氏神様は太刀八幡宮

1200年の歴史を紐ときます

太刀八幡宮に宿る吉田松蔭の誠

前回のブログで、標柱の紹介をしました。

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至誠而不動  者未之有也

しせいにしてうごかざるもの

いまだこれあらざるなし

 

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そして、定例祭に掲げる幟旗(のぼりはた)にも同じ言葉がなびいています。

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吉田松蔭の事を知るために、「留魂録」を読んだことは、前回も触れたのですが、私がとても印象に残り、これからの人生に影響を与える言葉をいくつか紹介します。

 

 

松蔭が主宰する「松下村塾」の活動期間は、実質的には、わずか1年ほどにすぎません。納屋や古屋を改造したもので18畳半ほど・・

 

松下村塾は、松陰の叔父さんが始めたもので、松陰は3代目の主宰者になるとのことです。そのわずかな教師の期間に、教室も質素な部屋の中で、多くの明治維新の志士及び明治政府の要人を育てあげたとのことです。

優れた教師の姿がそこにあるのでしょう。

この漢詩を作った孟子性善説は、「教育が重要である」という説だということを前回のブログで学びましたが、まさに吉田松陰は教育者として本当に優れた人だったということが分かります。

 

 

なるほど松下村は小さな村です。しかし、神国・日本を木にたとえるならば、松下村はその木の幹になると、私は誓います。

 

これは、ふたたび投獄される時に、自分の思いを残したものの一つです。

当時日本全国に寺小屋があったでしょう。その一つの塾が明治維新を成し遂げて行きます。

松陰神社には「明治維新胎動之地」と書かれた石碑が建立されています。

萩の維新関係碑文拓本集より引用

 

松陰の誓いどおり、明治維新は成し遂げられて行きました。

 

 

留魂録第一条

身はたとひ 武蔵野の野辺に朽ちぬとも

留め置まし 大和魂

 

歌意・「たとえ私の身は、武蔵の野辺で朽ちはてようと、私の魂だけは、<どうか神様>永遠にこの地にとどめて、祖国・日本を護りつづけさせてください。」

 

遺書の冒頭に書かれた辞世の句です。

 

辞世の句としては、次の文章も本の中で紹介されています。

「吾、今、国の為に死す。死して君親に背かず。悠々たり天地の事。鑑照(かんしょう)は明神(めいしん)にあり」

 

私は、これから国のために死にます。死んでも、主君や両親に対して恥ずべきことは、何もありません。もはや私は、この世のあらゆることを、のびのびとした気持ちで受け入れています。

私は、私の人生のすべてを、今、神の御照覧にゆだねます。

 

 

死罪の判決を受けた時、松陰はこの二つの和歌を大きな声で浪々と吟(ぎん)じたとのことです。数え年で30歳、満29歳の人生でした。

 

現代教育を受けた64歳の私には、辞世の句を残す知性はありません。ましてや若干29歳の頃といえば欲に溺れた生活をしていました。(「今でもね」とカミさんに言われそうです)

 

松陰が妹の千代さんあての手紙の中に次のような言葉があります。

 

「神に願ふよりは、身で行ふがよろしく候」

 

松陰は、言うまでもなく神仏を敬っていた人です。ただし、神仏に「あれをしてくれ、これをしてくれ」というような「信仰」は、拒否していたように思います。神を敬するが頼まない・・・、考えてみれば、これはまさしく「武士道」の真髄をあらわしている言葉ではないか、と思います。

 

御利益を求めて神仏に手をあわせて来たわけではありませんが、「行動」という意味では十分動ききれていない自分がいます。

「明日にすればいいか」

「私がしなくてもいいよね」

みたいな事は今でもたくさんあります。

 

しかし、少しでも行動を大切にしたい自分も育っているように思います。

カミさんは、なにか思い立ったら「5.4.3.2.1.」とカウントダウンしてから行動しています。

良き手本が身近にいてありがたいと思っています。🙏

 

第8条 後來(こうらい)の種子

今、私は死を前にしても、とてもおだやかで安らかな気持ちでいます。それは、春夏秋冬という四季の循環について考えて、こういうことを悟ったからです。

・・・

私は今、30歳です、何一つ成功させることができないまま、30歳で死んでいきます。人から見れば、それは、たとえば稲が、稲穂が出る前に死んだり、稲穂が実るまえに死んだりすることに、よく似ているかもしれません。そうであれば、それは、たしかに「惜しい」ことでしょう。

