇が讃岐の崇徳天皇の御魂を京都に移すため白峯神宮を作ろうとして、その途上で天然痘(呪いの病と言われていたとのこと)で亡くなり、その意志を引き継いだ明治天皇白峯神宮を完成させ、御魂を移し、その後即位したことによると言われていますす。

 

ウキペディアでは、次のように記載されています。

明治天皇は慶応4年(1868年)8月18日に自らの即位の礼を執り行うに際して勅使を讃岐に遣わし、崇徳天皇の御霊を京都へ帰還させて白峯神宮を創建した。

昭和天皇崇徳天皇八百年祭に当たる昭和39年(1964年)に、香川県坂出市崇徳天皇陵に勅使を遣わして式年祭を執り行わせている。

昭和39年といえば、東京オリンピックの年です。その成功を祈って、昭和天皇式年祭を執り行われたと言われています。

 

NHKBSプレミアム『英雄たちの選択』

2018年3月に放映された英雄たちの選択という番組は、「崇徳院」をテーマに作られました。その番組の内容を「憂きまど」さんが、前編、中編、後編と非常に詳しく、ブログで紹介しています。

konamijin.hatenablog.com

ブログを読んでいるだけで、番組を見ているような臨場感があって、非常に参考になる内容ですし、番組そのものも非常に良い番組だったことが伺えます。

番組をユーチューブで検索しましたが、見つかりませんでした。

 

そのなかで、朝倉のことが出てきましたので、その部分を引用します。

番組は崇徳の流された地・香川県へ。郷土史家の方が、崇徳は「綾川」を京都になぞらえて「鴨川」と呼んだと教えてくれる。近くの駅名も「鴨川」である。また、山も京都の「東山」と呼んだという。これは知らなかった。郷土史家「ここへ来て京都のことばかり思っておったんでしょうかね」。

 続けて、崇徳が住居にした木丸殿。「粗末なつくりの小さな小屋でした」というナレーション。崇徳の住居が粗末な作りだったことは、同じく『保元物語』にも書かれている。都でかつて院に召し使われていた淡路守是成(法師となり、蓮如と名乗っていた)が讃岐へ赴き、院の御所を訪れた際に対面しようと差し上げた歌はこうだ。

 「アサクラヤ木ノマロ殿ニ入ナガラ君ニ知レデ帰ルカナシサ」

蓮如の歌の「アサクラヤ木ノマロ殿ニ」という部分について、日下氏は次のように指摘している。

 

 「百済救援に向かった斉明天皇が亡くなった筑前国朝倉の地(福岡県朝倉市。木の丸殿は、その地に造った丸木のままの粗末な宮殿をいい、ここは新院の居所をそれにたとえた」

 

 

和歌を愛した崇徳天皇

 

ウキペディアの中の歌という項目の中に、崇徳天皇が関わった歌集などが記載されています。

一部引用します。

小倉百人一首』から。

瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ崇徳院
意:滝から流れる川の水の流れ(瀬)は速いので、川の水が岩にぶつかたら二つにわかれるがまた合わさって一つの流れになるように、離れ離れになった私たちも、いつかまた逢いたいと思う。

 

 

 

やまとうた さんのホームページには、崇徳天皇の歌が30首納められています。

 

上記の百人一首の歌は、恋の歌として紹介していますが、次のような補足を記載しています。

【補記】第三句「滝川の」までは「われて」を導く序詞であるが、情念のこもった暗喩ともなっている。障害に打ち当たって破局に至る、といった悲恋の経過を読みとることが可能だが、恋歌と呼ぶにはいささか詞が激しすぎはしないか。若くして宮廷の内紛に翻弄され、政争の犧牲として譲位せざるを得なかった院の無念と、なお将来に賭ける執念をこの歌に読み取るのは、決して牽強付会とは言えまい。

牽強付会(けんきょうふかい)とは、道理に合わないことを自分の都合の良いように無理にこじつけること。(コトバンクより)

 

真偽のほどは定かではありませんが和歌をこよなく愛する天皇であったことは、間違いないと思います。

 

もう一首、恋の歌を紹介します。

恋ひ死なば鳥ともなりて君がすむ宿の梢にねぐらさだめむ(久安百首)

【通釈】恋い焦がれた果てに死んでしまったら、鳥にでもなって、あなたが住む家の梢にねぐらを定めよう。

【語釈】◇鳥ともなりて 下記「長恨歌」を踏まえた句。

【本説】白居易長恨歌」(→資料編
在天願作比翼鳥 在地願為連理枝(天に在りては 願はくは比翼ひよくの鳥とり 地に在りては 願はくは連理れんりの枝とらん)

この歌の本説で書かれている長恨歌(天に在りては 願はくは比翼ひよくの鳥とり 地に在りては 願はくは連理れんりの枝とらん)という歌は、学生時代に授業で学んだ歌で、友人の結婚式のスピーチで披露したことがあります。いつまでも仲むつまじい夫婦でありますようにと祝福したものでした。なつかしい思い出が蘇りました。

 

 

落語の演題「崇徳院

 

崇徳院でインターネット検索をしていると、落語家の方々の「崇徳院」という演題のユーチューブが見つかりました。日本最大の怨霊というテーマのユーチューブが多い中で、落語はどういう話なのかと見てみると、百人一首の歌「瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ」を題材に、男女の恋を面白く扱った内容でした。

崇徳天皇も、自分の作った歌が、落語として親しまれているのを見て、さぞお喜びと思います。

笑福亭 松喬 (しょうふくてい しょきょう)」さんの落語を転載します。


www.youtube.com

 

人智で縁を切るなかれ

 

一般社団法人いのちを守る親の会という素晴らしい活動をしている組織があります。

inochi-mamoru.org

日本救命センターとして人工妊娠中絶により失われている赤ちゃんのいのちを守ることを目的とし出産に悩む妊婦へのサポートを通じて赤ちゃんのいのちを守る活動を続けています

理事長は大熊良樹さんという方で、禅僧であり、京都光明地蔵院(京都地蔵文化研究所)の主管でもあり、神社にも10年程修行した経験を持っておられます。

ユーチューブに、喜びが湧く心理学、生き方に関する講話としていのちが喜ぶ話を公開していますが、その中に第66話「人智で縁を切るなかれ」という講話があります。


www.youtube.com

 

私は、この講和を聞いて、縁というものの奥深さを考えさせられました。

よく、「袖振り合うも多生の縁」といいますね。故事ことわざ辞典では、次のように記載されています。

知らない人とたまたま道で袖が触れ合うようなちょっとしたことも、前世からの深い因縁であるということ。 解説 「多生」とは、六道を輪廻して何度も生まれ変わるという意味で、「多生の縁」は、前世で結ばれた因縁のこと。 人との縁はすべて単なる偶然ではなく、深い因縁によって起こるものだから、どんな出会いも大切にしなければならないという仏教的な教えに由来する。

その縁を、安易に「あいつとは、もう二度と会いたくない。」とかいって、怒りで縁を切るのではなく、その縁に感謝をして、悪縁であれば神様仏様に縁切りをお願いすることが大切なのですね。

 

四国全体の守り神「崇徳さん」

ウキペディアの怨霊の後半に次のように記載されています。

その一方で後世には、四国全体の守り神であるという伝説も現われるようになる。承久の乱土佐国に流された土御門上皇後白河院の曾孫)が途中で崇徳天皇の御陵の近くを通った際にその霊を慰めるために琵琶を弾いたところ、夢に崇徳天皇が現われて上皇と都に残してきた家族の守護を約束した。その後、上皇の遺児であった後嵯峨天皇鎌倉幕府の推挙により皇位に就いたとされている。また、室町幕府管領であった細川頼之が四国の守護となった際に崇徳天皇の菩提を弔ってから四国平定に乗り出して成功して以後、細川氏代々の守護神として崇敬されたと言われている

 

香川県坂出市のホームページには、文化財・史蹟の紹介で、「崇徳上皇」が取り上げられています。「讃岐での生活」や「ゆかりの地」を歌をまじえながら紹介しています。

以前は観光協会崇徳院ツアーを開催していたこともあり、そのツアーに参加した人が、「ツアーで坂出に訪れた時、坂出の方たちは、「崇徳さん」と、親しみを込めて崇徳院のことを呼んでいました。昔から地元の方たちは崇徳院のことをこう呼んでいるそうです。」とブログで書かれていました。

 