しかし、私自身、私の人生は、これはこれで一つの「収穫の時」をむかえたのではないか、と思っています。どうして、その「収穫の時」を、悲しむ必要があるでしょう。

・・・

人というのは、10歳で死んでいく人には、その10歳のなかに、春夏秋冬の四季があります。

20歳で死んでいく人にはその20歳のなかに、100歳で死んでいく人にはその100歳のなかにまた春夏秋冬の四季があるのです。

・・・

私は、すでに30歳になります。稲にたとえれば、もう稲穂も出て、実も結んでいます。その実が、じつはカラばかりで中身がないものなのか・・・、あるいは。りっぱな中身がつまったものなのか・・・、それは、本人である私にはわかりません。

けれども、もしも同志の人々のなかで、私のささやかな誠の心を「あわれ」という人がいて、その誠の心を「私が受け継ごう」と思ってくれたら、幸いです。それは、たとえば一粒のモミが、次の春の種モミになるようなものでしょう。

もしも、そうなれば、私の人生は、カラばかりで中身のないものではなくて、春夏秋冬を経て、りっぱに中身がつまった種モミのようなものであった、ということになります。同志のみなさん、どうか、そこのところを、よく考えてください。

 

 

長文の引用になりました。

現在64歳の私は、私の人生の春夏秋冬のどこにいるのかを考えさせられました。

もちろん明日何が起こるか分かりません。

冬かも知れません。

でも、松陰のこの言葉を知った以上、私はまだまだ色々な事を学び、それを行動をもって世の中に足跡を残したくなって来ています。

どんな足跡を残せるのかは、本人の私には分からないのかもしれませんが、私なりに精一杯生きてみたいと思います。

 

吉田松陰が書いた手紙は現在のところ、なんと627通も残っている

 

この本の中では、たくさんの手紙が紹介されています。

高杉晋作にあてた手紙もあるのですが、その内容を読むと教育者「晋作」の愛情がとても感じられます。

時代が違うとはいえ、生徒が先生に手紙を書いて教えを請い、それに答えて先生が丁寧な愛情を込めた手紙を書くようなことが、あるのでしょうか。私の学生時代では、残念ながらありませんでした。

こういうことが、松下村塾では「わずか一年ほど」の教師期間だったかもしれませんが、多くの明治維新の志士達を育て上げることに繋がったのでしょう。

 

高杉晋作さんは以前のブログに登場しています。

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著者の松浦光修さんが、後半で次の文章を書いています。

もしも幕末の萩で、すべての若者が「リスクの高い行い」に恐れをなして、松下村塾に集うことなく、明治維新が起こっていなかったら、日本はどうなっていたのでしょう。言うまでもなく、日本は、他のアジア・アフリカ・オセアニアの国々と同じく、植民地にされていたはずです。しかし、松下村塾には、「リスク冒す必要のあること」を見わける「智恵」と、それに向かっていく「勇気」をあわせもつ若者たちが集まりました。そのこと自体、私には「奇跡」としか思われないのですが、その「奇跡」が、やがては日本を植民地化の危機から救い、やがては世界の有色人種を、欧米諸国の支配から解放するという、さらなる「奇跡」を呼び起こすのです。

 

吉田松陰という種モミが、果たした功績は、日本だけでなく世界の秩序にまで発展しています。そのことを理解するには、さらなる学びが必要です。

 

学校の歴史教育で、私は何を学んできたのでしょうか?🤔

 

至誠而不動  者未之有也

 

この言葉を「宣揚文」として選択した当時の総代さん達は、誰もが持っている「誠の心」を今一度思い出して、人生を歩んで欲しいと願ったのでしょう。

 

もしかしたら神様に、選ばされたのかな?

 

 

 

 

 

 

太刀八幡宮の標柱(しめばしら)

太刀八幡宮には、2カ所標柱が建立されています。

 

標柱とは、岡山県神社庁神道用語辞典に次のように記載されています。

神社又は祭場の設備の一種。参道の入口或いは社頭に建つ一対の柱で、これに「注連縄」を張る。石柱の場合が多い。

 

神社に行けば良く見かけます。

広島県の何処かの町の「地域神社の標柱」というホームページがあります。一部引用します。

www.cf.city.hiroshima.jp

この石柱は「標柱(しめばしら)」といい、そこに彫られた語句は「宣揚文(せんようぶん)」といいます。

この「標柱」というものの建立は全国的なものではなく、瀬戸内に多く、中でも広島県が圧倒的に多くその数約1千百社、1千五百対(平成10年)あるそうです。

 

この標柱は、鳥居の原型だという意見もあるようなのですが、はっきりした文献を見つけることが出来ませんでした。

刻まれた宣揚文を、参拝者の方に伝えたいという思いの結晶でしょうか。

 

その1.本参道 

 

子持ち鳥居をくぐり、石段を登りきったところに立っています。

 

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正面写真

神明恩頼 錫斯年豊


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背面写真

昭和九年三月二十日 1934年(89年前)

参宮同行


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右柱 背面下部 4名の名前が彫られています。
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左柱 背面下部 4名の名前が彫られています。

 

神明恩頼 錫斯年豊

しんめいおんらい しゃくかねんぽう

 

この言葉をインターネット検索しても、見つけることが出来ませんでした。

一文字づつ検索していきます。

 

神明(しんめい) 超自然的な存在。あらたかな神。

恩頼(おんらい) 神から受ける恩徳。みたまのふゆ

 

京都大神宮さんのブログで恩頼の説明をしています。

   

kyotodaijingu.sblo.jp

 

錫(しゃく) たまわる。たまもの。 天錫ー天から賜わるもの。

斯(か) これ ここ このように

年豊(ねんぽう) 豊作

 

言葉をつなぎ合わせると次のような意味になります。

 

神の恩徳を受けて、ここに豊作を賜(たまわ)る

 

8名の同朋が、お伊勢さん参りのお礼として奉納したものです。

参宮同行については、以前のブログで紹介しています。

goodlightsato.com

 

 

 

その2.東参道 入口

 

駐車場に車を止めると、すぐに出迎えています。

 

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正面写真 

至誠而不動

者未之有也


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柱 内側

御大典記念

平成二年十一月吉日

柱 背面

当時の総代会長、役員、総代さん 25名の名前が彫られています。


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標柱横に設置の板看板

しせいにしてうごかざるもの

いまだこれあらざるなし

よしだしょういん

 

 

WEB漢文大系というホームページがあります。

そこに、詳しく説明が記載されています。

kanbun.info

一部引用します。

  • 出典:『孟子』離婁上
  • 解釈:こちらがこの上もない誠の心を尽くしても、感動しなかったという人にはいまだあったためしがない。誠を尽くせば、人は必ず心動かされるということ。

 

孟子は、戦国時代の思想家です。

WEB漢文大系には、前後の文章が乗っているので、誠の大切さを説明しているものだということが分かります。

 

孟子は、性善説を唱えた人で、ウキペディアには次のように記載されています。

ja.wikipedia.org

 

孟子性善説は、「世に悪人がいる」ことを前提に「それでも性は善である」と主張する説だった。つまり孟子によれば、どんな人間でも井戸に落ちそうな幼児屠殺されそうな家畜を見たとき、憐れみなどの道徳感情不忍人之心ひとにしのびざるのこころ四端)が生じる。この道徳感情が善なる性であり、これを教育などで拡充すればどんな人間でも善人になれる、それゆえ教育が重要である、という説だった

性善説性悪説もともに教育の重要さを唱えていることが分かります。

 

 

吉田松陰

ウキペディア吉田松陰には、吉田松陰語録として次のように書かれています。引用します。

至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり

(本当の誠実さを持ちながら行動を伴わない人はいない、本物の誠実さがあるというのであれば、行動しなさい)

 

吉田松陰は、松下村塾」で明治維新で活躍した志士に大きな影響を与えたということは知っていました。

以前山口県萩を訪れた時、松陰神社に参拝していますが、吉田松陰がどういう人だったのかは詳しく知りませんでした。若くして志半ばで死罪となった人というイメージでした。

 

そこで、吉田松陰のことを学ぶために、次の本を読んでみました。

 

 

正直、相当感動しました。

ただ、カミさんからは「どの本読んでもいつも感動してるよ。」といわれていますが・・・

 

ウキペディアには、つぎのように書かれています。

留魂録』(りゅうこんろく)は、幕末長州藩の思想家である吉田松陰が、1859年安政6年)に処刑前に獄中で松下村塾の門弟のために著した遺書である。この遺書は松下村塾門下生のあいだでまわし読みされ、松門の志士達の行動力の源泉となった。

 

この遺書の理解を深めるために、吉田松陰が書いた数々の手紙や妹さんのインタビュー記事等が納められており、今の私にはこれからの人生を生きる上でも、とても参考になりました。

 

この本の中に次のように書かれているところがあります。現代語訳になっています。

5月14日江戸に送られると聞く

私は、一枚の白木綿の布を手に入れて、孟子「誠をきわめれば、その力によって動かしえないようなものはこの世の中には一つもない。」という言葉を書きつけ、それを手ぬぐいに縫い付けて、江戸にやってきました。そして、その手ぬぐいを評定所に置いてきましたが、それは私の志とするところを、そういうかたちであらわしておこうと思ったからです。