そして、先に紹介したNHKBSプレミアムの番組の中でも、

「(配所だった場所の)町の皆さんは今も崇徳さんと呼ぶ。おいたわしい、かわいそうという気持ちで霊を慰めるという気持ちが強いということを感じた。」

と紹介されていたそうですし、番組に参加していた郷土史家の方も、「崇徳さん」とおっしゃっていたそうです。

 

都で怨霊と恐れられていた崇徳天皇は、四国では守り神として崇敬され、崇徳さんとして地元では慕われているのですね。

 

親しみを込めて、参拝します

崇徳天皇を調べ始めたときは、「日本最大の怨霊」という内容が多かったのですが、調べが進むうちに、和歌を愛し、地域の人を愛したやさしいお人柄が偲ばれるようになりました。

 

「悪縁切りの神様、おはようございます。」👏

 

親しみを込めて、毎朝ご挨拶しています。

太刀八幡宮の境内社 ③志賀神社

③志賀神社

 

祭神 少童神(わたつみのかみ)

 

正面写真

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左側面写真

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明治十年 丁丑(ひのとうし) 五月吉日 

(1877年)

 

背面写真

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右側面写真

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碑文には寄進者の名前が彫られていますので、まとめて記載します。読み取りにくい字がありますので、間違っていたらごめんなさい。🙇

 

左側面

安部 藤五郎

荻  利吉

鬼塚 吉三

浦  惣七

諸岡 源七

 

背面

同  定作  (諸岡さんだと思われます)

同  吉平

平田 平九郎

矢野 嘉作

 

右側面

平田 喜六

田中 再平

調  円吾

矢野 角平

調  円九

丸山 惣三

 

太刀八幡宮の境内社 遷座の歴史で記載しましたが、志賀神社は、福岡県神社史には記載がありますが、神社庁への提出書類には、記載がありません。何か意図があるのかな?

 

 

祭神 少童神(わたつみのかみ)

 

ウイキペディア ワタツミから引用します。

 

概要

古事記』は綿津見神(わたつみのかみ)、綿津見神(おおわたつみのかみ)、『日本書紀』は少童命(わたつみのみこと)、海神(わたつみ、わたのかみ)、海神豊玉彦(わたつみとよたまひこ)などの表記で書かれる。

「ワタ」は海の古語、「」は「の」を表す上代語の格助詞、「ミ」は神霊の意であるので、「ワタツミ」は「海の神霊」という意味になる[1]

 

一柱の神様に、色々な字があてられていることが分かります。

福岡県神社史での記述が、少童神なので、標題はそうしています。

 

海の心霊という言霊のとおり、海の神様です。その海の神様が、この内陸の朝倉の地に祀られているのは、何故でしょうか?

 

伊邪那岐命黄泉から帰ってをした時に、ソコツワタツミ底津綿津見神、底津少童命)、ナカツワタツミ中津綿津見神、中津少童命)、ウワツワタツミ上津綿津見神、表津少童命)の三神が生まれ、この三神を総称して綿津見三神と呼んでいる。

 

ウキペディアより転載

 

この系統図を見ると、伊邪那岐命の禊ぎでたくさんの神々が生れたことが分かります。

綿津見三神住吉三神は、兄弟関係なのでしょうか?

それと綿津見三神は、男神でも女神でもないのですね。

 

志賀海神社(しかうみじんじゃ)

 

先日、志賀海神社に参拝してきました。志賀海神社は、全国の綿津見神社海神社の総本社ということです。

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御祭神

左殿 仲津綿津見神(相殿 神功皇后

中殿 底津綿津見神(相殿 玉依姫命

右殿 表津綿津見神(相殿 応神天皇

 

太刀八幡宮の祭神である神功皇后応神天皇が祀られていました。非常に強いつながりのあることが分かります。

 

頂いたパンフレットの由緒から一部引用します。

神代より「海神の総本社」「龍の都」と称えられ、玄界灘に臨む海上交通の要衝である博多湾の総鎮守として志賀島に鎮座し、厚く信仰されている志賀海神社は、伊邪那岐命の禊祓によって御出生された綿津見三神を奉祭している。