ただ私の誠が、世の中に通じるのか、通じないのか、その一点だけを、天のご意思にゆだねようと思った。

 

吉田松陰は、をきわめ、自分の命は終わりを迎えますが、そのことにより門人であった高杉晋作を始めとした明治維新の志士達が偉業を成し遂げて行きます。

 

志半ばで死を迎えたのでありませんでした。

 

この標柱を建てた総代さん達は、太刀八幡宮を参拝する方々に、それぞれの立場での誠をきわめてほしいという願いを込めて、この宣揚文を選んだのだと感じます。

 

誠の心、大和魂

 

まだまだ学びが続きます。

 

 

 

太刀八幡宮 秋の例大祭及び1200年祭 報告

本日(10月25日)、太刀八幡宮に於いて、内藤宮司さんをお迎えし、秋の例大祭及び1200年祭が執り行われました。

 

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桜🌸の花が咲いて、1200年祭を祝福をしているようです。ちょっと見にくいですが、ちらほらと咲いています。

 

現在の総代さん及び1200年祭奉祝建設委員及び高額寄付者の方々をお迎えして、厳粛に式典が進行しました。

 

建設委員会は、神殿、玉垣、屋根の老朽化対策としての修復工事を1200年祭奉祝事業として、平成元年に設立されました。建設費は、氏子の方々からの協賛を中心に氏子以外の方々にも賛同頂き、無事に工事が完成しました。

 

拝殿の横には、名簿が建てられ、テープカットならぬ保護シートを内藤宮司さんが剥がして、お披露目がなされました。

 

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多くの方々のご協力に感謝です。

 

社殿は、過去豊臣秀吉の時代、大友宗麟によって焼き討ちにあったり、また大きな台風🌀により樹木が倒れ大きく破損したことも有りましたが、その都度氏子さんの一致団結した力により修復しています。

 

今回の修復もそうです。

宮司さん、当時の総代会長さんが各地区を回り、修復の必要性を訴え、各家からの寄付をお願いし、それに応えて多くのお金が集まりました。

 

こういう災難の時に、一致団結して事に当たるのが日本人の心、大和魂なのでしょう。


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それでは、当日の神事の状況をお楽しみ下さい。

ww.youtube.com

 

次のお祭りは1250年祭かな?

太刀八幡宮の参道 出迎える幸せの黄色い蝶

今年は、今までに無い事が起こっています。

 

私たちは、神社の敷地の西側から南の小道を子持鳥居に向かって歩いて行きます。

この小道に今年は、モンキチョウがたくさん出迎えてくれます。

葉っぱの下で寝ていたモンキチョウですが、

「よく来たね。おはよう。」

と言わんばかりに、出てきてくれます。

 

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私たちも、「おはよう。おはよう。」と言いながら歩いていきます。

ちょうどお彼岸の頃(9月23日)からこんなことが起こっています。

先日は、一匹胸に止まってくれました。びっくり😊

 

少し画像が乱れていますが、出迎えてくれた蝶たちの姿をご覧ください。

 


www.youtube.com

9月25日撮影

 

神社で見る蝶は、神様の歓迎のサインという話も聞きますので、とても嬉しいことで喜んでいます。

 

1200年祭を迎えることもあり、蝶が羽ばたくような良いことが起こりそうですね。

 

 

 

 

太刀八幡宮の鳥居⛩️

神社を参拝すれば、必ず鳥居が出迎えてくれます。

今回は、太刀八幡宮の鳥居を紹介します。

 

鳥居とは

 

ウキペディアを引用しながら、鳥居について学んでいきます。

ja.wikipedia.org

鳥居(とりい)とは、神社などにおいて神域と人間が住む俗界を区画するもの(結界)であり、神域への入口を示すもの。一種の「」である。

毎朝太刀八幡宮に参拝する時は、まず鳥居のところで「おはようございます」と挨拶をしています。

真ん中は神様の通る道なので、真ん中を避けて右側か左側を歩くように紹介しているものがあります。右側を歩く場合は右足から入り、左側を歩く場合は左足から入るようですが、私たちは今のところあまりこだわらず、挨拶をして入っています。

 

鳥居の起源については、国内起源説や外国起源説など諸説あり・・・

主要な説として、天照大御神(あまてらすおおみかみ)を天岩戸から誘い出すために鳴かせた「常世の長鳴鳥(とこよのながなきどり)」()に因み、神前に鶏の止まり木をいたことが起源であるとする説・・・

ウキペディアには、インドや中国、朝鮮半島イスラエル等の起源説が紹介されていますが、こんなに全国に鳥居があってその起源や語源について色々な説があるというのも、不思議な話ですね。

 

とにかく、鳥居を境に神様の世界に入るということですね。

 

鳥居のところで頭を下げている方は多いと思いますが、神聖な場所に対して頭を下げるという意味では、お茶席や武道場なども皆さん頭を下げています。

それにならって、半年程前から私は会社の門を通る時、頭を下げるようになりました。

最初は、恥ずかしい気持ちもありましたが、この頃は落ち着いて頭を下げられるようになりました。これからは、鳥居と思って堂々と頭を下げてみます。

 

太刀八幡宮の鳥居 見取図

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4基の鳥居がありますが、建立年月の古い順に紹介します。

 

本参道 子持鳥居

 

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明和ニ乙酉年三月吉祥日 西暦1765年 (258年前)

建立者 古賀百工はじめ8名の庄屋さん達

 

太刀八幡宮の鳥居といえば、なんといっても「子持ち鳥居」が有名です。

堀川の恩人 古賀百工さんゆかりの鳥居で、地元の人によく知られています。

朝倉市のホームページに「ふるさと人物誌 堀川の恩人 古賀百工(こが ひゃっこう)」として詳しく紹介しています。

 

www.city.asakura.lg.jp

 

子持鳥居については、最初の頃のブログで紹介しています。

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私たちは、毎朝この子持ち鳥居の前で「おはようございます」とご挨拶をしてから参拝しています。

石段を登って行くと、正面に本殿が現れる姿はとても美しいものです。

 

案内看板では、「他に例のない珍しい鳥居」と書かれていますが、全国的には厳島神社の大鳥居のようにいくつか例はあるようです。

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ウキペディアより転載

こういう様式は、ウキペディアによれば、「両部鳥居(りょうぶとりい) - 主柱を4本の稚児柱で支える。」というようです。

 

西参道 2の鳥居

 

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正面写真

 

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右柱 正面

奉 再建鳥居壹(いち)基

再建ということは、以前に鳥居があったのでしょうね。

1200年の歴史ですから、鳥居も何度も再建しているのでしょう。


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左柱 正面

天保四年癸巳九月吉日 1833年 (190年前)

富村産子中

富村というのは、昔の村の名前でしょうか?良くわかりません。

 


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右柱 下部

星野茂三郎他11名の名前が彫られています。

星野茂三郎さんといえば、このブログでは今回4度目の登場です。

 

1回目は、太刀八幡宮の絵馬 神功皇后三韓征伐図の奉納者でした。

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2回目は、太刀八幡宮を参拝した明治維新の志士達の隠れ家として登場しました。

竹内五百都が隠れ家として滞在し、西郷隆盛月照さん、野村望東尼などが訪れています。

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3回目は、狛犬さんの奉納者として登場しました。

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大庄屋 星野茂三郎さんは、太刀八幡宮に大きな貢献をしました。

ありがとうございます。🙏

 


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左柱 下部

屋山藤之進有利?さん等11名の方の名前が彫られています。

 

多くの方の寄進により再建された鳥居です。

 

北参道 鳥居

 

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正面写真


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右柱正面

禾穀稜々(たぶんそうだと思います。)

 

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左柱正面

莟生怡楽

 


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右柱 裏側

大正十二年四月吉晨(きっしん めでたい日) 1923年 (100年前)

下部には12名程の名前が彫られています。


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左柱 裏側

上之原 善光寺 敬神団

下部には9名の方の名前が彫られています。

大正時代には、敬神団という集まりがあったのですね。

今は聞かないので時代の変化とともに、解散したのでしょうか?

 

禾穀稜々(かこくりょうりょう)

莟生怡楽(かんせいいらく)

 

柱の全面に彫られた4文字熟語は、「宣揚文(広く世の中にあらわすこと)」と呼ばれています。

4文字熟語字典で調べても、こういう文字は出てきませんでした。

柱で彫られた文字も私の知識では読み取れません。

スマホの「漢字検索」というアプリを使いながら、一文字づつ手書き検索で調べてみました。

 

禾 稲わら、穀物の総称

禾穀 稲のこと。また、稲・稗 (ひえ) 粟 (あわ) などの穀物総称

稜々 かどだっているさま。「―たる山々」

莟 つぼみ

生 草木が芽を出す

怡 よろこぶ。たのしむ。

怡楽 喜び楽しむこと。

 

言葉を紡いでいくと、次のようになりました。

 

稲が山並みのように成長し、たわわに実った姿を見て、神々とともに喜び楽しんでいます。

 

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子持鳥居前から撮影。

稲刈りが始まりました。

耳納連山の山並みと稲が育った姿が重なり、「稜々」とした言葉が似合います。

 

毎年の稲の実りを祈った言葉です。

 

西参道 1の鳥居

 

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昭和六年〇? 建立したという意味だとは思うのですが? 1931年 (92年前)
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右柱 裏側

中島田石工 酒井 千次郎


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左柱 裏側

六十一記念 建立者

鬼塚朝次郎

 

還暦を迎えての感謝の奉納でしょうか?