御祭神「綿津見三神」は海の底、中、表を守り給う海の主宰神として、海上交通の安全をはじめ塩・魚介類といった海産物の御恵をもたらす神と篤く信仰され、禊祓の神として不浄や災厄を祓い清め、さらに水と塩(潮)を支配し、潮の満干によって人の生死をも司るとされることから人の命や生活の吉凶をも左右するとされている。

 

創建は明らかではないが、往古より勝馬に表津宮・仲津宮・沖津宮の三社で奉祭されており、凡そ1800年前、神功皇后三韓出兵に際し舟師を率い御船を導き守り給うた安曇磯良丸をして表津宮を当地の勝山の麓に遷座したと伝えられている。

 

 

神功皇后三韓出兵の安曇磯良というと、以前のブログ「太刀八幡宮の絵馬紹介 神功皇后三韓征伐図」の中でも紹介しました。

再度、その部分を紹介します。

 

安曇野磯良については、『大絵馬ものがたり 全5巻 須藤功著 ㈳農山漁村文化協会発行』で解説していますので、引用します。

神功皇后三韓出兵に際し、天地の神々に七日七夜にわたり戦勝を祈り、壇之浦の海神に海路の平安を願いました。満願の日に住吉明神のお告げで安曇野磯良という海士を召され、海神より干珠満珠(かんじゅまんじゅ)を借りることができました。干珠は潮を思いのままに干し、満珠は思いのままに潮を満たすことが出来る宝珠です。

大絵馬ものがたり 第5巻 p51

大絵馬ものがたりでは、住吉明神となっていますね。

 

ウキペディア 志賀海神社では、

古代の九州北部では、海人を司る阿曇氏(安曇氏)が海上を支配したとされる志賀島海上交通の要衝であり、その志賀島海の中道を含めた一帯が阿曇氏の本拠地であったとされており志賀海神社は阿曇氏の中心地であったと考えられている

とあります。

綿津見三神は、安曇氏の祖神または奉斎神とされていることからも、神功皇后との関わりが深いのでしょう。

 

御神徳

パンフレットには、次のように記載されています。

海上守護・交通安全はもとより諸厄を祓い清め、再生回帰の神として災厄祓除、病気平癒、健康長寿、家内安全、又、その昔松浦より連れ去られた子供たちを助けられたことから子供守護のご神徳があるとされ厚く信仰されている。

 

 

志賀島に残る数々の神功皇后伝説

 

志賀海神社のホームページには、神功皇后伝説が記載されていますので、引用します。

 

神功皇后三韓出兵に際して、志賀島阿曇磯良を召されました。そして龍神より干珠満珠を授かり、無事に三韓を平定して帰還されました。
志賀海神社にはその様子を描いた神功皇后出兵絵巻が残されています。志賀島には神功皇后伝説にちなんだ地名が多く残っています。
阿曇磯良を海国から召し出そうと77晩神楽を奏したところが舞能ヶ浜、志賀島にお着きになり願いがかなったと仰せられたところが叶ヶ浜、皇后が馬から下りられたところが下馬ヶ浜、志賀大明神に奉賽した際に馬が喜びいなないたので勝馬となったといわれています。 また志賀海神社裏手の山を勝山と称され、そこに櫂を奉られました。

 

ホームページには、神功皇后出兵絵巻だと思いますが、スクロールで見ることが出来ます。

 

このように、志賀海神社そして、志賀島は、神功皇后と深いつながりがあることが分かりました。

 

明治時代になって太刀八幡宮の氏子の方々もこのことを知り、是非太刀八幡宮境内社奉祀しようと話し合って、寄進されたのでしょうか。

 

 

国歌「君が代」になった山誉祭 神楽歌

 

ウイキペディア 志賀海神社を読んでいて興味深いのは、山誉祭で歌われる神楽の歌が紹介されていますので、引用します。

 

神楽歌として次の歌が歌われる[15]

 

君が代<だい>は 千代に八千代に さざれいしの いわおとなりてこけのむすまで
あれはや あれこそは 我君のみふねかや うつろうがせ身骸<みがい>に命<いのち> 千歳<せんざい>という
花こそ 咲いたる 沖の御津<おんづ>の汐早にはえたらむ釣尾<つるお>にくわざらむ 鯛は沖のむれんだいほや