唯一個人で建立された鳥居です。

 

東の参道は鳥居がありません

東の参道は、鳥居がありません。

代わりじゃないですが、標柱(しめばしら)が立っています。

神社脇の道路の整備とともに駐車場が出来て、東の参道が整備されたのだと思います。

標柱については、別のブログで紹介します。

 

いつか、誰かが鳥居を建立する時が来るのでしょうか?

 

 

太刀八幡宮 参宮同行(さんぐうどうぎょう)

太刀八幡宮の絵馬や狛犬そして標柱(しめばしら)には、参宮同行という文字が書かれています。

 

第3の狛犬 ちょっと苔むしていますが。

昭和8年4月5日 参宮同行

 

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表参道の標柱 奥に古賀百工さんゆかりの子持鳥居が見えます。

 

伊勢参り

 

朝倉町の歴史ものがたり』の中に「お伊勢まいり」という項目があり、伊勢神宮三重県)に参拝する一行を参宮同行ということが書かれています。

 

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朝倉地域コミュニティ協議会で購入しました。令和4年当時 1000円

 

一部引用させて頂きながら、ブログを進めて行きます。

この本は子供達にも読んで頂きたいということから、ひらがなが多く使われ、漢字にはルビがふられています。

 

伊勢参り

 打ちつづく風、水、虫がいによる苦しい生活にあえぎ、封建制度(君主や将軍の下に多くの諸侯が土地を領有し、諸侯が各自領内の政治の全権をにぎる国家組織)のもとでの容赦のない年貢のとりたてなどのきびしいおしつけの政治にたいして、一般の人々はどこかにそのはけぐちをもとめて自由の身になりたいという願いがありました。

 伊勢神宮三重県)に対する信仰が人びとの間にひろがったのは、鎌倉時代の中頃からであったといわれていますが、とくに六十年ごとに回ってくる年を「おかげ年」といってその年にお参りすると神のめぐみがあたえられるという信仰がありました。

 

今の私たちには、想像出来ない苦しい生活をしていたのでしょうね。飢饉もあって食べ物にも困った年もあったはずです。

 

「はけぐちを求めて自由になりたい。」と思ったら、今ならどうしますか?

 

 

 来光寺の古賀家文書の中に庄屋であった古賀新五郎重吉の天保六(1835)年「伊勢参宮道中日記帳」があります。

 これを読んでみると旅だちの日に氏神に参り銭をまき、見送りの人たちと酒をくみ交して別れ、陸路、海路をのりついで伊勢神宮に参り、京都や大阪など各地の名所、旧跡をめぐって帰ってきた模様がこまかく書かれています。

 人数は須川村の同行(なかま)76名、費用は一人当たり約八両一歩、米に換算すると20俵(現在では16俵)にあたると記録にでていますから、かなりの旅費であったとおもわれます。

 

本の中には、お伊勢参りの順路と日程が、地図を載せて説明しているのですが、目的地の伊勢神宮に早く行くことが目的ではなく、行は陸路なら帰りは海路であったり、行は大阪、高野山、奈良を経由して伊勢神宮に到着したら帰りは滋賀、比叡山、京都を巡っています。四国の金毘羅さんにも訪れています。まさに名所、旧跡を楽しんできたようです。

かかった日数は66日間です。今では世界一周旅行に相当するのではないでしょうか?🛳️

 

一人当たり約8両というのは、いくらになるのか?

生活や実務で役立つ計算サイトさんの「江戸通貨の円換算」に8両一分を入力してみました。

結果は82万5千円となりました。

あくまで一つの目安ですが、相当の金額と66日間という日数、家を開けられる人というと、そう多くはないように思います。庄屋さん家族?

 

 費用の内容は

交通費6.6% 宿泊(食)費14.4% 社寺参詣費他2.4% 買物76.5%

で買物(土産)がやはり一番多かったことがうかがれます。

 旅の道中では「酒の飲み過ぎで金を落した」「蛸があたり腹が痛んで薬をのんだ」「麻疹にかかってなやまされた」などがおもしろく書かれたり、各地の人情、風俗に出会いながら、未知の世界のうるわしい風景をじゅうぶんにあじわったことなど当時の人びとのくらしや生き方を知るうえで現代に生きる私たちにはあじわうことのできない旅の気持ちがあらわれています。

 

いったい何をお土産に買っていたのでしょうね。食べ物は日持ちしないから、民芸品などでしょうか?

今、こういう長旅を先人たちが楽しんでいたことを思うと、私たちこそ、もう少しゆとりを持って旅を楽しんでも良いような気になります。未知の世界のうるわしい風景に出かけましょう。

 

以前、プラタモリというタモリさんが出演している番組で、お伊勢さんを散歩している時に、町の名前は憶えていませんが遊郭の町を紹介していました。案内の人は「ここに来ることもお伊勢さん参りの一つの目的だったと思います。」ということを話していたことを思い出します。

遊郭で楽しく過ごしたことも、日記帳に書かれているのでしょう。

 

 伊勢に着いて今日がめでたく参拝という日には、みうちの者も村の氏神様に参拝し、お祝いをしました。留守見舞いもまた何回もしました。無事に帰宅という日は、また、親族や近所一同が集まり、大へんなお祝いをしました。

 参拝団は無事に帰ると、まず氏神様におまいりをし、あとで玉垣や鳥居やコマ犬や絵馬など氏神様にふさわしいものを献納しました。この一行を参宮同行といいますが、月々一回か、年に一回の立ち日に「おみきあげ」という会食が行われています。

 

強い家族や親族のつながり、氏神様を中心とした生活を感じますよね。

太刀八幡宮には、こうして無事にお伊勢参りを終えた氏子の方々が献納した絵馬や狛犬達が多く残っているということですね。

 

今の時代、海外旅行に行くにしても、「氏神様に挨拶をして親戚一同を集めて宴会をして」なんてことは、考えられないですよね。

 

 

伊勢講

 伊勢参宮には多額の旅費がかかりました。そこで考えだされたのが「伊勢講」という組織です。小さいときから年齢上下のグループをつくり、家回しで、米と掛銭(かけせん)を出し合い、何年も何十年もかかって積立貯金をしました。

 「揚げ豆腐入りの味めしとたくわんを食べて」のこの寄合はとても楽しい行事でした。また、仲間のむすびつきをつくるためにもこの風習は現在もつづけられています。一生に一度の願いというか、つとめというか、その一大行事を無事に果たしたいという強い願望がこめられていました。

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朝倉町の歴史ものがたり」より写真転載

 

すごく歴史を感じる貯金箱ですよね。

13名の方々の名前が記載されています。

仲の良い仲間が、親交を深めていたのですね。

 

現在も私の住んでいる地区では、いくつかの伊勢講が存在しています。

はじめて、伊勢講の話を聞いたとき、伊勢神宮信仰の篤い人たちだなーと思いました。

私はよそから引っ越してきているので、伊勢講には入っていませんが、仲の良い年代の人達が伊勢講を作っています。

 

先日、伊勢講でお伊勢さん参りに行っているのか?何人かの方々に聞いてみたのですが、

「香港に行った」とか「中国に行った」というように、目的の伊勢神宮を通り越して海外まで足を運ばれているようです。

昔の人が、高野山や京都などを楽しんだように、現代は楽しみ先が海外になったということでしょうか。

 

 

 

太刀八幡宮に掲げられている参宮同行写真

 

年代ははっきり読み取れないのですが、小塚地区の方々の写真です。拝殿の中に、絵馬達と一緒に掲げられています。

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約30名の男女の方々が写っています。出発の日に撮ったものでしょうね。

女性もお伊勢さんまで、徒歩と船旅という長旅をしていたのでしょうか?

いや当時の方々は女性も体力があったということでしょう。

 

「私たちも先人の遺伝子を受け継いでいるので、お伊勢さんまで歩いて行く力はあるんだろうね。」とかみさんに話したら、

「この時代の人達と体の使い方、歩き方がまったく違うから、途中で体を壊してしまうよ。」

ということでした。思わずうなずいてしまいました。

 

 

それにしても、この長旅を無事に帰ってくるのは大変な苦労もあったと思うのですが、今でいう旅行の添乗員みたいな人がいたのでしょうか?

或いは、ガイドブックのようなものがあったのでしょうか?