志賀の浜 長きを見れば 幾世経らなむ 香椎路に向いたるあの吹上の浜 千代に八千代まで
今宵夜半につき給う 御船こそ たが御船ありけるよ あれはや あれこそは 阿曇の君のめし給う 御船になりけるよ
いるかよ いるか 汐早のいるか 磯良<いそら>が崎に 鯛釣るおきな

 

国歌である君が代に酷似しているが、先々代の香椎宮宮司 木下祝夫の父である木下美重によれば、この山誉祭神楽歌が旅芸人によって広められ、古今和歌集に収められ、のちに薩摩琵琶の『蓬莱山』にある「君が代」になり国歌になったことが香椎宮に所蔵されていた筑紫の神楽記録から判明しているという。

 

国歌「君が代」の始まりが、この志賀海神社の神楽からだったのかもしれないというのは、初耳でした。

 

ユーチューブを検索すると、神楽の映像がありました。福岡黄金ロードさんのユーチューブを引用します。

志賀海神社 山誉祭

安曇磯良や住吉三神を祀った今宮神社、そして神功皇后がこの祭りに関わっていたことも紹介されていて、非常に参考になる内容でした。

 


www.youtube.com

 

 

境内社 志賀神社のことを知るために、妻とちょっとした小旅行を楽しみました。

そして、「水と塩(潮)」を支配している神様の海岸で、塩を作る海水を頂いてきました。

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少童神 海の神様、塩の神様 ありがとうございます

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

太刀八幡宮の境内神社 ②稲荷神社

② 稲荷神社

祭神 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)

 

正面写真

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左側面写真
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碑文を解読します。

大嘗祭記念改築

大正 四 乙卯 年 十一月 〇旦?

「1915年 乙卯(きのとう)」

 

大嘗祭とは、新天皇の即位の年に行われる新嘗祭のことです。大正天皇即位の礼は、大正4年11月10日に行われており、大嘗祭は11月14日・15日に行われています。

歳旦?と読めるのですが、歳旦は元旦の事みたいなので、はっきりしません。建立したという意味だと思われます。

 

背面写真

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碑文を解読します。

 

信徒総代〇〇順

丸山 久吉

佐藤 利平

平田 ?米吉

徳永 藤四郎

鶴川 光次郎

調 喜策

辛川 喜平

 

寄進された方々のお名前だと思われます。

 

先日、朝倉町史を読んでいた時に、昭和11年新嘗祭献穀斎田として、大福村三寺の鶴川光次郎さんの名前が記載されていました。この碑文の一人ですね。

 

 

太刀八幡宮の名前も出てきますので、当時の様子を朝倉町史から一部引用して紹介します。

 

献穀斎田決定の経過

昭和11年新嘗祭献穀斎田が大福村に選定され、奉耕大田主(おおたぬし)として、県側が示す適格条件に合致する祭主の選考が、村執行部、村議会、農会技師等を含め慎重に行われた。

⑴自営農業者であること。

⑵当該村内での各方面からの信頼の篤い有識者であること。

⑶相当の資産を有する者であること。

⑷相当の経費を要するため、経済的に負担可能の者。

これらの条件を満たし、かつ斎田地に清浄な水利の便があり、斎田管理のための交通条件や、神事等の行事が支障なく執り行える土地を有していることなどを総合的に勘案し、大福村三寺、鶴川光次郎に決定された。

本斎田地(大字大庭字徳次2451の1 田3反6畝11歩)は、区画整然とした美田が、北方遥か荷原川堤防まで広がり、北北西の方角には、大庭村の総鎮守の太刀八幡宮の森がこんもりとした、たたずまいを見せている。

 

奉賛会

斎田の設置が決定されるやいなや、大福村の在住の有志は、斎田の奉仕を賛する目的をもって直ちに奉賛会を結成した。

会長は村長、会員は村議会議員を中心に区長、産業組合理事、消防組、青年団、主婦会、処女会、学校教員、在郷軍人会等村内各種団体を含む村あげての体制を作り、奉仕作業に万全を期した。

 

奉耕(助耕者)者の選考

村挙げての奉仕作業の中で最も光栄ある助耕者の選考は特に慎重に行われた。村内の青年男女のなかから、奉賛会において選考基準を設け、男女各10名、計20名の青年男女が選任された。

 

奉告祭

献穀斎田の設置が決まり、大福村内各地からの助耕者も選任され、奉仕の態勢はととのえられた。

斎田の豊穣並びに奉耕関係者の安全を祈願するため、古木生い茂る産土神太刀八幡宮の境内において、小学校生徒も参列し、奉賛会役職員、農会技手、男女助耕者による神前奉告祭が執り行われた。早朝の森厳なる冷気の下に、献穀田の豊穣と、奉耕の大任を完遂するよう、お互いの心に誓い合ったのある。

 

御田植祭・お田植舞

御田植祭りは斎田行事の中で最も華やかな大祭であった。お田植舞奉納者は高等科2年生女子40名及び唱歌隊の女子生徒であって、お田植舞の歌もそのために作られた。

 

献穀米奉送

昭和11年10月半ば、大田主に奉持された献上米は、学校から大福郵便局の辻までの300mの沿道に、村民有志をはじめ小学校全生徒が整列奉送する中を、特別仕立ての乗用自動車に随員と共に分乗し、発送されたのであった。

半年間に及び村をあげての大行事であった主基斎田の諸行事もここに漸く終結をみたのである。

 

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朝倉町史より転載

 

大福村あげて奉仕された姿が、目に浮かんできます。読んでいるだけで目頭が熱くなるのはなぜでしょうか?当然予期しえない事も沢山あったことだろうと思います。そこを、神に祈りながら、皆さんで智恵を出し合い、行動して乗り越えてこられたんだと感じます。

その姿を見て、宇迦之御魂神を始め、太刀八幡宮の神々、応神天皇神功皇后宗像三女神は、優しく見つめ、多大なる応援をしていたのではないでしょうか?

 

 

右側面写真

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お宮を作成した石師ですね。

富村大角

人造石師

鶴田 伊助

鶴田 磯次

 

 

この稲荷神社も遷座

 

この稲荷神社の碑文は、後日紹介する④白峯神社と同じ内容です。

 

白峯神社は、太刀八幡宮の遷座の歴史で紹介しましたが、神社庁への提出資料の中では、「大字大庭字角虫に祭祀ありしを大正15年12月11日許可を得て移転合併す」となっています。

 

もしかしたら、稲荷神社もその時一緒に遷座しているのかもしれません。

仮ににそうだとしたら、

古くから角虫にあった稲荷神社が、大嘗祭大正4年)の年に記念改築し、大正15年に太刀八幡宮遷座されたことになりますね。

それでは、何故神社庁への提出書類に記載がないのでしょうね? 

 

 

稲荷神社は、朝倉には少ない?

 

境内社の調査で、内藤宮司さんに写真を持って相談しに行った時に、「(写真を見て)稲荷と読めそうだが、朝倉には稲荷神社はほとんどないのだが?」とおっしゃいました。この神社が稲荷神社と最終的に判断出来たのは、朝倉町史・朝倉の神々に記載があったからでした。

ちなみに大福地区53の神社の内、稲荷神社は2社となっていました。

 

何故、農業の町のこの地に、穀物の神様である稲荷神社が少ないのかは定かではありませんが、菅原神を祀る天満宮が多く(53社中13社)、朝倉町史の中でも天満宮は、農耕の守護神」として祀られたとなっていました。このことから農家の方々の信仰の対象としては、稲荷神社より天満宮に傾いていたのかもしれません。

 

祭神 宇迦之御魂神とは?

稲荷神社といえば、伏見稲荷

全国3万社あるといわれている稲荷神社の総本山です。

宮司さんの挨拶から一部引用します。平成23年(2011)に御鎮座1300年を迎えています。

御鎮座以来、この長い歳月は単なる時間の経過ではなく、時代時代の人々の篤い信仰心によって「衣食住ノ太祖ニシテ萬民豊楽ノ神霊ナリ」と崇められ、五穀豊穣、商売繁昌、家内安全、諸願成就の神として、全国津々浦々に至るまで広く信仰されてまいりました。

稲荷神社の御神徳は、五穀豊穣、商売繁盛、家内安全、諸願成就と幅広いですね。

 

宇迦之御魂神でインターネット検索すれば、これまたたくさんの情報を見ることが出来ます。

 