 

とにもかくにも大変な苦労の末に、氏神様に献納した絵馬達。

大切な地域の文化ですね。

 

 



 

太刀八幡宮の絵馬 保存の考察 絵馬堂

絵馬堂とは、神社やお寺で絵馬の額を掲げているお堂で、絵馬殿ともいいます。

 

先日、二か所の絵馬堂を拝見してきましたので、紹介します。

加えて、インターネット検索で見つけた京都の三宅八幡宮の絵馬堂と絵馬資料館を紹介します。

 

太宰府天満宮 絵馬堂

 

www.dazaifutenmangu.or.jp

 

九州最大最古という立派な建物に、数十点の絵馬が掲げられています。

 

色あせて見えない絵馬から、近年納められたものまで色々ありました。

 

写真を撮っていないので紹介が出来ないのですが、昭和の絵馬も少し色あせている感じがしました。

雨が直接かかることはありませんが、風や霧などの影響を受けるのでしょうね。

 

そして、鳩などの鳥の被害から守るためでしょうか?

金網が全面に施されており、絵馬はすべて金網越しに見ることになります。

 

太宰府魅力発見塾さんが、いくつか写真付きで絵馬を紹介しています。

 

dazaifumiryoku.com

 

歴史ある文化財的価値の高い絵馬を、直接見ることが出来てとても良かったのですが、金網越しに見ることがちょっと残念でした。

やっぱり、生で見たい。

鳩さんが悪い訳では無いけどね。🐦

 

 

 

甘木 須賀神社 絵馬堂

 

甘木祇園山笠で有名な須賀神社に、絵馬堂があります。

 

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本殿に向かって、左側にある建物が絵馬堂です。社務所と一緒の建物になっています。

 

 

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絵馬堂と書かれた建物に入り見上げると、多くの絵馬が掲げられています。

下には小絵馬を掲げる絵馬掛けもあります。


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江戸時代から昭和にかけて奉納された絵馬が掲げられています。

 

掲げられている絵馬の半分は、長寿のお祝いで奉納された人名帳です。

それがデカい。

太刀八幡宮には、ありませんね。

 

中には何が書かれているか全く分からないものもあります。

それを飾り続けるのも、文化の継承でしょうか。

 

 

三宅八幡神社 絵馬展示資料館

 

絵馬堂の進化した形として、京都の三宅八幡神社を紹介します。

www.miyake-hachiman.com

 

ホームページの内容を一部引用しながら、感想を述べていきます。

 

三宅八幡神社奉納子育て祈願絵馬」124点が、2009年3月11日、国の「重要有形民俗文化財」に指定されました。

何か想像を超える話ですよね。数も多いし、国の重要文化財に指定された絵馬がどういうものか見たくなります。

 

ありました。

文化遺産オンラインの中に、2枚の絵馬が登録されています。

 

bunka.nii.ac.jp

解説を一部引用します。

この資料は、近世より疳の虫封じの御利益で知られ、虫八幡とも呼ばれた三宅八幡神社に子育て祈願の目的で奉納された絵馬のまとまりである。

三宅八幡神社に参詣する子どもや親の様子、遊ぶ子どもの様子などを描いており、中には描かれた子どもの名をすべて書き込んだものもある。

三宅八幡宮ならではの特殊性を感じますね。

 

平成12年から約7年半にわたって元成逸小・有隣小、そして貞教小と様々なところで管理をされていた三宅八幡宮の絵馬が、この度、ふるさとの三宅八幡宮に戻ってきました。

色々な小学校等に貸し出されていたんですね。子供達は絵馬を観て、色々感じるのでしょう。これも文化の継承手段の一つかな。

 

ピンぼけブログ館さんのブログに三宅八幡宮の絵馬の紹介があります。

 

nakkacho.cocolog-nifty.com

 

このブログを読むと、三宅八幡宮には絵馬堂があり、そして新たに絵馬資料館を開館したのですね。

写真の絵馬の1枚は、神功皇后武内宿禰、そして赤ちゃんの応神天皇が描かれているようです。八幡宮ですからね。

 

いつか京都に行った時には、是非お伺いします。

 

 

太刀八幡宮の絵馬堂 すでにあり

 

こうして絵馬堂を見てみると、太刀八幡宮にはもうすでに立派な絵馬堂があるように感じてきました。

拝殿かつ絵馬堂。

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風雨の影響を受けない環境の中で、もうすでに立派に保存されていたのですね。

拝殿をガラス扉で囲った経緯は知りませんが、そのことが絵馬の保存に大きな貢献をしていることは間違いありません。

 

もしかして、絵馬の保存のために、ガラス扉を設置したのかな?

 

先見の明のある先人に感謝します。🙏