ウイキペディアを参照して一部引用します。

ウカノミタマは、日本神話に登場する女神。『古事記』では宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、『日本書紀』では倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と表記する。名前の「宇迦」は穀物・食物の意味で、穀物の神である。また「宇迦」は「ウケ」(食物)の古形で、特に稲霊を表し、「御」は「神秘・神聖」、「魂」は「霊」で、名義は「稲に宿る神秘な霊」と考えられる

 

次の図は、ウイキペディアに記載されているスサノウの系図ですが、ここに宗像三女神が記載されてて、宇迦之御魂神と同列に並んでいいるのでちょっと楽しくなりました。

太刀八幡宮の神様の一部そろい踏みです。

 

ウイキペディアから転載

スサノオ系図(『古事記』による)。青は男神、赤は女神。『古事記』ではウカノミタマの性別について言及していないが、延喜式祝詞の記述などから女神と考えられる

 

 

次に紹介するのは、いい葬儀さんのホームページ

「いろんな願いを叶えてくれる、身近な神様。稲荷神社の由来とご利益」

と題して、分かりやすく説明していますので、一部引用します。

庶民に広まったのは江戸時代

お稲荷様の信仰が大きく広まったのは、江戸時代です。それまでは穀物の豊作を願って祀る神様でしたが、幕府の改革などで名高い田沼意次が自分の屋敷にお社を祀ったことで運が開けたという評判が広まったといわれています。そこから、ほかの武士たちもそれを真似て祀りはじめました。さらに、庶民である商人たちもそれにならい、商売繁盛や家内安全の神様として信仰の対象としたのです。木造建築が密集した江戸では火事も多かったため、家屋やお店を、そうした災害から守ってくれる神様としても祀られました。

これらの様子が参勤交代で江戸に来ていた各地の大名の目に留まり、稲荷信仰は全国に広がっていったのです。そのうえ、伏見稲荷大社稲荷大明神は、以前から朝廷より神階のひとつである正一位の位を受けていました。その神霊を勧請する各地の稲荷神社もまた、同じ格式を得られることが普及の後押しになったと考えられています。

穀物の神様が商売繁盛の神・家内安全の神様になっていった理由が、これで納得しました。全国3万社といいますが、屋敷内や企業の屋上などにある稲荷社を含めると4万社とも5万社ともいわれているそうです。これも江戸時代の流れから生じているのですね。

稲荷神は狐の姿ではない

お稲荷様には狐の像がつきものですが、祭神は狐の姿をしていません。狐は稲荷神の御遣いとなる神使なのです。

狐には昔から人の寿命や作物の収穫量などの未来が分かり、人の精気を奪う、あるいは人を化かすなど、神秘的な動物として扱われてきました。たれ下がった稲穂が尻尾に似ていることや、米を食べるネズミを退治すること、また、稲荷神社の祭神である宇迦之御魂大神の別名が御饌津神(みけつかみ)と言い、これが漢字で「三狐神」と書けることなど、お稲荷様の御遣いが狐となった理由には、諸説あります。

また、狐は春になると山から人里に降りてきますが、秋になるとまた山に戻ります。同様にお稲荷様も田植えの時期に現れて、秋の収穫が終わると山に戻って行くと言われ、その類似性から、お稲荷様と狐を結びつけられました。

いずれにしても、狐は昔から人間の暮らしや稲作と関わりが深く、信仰の対象でもあったため、お稲荷様の御遣いに選ばれたのでしょう。

狐といえば、今年(令和4年)冬(1月か2月頃)に、この街に引っ越して来て、始めてキツネ🦊を見ました一度は、太刀八幡宮へ向かう途中の雪の積もった田んぼの中を、テレビで見た北キツネのように、ピョンピョン飛びながら移動していました。

そしてもう一回は、子持ち鳥居に向かっていると、目の前に現れ、私たち(妻と犬2匹)が鳥居の前に来ると、階段の一番上に移っていって、そこから私たちを一分程見下ろして、その後本殿の方に走り去って行きいました。

その時の状況です

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まるで太刀八幡宮の神様の使いが現れたかのようで、私たちは感動して喜んでいました。

 

もしかしてあれは、お稲荷さんの御遣いだったのかも。

 

それ以降お目にかかれてはいません。

 

今年の冬、お会い出来ることを楽しみしています。👏